アルベルチーヌの言葉を信じるにせよ信じないにせよ、追求すればするほどかえって迷宮入りし出すのは<私>の側だ。
「真っ赤な間違いというべき格言は、平和の意志に勝利を収めさせるためには戦争の準備をするべきだと教えるが、それは平和どころか、敵対する双方に、まず相手が望んでいるのは断交だと確信させるうえ、その断交が現実になると、それを望んだのは相手方だというべつの確信を双方にもたらしてしまう。たとえ脅しが本気でなくても、それがいったん成功すると、その脅しをくり返すようになる。しかしこけおどしが正確にどの段階まで功を奏するかを見極めるのはむずかしい。もし一方がやりすぎると、それまで譲歩していた相手が代わって攻勢に出る」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.388」岩波文庫 二〇一七年)
プルーストは戦争を引き合いに出す。「こけおどしが正確にどの段階まで功を奏するかを見極めるのはむずかしい」。だが「脅し」は関係ない。言い換えれば、そこに「裏切り」があるすればどうなるか、という問題なのだ。ウクライナ戦争に関する戦争報道と報道戦争とがこんがらがっている今だからこそ、取り組みがいも出てくる。
ラカンはカントが「道徳」について述べる命題を取り上げて論じた。カントはいう。
「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・第一部・第一篇・第一章・第六節・P.71~72」岩波文庫 一九七九年)
カントの命題に対してラカンは批判的立場からこう述べる。特に後者の「偽証」に注目しよう。
「『実践理性批判』を開いて下さい。理性という分銅の重みを我々に信じさせるために、カントが挙げている例があり、この書物の発表当時には素晴らしいものがあったはずです。それは二つの寓話で、純粋な倫理原則の重み、すべてに逆らう義務そのものの優先、すなわち生きる上で望ましいと考えられるすべての善に逆らう義務の優先を感じさせる物語なのです。
二つの状況の比較のうちにその証拠があります。カントはこう言います。『淫乱な男の放蕩を抑えるために、次のような状況を想定して欲しい。部屋の中に婦人がいて、その婦人に彼が欲望を向ける。その部屋へ入って欲望や欲求を満足させる自由が与えられている。しかし、出口の扉には絞首台がある』。この場合はまったく問題にならず、カントにとって道徳性の根拠はここにはありません。証拠がどこにあるかお解りでしょう。カントにとっては、絞首台は当然抑制になっており、出ていったら絞首刑になることが解っているのに、その婦人を抱くなどということは考えられません。ついで、同じような悲劇的な結末をもたらす別の状況が挙げられています。今度は友人に不利な嘘の証言をするならば恩寵を与えるが、さもなければ絞首刑だ、と暴君に選択を迫られる場合です。ここではカントは正当にも、嘘の証言をすることと自分の命を天秤にかけることも十分考えられる、と述べています。とりわけ、嘘の証言をしたら友人の命に関わるような結果を招く場合にはそうである、と述べています。
注目すべきことは、証明の力は現実に、つまり主体の現実の行動に委ねられていることです。カントが理性の分銅をーーー彼はそれを義務の重みと同一視していますーーー我々に見つめさせるのは現実の行動においてなのです。
このように辿ってみると、あることをカントは見逃していると思われます。つまり、ある条件の下では第一の場面における主体も、進んで刑罰に服するとは言いませんがーーーというのは、この寓話はここまで進んでいませんからーーー刑罰に服することは考えられないことではない、ということです。
ケーニヒスブルクの哲学者、この感じのよい人物ーーー私はカントが度量が狭いとか、情熱に欠けた人間だと言っているのではありませんーーーは、ある条件のもとでは刑罰に服するという乗り越えも考えられることを見逃しています。その条件とは、フロイトが対象の『過大評価』と呼んだものーーーこれを私は今後対象の昇華と呼びますがーーーが揃うという条件です。
つまるところ、その条件とは昇華に関するある種の条件です。そういう条件のもとでは、先程のあの乗り越えがなされることも十分考えられます。さらに文学もやはり、厳密に歴史的視点とは言えないまでも、幻想的な視点で何かを提供しています。いずれにせよ、この種の三面記事には事欠きません。ここまで申し上げれば、絞首台であれ何であれ、殺されることを覚悟の上で婦人と寝る男がいるかもしれない、と言うことができるでしょう。もちろん過剰な情念として分類されるかもしれませんが、それで済むものではありません。たとえば女性を切り刻む快楽とひきかえに、自分が被る刑罰について冷静に計算できる男もいるでしょう。
これも十分に考えられる例です。犯罪学の記録を見ればそういう例は山ほどあり、当たり前と考えられていることに明らかに修正を迫ります。すくなくともカントが挙げた例の明証性を揺るがします。
カントが考慮に入れなかった二つの場合を述べましたが、これら二つの形態とは、規範としての現実原則に直面して、快楽原則が普通は示している限界を越えてしまう二つの侵犯の形態、すなわち対象の過剰な昇華と、もう一つは一般に倒錯と呼ばれるものです。昇華と倒錯はともに、欲望の関係であり、これによって我々は疑問符つきではあれ、現実原則に対するカントとは別のーーーあるいは同一の、かも知れませんがーーー何らかの道徳性のクライテリアを定式化できる可能性へと導かれます。なぜなら、『ものdas Ding』の水準にあるものへと向けられる道徳性の領域が存在するからです。そういう領域こそが、『ものdas Ding』に逆らって偽証しようとする瞬間、すなわち欲望ーーー倒錯的であれ昇華されたものであれーーーの場に逆らって偽証しようとする瞬間に、主体を躊躇させるのです」(ラカン「精神分析の倫理・上・8・P.161~164」岩波書店 二〇〇二年)
この「欲望ーーー倒錯的であれ昇華されたものであれーーーの場に逆らって偽証しようとする瞬間に、主体を躊躇させる」。「躊躇」という身振りあるいは動揺。裏切りに関わる。この身振りは一人の人間を分裂・破滅させるに十分な圧力を持つ。
さらに、ここでカントが上げている命題は差し当たり二つであって、第一第二と優先順位が付けられているようにも見える。けれども命題の優先順位はいつも固定されているとは必ずしも限らない。時間の経過とともに第三第四の命題が出現し、人々が第一命題に取り組んでいるうちに、遥か遠くの第四番目に見えていた命題がそそくさと第一命題の位置へ移動・置き換えられていることもしばしばあると、付け加えておくことが大事だろう。
