白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて314

2023年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。だんだん晴れてはきましたが。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

日の入頃です。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

二〇二三年三月十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて313

2023年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。日の出時刻頃の大津市の気象予報は雨、湿度は87パーセントのようです。湖東方向も雨。鈴鹿峠も雨のようです。

 

午前五時四十分頃浜辺へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.3.18)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

日の出時刻を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.3.18)

 

二〇二三年三月十八日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・<自由への死>としてのアルベルチーヌ/統一地方選と「心のうぶ毛」の問題

2023年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

自由になりたければ死ぬしかないとアルベルチーヌは告げる。もっとも、アルベルチーヌはそれを<私>に向けて言葉化するわけではない。「仕草」だけで十分だ。しかしなぜ伝わったとわかるのか。<私>が「激しい不安に満たされ」ることによってである。

 

「それで私はいま一度アルベルチーヌに接吻して、大運河のようにきらきらと金色(こんじき)に光る紺碧と、死と復活の象徴であるつがいの鳥とをわが胸に抱きしめた。ところがまたしてもアルベルチーヌは、私に接吻を返そうとはせず顔をそらしたが、その不吉で本能的な頑なさは、死を予感する獣(けもの)を想わせた。アルベルチーヌが仕草であらわしたとおぼしきこの予感は私自身にも伝わり、激しい不安に満たされた私は、アルベルチーヌが戸口まで行ったとき、そのまま立ち去らせる勇気が出ず、呼びとめた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.482」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌに対する所有欲も支配欲も満たされているに違いない<私>。ところがこの動揺はどこから来るのか。<私>は注意深く言葉を選ぼうとするが、その言葉を口にするや今度は<私>の側がアルベルチーヌにも増して嘘の度合いを高めてしまう。しかし形式的でしかないにせよ、なお「武装した恐ろしい講和」成立の余地はまだ残されていることになってはいる。<私>はいう。

 

「『ぼくはちっとも眠くならないんだ。きみも寝たくなければ、もうすこしここにいてもいいんだよ、もしよかったら、無理にとは言わない、なによりもきみを疲れさせたくないんだからね』。もしアルベルチーヌの服を脱がせ、白いネグリジェすがたにすることができれば、その身体はいっそうバラ色で一段と熱いものに感じられて私の官能をかき立て、和解はいっそう完全なものになると思われた。しかし私は一瞬ためらった。というのも部屋着の青い縁が、アルベルチーヌの顔に、ある種の美しさ、ある輝き、いわば青空の風情を添えていて、それらがなければアルベルチーヌはもっと冷酷な女に見えると思われたからである。アルベルチーヌはゆっくり戻ってくると、ずいぶん優しく、しかし相変わらず打ちひしがれた悲しげな顔をして、私に言った。『あなたが好きなだけここにいてもいいわよ、眠くないから』。その返事に私の心は鎮まった。アルベルチーヌが目の前にいるかぎり、私は未来に備えることができるし、その返事には友情も従順さも含まれていたからであるが、その友情や従順さは限られた性格のもので、その性格に限界を与えているのは、アルベルチーヌが思わずそうしたとも、おそらく私のあずかり知らぬなにかとあらかじめ調和させようとしたとも考えられる、悲しげなまなざしや変わりはてた態度の背後に感じられる秘密であった」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.482~483」岩波文庫 二〇一七年)

 

アルベルチーヌが<私>に与えた「返事」。「その返事には友情も従順さも含まれていた」。ところが「その返事」に含まれていた「友情も従順さも」、どちらも競い合いながら、さらに別の意味を出現させる。

 

細かく区別していけばいくほどアルベルチーヌの「友情や従順さ」は実をいうと「限られた性格のもの」だ。アルベルチーヌがもはや<死への意志>と化しているのは誰の目にも明らかである。かといってプルーストは、アルベルチーヌの死について婉曲に描こうとしているわけではない。むしろ逆にアルベルチーヌの<身振りという言語>を通して、もっと強烈に、そう語る。身体はたいへん有意義だ。そして常に多義的、少なくとも両義的だ。

 

「その性格に限界を与えているのは、アルベルチーヌが思わずそうしたとも、おそらく私のあずかり知らぬなにかとあらかじめ調和させようとしたとも考えられる、悲しげなまなざしや変わりはてた態度の背後に感じられる秘密であった」。

 

ニーチェはいう。

 

「身体を手引きにして私たちは人間をもともとの生命体の一個の数多性として認識するのだが、それらの生命体は、一部はたがいに闘争し合いながら、一部はたがいに順応したり従属したりしながら、それら個々の生命体を肯定することにおいて思わず知らず全体をも肯定する」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三三・P.360~361」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

アルベルチーヌはその身振り(言語・振る舞い)を通して<私>の不吉な予感を肯定する。

 

たとえこの時アルベルチーヌをどれほど追求してみたとしても隠されている余白が横顔を覗かせるわけではなく、追求すればするほど逆に産出されてくる余白がある。アルベルチーヌは女性の代表者として登場してきたわけではなく、始めから<他者>として登場してきたばかりか遂に<他者>として失われていこうとしている点に注目しよう。余白というのはあらかじめ設定されて待ち構えているものでは全然ない。思いも寄らないところからいきなり出現する。

 

わからないものはいつまで経ってもわからない、というより、わかったと思ったその瞬間、目の前にあるのはもう一つ別の表層でしかない。だから無数の仮面劇ばかり繰り広げられていくほかない。そしてこの仮面劇は終わりということをまったく知らない。

 

古典的解釈に執着する物語(ストーリー)ではなく、作品として、テクストとして読むこと。その多産性を肯定すること。<貨幣=言語>をもっと流通させたい、もっといい循環を手に入れたい、というのであれば、<貨幣=言語>の全体主義的同一化の到来を押し進めるのではなく、逆に<貨幣=言語>の<差異化の運動>をもっと加速的に押し進める方向へ支援すべきだろう。古典的ストーリーに従えば<私>の失敗ということで終わってしまう。そうではなく、<私>は差異化の運動として機能していくということでなければ無意味に等しい。

 

古典的解釈では立ち行かない。今のグローバル経済もそうだ。ここ数日あちこちで報道されている世界同時破産への危惧。近づいては遠のくように見えているけれども、実際のところ、とりわけ日本の場合、日本の側からどんどん近づいていくし世界の側から近づいてもくる大借金。問題だらけのG7。さらに課題というものはいつも、引き延ばせば引き延ばすほど増殖していく。にもかかわらず、驚いたことに、足元のそういう事情を<見ない>日本政府のナイーヴ過ぎる傲慢。

 

なんとも馬鹿馬鹿しい事態に陥ったと諦めるしかないのだろうか。<万年資金難階級あるいは生活困窮者階級>から見れば余りにもあぶなすぎると何度も繰り返し言ってはきたが。

 

昨年死去した中井久夫は次の言葉を残している。

 

「たまさかの治療場面で、治療者が感じる、慎みを交えたやさしさへの敏感さにあらわれているようなーーー極めて表現しにくいものであるけれどもあえて言えばーーー一種の『心のうぶ毛』あるいはデリカシーというべきものは、いったん失ったら取り戻すことがむつかしい。このことをわざわざ述べる必要があるのは、慢性分裂病状態からの離脱の途がどうも一つではないらしいからである。自然治癒力それ自体が、新しい、多少とも病的な展開を生む原動力となりうることは、自己免疫病や外傷性ショックをはじめ、身体疾患においては周知のとおりであるが、慢性分裂病状態からの離脱過程においても、一見、性格神経症、あるいは《裏返しの神経症》という意味でのいわゆる精神病質的な状態にはまり込むことが少なくない。これらは、いわば『心のうぶ毛』を喪失した状態である。『心のうぶ毛』を喪失すること自体は何も分裂病と関係があるわけではなく、そういう人は世に立ち交っている人のなかにも決して少なくないけれども、『高い感受性』をかけがえのないとりえとする分裂病圏の人にとって、この喪失の痛手はとくに大きい」(中井久夫「分裂病と人類・P.34」東京大学出版会 一九八二年)

 

中井久夫のいう「心のうぶ毛」。それを急速に摩滅させていくケースは時折見かける。ところが摩滅させてしまってはいけない立場というのが社会には確実に存在する。政治家がそうだ。にもかかわらず、現代の政治家というものは、そのほとんどが、「心のうぶ毛」を摩滅・喪失させてしまった人々で埋め尽くされているかのようだ。どう見ればいいのだろう。

 

だからといって中井久夫が言っているように「心のうぶ毛」を喪失してしまった人間は政治家失格だといっているわけではない。その種の人間のほとんどすべてが「高い感受性」の逆、「低い感受性」で武装してしまいがちだというさらなる危機について語っている。

 

「くり返して申しますが、私たちは『とにかく治す』ことに努めてきました。今ハードルを一段上げて『やわらかに治す』ことを目標とする秋(とき)であろうと私は思います。かつて私は『心の生ぶ毛』ということばを使いましたが、そのようなものを大切にするような治療です。そのようなものを畏れかしこむような治療です」(中井久夫「最終講義・P.83」みすず書房 一九九八年)

 

とすれば、有権者の側が治療者の立場に立って、政治家志望者を治療することから始めないといけないのだろうか。ではそれをどこから始めればいいのか。差し当たり、目前に迫った統一地方選がその場にふさわしいということになってくるのだろうか。いやむしろ、もうなっている、と言われなければならないのだろうか。