嘘か嘘でないか。この問い自体がもう持ち堪えられなくなってくる。「せっせと嘘の遮蔽幕を織りあげ、それを現実だと勘違いする」ことは人間が夢においてよく経験しうる。仕切りという問題。
「ついで新たな舞台装置のせいで、私自身の人生までが私の目から完全に隠されてしまう。いわば、舞台の全面にしつらえられた新たな舞台装置のようなもので、そのうしろで場面転換が準備されているあいだ、前では俳優たちが幕間(まくあい)の余興をやっている。そのとき私が演じていたのは東方の小話ふうの余興で、仕切りの装置があまり近くにありすぎるせいで、そのときの私は自分の過去はおろか自分自身についてもなにひとつ知らないでいる」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.390」岩波文庫 二〇一二年)
さらにこのような「遮蔽幕」を見ると人間はたちまち人間であることをすっかり忘れ去り、やおら闘牛になることが少なくない。
「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである」(パスカル「パンセ・一八三・P.120」中公文庫 一九七三年)
そしてプルーストは何気ない風貌で人間独特の本来的分裂性について触れる。
「翌日になって、私がアルベルチーヌのなかに愛したり憎んだりを交互にくり返した過去の時間をふり返ってみると(その時間が現在であれば、だれしも私利私欲なり礼儀なり憐憫なりから、その現在と自分とのあいだにせっせと嘘の遮蔽幕を織りあげ、それを現実だと勘違いするのと同じで)、その過去の時間を構成している時間のひとつが、知り尽くしていると私が想いこんでいた時間のひとつが、突然、私にそう見えていたアルベルチーヌとはまるっきり異なる一面、もはや人が私に隠そうとしない一面を提示することがあった。あるまなざしの背後に、かつて私は好意を見たと想いこんでいたのに、かわりにそれまでは想いも寄らなかったある欲望があらわになり、私の心と一体だと想いこんでいたアルベルチーヌの心の新たな一部を私から離反させるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.459」岩波文庫 二〇一七年)
統合されたものは二度と分裂しないかといえばまるでそうではない。再び分裂するとプルーストはいう。「私の心と一体だと想いこんでいたアルベルチーヌの心の新たな一部を私から離反させる」と。
全的把握という<私>の支配欲・所有欲は計り知れないし、欲望したければどこまでも自由にすればいい。ところが全的把握という所有欲がどれほど大規模な形で施されたとしても、実際のところ、全的把握も全的所有も、もはやその可能性一つ残されていない。アルベルチーヌとの長いやりとりを通して<私>はそう学んだ。
