部屋。だが、部屋とは。「あるときは咲きみだれるバラの花を背景に愛の神(アモル)たちが飛びかう十八世紀のタピストリー」にもなり「あるときは無限の遠方とフェルト状の雪原に昔の響きも消えてしまう東方の大草原(ステップ)」にもなる。部屋を変身させるのはアルベルチーヌの弾くピアノだ。
「私たちにとってピアノラはときに科学的な(歴史的で地理的な)幻灯となり、コンブレーの部屋よりもはるかに現代的な発明品を備えたこのパリの部屋の壁面には、アルベルチーヌがラモーの曲を弾いてくれるかボロディンの曲を弾いてくれるかによって、あるときは咲きみだれるバラの花を背景に愛の神(アモル)たちが飛びかう十八世紀のタピストリーがくり広げられ、あるときは無限の遠方とフェルト状の雪原に昔の響きも消えてしまう東方の大草原(ステップ)がくり広げられるのが見えた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.443~444」岩波文庫 二〇一七年)
ピアノを弾くアルベルチーヌは自ら変身しもする。その両目は「オパールが埋もれたままの鉱石」になる。さらにそれは「ガラス張りの標本にしたチョウの薄紫(モーヴ)色の絹のような両の羽」でさえある。
「両の目は、いまだにオパールが埋もれたままの鉱石のなかにもさすがに滑らかな小片がふたつだけ存在するかのように、光よりも持久力を備え金属よりも輝きを増し、覆いかぶさる開口部なき物質の真ん中に、ガラス張りの標本にしたチョウの薄紫(モーヴ)色の絹のような両の羽があらわれたように見える」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.448」岩波文庫 二〇一七年)
アルベルチーヌの「髪」はどうだろう。「翼」になり「山並み」にもなる。「あるときは底辺が広く頂点のとがった三角形に黒い羽を植えつけたみごとな翼となり」、「あるときは起伏ある巻き毛が山頂あり分水嶺あり断崖ありの力強く変化に富んだ山並み」になると。
「そして髪は、黒い縮れ毛で、娘がなにを弾いたらいいのか訊こうとして私のほうをふり向く具合によってさまざまにべつのまとまりを見せ、あるときは底辺が広く頂点のとがった三角形に黒い羽を植えつけたみごとな翼となり、あるときは起伏ある巻き毛が山頂あり分水嶺あり断崖ありの力強く変化に富んだ山並みにまとまり、その巻き毛に見られる多種多彩な筋は、自然がふだん実現する多様性を超えて、まるで彫刻家が自作の出来ばえの柔軟さ、烈しさ、ぼかしの効果、正気などを際立たせようと難業を重ねたくなる願望に応えているように感じられる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.448~449」岩波文庫 二〇一七年)
<私>はアルベルチーヌの変身ぶりを見ながら「彫刻家が自作の出来ばえの柔軟さ、烈しさ、ぼかしの効果、正気などを際立たせようと難業を重ねたくなる願望に応えているよう」だと思う。ところが「彫刻家」あるいは「芸術家」は、ともすれば何をするのか、してしまうのか。
「私たちが事物のうちへと《変貌》や《充実》を置き入れ、その事物を手がかりに創作し、ついにはその事物が私たち自身の充実や生命欲を反映しかえすにいたる状態とは、性欲、陶酔、饗宴、陽春、敵を圧倒した勝利、嘲笑、敢為(かんい)、残酷、宗教的感情の法悦にほかならない、とりわけ、《性欲》、《陶酔》、《残酷》という《三つの》要素である、ーーーすべてこれらは人間の最古の《祝祭の歓喜》に属しており、すべてこれらは同じく最初の『芸術家』においても優勢である」(ニーチェ「権力への意志・下・八〇一・P.314」ちくま学芸文庫 一九九三年)
といってもアルベルチーヌは美術品ではない、と<私>は気づく。というより、思い知らされる。スワンがオデットを美術品へ固定してしまったような、そのような美術品ではないのだと。ではなんなのか。
さて。朝刊を開くと「総務省問題」。放送法問題でもあるが、しかし名指し批判されていないテレビ番組はどうなのだろう。番組の側から率先して忖度していたのだろうか。
「次のことに気を付けよ。彼が語るのは、ただ、後で聞くことを許されんがためにすぎないのだ、ーーーそして君が聞くのは、もともとただ、絶えまなく語るわけにはいかないがゆえにすぎないのだ、言いかえれば、気も聞き方は下手(へた)であり、そして彼の聞き方は上手(じょうず)すぎるくらいだ」(ニーチェ「生成の無垢・上・七九一・P.462」ちくま学芸文庫 一九九四年)
テレビはいつも「聞き上手」だ。そのため先に語って見せるという<猿芝居>に長けている。すると視聴者の側から様々な意見が寄せられる。それらはすみやかに管理社会更新、再更新への新情報として集積されていく。情報戦争の勝利者が世界の勝利者となるような現代社会。なおかつこの戦争には終わりがない。にもかかわらず、そのための<猿芝居>にわざわざ加担し自分で自分自身の首を締め付け続ける視聴者たち。その種の犯罪的行為に視聴者を巻き込んでいるのがテレビのコメンテーター、とりわけ一部の女性コメンテーターである。ジジェクのいうようなタイプがそうだ。
「今日の寛大な快楽主義の基本原則を思いだそう。わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる。しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである。どういうことか。男を非暴力的で善良にというジレットの有名な広告への共感を表明する声のなかに、あの広告は男性を批判するものではなく、男性性の有害な過剰さのみを批判するものなのだという意見をよく耳にしたーーー要するにあの広告はただ、粗暴な男性性という汚水を捨てさえすればいいと言っているだけだというわけだ。しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ。わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている。誰もが知っている例を出そう。アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか。アンティゴネーはまちがいなく感情を押し殺し苦痛を覆い隠し、助けを求めようとはせず、自分を傷つける恐れの大きいリスクをとった。アンティゴネーの行動もある意味では『女性的』だと規定できる以上、それは単一の特徴や態度というよりもむしろ(歴史的に条件づけられる)『女性性』を規定する対立的な二要素のうちの一方ととらえるべきだ。アンティゴネーの場合、その対を規定するのは簡単である。それはアンティゴネーと、一般的とされる人物像(気遣いができ、物分かりがよく、衝突を好まないーーー)にはるかに近い妹イスメーネーとの対比である。どう考えても、政治的正しさに画一的に順応するわれわれの時代はイスメーネーの時代であり、そこではアンティゴネーの態度は脅威となるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.274~275」青土社 二〇二二年)
やんわりした風貌と外国留学経験と高学歴とが売りの、一部の女性コメンテーター。ジジェクが批判するイスメネ。その日本版が大変長いあいだ大手を振って世論操作に手を貸してきた。世間の側もはたと気づいた、あるいは、ようやくではあってもわかってきたというのに。それでもまだテレビカメラの前で笑顔を振りまきつつ、結局のところ監視管理社会育成と電力高騰とを盛大に支援している。そんな女性コメンテーターが日本にも、まだ、いる。
だからといって男性ならいいのか。そんな話でもまたない。