すっきりしたいと思いながらすっきりさせようとしない<私>。分別を欠いているわけでは決してない。<私>は二つの記号へ分裂することができると、プルーストはいうのである。
(1)思い切って切断する<私>。
(2)切断するに当たって「なごやかな瞬間を選んで、その瞬間が私の心中で響きつづけるようにしたい」と願う<私>。
「私にとってアルベルチーヌとの生活は、一方で私が嫉妬していないときは退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときは苦痛でしかなかった。たとえ幸福なときがあったとしても、長つづきするわけがなかった。バルベックで、カンブルメール夫人を訪ねたあと、ふたりで幸福なときをすごした夜にふと脳裏をかすめたのと同様の思慮分別がはたらいて、これ以上ひき延ばしてもなにも得られないと悟った私は、アルベルチーヌと別れたいと思っていた。ただし今のこの時点でもまだ私は、今後いだきつづけるアルベルチーヌの想い出は、ふたりの別離の瞬間の振動がペダルによってひき延ばされたようなものになると想いこんでいた。それゆえ私は、なごやかな瞬間を選んで、その瞬間が私の心中で響きつづけるようにしたいと願ったのである。あまりうるさい注文をつけたり、待ちすぎたりしてはいけない、懸命にケリをつけるべきだ。とはいえこれだけ待ったのだから、その昔お母さんがもう一度お寝みを言ってくれずに私のベッドから立ち去ったときや駅で私に別れを告げたときと同じような反発心をいだいて、アルベルチーヌが出てゆくのを見送るはめになる危険を冒すよりは、なんとか受け容れられる瞬間が到来するまであと何日か待つのが得策というもので、それもできぬというのは正気の沙汰ではないだろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.469~470」岩波文庫 二〇一七年)
<私>が選んだ態度は(2)。一気に切断するのではなく逆に引き延ばすこと。カフカが述べた絶望的法廷戦術に途轍もなく似ている。画家ティトレリはKにその方法を教える。
「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.223~225」新潮文庫 一九九二年)
Kにとって何らの慰めにもならない。むしろさらなる絶望をもたらす。
ティトレリのみならずティトレリのアトリエの周囲にたむろする少女たちもまた裁判所の一部をなす。俗にいう「ぐる」になっているというわけではまるでない。そうではなく、誰もが監視管理社会の部分装置として機能しており、そのような部分装置として生きていくしかもはやどんな方法も見当たらない世界。どれほど微細な部分であろうとなかろうと、どの部分を取り上げてみても、すべてが見張る見張られる相互依存・共犯関係を取り結んでいる。
身近そうで身近でない例を上げるとすれば、例えば日本の首相。そうしようと思えば日本のすべてをいつも見張り続けることができる位置を占めている。メタ目線に立っているといえる。この立場を仮にメタ目線Aとしてみる。だがこのメタ目線Aをさらに見張ることができるメタ目線Bという立場もある。それ以上に巨大なメタ目線Cもある。こうしてメタのメタのメタのーーーというメタ目線のコノテーションはすでに生じている。それらすべての情報をAIが管理するだけでなく時々刻々と更新再更新を続けていく。果てしがない。
ところが首相にせよ大統領にせよ、立場上、何か重大な事案を決定しなくてはならない事態に迫られることがしばしばある。AIが算出してくる第一主題を選択するとしよう。その途端、それまで第四主題だった選択肢がやおら第一主題の場へ躍り出てくることがある。そんなとき首相や大統領は何をどうすべきか。もし選択を誤ったら。AIはどこまでいっても機械でしかない。機械に責任を押しつけることは当然できない。
日本がもし破滅するとして。しかし日本国を名乗る選択肢は残されている。血統のみを軸とすればという条件つきで。天皇をいったん国外へ退避させておく。そこでかあるいはもっと別の場所へ移動させる。その後、一定程度の破滅処理が整うとともにかつての「満州帝国」のような傀儡政府を樹立させるという方法が、今のところは手っ取り早くわかりやすいかもしれない。
さて。「群像」四月号の特集は「テックと倫理」。
真っ先に見たのは何度か前に述べたように円城塔「見張りたち」(『群像・2023・04・P.34~44』講談社 二〇二三年)。ラストのやりきれない読後感が好みに合う。
とともに「見張りたち」は創作であって、ということは、創作「見張りたち」もまたAIを用いて書かれたものかもしれないという可能性を念頭に置いて読んだ。するとラストでやりきれない読後感をもたらしたAIは、少なくともこのブログを書いている一読者にとってなかなか心地よい時間を提供してくれたことになる。
とはいえすべてがAIによる創作だとしてもなお、新しいことは何一つ語られていないと感じるのはなぜだろう。SFの未来に未来はあるのか?解答は未決定のまま宙吊りされていくばかりだ。未決定としか言えない。そこにまた未来がある。
宮内悠介「明晰夢」。ありとあらゆるドラッグ、デジタルドラッグが流通し、消費され、それらすべてを一応通過した人間社会の向こうに、なお何か見えてくるものがあるのか。あるとすればそれは何か。「健康」な「人間らしさ」を取り戻す「ホーム」が登場する。いかにも西海岸的な発想だ。しかし主人公はそこでも違和感を覚える。
「自由意志や愚行権を求める気持ちが、内奥でノーと唱えてもいる」(宮内悠介「明晰夢」『群像・2023・04・P.59』講談社 二〇二三年)
いわゆる「健康」な「人間らしさ」を取り戻す「ホーム」での生活も実を言うと一つの依存に過ぎない。或る依存症からの回復過程というのは別の依存へ対象を置き換えることでしかない。そしてその種の依存対象は諸商品の無限の系列のように延々どこまでも続いている。
読者としてはやりきれない。しかしこのやりきれなさにどこかアンビヴァレントな快感を覚える。もっとも、読書に救いを求めるような態度は始めから取らないし、そもそもそんなつもりで本を開くわけではない。ところがこのやりきれなさに一片の救いがあるような気がしなくもない。馬鹿馬鹿しい大声で「ここに救いがある!」と喚き立てるような作品やキャッチコピーとは違うという点で。
