白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて296

2023年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。薄曇りから曇り空へ変わりました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

日の入前。雲がかぶってきそうです。

 

「名称:“日の入”」(2023.3.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.9)

 

「名称:“日の入”」(2023.3.9)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

二〇二三年三月九日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが22アルベルチーヌを追いつつ待ちつつアリアドネと出会う<私>/アルベルチーヌという横断性と作品

2023年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>にとってアルベルチーヌは<未知の女>だ。永遠にそうだ。<私>が知ろうとしても決して知りえない<未知>の地帯をこれからもずっと生き続ける。だとしてもここでプルーストは、「<私>は」であるべき部分を「人が」と一般化して言う。「人が愛するのは、そのなかに近づきえないものを追い求める対象だけであり、いまだに所有していない対象だけであ」ると。

 

「人が愛するのは、そのなかに近づきえないものを追い求める対象だけであり、いまだに所有していない対象だけであり、私はすぐに自分がアルベルチーヌを所有していないことにふたたび気がついたからである。私はアルベルチーヌの目のなかに、私には知りえない歓びにかんする、あるときは期待が、あるときは想い出が、いや、もしかすると哀惜の念がよぎるのを認めたが、そんなときアルベルチーヌはその歓びを私に打ち明けるぐらいならあきらめるほうがいいと考えたし、私のほうはアルベルチーヌの瞳のなかにそれらしきかすかな輝きをとらえるだけで、その歓びの正体を見極めることはできなかった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.450~451」岩波文庫 二〇一七年)

 

<私>にとってアルベルチーヌの「近づきえないもの」とは何か。何度も繰り返されているようにトランス(横断的)性愛という欲望のあり方である。プルーストが出入りしていた上流社交界では公然の秘密の一つとしてありふれた欲望の形だったのだが、報告者<私>はなにか絶望的事態であるかのように大袈裟に振る舞ってみせる。プルーストは「人一般」にとって「近づきえないもの」とは何かを問うていることになる。

 

上流社交界では、アルベルチーヌのみならず、そもそもゲルマント大公自身がそうであったように、トランス(横断的)性愛者は少なくない。とすればここでプルーストは、すべての人間にとって「近づきえないもの」があり、すべての人間が「追い求める対象」は「そのなかに近づきえないもの」を持っており、なおかつそれを見せつける対象ばかりだといっていることになる。プルーストはニーチェへ急接近する。

 

「迷宮のような人間というものは、けっして真理をではなくて、つねにおのれのアリアドネだけを探し求める」(ニーチェ「生成の無垢・下・一七〇・P.101」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

いつも<ずれ>るし、<ずれ>ていくしかない。どこまで追ってみても待ってみても決して到達しえないもの。また、音楽にせよ絵画にせよ、プルーストのいう愛する対象は、いつもどのような仕方で知ることができるか、あるいは<できないか>という問いにかかわる。次の認識は動かない。

 

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

 

とすれば人間が<覗き見>しよう、したいという欲望は、再び自分自身の内面へ投げ返されるほかない。しかしそれはニーチェもプルーストもともに共有している概念である。「自己の内奥に銀河を抱いている者、こういう者はまた一切の銀河がどんなに不規則なものであるかを知っている」。

 

「自己の内奥を覗き見ることあたかも巨大な宇宙を覗きこむごとくである者、そして自己の内奥に銀河を抱いている者、こういう者はまた一切の銀河がどんなに不規則なものであるかを知っている。こういう者たちは、現存在の混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」(ニーチェ「悦ばしき知識・三二二・P.336」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

この不規則性について大変速い時期、近代日本文学の黎明期、すでに小説化して見せた夏目漱石。だがここでは長くなるのでまたいずれ。

 

ともかく、規則とは、ある一定期間に限り通用する単なる<制度>でしかない。<制度>はまた、いっときの流行でしかない。習慣は一定の役割を終えるや否やがらりと変化するし変化しないわけにもいかない。そうでなければ資本主義は地球のどこにもまだないということになってしまう。

 

語られる言葉(シニフィアン)は同じでもその内容(シニフィエ)は絶え間ない変化を欲望している。両者の違いに気づくことが大切だとニーチェはいう。

 

「世の中には極度の疲労が創り出した表と、くさりきった怠惰が創り出した表とがある。この二つは、語ることは同じでも、別のものとして考えなければならない」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・新旧の表・P.333」中公文庫 一九七三年)

 

プルーストはもっと後で「創造行為」について述べている。アルベルチーヌの自殺についてすでに知っている世界中の多くの読者は、ある種の疑いを持つことができる。アルベルチーヌはもしかすると報告者<私>によって緻密詳細に語られてきた<夢まぼろし>ではなかったかと。プルーストによる創造の産物に過ぎなかったのではないかと。アルベルチーヌは一つの横断性だという意味ではなるほどそうかもしれない。

 

急ぐ必要はない。だがプルーストはアルベルチーヌを創造し、読者に向けて読解するよう、思考するよう、差し向けたとはいえる。一つの横断性として作品の中の一部に過ぎないとしても、その横断性は作品全体を端から端まで貫き通している。

 


Blog21・別れ話のはずが、そのはずが21部屋を変身させるアルベルチーヌとアルベルチーヌの変身/総務省問題と<猿芝居>としてのテレビ

2023年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

部屋。だが、部屋とは。「あるときは咲きみだれるバラの花を背景に愛の神(アモル)たちが飛びかう十八世紀のタピストリー」にもなり「あるときは無限の遠方とフェルト状の雪原に昔の響きも消えてしまう東方の大草原(ステップ)」にもなる。部屋を変身させるのはアルベルチーヌの弾くピアノだ。

 

「私たちにとってピアノラはときに科学的な(歴史的で地理的な)幻灯となり、コンブレーの部屋よりもはるかに現代的な発明品を備えたこのパリの部屋の壁面には、アルベルチーヌがラモーの曲を弾いてくれるかボロディンの曲を弾いてくれるかによって、あるときは咲きみだれるバラの花を背景に愛の神(アモル)たちが飛びかう十八世紀のタピストリーがくり広げられ、あるときは無限の遠方とフェルト状の雪原に昔の響きも消えてしまう東方の大草原(ステップ)がくり広げられるのが見えた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.443~444」岩波文庫 二〇一七年)

 

ピアノを弾くアルベルチーヌは自ら変身しもする。その両目は「オパールが埋もれたままの鉱石」になる。さらにそれは「ガラス張りの標本にしたチョウの薄紫(モーヴ)色の絹のような両の羽」でさえある。

 

「両の目は、いまだにオパールが埋もれたままの鉱石のなかにもさすがに滑らかな小片がふたつだけ存在するかのように、光よりも持久力を備え金属よりも輝きを増し、覆いかぶさる開口部なき物質の真ん中に、ガラス張りの標本にしたチョウの薄紫(モーヴ)色の絹のような両の羽があらわれたように見える」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.448」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌの「髪」はどうだろう。「翼」になり「山並み」にもなる。「あるときは底辺が広く頂点のとがった三角形に黒い羽を植えつけたみごとな翼となり」、「あるときは起伏ある巻き毛が山頂あり分水嶺あり断崖ありの力強く変化に富んだ山並み」になると。

 

「そして髪は、黒い縮れ毛で、娘がなにを弾いたらいいのか訊こうとして私のほうをふり向く具合によってさまざまにべつのまとまりを見せ、あるときは底辺が広く頂点のとがった三角形に黒い羽を植えつけたみごとな翼となり、あるときは起伏ある巻き毛が山頂あり分水嶺あり断崖ありの力強く変化に富んだ山並みにまとまり、その巻き毛に見られる多種多彩な筋は、自然がふだん実現する多様性を超えて、まるで彫刻家が自作の出来ばえの柔軟さ、烈しさ、ぼかしの効果、正気などを際立たせようと難業を重ねたくなる願望に応えているように感じられる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.448~449」岩波文庫 二〇一七年)

 

<私>はアルベルチーヌの変身ぶりを見ながら「彫刻家が自作の出来ばえの柔軟さ、烈しさ、ぼかしの効果、正気などを際立たせようと難業を重ねたくなる願望に応えているよう」だと思う。ところが「彫刻家」あるいは「芸術家」は、ともすれば何をするのか、してしまうのか。

 

「私たちが事物のうちへと《変貌》や《充実》を置き入れ、その事物を手がかりに創作し、ついにはその事物が私たち自身の充実や生命欲を反映しかえすにいたる状態とは、性欲、陶酔、饗宴、陽春、敵を圧倒した勝利、嘲笑、敢為(かんい)、残酷、宗教的感情の法悦にほかならない、とりわけ、《性欲》、《陶酔》、《残酷》という《三つの》要素である、ーーーすべてこれらは人間の最古の《祝祭の歓喜》に属しており、すべてこれらは同じく最初の『芸術家』においても優勢である」(ニーチェ「権力への意志・下・八〇一・P.314」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

といってもアルベルチーヌは美術品ではない、と<私>は気づく。というより、思い知らされる。スワンがオデットを美術品へ固定してしまったような、そのような美術品ではないのだと。ではなんなのか。

 

さて。朝刊を開くと「総務省問題」。放送法問題でもあるが、しかし名指し批判されていないテレビ番組はどうなのだろう。番組の側から率先して忖度していたのだろうか。

 

「次のことに気を付けよ。彼が語るのは、ただ、後で聞くことを許されんがためにすぎないのだ、ーーーそして君が聞くのは、もともとただ、絶えまなく語るわけにはいかないがゆえにすぎないのだ、言いかえれば、気も聞き方は下手(へた)であり、そして彼の聞き方は上手(じょうず)すぎるくらいだ」(ニーチェ「生成の無垢・上・七九一・P.462」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

テレビはいつも「聞き上手」だ。そのため先に語って見せるという<猿芝居>に長けている。すると視聴者の側から様々な意見が寄せられる。それらはすみやかに管理社会更新、再更新への新情報として集積されていく。情報戦争の勝利者が世界の勝利者となるような現代社会。なおかつこの戦争には終わりがない。にもかかわらず、そのための<猿芝居>にわざわざ加担し自分で自分自身の首を締め付け続ける視聴者たち。その種の犯罪的行為に視聴者を巻き込んでいるのがテレビのコメンテーター、とりわけ一部の女性コメンテーターである。ジジェクのいうようなタイプがそうだ。

 

「今日の寛大な快楽主義の基本原則を思いだそう。わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる。しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである。どういうことか。男を非暴力的で善良にというジレットの有名な広告への共感を表明する声のなかに、あの広告は男性を批判するものではなく、男性性の有害な過剰さのみを批判するものなのだという意見をよく耳にしたーーー要するにあの広告はただ、粗暴な男性性という汚水を捨てさえすればいいと言っているだけだというわけだ。しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ。わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている。誰もが知っている例を出そう。アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか。アンティゴネーはまちがいなく感情を押し殺し苦痛を覆い隠し、助けを求めようとはせず、自分を傷つける恐れの大きいリスクをとった。アンティゴネーの行動もある意味では『女性的』だと規定できる以上、それは単一の特徴や態度というよりもむしろ(歴史的に条件づけられる)『女性性』を規定する対立的な二要素のうちの一方ととらえるべきだ。アンティゴネーの場合、その対を規定するのは簡単である。それはアンティゴネーと、一般的とされる人物像(気遣いができ、物分かりがよく、衝突を好まないーーー)にはるかに近い妹イスメーネーとの対比である。どう考えても、政治的正しさに画一的に順応するわれわれの時代はイスメーネーの時代であり、そこではアンティゴネーの態度は脅威となるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.274~275」青土社 二〇二二年)

 

やんわりした風貌と外国留学経験と高学歴とが売りの、一部の女性コメンテーター。ジジェクが批判するイスメネ。その日本版が大変長いあいだ大手を振って世論操作に手を貸してきた。世間の側もはたと気づいた、あるいは、ようやくではあってもわかってきたというのに。それでもまだテレビカメラの前で笑顔を振りまきつつ、結局のところ監視管理社会育成と電力高騰とを盛大に支援している。そんな女性コメンテーターが日本にも、まだ、いる。

 

だからといって男性ならいいのか。そんな話でもまたない。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて295

2023年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で96パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

午前五時五十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.9)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.9)

 

「名称:“通勤通学路”」(2023.3.9)

 

二〇二三年三月八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。