<他人の生活における未知なるもの>。それは探求すればするほど逆に増殖していくものでもある。
「他人の生活における未知なるものは、自然界における未知なるものに似て、科学上の発見があるたびに後退するだけで、なくなるわけではないのだ。嫉妬する男は、愛する女から些細な楽しみをあれもこれも奪って、その女を激怒させる。しかし女は、おのが生活の核心をなす楽しみだけは、男の知性が最高の洞察力を発揮しているつもりのときでも、男が第三者から最良の情報を得ているときでも、男がけっして探そうとしない場所にうまく隠してしまう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.466」岩波文庫 二〇一七年)
なぜそうなるのか。ただ単に「未知のものを何か既知のものへと還元すること」に取り組んでいるに過ぎないからだとニーチェはいう。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
人間は飽きもせずそればかり繰り返している。それにしてもよく飽きないものだと逆に感心してしまうほどだ。
<私>はアルベルチーヌに対する監視管理の手を緩めたことなど一度もない。ところがアルベルチーヌは自分の「楽しみ」を<私>の見えない場所へ「うまく隠」す。「第三者から最良の情報を得ているときでも、男がけっして探そうとしない場所にうまく隠してしまう」。
<私>から見て「うまく隠す」ことができるできないは全然問題でない。としても、しかし、なぜそういうことができるのかを問うことは決して瑣末な問題でない。「けっして探そうとしない場所にうまく隠してしまう」。アルベルチーヌは苦心して隠そうとしているわけではまるでなく、単純に<私>にはそれが見えていないに過ぎない。どういうことか。ポー「盗まれた手紙」をテクストにしたラカン参照。
「この手紙が持つ圧力の耐え難さは、大臣が手紙に対して王妃と同じ態度を取っていること、つまりそのことを話さないことに由来しています。彼が手紙のことを話さないのは、王妃と同じように、彼も手紙のことを話すことができないからです。彼が手紙のことを話すことができないというその一事のために、彼は第二場の流れの中で、王妃と同じ立場に立たされます。彼は、手紙がこっそりと奪い去られていくのをどうすることもできません。それは、デュパンの策略に負っているのではなくて、事態の構造に負っているのです。
盗まれた手紙は隠された手紙になりました。何故警察はそれを見つけ出せないのでしょう。それは、警察は手紙とは何かを知らないからです」(ラカン「自我・下・16・P.44~45」岩波書店 一九九八年)
「そこには前のように三人の人物と手紙があるわけではない、と皆さんはおっしゃるでしょう。手紙は確かにあります。二人の人物がいます。しかし王はどこにいるのでしょう。そうです、四人目はまさに警察なのです。大臣が自分は安全だと思っていられるのは、警察が彼の安全の一翼を担っているからです。それは、ちょうど王が王妃の安全の一翼を担っていたのと同じです。もちろん、両儀的な保護ですが。つまり保護といっても、夫が妻に対して援助や保護の義務を負うという意味で、王が王妃に対して義務として負っている保護であり、また反面それは、王妃が王の盲目さのおかげで手にしている保護という意味でもあるからです。そういうわけで、ちょっとしたすきに手紙が掠め取られてしまうためには、大したことは必要ありません。少し均衡が崩れるだけで十分です。そしてそれが、大臣に起こります。
何箇月ものあいだ屋敷を捜索した警察が手紙を見つけられなかったのだから、自分は安全だと思い込んだのが、大臣の失敗です。それはちょうど、手紙のことに気づかない王が居合わせていたことが王妃にとって何の保護にもならなかったのと同じように、安全性の証明には全くなりません。彼の誤りはどこにあるのでしょう。それは、警察が手紙を見つけられなかったのは、警察に見つける能力がなかったからではなくて、警察は別のものを捜していたからだ、ということを大臣が忘れてしまっていたことです。駝鳥は、砂の中に頭を突っ込んでおれば安全だと思っています。では大臣はどうでしょう。彼は他の駝鳥ーーー他人-首ーーーが砂に頭を突っ込んでいるので自分は安全と思っているこれまた駝鳥です。そしてこの駝鳥は、後ろから第三の駝鳥に羽をむしられ、この第三の駝鳥は羽を取って自分の羽飾りにします。
大臣は、王妃がいた位置にいます。これらの人物間の移行は完璧です。そして、この悪人中の悪人、野心家中の野心家、謀略家中の謀略家、ディレッタント中のディレッタントは、話に割り込んでこの何でもない手紙を手に入れることになってしまったがために、秘密が自分の鼻先から奪われようとしていることが見えなくなっています。
大臣の注意をちょっとそらすには警察を思わせるものが少しでもあればそれで十分でした。実際、表通りの出来事が大臣の注意を引いたのは、自分が警察に監視されていることを大臣が知っていたからです。つまり、『私は辻々で三人ずつの警官に見張られているというのに、私の家の前で何かが起こるなんてどういうことだ』と思ったからです。彼は手紙を手にして女性化されてしまっただけでなく、無意識と関係があると皆さんに申し上げたこの手紙が彼に本質的なことを忘れさせたのです。無人島で発見された人の話をご存知ですね。彼はあることを忘れるために無人島に引き籠ったのですが、『何を忘れるために』と尋ねられて、『それを忘れてしまった』と答えました。大臣もまた、警察に監視されているのだから、自分以上にうまくやる者はいないだろうなどと考えてはならない、ということを忘れてしまったのです。
次の段階は大変好奇心をそそられます。デュパンはどのように行動したのでしょう。警視総監の二回の訪問の間には長い間隔があったことに注意してください。デュパンは手紙を手に入れて依頼、警視総監にも他の誰にも一言もいいません。結局、この手紙を持っていることーーーそれが彷徨い歩く真理の意味作用なのですーーーこのことが口を閉ざさせるのです。実際彼は誰にその事を話せたでしょう。彼は当惑していたに違いありません。
幸いなことに、警視総監というものがいつも犯罪現場へ戻ってくるように、この警視総監もデュパンのところへやってきて尋ねます。デュパンは彼に無料で最高の診療を受けようとする男の話を聞かせます。処方を騙し取られそうになったイギリスの医者の話です。ーーー『こういう場合、先生なら何を処方されますか』。すると医者は答えます。『医者の助言ですな』。デュパンはこうして警視総監に、謝礼は決して安くないことを教えます。このお人好しが直ちに小切手にサインをすると、デュパンは『ここ、私の引き出しの中にある』と言います。
それはつまり、これまで最高の人物であり、きわめて明晰であったこのデュパンが、突然みすぼらしい密売人になってしまった、ということでしょうか。私はそこにこの手紙に憑いていた悪い『マナ』とでも呼べそうなものの買取りをすら見てもよいかと思います。そして実際、彼が謝礼を受け取ったことによって、彼は窮地を脱します。彼が手紙を他者に渡したためばかりでなく、誰の目にも彼の動機は明らかですーーー金に手を着けたのですから、もはやただではすんでいません。謝礼という形の報酬の聖なる価値は、先程の医者の小話という前置きがはっきり示しています。
別に固執するつまりはありませんが、次のように言うことは許されるでしょう。つまり、患者のあらゆる盗まれた手紙の配達人として時を過ごしている我々もまた、多少とも高額のお金を支払わせていますが、それは、我々が患者に支払わせなければ、自分たちの真理を打ち明けにやってくるすべての患者のドラマである、あのアトレとティエストのドラマに我々の方が陥ってしまうからだということです。このことをよく考えてみてください。患者は我々に彼らの聖なる歴史を語ります。だからといって、我々が聖なるものとか、生贄の次元にいるわけでは決してありません。誰もが知っているように、たんにお金でものが買えるだけでなく、我々の文明において最も正しく計算されている価格というものが、お金を支払うことよりもはるかに危険なこと、つまり誰かに何かを負っているということを和らげる機能を持っているからです。
問題はそういうことです。この手紙を持っている者は誰でも、影の中に入ってしまいます。影ができてしまうのは、手紙が誰に宛てられているからでしょうか。まさに当事者以外の人物に宛てられているからです。つまり王です。そして手紙は結局王のところへ届くことになるのでしょうが、それはデュパンが彼の想像上の話として語っているような具合にではありません。つまり王妃にさんざん侮辱されて、大臣が愚かにも事を暴露するというふうにではありません。手紙は本当に王に届くのです。そしてその王は、やはり何も知らない王なのです。しかし王の配役は、この間に変わってしまいました。大胆さにつき動かされて王妃になってしまった大臣、彼が今や王なのです。第三段階で彼は王の位置を占めています。そしれ彼は手紙を持っています。
もちろん、もうあの手紙ではありません。つまりデュパンから警視総監の手へーーーそしてさらに内閣情報室へと、手紙のオデッセイは終わっていませんーーー渡ったあの手紙ではありません。それはデュパンが手紙に与えた新しい形です。それは、ポーが描いて見せてくれた以上に運命の道具であり、通俗的な言い方をすると、抉るようなむごい側面をこの小さな物語に与える挑発的な形です。大臣が手紙を開けたとき、彼は横面を張り飛ばすような次の詩句を目にします。
『ーーーかくも忌まわしきたくらみは、アトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしい』
そして実際、この手紙をいったん開けてしまうと、大臣は自分自身の行為の帰結に従うしかなくなります。つまりティエストのように自分の子どもを食べるしかないのです」(ラカン「自我・下・16・P.47~51」岩波書店 一九九八年)
また、見ているにもかかわらずなぜ見えないのか、<見ない>ことの構造について、アルチュセールは二つのケースを上げる。
(1)「見えないものを定義され排除されたものとして定義し構造化するのは問いの構造の場である。この見えないものは、問いの構造の場の存在と固有の構造によって、可視性の場から《排除され》、排除されたものとして《定義される》。それは、場がその対象に反照すること、すなわち問いの構造がその対象に必然的にかつ内在的に関係することを、禁止し抑圧するものとして定義される。ーーー新しい対象と問題は必然的に現存の理論的場のなかでは《見えない》。なぜなら、それらはこの理論の対象ではなく、《禁止されたもの》であるからだーーーそれらは、この問いの構造によって定義された、見えるものの場との必然的関係を必然的にもたない対象であり問題なのである。それらは、権利上、見えるものの場の外に排斥され抑圧されるから、見えないのである。まさにそのゆえに、それらがその場のなかに現実に現前している事実は、(非常に特殊な徴候的状況のなかで)それが到来するときにも《気づかれないでしまう》し、文字通りに感知されざる不在になる。それというのも、そもそも場の機能というものは、それらの対象や問題を見ないこと、それらを見ることを禁止することにあるからだ。ここでもまた、見えないものは、見えるものと同じく、もはや主体の《視覚の機能》ではない。見えないものとは、理論的な問いの構造が自分の非=対象を見ないことであり、見えないものは暗闇であり、理論的な問いの構造が自己へと反照するときのめしいた目である。その問いの構造は、その非=対象や非=問題を《熟視しないために》、それらを見ないで通りぬけていく。ーーー見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.43~46」ちくま学芸文庫 一九九六年)
アルチュセールが言っているのはただ単にそうできるというだけではない。「閉じた空間」の中にいる限りそもそも「見えない」ようにされている構造自体を問題として俎上に載せる。
(2)「私はここで問題になっているのはイデオロギー的《哲学》だと言う。それというのも、『認識の問題』のイデオロギー的定立こそが、西欧の観念論的哲学と一体になった伝統(デカルトからカントとヘーゲルを経てフッサールにいたるまでの伝統)を定義するからである。私がこのような認識の『定立』は《イデオロギー的》であると言うのは、この問題が『答え』から出発して、答えの正確な《反射》として定式化されているからである。すなわち、それは本当の問題としてではなく、自分が与えたいと思う《イデオロギー的な》解答がたしかにこの問題の解答であるかのように定立されなくてはならなかった問題として定式化されたのである。ーーーこの論点はイデオロギーの本質をイデオロギー的形式で定義し、イデオロギー的認識(とりわけ、イデオロギーが語る認識)を原理上は《再認》の現象に還元する。イデオロギーの理論的生産様式においては(この関連では科学の理論的生産様式とはまったく違って)、問題の定式化は、認識過程の外部ですでに生産されている《解答》ーーー外部でというのは、理論外的審級や要求(宗教的、道徳的、政治的その他の)によって押しつけられるのだからーーーが、理論的鏡としても実践的正当化にも役立つように作られた人為的問題のなかに《自己を再認できる》諸条件の理論的表現でしかないからだ。このように、『認識の問題』によって支配される近代西欧哲学のすべては事実上、この《鏡のなかの再認》から期待される理論的=実践的効果を可能にするように《生産された》(あるひとたちには自覚的に、あるひとたちには無自覚的にーーーしかしここではどちらでもかまわない)用語でもって、またそのように生産された理論的土台に基づいて提起される『問題』の定式化によって支配されている。西欧哲学の歴史のすべては『認識問題』によってではなく、この『問題』が受け取る《べき》イデオロギー的解答によって支配されていると言ってもいいくらいだ。ここでイデオロギー的だと言うのは、認識の現実に無縁な実践的、宗教的、道徳的、政治的な『利害感心』によってあらかじめ解答が押しつけられるからである。マルクスが『ドイツ・イデオロギー』のときからかなり深みのある言葉で言うように、『《答えのなかばかりでなく、問いそのもののなかにも、ごまかしがあった》』。ーーーここでわれわれはもっとやっかいな難題に出会う。なぜなら、われわれは、まちがった答えの《反復》だけでなく、とりわけ《まちがった問い》の《反復》が多くのひとびとのなかで生み出してきた数世紀来の『自明さ』に対して、この企てにおいてはほとんど一人だけで抵抗しなくてはならないからである。われわれはこのイデオロギー的問いによって定義されるイデオロギー的空間、この《必然的に閉じた》空間から脱出しなくてはならない(閉じた空間だと言うのは、イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける《再認》構造の本質的結果のひとつは閉じているからである。この不可避的に閉じた円環を、ラカンは別の文脈で、また別の目的から、『《双対の鏡像関係》』と呼んだ)。そうすることでわれわれは、別の場所で新しい空間を開くべきであるーーーこの空間は、《解答について予断を下すことのない、問題の正当な定立》が要求する空間である。『認識問題』のこの空間が閉じた空間すなわち悪循環(イデオロギー的再認の鏡的関係の悪循環そのもの)であること、まさにこの事実を西欧哲学における『認識理論』の歴史は、有名な『デカルト的円環』からヘーゲル的あるいはフッサール的理性の目的論の円環に至るまで、はっきりと《見させて》くれる。この円環の必然的存在を理論的に引き受ける、すなわちそれを自分のイデオロギー的企てにとって本質的であると考えようと決意する哲学(フッサール)が最高度の自覚と誠実さに達したとしても、この《円環》から《抜け出す》ことはできなかったし、イデオロギー的な囚われから《抜け出す》ことはできなかったーーー同様に、この『閉鎖性』の絶対的可能性の条件を、『開放性』(外見的には閉鎖性のイデオロギー的非=閉鎖性でしかない)のなかで考えようとした人、つまりハイデガーもまたこの円環から抜け出すことができなかった。外部であれ深さであれ、単なる《外》に身を置くことでは閉じた空間から出ることはできない。この外またはこの深さが《その》外または《その》深さにとどまるかぎりは、それらはまだ《この》円環、《この》閉じた空間に属しているーーーちょうど円環がそれとは別の《それの》他者のなかで『反復する』ように。この円環から首尾よく免れるのは、この空間の反復によるのではなくて、それの非=反復によってであるーーー理論的に根拠のある《逃走》だけがそれを可能にする。この逃走は、正しくは、逃げだす相手につねに縛られている《逃走》ではなくて、新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設であり、それのおかげではじめて、イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.98~101」ちくま学芸文庫 一九九六年)
見ているのに見えていないものを見えるものへ変換すること。エルスチールなら絵画が、ヴァントゥイユなら音楽がその方法だ。
一方、今の日本の国会というのはもはや余りにもレベルが低すぎる。政治思想・政治信条の領域に達してすらいない。<幼稚園児たち>の核戦争のように危険すぎる。馬鹿馬鹿しいことに時間と公費とをばんばん注ぎ込む浪費にはとっとと決着を付けさせて<詰め腹を切らせて>、次の課題へ話を進めて欲しい。