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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて302

2023年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。だんだん曇ってきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.12)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

二〇二三年三月十二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・見かけの総合と実質的分裂/全的<支配・所有>の不可能性

2023年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

嘘か嘘でないか。この問い自体がもう持ち堪えられなくなってくる。「せっせと嘘の遮蔽幕を織りあげ、それを現実だと勘違いする」ことは人間が夢においてよく経験しうる。仕切りという問題。

 

「ついで新たな舞台装置のせいで、私自身の人生までが私の目から完全に隠されてしまう。いわば、舞台の全面にしつらえられた新たな舞台装置のようなもので、そのうしろで場面転換が準備されているあいだ、前では俳優たちが幕間(まくあい)の余興をやっている。そのとき私が演じていたのは東方の小話ふうの余興で、仕切りの装置があまり近くにありすぎるせいで、そのときの私は自分の過去はおろか自分自身についてもなにひとつ知らないでいる」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.390」岩波文庫 二〇一二年)

 

さらにこのような「遮蔽幕」を見ると人間はたちまち人間であることをすっかり忘れ去り、やおら闘牛になることが少なくない。

 

「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである」(パスカル「パンセ・一八三・P.120」中公文庫 一九七三年)

 

そしてプルーストは何気ない風貌で人間独特の本来的分裂性について触れる。

 

「翌日になって、私がアルベルチーヌのなかに愛したり憎んだりを交互にくり返した過去の時間をふり返ってみると(その時間が現在であれば、だれしも私利私欲なり礼儀なり憐憫なりから、その現在と自分とのあいだにせっせと嘘の遮蔽幕を織りあげ、それを現実だと勘違いするのと同じで)、その過去の時間を構成している時間のひとつが、知り尽くしていると私が想いこんでいた時間のひとつが、突然、私にそう見えていたアルベルチーヌとはまるっきり異なる一面、もはや人が私に隠そうとしない一面を提示することがあった。あるまなざしの背後に、かつて私は好意を見たと想いこんでいたのに、かわりにそれまでは想いも寄らなかったある欲望があらわになり、私の心と一体だと想いこんでいたアルベルチーヌの心の新たな一部を私から離反させるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.459」岩波文庫 二〇一七年)

 

統合されたものは二度と分裂しないかといえばまるでそうではない。再び分裂するとプルーストはいう。「私の心と一体だと想いこんでいたアルベルチーヌの心の新たな一部を私から離反させる」と。

 

全的把握という<私>の支配欲・所有欲は計り知れないし、欲望したければどこまでも自由にすればいい。ところが全的把握という所有欲がどれほど大規模な形で施されたとしても、実際のところ、全的把握も全的所有も、もはやその可能性一つ残されていない。アルベルチーヌとの長いやりとりを通して<私>はそう学んだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて301

2023年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は98パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前五時五十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.12)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.12)

 

二〇二三年三月十二日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが25プルーストが語る「防御態勢」の無効性/「死の本能」の失敗例としての人間

2023年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

プルーストのユーモアは次のような一節にも見られる。

 

「現実というものは、ことのほか抜け目のない敵である。現実が攻撃を宣言する先は、われわれの心中の、まさか攻撃されるとは思っていなかった点、防御態勢をなんら整えていなかった点にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.460」岩波文庫 二〇一七年)

 

この種の「攻撃」は防ぎようがない。プルーストが言っているのは「防御態勢」の無効性についてだ。<私>はありとあらゆる手立てを講じておいた。にもかかわらず「攻撃」を受けた。「現実」とはそういうものだ。なぜなら、この種の「攻撃」というのは、受けるや否やその瞬間、そこに始めて「点」が出現する、そういう意味で極めて現実的な攻撃=点の出現だからである。

 

プルーストの同時代すでに先手か後手かというありふれた問いは無効化していた。しかし人間は、無効化したかどうかを確かめるためにわざわざ戦争を始めてみて、手ごたえを感じ取ってみるまではわかろうとしない、実に奇妙な生きものなのだ。

 

フロイトは「死の本能」といった。ニーチェはどういったか。

 

「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

それほどまで、もはや異様というほかないほど、懇切丁寧に死にたがる。死んだら死んだで、どんなふうに死ぬのか、自分たち自身で人体実験することを繰り返してみなくては気が済まないくらい、死に魅了されているらしい。

 

一方で人間は死をできるだけ遠ざけようとする。もう一方でもっと切実に死に近づきたがる。その間に諸商品の無限の系列がひしめき合い、商品自身が終わらない自己アピールを繰り返しながら延々と引き延ばされつつ置かれている。かといってプルーストはことさら大袈裟に騒ぎ立てたりしない。ただ、指し示すに過ぎない。その身振りにプルーストのユーモアもある。読者へ向けて気づきを与える。