白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて322

2023年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れた一日でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.22)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

二〇二三年三月二十二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて321

2023年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は100パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠は曇りのようです。

 

午前五時四十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.22)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.22)

 

二〇二三年三月二十二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・アルベルチーヌの欲望とシャルリュスの欲望との大いなる違い/G7議長国と沼正三「家畜人ヤプー」化という問題

2023年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌは「色情狂」である。報告者<私>が言おうとしているのはそういうことだ。シャルリュスもまた「色情狂」である。けれどもシャルリュスはおそろしく女性差別的な性癖の「色情狂」だ。ソドム(男性同性愛)一辺倒であり女性との結婚は世間を欺く形式的見せかけでよいとする態度を一貫させる。

 

一方アルベルチーヌの側は、ゴモラ(女性同性愛)だけではなく常にトランス(横断的)性愛者であって、その態度は全世界のすべての人間を体ごとすっかり愛することができるという点で、最も広大無辺な愛で充満している。アルベルチーヌとシャルリュスとでは、「色情狂」という言葉は同じでも、内容はまるで違っている。そしてアルベルチーヌもシャルリュスもともに「色情狂」だとしたら、両者のいずれでもない異性愛者というマジョリティ=大集団はマジョリティとしての「色情狂」でもある。

 

ニーチェから。

 

「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上・八九六・P.491」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

フロイトから。

 

「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫 一九七七年)

 

<私>はなぜアルベルチーヌを怖れるのか。アルベルチーヌとの切断を切に欲望するのか。アルベルチーヌに対する監視管理の徹底化を欲望すればするほどかえってアルベルチーヌに対する怖れは巨大化する一方なのか。<私>はこの逆説にはまり込んでしまった。と報告者<私>は述べる。

 

「私はヴェネツィアへ行きたいと思い、とりあえずはルーヴル美術館へ行ってヴェネツィア派の画を見たり、リュクサンブール美術館へ行ってエルスチールの二点を見たりしたいと思った。その二点とは、近ごろ聞いたところでは、私がゲルマント侯爵夫人邸で見て魅了された『ダンスの楽しみ』と『X家の肖像』の二点で、それをゲルマント大公妃が最近この美術館に売却したという。しかし私は、『ダンスの楽しみ』に出てくるある種の扇情的なポーズを見て、アルベルチーヌが庶民的なお祭り騒ぎへの欲望や憧れをいだき、これまで経験したことのない花火やガンゲット三昧の生活がおもしろいと思うのではないかと怖れた。私は早くも今から、アルベルチーヌが七月十四日の革命記念日に庶民のダンスパーティーへ行かせてくれと頼むのではないかと心配し、なにかとんでもない事件がおこってそのパーティーが中止になることを夢見た。それにあの美術館にあるエルスチールの画には、鬱蒼と木の茂る南仏の景色のなかに女たちの裸体を描いたものがあって、エルスチール自身はそこに緑陰に腰をおろした女の身体が呈示する彫刻的な美、もっと適切に言えば、その身体の白い記念碑のような美しか見ていなかったがーーーその作品の価値をアルベルチーヌはおとしめるのではないか?ーーー、その裸体はアルベルチーヌにある種の快楽を想わせるかもしれないのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.491~492」岩波文庫 二〇一七年)

 

エルスチール「ダンスの楽しみ」、「X家の肖像」。いずれも訳註にあるようにルノワールが念頭に置かれていることは論をまたない。名前が違うだけのことだ。ルノワール「舟遊びの人々の昼食」、「ラ・グルヌイエール」、「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」、など。

 

なぜそうだとわかるのか。「庶民のダンスパーティー」とプルーストは書いている。当時その種の舟遊びやダンスパーティに集った庶民というのは「没落貴族、女衒、闇市主催者、仕事にあぶれた三文役者たち、詐欺師たち、ーーー」だからである。誰もが廉価で参加できる社交場。それが「庶民」の「舞踏会」だった。アルベルチーヌが愛するのはそういう場だ。いかがわしいといえばこれほどいかがわしい場所もそうない。ところが。

 

フランスはイギリスの真似事をやっていたといえば、ただ単にそれだけの話に過ぎなくなる。けれども、フランスでは条件が違っていた。にわか成金と没落貴族と以前からの庶民(ずいぶんいかがわしい庶民たち)とがごちゃ混ぜに交流し合い社交し合う中から芸術が生まれた。イギリスとは異なるもう一つの資本主義的風景を出現させる好条件に恵まれていたと言える。一方、近代日本の黎明期。明治政府が公認した鹿鳴館での「舞踏会」と比較するともうまるで違う。「舞踏会」という言葉は同じでもその内容は天と地ほども違っている。

 

なお、目前に迫ったG7議長国の議長として試されていること。沼正三「家畜人ヤプー」化は順調に押し進められているか?

 

これまで何十年間もかけて日本のテレビ放送が連日連夜、執拗に連呼してきた「国際社会」(日本を除く)だけでなく、すべての国連加盟国首脳部がライヴで確認する案件の一つがそれだ。

 

話題を変えよう。

 

いつも午後の散歩=リハビリとしての浜辺の読書について。何を読んでいるのかというと、だいそれた本は一つもない。天気(晴、曇、雨、風、雪など)に関わらず、様々だ。文庫本ばかり。ゆえに同時代人であるにもかかわらず文庫化され、いろんな人々がああでもないこうでもないと言ってから、目を通すことができるという利点はある。さらに四分の一くらいは再読のもの。例えば。

 

(1)ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」(集英社文庫)

 

(2)マヌエル・プイグ「蜘蛛女のキス」(集英社文庫)

 

(3)ポール・オースター「ガラスの街」(新潮文庫)

 

などなど。