何度か繰り返し回帰してくる「ヴェネツィア」。それは固定されたイメージではまったくなく、<諸断片>の組み合わせ組み換えによる常に動的なパッチワークとして描き出される。
「その部屋着には、ヴェネツィアのように、つまりスルタンの妃と同じく透かし彫りの石のベールの背後にすがたを隠すヴェネツィアの館のように、またアンブロジアーナ図書館の本の装丁のように、さらには死と生を交互にあらわすオリエントの小鳥たちを彫りつけた円柱のように、アラビアふうに装飾に覆いつくされていた。その小鳥がくり返し描かれて鏡のようにきらめく布地の濃い青色が、私のまなざしがそこを進んでゆくにつれて、加工自在な柔かい金の色に変わってしまうのは、ゴンドラが進むにつれて、眼前の大運河の紺碧色が炎のように輝く金属みたいに変化するさまを想わせた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.472」岩波文庫 二〇一七年)
エルスチールが述べてみせたヴェネツィアの絵画。「どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかない」。黎明期の資本主義社会というだけでなく、今の資本主義社会に顕著な<位置決定不可能性>の到来を物語ってもいる。
「『なにしろその画家たちが制作をした町が町だけに、描かれた祝宴も一部は海上でくり広げられましたからね。ただし当時の帆船の美しさは、多くの場合、その重々しく複雑な造りにありました。こちらで見られるような水上槍競技もありましたが、ふつうはカルパッチョが<聖女ウルスラ伝>で描いたようになんらかの使節団の歓迎行事として開催されたものでした。どの船もどっしりと巨大な御殿を想わせる建造物で、深紅のサテンとペルシャの絨毯とにおおわれた仮説橋で岸につながれていて、船のうえでは婦人たちがサクランボ色のブロケード織りや緑色のダマスク織りの衣装を身にまとい、すぐそばの極彩色の大理石を嵌めこんだバルコニーから身を乗り出して眺めているべつの婦人たちが真珠やギピュールレースを縫いつけ白のスリットを入れた黒い袖のドレスを着ているときには、船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさまです』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.544~545」岩波文庫 二〇一二年)
ドレスの生地一つ取って見ても、世界中の植民地からヴェネツィアへ集められヴェネツィアから世界中の植民地へ何度も繰り返し往来する、そのすべての過程からもたらされたものでないものは何一つない。プルーストは一九〇〇年代初頭すでに資本主義が<諸断片>から繰り返し生成するパッチワーク、あるいはモザイクだと見ていた。「それらの布地をたがいにつなぎ合わせるべく、すべては再生した」と。
「むしろそのドレスは、当時、バレエ・リュスにおいて、それぞれの時代の精神に染まりながらもそれでいて独創的な芸術作品によって、芸術が最も愛されたさまざまな時代を描いた、セールや、バクストや、ブノワの舞台装置のような趣があった。そんなわけでフォルトゥーニのドレスは、古いものを忠実に再現していながら大いに独創的で、まるで舞台装置のように、いや、舞台装置はあくまで想像に委ねられているから、舞台装置よりもはるかに強力な喚起力でもって、オリエントの横溢するヴェネツィアを出現させていた。そのヴェネツィアで着用されていたかと想わせるこれらドレスは、サン・マルコ大聖堂の聖遺物箱に収められた遺物にもまして、その地の太陽や周囲のターバン姿を想起させて、ヴェネツィアの断片的な、神秘あふれる、補色となっていたのだ。その時代のすべては滅びてしまったが、総督夫人たちのまとった服地から部分的に生き残ったものが突然出現したことによって想起され、華麗な景色と雑踏の生活によってそれらの布地をたがいにつなぎ合わせるべく、すべては再生したのである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.405」岩波文庫 二〇一七年)
さて、特集「テックと倫理」から。
戸谷洋志「メタバースとニヒリズム」(『群像・2023・04・P.92~102』講談社 二〇二三年)
途中、VR(仮想現実)とAR(拡張現実)との対比が簡略に述べられている。次にアーレントからの引用がある。一九五七年のスプートニク号打ち上げについて。
「ところが、まったく奇妙なことに、この喜びは勝利の喜びではなかった。実際、人びとの心を満たしたのは、驚くべき人間の力と支配力にたいする誇りでもなければ、畏敬の念でもなかった。むしろ、時の勢いにまかせてすぐに現われた反応は、『地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩』という信念であった」(アレント「人間の条件・P.9~10」ちくま学芸文庫 一九九四年)
地球から脱出したいという欲望があるとアーレントは見ている。また、メタバースへの欲望について戸谷洋志は、人々の間には現実に対する嫌悪感があり、現実に対して人々は何をどうすることもできないという諦観・ニヒリズムがあるとする。そうに違いない。「世界疎外・地球疎外」はアーレントが言っていた言葉である。
「世界疎外が近代社会の進路と発展を決定したのにたいし、地球疎外は近代科学の品質証明となった。地球疎外を合図に、物理学や自然科学だけでなく、すべての科学が、内容を根本的に変えたので、そもそも近代以前に、なにか科学らしいものが存在したのかどうか疑問になるほどである」(アレント「人間の条件・P.424」ちくま学芸文庫)
このような変化はフーコー「言葉と物」で述べられていることとほとんど違わない。特にアーレントに注目すれば疎外に関して「世界」というより「地球」の側に重点を置いている点だろう。
さらに戸谷洋志は次の箇所を引く。
「他方、歴史的分析の目的は、今日の世界疎外、すなわち、地球から宇宙への飛行(フライト)と世界から自己自身への逃亡(フライト)という二重のフライト、をその根源にまで遡って跡づけることである」(アレント「人間の条件・P.16~17」ちくま学芸文庫 一九九四年)
よく知られた箇所でもある。「地球から宇宙への飛行(フライト)」、「世界から自己自身への逃亡(フライト)」。
しかし前者と後者とは奇妙な一致を示す。いずれにしても「宇宙」への「引きこもり」、「自己自信」への「引きこもり」、一種の「自閉症」へ帰着するほかないという現実である。
アーレントは機械によって人間が支配されるような方向性をその危険性とともに述べる。「将来のオートメーションの危険は、大いに嘆き悲しまれているような、自然的生命の機械化や人工化にあるのではない。むしろ、その人工性にもかかわらず、すべての人間的生産力が、著しく強度を増した生命過程の中に吸収され、その絶えず循環する自然的サイクルに、苦痛や努力もなく、自動的に従う点にこそ、オートメーションの危険が存在する」。
「将来のオートメーションの危険は、大いに嘆き悲しまれているような、自然的生命の機械化や人工化にあるのではない。むしろ、その人工性にもかかわらず、すべての人間的生産力が、著しく強度を増した生命過程の中に吸収され、その絶えず循環する自然的サイクルに、苦痛や努力もなく、自動的に従う点にこそ、オートメーションの危険が存在するのである。機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、強めるであろう。しかし、それは、世界にかんして生命がもつ主要な性格ーーー耐久性を食い尽すことーーーを変えるのではなく、逆にそれをもっと恐ろしいほど拡張するだろう」(アレント「人間の条件・P.193~194」ちくま学芸文庫 一九九四年)
高度化する機械装置は人間を労働から解放するどころか、労働を労働と感じさせないような全体主義へ導いていく危険性を常に持ち合わせている。そして人間の欲望は実にしばしばその種の機械装置へ魅惑されがちでもある。戸谷洋志はいう。イノベーションが起きようと起きまいと「現実への疎外感、ある種のニヒリズムは、きっとこれからも様々なテクノロジーと結びついて、再び出現してくるだろう」。
「もちろんメタバースは失敗するかも知れない。識者の予測はすべて外れ、この世界にはイノベーションが起きないかも知れない。しかし、その奥底に眠る現実への疎外感、ある種のニヒリズムは、きっとこれからも様々なテクノロジーと結びついて、再び出現してくるだろう」(戸谷洋志「メタバースとニヒリズム」『群像・2023・04・P.101』講談社 二〇二三年)
おそらくそうだ。
特集「テックと倫理」の中に収められた小説、宮内悠介「明晰夢」から抽出できることは、人間はどんなドラッグ、どんなデジタルドラッグに依存しようと、しばらくすると「飽きる」ということだ。人間の欲望は依存対象をどんどん置き換えながら次へ次へ横移動することしか知らない。
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