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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて312

2023年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。一日中曇り空でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

日の入頃です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

二〇二三年三月十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて311

2023年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は曇り、湿度は85パーセントのようです。湖東方向も曇り。鈴鹿峠も曇りのようです。

 

午前五時四十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.17)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.17)

 

二〇二三年三月十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・愛さない<私>と愛する<私>との反復が生む剰余/「骰子遊び」の場としての世界

2023年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌを愛さない<私>と愛する<私>とが繰り返し登場する。

 

「この不誠実よりも私の心を傷つけたのは、私が『きみがヴェルデュラン家の午後のパーティーに行きたいと思った気持のなかには、ヴァントゥイユ嬢に再会する楽しみなんてはいっていなかったと、せめて誓ってくれるね?』と訊ねたとき、アルベルチーヌがこう答えたときの率直さのほうだった、『だめよ、そんなこと誓えないわ。だってヴァントゥイユのお嬢さんに会うのは、あたしには大きな楽しみだったんだもの』。ついさっきはアルベルチーヌがヴァントゥイユ嬢との関係を隠蔽するのを恨んだものだが、いまやそのヴァントゥイユ嬢に会うのが楽しみだったというアルベルチーヌの告白に、私は意気消沈した」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.475~476」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌに対する不信。愛すれば愛するほどますます増殖する不信。

 

「ヴェルデュラン家から戻ってきて、アルベルチーヌから『ヴァントゥイユのお嬢さんが来るはずじゃなかったの?』と言われたときは、アルベルチーヌがヴァントゥイユ嬢の来訪を知っていた証拠を見せつけられて、たしかにひどく苦しんんだ。しかし私は以来、おそらくこんな推論をしていたのだろう、『アルベルチーヌは、ヴァントゥイユ嬢の来訪を知っていたが、その来訪にはなんの喜びも覚えなかった、けれどもアルベルチーヌにはヴァントゥイユ嬢のような評判の芳しくない女と交友があると知ったことで、私がバルベックで自殺を考えるほど絶望したとあとで悟って、そのことは私に話さないようにしたのだろう』。それがいまやアルベルチーヌは、ヴァントゥイユ嬢の来訪を楽しみにしていたと告白せざるをえなかったのだ。そもそもアルベルチーヌがヴェルデュラン家へ行きたいという願望を表明したときの謎めいた言いかただけで、私には充分な証拠だったはずである」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.476~477」岩波文庫 二〇一七年)

 

このセンテンスに「私がバルベックで自殺を考えるほど絶望した」とある。<未知の女>である以上、<私>は「いっときたりともアルベルチーヌの愛を信じたことはない」し信じることもできない。そんな「アルベルチーヌのために何度も自殺しようと思い、財産を使い果たし、健康を損ねた」。

 

「ヴェルテルのきわめて高貴な事例は、残念ながら私には当てはまらなかった。私はいっときたりともアルベルチーヌの愛を信じたことはないのに、そのアルベルチーヌのために何度も自殺しようと思い、財産を使い果たし、健康を損ねた」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.519」岩波文庫 二〇一八年)

 

愛することは苦しむことでもある。苦痛を伴わない愛はない。

 

「ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.337」岩波文庫 二〇一六年)

 

一つの恋愛が終わるとまた新しく愛し始めることができる。

 

「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)

 

それは「不治の病」だとプルーストはいう。「リューマチ」を生きた後すぐ「癲癇(てんかん)状の偏頭痛」を生きるようなものだと。

 

「そもそも恋心とは不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.185」岩波文庫 二〇一六年)

 

しかし何度も繰り返し記述されるのはどうしてだろう。誰が誰だか区別不可能な「一団の少女」からだんだんアルベルチーヌやアンドレたちが抽出されてくる。そしてそれらはいずれまた一団の少女たち、誰か誰だか区別不可能な「星雲」へと解消されていくのでは、とプルーストは問いかけている。

 

「そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか?それを知るには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい。もはやきみたちを愛してはいけないのだ。きみたちを固定するには、際限なくつねに戸惑わせるすがたであらわれるきみたちを知ろうとしないことが重要なのだ。乙女たちよ、渦のなかにつぎつぎと射す一条の光よ、その渦のなかできみたちがあらわれまいかと心をときめかせながら、われわれは光の速さに目がくらんできみたちのすがたをほとんど認めることができない。つねに千変万化してこちらの期待を超越する黄金の滴(しずく)よ、性的魅力に惹かれてきみたちのほうへ駆け寄ることさえしなければ、そんな速さを知らずにすませられるかもしれず、そうなればすべてが不動の相を帯びるだろう。乙女はあらわれるたびに前に見たすがたとはまるで似ていないので(そのすがたを認めたとたん、われわれがいだいていた想い出や思い定めた欲望は粉々にうち砕かれる)、われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.139~140」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>の報告でもあるこの一節。「われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」。

 

変化するということ。唯一ではないにしても、変化しないものは一つもないということ。それだけではない。変化は常に剰余を伴ってでしか出現することができない。出現したときすでに変化は剰余を伴っている。不可避的な条件として<時間>とはそういうものだ。

 

<私>とアルベルチーヌとの間で繰り返される恋愛の言語の無限の反復は、その都度いつも変化し、加工=変造過程を経ている。その過程は無意識的であるというのにプルーストではその不可能が不可能でなくなり言語化されて出現してくる。<私>は報告者に過ぎない。先を読むことはできない。賭けることはできても賭けはいつもはぐらかされる。剰余が生まれる限り、そしてその剰余が予測不可能な剰余である限り、<私>はいつも賭けに負ける。どこまで行っても<私>は報告者の位置に差し置かれたままそこに留まり続けるしかない。

 

この種の賭け。プルーストが教える「賭け」ということと、一般的な意味での「商業賭博」とは大違いだということ。この違いはまるで次元が異なる。そう思い出させる事態が現在進行中だ。

 

大阪万博を機会に大型カジノが計画されている。<カジノの世界化あるいは世界のカジノ化>。ところが「賭博」に関していうのなら、商業賭博とは全然異なるところで人間はすでに賭けることに巻き込まれていることに目を向けることも重要だろう。ニーチェはいう。

 

「わたしの頭上の空よ、おまえ、清らかなもの、高いものよ。わたしにとっておまえの清らかさとは、そこになんらの永遠的な理性蜘蛛(りせいぐも)とその蜘蛛の巣がないということなのだ。ーーーまたおまえがわたしにとって神的な偶然が踊る踊り場であるということ、神的な骰子(さい)と神的な骰子遊びをする者にとっての神的な卓であるということなのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・日の出前・P.264」中公文庫 一九七三年)

 

このような「骰子遊び」を心の底から味わった人間が一人でもいるだろうか。商業賭博とはまるで違う。偶然に賭けることができるだろうか。誰一人しようとしない。ところが逆説的にも、どれほど注意深くあったとしてもなお人間はこのような「骰子遊び」の場へ生まれ落ちてくるほかない。あらかじめ与えられた状況の中へ生まれ落ちてくることしかできない。さらに生まれ落ちた後もずっと偶然性の必然性という諸条件に纏わりつかれているのであり、偶然性の必然性なしに、もはや何一つ考えることはできない。

 

「いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる高次の法則が不在であるからなのである」(カンタン・メイヤスー「有限性の後で・第三章・P.94」人文書院 二〇一六年)

 

ニーチェを引用しつつ、ついうっかりメイヤスーへ移動したというのが、実際のところなのだろう。といってもそれは居心地のよくない世界では決してない。