白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて334

2023年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。よく晴れました。

 

四年くらい前のことです。どこから飛んできたのかわからないのですが、春頃、軒先に1センチほどの小さな花が咲いているのを妻が見つけました。妻は病気療養を兼ねてその花を苔と一緒にプランターへ移植し、毎日水をやることにしました。春に咲いていたということだけしかわからないのですが、また咲くかもしれないとおもい、水をやりつづけていました。すると今朝、花を付けていました。花の名前もわかりました。

 

「名称:“ビオラ”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

日の入です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.28)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.28)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.28)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

二〇二三年三月二十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて333

2023年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は晴れ、湿度は92パーセントのようです。湖東方向も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前五時三十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.28)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.28)

 

二〇二三年三月二十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。


Blog21・<未来都市>への<近代都市>ヴェネツィアの置き換え可能性/解放=自由への生成(リベレーション)とさらなる<共>(コモン)の創出へ

2023年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

ヴェネツィアとは何かについて。

 

(1)アルベルチーヌと知り合う以前のヴェネツィアは<私>にとってどのような都市だったか。

 

「あれこれ想像していたヴェネツィアと対面すること、こまかく分岐した海がどのように曲がりくねった流れで、オケアノスの海流の屈曲のように、洗練された都市文明をとり囲んでいるかをうち眺めることである。その文明は、曲がりくねった紺碧の帯にとり巻かれて孤立していながら、独自に発展をとげ、絵画や建築の固有の流派を生みだしたのだーーー色彩ゆたかな石づくりのさまざまな果物や小鳥のすがたの見えるお伽の園が、海の真ん中に花と咲き、その海がその園をうるおし、並び立つ円柱を満ち潮で洗い、柱頭の力強い浮き彫りのうえには、闇のなかで見張るくすんだ紺碧のまなざしのように点々と光を投げかけ、その光を休みなくゆり動かしているのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.509~510」岩波文庫 二〇一七年)

 

(2)アルベルチーヌを愛さなくなって以後、ヴェネツィアは<私>にとってどのような都市になったか。

 

「もはや昔のさまざまな印象の想い出ではなく、ごく最近フォルトゥーニの青と金の部屋着によってもう一度よみがえった昔の欲望の想い出が、私の眼前にべつの春をくり広げた。それはもはや葉の生い茂った春ではなく、それどころか私が今しがた心中で口にした『ヴェネツィア』という名ゆえにいきなり木々や花々を奪われた春、上澄みのエッセンスだけに還元された春、もはや不純な土ではなく、汚れなき青い水、春めいても花はつけず、五月という季節にも照りかえしで応えるだけで、五月によって磨かれ、飾りけのないくすんだサファイア色に変わらず光ることで五月にぴったり適合しようとする水、そんな水をしだいに発酵させて日々を段階的に長くし、暖め、晴れやかにすることであらわされる春である。季節の移り変わりが、花を咲かせることのない入り海になんの変化ももたらさないように、近現代の歳月もこのゴシック様式の都市になんの変化ももたらさない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.508~509」岩波文庫 二〇一七年)

 

(1)には動きがある。(2)には動きらしきものがほとんどない。

 

だからといって両者を比較して<私>の二つの精神状態に対応すると結論づけてしまうのはまったく誤っている。プルーストが述べているのは心理学ではまるでない。(1)と(2)とはいつでも置き換え可能であるという記号論的作業についてだ。

 

(1)の場合、かつて<私>は熱病にうなされて寝込んでしまった過去を持つ。そのイメージは<私>が「ヴェネツィアという名前のなかに封じ込めておいた」もので、次のように「おき替え」可能だったものだ。

 

「私は身のまわりの部屋の空気をまるで無意味な甲羅のように脱ぎ捨てると、それを同じ分量のヴェネツィアの空気、つまり、わが想像力がヴェネツィアという名前のなかに封じ込めておいた言いあらわしえない独特の海の大気でおき替えたのだ。すると私のなかに奇跡のような離脱現象が生じた。それにつづいて、喉がひどく痛いときに感じるのと同じ軽い吐き気がした。やむなく私はベッドに寝かされ、熱はいつまでも下がらなかった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・三・P.447~448」岩波文庫 二〇一一年)

 

この置き換えを可能にした経緯は次の通り。「ヴェネツィア《と》フィレンツェ」との異種交換性にかかわる。一方の地点にいながらもう一方の地点を旅することができる。同じ時間に一つの地点を旅することはいつも複数の地点を旅することをも意味する。

 

「これらの都市が私にとってますます実在感を増したのは、父親が『要するに四月の二十日から二十九日まではヴェネツィアに滞在し、そのあと復活祭の朝にフィレンツェに着いてもいいんだ』と言って、ふたつの都市を抽象的な『空間』から引き離したうえ、想像上の『時間』からも引き離してくれたときである。想像上の『時間』では、一度のひとつの旅行しかできないというわけではなく同時に複数の旅行も可能になるとはいえ、それらはどれも可能というだけで、さほどの感動はもたらさないーーーおまけに想像上の『時間』はつねに再生可能で、ある町である時間をすごしたあとでも、同じ時間をべつの町ですごすことさえできる」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・三・P.445~446」岩波文庫 二〇一一年)

 

そしてそれが可能なのはエルスチールがカルパッチョの絵画について述べているように「ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現」するからであり、「船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさま」だからである。

 

「『なにしろその画家たちが制作をした町が町だけに、描かれた祝宴も一部は海上でくり広げられましたからね。ただし当時の帆船の美しさは、多くの場合、その重々しく複雑な造りにありました。こちらで見られるような水上槍競技もありましたが、ふつうはカルパッチョが<聖女ウルスラ伝>で描いたようになんらかの使節団の歓迎行事として開催されたものでした。どの船もどっしりと巨大な御殿を想わせる建造物で、深紅のサテンとペルシャの絨毯とにおおわれた仮説橋で岸につながれていて、船のうえでは婦人たちがサクランボ色のブロケード織りや緑色のダマスク織りの衣装を身にまとい、すぐそばの極彩色の大理石を嵌めこんだバルコニーから身を乗り出して眺めているべつの婦人たちが真珠やギピュールレースを縫いつけ白のスリットを入れた黒い袖のドレスを着ているときには、船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさまです』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.544~545」岩波文庫 二〇一二年)

 

近代都市とはそういうものだ。十六世紀の海洋国家において始めて出現した近代の産物である。「ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現」し、「どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかない」。そうであって始めて近代都市は出現したというだけでなく、今日から見た<未来都市>を予言してもいる。位置決定不可能性といってもいいし未決定性といってもいい。

 

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)

 

ドゥルーズ=ガタリのいう「一種の平滑空間」。この傾向はずいぶん加速してきたし今後はもっと加速していく。平滑化と条理化とは限りなく同じ動作へ近づいていく。

 

そこで人々は見ることになるだろう。世界中どこをどう見渡してみても、絶対的中心というものが消え失せた世界、もはや<多極化>の諸運動しか見あたらない世界を。ネグリ=ハートはいう。

 

「相互接続された三つの戦線によって、このような闘争の舞台はまず示される。透明性、アクセス、意思決定だ。透明性をめぐる闘争は、支配権力の武装解除をその目的の一部としている。秘密主義は権力者がいつでも手に取れる武器であり、新自由主義的行政管理は解決できない矛盾を隠そうとして、戦略的な不透明性を採用している。行政や企業の活動に光を当てることは、不正行為だけでなく、生産的な知識と情報を社会全体が使用可能にするのにも役立つ。アクセスをめぐる闘争は、これらと同じ路線に沿って継続的に行われており、<共>(コモン)と、社会的生産手段を自由に用いることのできる万人の能力とにますます焦点を当てている。意思決定をめぐる争いは、透明性とアクセスをめぐる闘争を統合し、私たちを政治の領域にしっかりと位置づける。しかし、すでに述べたように、これは政治的なものの自律性を経済合理性から助け出すことなどではまったくない。透明性、アクセス、意思決定をめぐる戦いは、すべて政治的なものと経済的なものにまたがっており、新自由主義による服従化に抗する、諸々の主体性の潜勢的な生産へと私たちを向かわせるのである。

 

デジタル・テクノロジーの世界は、これらすべての戦いの主要な前線だ。デジタル監視は、新自由主義的な行政管理装置においてますます核心的な武器となっており、複雑なアルゴリズムを駆使してコミュニケーションや活動をモニタリングし、潜在的な脅威を検出している。さらに、先述したように、オンライン活動を追跡するデジタル・アルゴリズムは、ユーザーによるさまざまな形態の社会的生産から価値を採取するために、検索プラットフォームやソーシャルメディアが用いる中心的な手段だ。デジタル・デバイスは、ユーザーがアクセスしたウェブサイト、オンラインでのつながり、街中での動きをトラッキングし、買い物の内容や娯楽の選択を細かく分類し、友人関係のネットワークや政治的見解などを追跡する。また、新自由主義的なセキュリティ装置とソーシャルメディア企業による<共>(コモン)の採取とのあいだには強い連続性もある。しかし、その同じデジタル・テクノロジーが実際には二重の役割を果たしていることを心得ておきたい。こうしたテクノロジーによって、社会的生産の捕獲と新自由主義的行政管理の条件が創り出される一方で、マルチチュードが知識、コミュニケーション、そして自主管理の能力にアクセスできるようになる。第七章で呼びかけた固定資本の再領有は、解放=自由への生成(リベレーション)のプロジェクトのためにこれらの力を活用する一つの手段なのである」(ネグリ=ハート「アセンブリ・第十二章・P.291~293」岩波書店 二〇二二年)

 

それにしても、時間とはなんだろう。人間-機械は様々だが、なかでも社会的上位に位置すればするほど、いつも一元的組織化を目指して逆に複数性を出現させてしまうという、どこかおかしなところがある。ところがそこに同時に可能性が現われ、可能性の現われとともに、さらなる<共>(コモン)への諸運動が創出されてもいく。