白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ジュネにおける「変化《への》意志」、その流動性ならびに多様性

2019年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
暴々しい美しさに満ちたかつての仲間たちのことを回想するジュネ。

「彼らは皆、わたしが彼らの凹凸(おうとつ)の一つ一つで、あたかも電流が分極作用する電池の端子のように、ふたたび充電することを快く許してくれた」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

第一に、互いに属し合い互いに制約し合っていること。第二に、互いに排除し合い互いに対立し合う両極であること。この対立し合いつつ作用し合う関係において始めて出現し流動しさらなる流動を再生産していく「電流」のような関係性。そこに発する雷電をこそ巧みに捉え「充電」しなければならないし、そうでなくてはそもそも力に《なる》ことすらできない。「電流が分極作用する」という記述はたいへん巧みだといえる。すなわち次のような関係性であろう。

「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量の商品A=y量の商品B または x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(亜麻布20エレ=上衣1着 または二〇エレの亜麻布は一着の上衣に値する)。

1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。

ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。

相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.94」国民文庫)

ジュネはいう。「はっきりと意識しないながらも、そうする」、ゆえに、「わたしをいっそう鼓舞し、昂揚(こうよう)させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護する」と。

「わたしは、彼らが皆、はっきりと意識しないながらも、そうすることによって、わたしをいっそう鼓舞し、昂揚(こうよう)させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護するためにわたしが力をーーー彼らから放射されたーーー力を十分に蓄積することを可能にするのだということを知っていたのだと思う」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

マルクス参照。「はっきりと意識しないながらも、そうする」やいなや何が起こるのか。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

両者はともに目に見える何らの暴力も用いてはいない。ただ、「彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」だけのことだ。このことは何も無意識的に知っているということを意味しない。だた「それを行う」ことで等価性は始めて出現する、ということを知っているに過ぎない。しかしいったん実現された両者の等価性は、その後、習慣として反復されるようになり、いずれの共同体内部へも定着していくことになる。それ以前には等価性などどこにもないのだ。

さらにジュネは孤独の裡(うち)に仲間たちのことを思い出す。「彼らの生は外観の点」だけを見ると、「わたしの生と同じほどに脈略がな」い。だからジュネは「現実に」《もまた》「彼らについて何も知ってはいない」と述べる。

「しかし、今、わたしは独りだ。わたしがポケットの中に持っている手帳は、わたしがそのような友達を持ったということの書かれた証拠であるにすぎない。彼らの生は外観の点で、わたしの生と同じほどに脈略がなく、わたしは現実には彼らについて何も知ってはいない」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

ジュネは本音を語っている。彼らの生は「わたしの生と同じほどに脈略がな」い、と。ジュネの探究心はまるでどこかの哲学者のように旺盛だ。しかし「脈略がない」のはただ「外観《だけ》」だろうか。内面には「脈略が《ある》」とでも言いたいのだろうか。

「彼らの大部分は今、監獄に入っているかもしれない。そして、そうでない連中は、どこにいるだろう?彼らが放浪に出ているとすれば、どのような偶然によってわたしは彼らとめぐり会うかわからず、そのときわたしたちのおのおのがどのような姿をしているか、それもわからない」(ジュネ「泥棒日記・P.370~371」新潮文庫)

出会いはいつも突然だ。再会もまたというべきか。しかしさしあたり問題は外観にせよ内面にせよ、「脈略が《ある》」とか「脈略が《ない》」とか言うとき、人々が頭の中で思い描いている「脈略」とはなんなのかということでなくてはならない。にもかかわらず、人間は、本来的に何らの脈略も知らない。ニーチェはとっくの昔にいっている。人間は《多元性》あるいは《多様性》としてしか存在しないと。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)

だからこそジュネは以前触れたように、P.364~365にかけて、「諸要素のジャヴァ《における》出会い」について、「その光輝性」について、「その結晶体」について、語ることができたのである。しかもそれはほんの瞬間のことに過ぎない。その瞬間が過ぎるやいなやすでに崩壊し去っているような「出会い」なのだ。だからこの多様性は常に既に流動する諸力の運動であるとしか言えない。

とはいえ、だからといって、どのような人物であっても、何の脈略もなしに、どんな支離滅裂な言動でも許されるというわけではまったくない。現実はなるほどニーチェのいう通りであるにしても、人間は常に社会的存在である以上、その社会的地位、立場、責任に応じて一定の「文脈」に従って行動することが求められる。その意味でドゥルーズとガタリによる次の指摘は今なお重要だ。

「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)

さて、儀式にしたがってジャンの葬儀の晩餐を行なったジュネ。今やジャンの身体はジュネの身体内で合体しつつ「腐敗の化学作用」を巻き起こしてくれていることをジュネは切に望む。

「こちらは墓石の隙間から彼の様子をうかがいに出かける。そんなふうに彼の腐敗の化学作用が私のなかに堆積する臭気を、私の口や、肛門や、鼻腔から吐き出しながら、私のなかに彼は生きているのだろうか?」(ジュネ「葬儀・P.16」河出文庫)

ジュネは不安を覚えながらもジャンの死がジュネの身体の中で徐々に発酵し膨張することを欲望する。埋葬当日の会堂の光景。ジュネの目にはこう映るほかない。

「彌撒(ミサ)とは要するにしぼみ去った陰茎(いちもつ)への惜別のかたちでそのつど執り行なわれる儀式を荘厳化したものにほかならない」(ジュネ「葬儀・P.20」河出文庫)

次のシーン。ナチス隊員のエリック・ザイラーは部屋のカーテン越しに周囲を警戒して様子を見る。

「余計な用心ぶりを発揮して、彼は赤いビロードの二重カーテンの片方のかげに身をかくしていた。しばらくそのままの姿勢をつづけていたが、やがてカーテンを手放さずに後ろを振り返った。そのためそのひだの中にほとんどすっぽり包まれたかっこうだった、すると私は肩に軍旗を掲げ、風にはためく赤い布につつまれて、ベルリン市中を行進する、ヒットラー・ユーゲントの一人を脳裏に思い描くのだった。一瞬、エリックはそれら若者たちのうちの一人だった」(ジュネ「葬儀・P.21~22」河出文庫)

エリックはジュネの目の中で、エリックがまだ子どもだった頃の姿、子どものナチス軍団ヒットラー・ユーゲントの一員に《なる》。変身する。少なくともジュネの目にはそう見える。なぜだろうか。整わなければ出現しない条件が整ったからだ。エリックは用心し過ぎているためにエリック自身の顔だけがカーテンの「ひだの中にほとんどすっぽり包まれたかっこう」を呈する。ジュネにとって寄せ集められたカーテンのひだの真ん中に顔だけがぽつりと覗いているその姿形はまぎれもなく人間の「肛門」にしか見えなくなる。それは生涯を通してジュネの性愛の的であり象徴でありつづけた人間の「肛門」という魅惑的造形物を思わせないではおかない。その条件下に拘束されるかぎりでエリックは変化《する》。という事情でなくてはならない。

ちなみにそれは、プルースト作品で、まだ少女だった頃のアルベルチーヌが仲間たちと集団で歩いているシーンをおもわせる。そのときアルベルチーヌは集団の中に入り混じって「集団《へと》溶融」しているため、一個の個体としてのアルベルチーヌなどまるで存在していないかのようにしか思われない。そして集団はモル状を呈し、ただ「『独自の一団』」に《なる》。もっとも、集団とはいっても少女たちの散歩として描かれてはいる。なので、一見しただけでは大人たちのファシズムには見えないわけだが。とはいえ、それはすでに流動する「力《への》意志」がほんのいっとき見せる或る種の形態を取っていることにまちがいはない。プルースト自身、その意識がある。彼女たちの「等質な一つの全体」は他の「群衆からはっきりと区別」されていた、と。

「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)

さらにサルトル作品の有名なシーン。ドイツ軍パリ入城の日の光景。ダニエルは見上げる。こみ上げてくる抑えきれない快感とともに。

「ダニエルは遠くの軍楽隊の音を耳にした、空が軍旗でいっぱいにあふれているように思われ、マロニエの木によりかからずにはいられなかった。この長く続く並木道で《ただ一人》、ただ一人のフランス人、ただ一人の民間人で、敵の全軍隊が彼を眺めていた。怖くはなかった、安心してこれらの無数の眼に身を委ねていた、彼は《われらの征服者》と思い、悦楽に包まれていた。彼らの大胆にまなざしを投げ返し、これらの金髪を、氷河の湖のような眼をしたこれらの日焼けした顔を、これらの細い胴を、信じ難いくらいに長い筋肉質のこれらの腿を満喫していた。彼はつぶやいた。『この連中、なんて美しいんだろう!』彼はもう地に足がつかなかった。彼らの腕の中にさらわれ、胸と平らな腹にぴったり締めつけられていた。空から何かが転げ落ちた。時代後れの掟だ。裁判官の一団は解体した、判決は取り消された。カーキ色のおぞましい小柄な兵士たち、人間と市民の権利の擁護者たちは潰走している。《なんという自由か!》と彼は思い、眼をうるませた。この惨事のただ一人の生き残りだった。憎しみと怒りのこれらの天使たち、これら皆殺しの天使たちにたいしてただ一人の《人間》で、彼らのまなざしのもとで幼年時代が返ってくる。《これが新たな裁判官だ》と彼は思った、《これが新たな掟だ!》目を見張るような穏やかな空、無邪気な小さな積雲、こういったものは彼らの頭上にあると、なんとつまらぬものに見えることか。それは侮辱の、暴力の、悪意の勝利だった、それは<大地>の勝利だった。戦車が一台通った、堂々として悠々と、木の葉の迷彩を施して、ほとんど音を立てていない、後部にいるごく若い男は上着を肩にかけ、シャツの袖を肘の上にまくりあげ、裸の美しい腕を組んでいた。ダニエルは彼に微笑みかけた、若者はけわしい顔で長い間彼を眺めた、眼は輝いている、それから突然、戦車が遠ざかっていく間に、彼は微笑みはじめた。急いでズボンのポケットの中を探り、小さな物を投げてよこした、ダニエルはそれをさっと摑まえた。イギリス製の煙草だ。ダニエルは箱を強く握ったので、指の間で煙草がつぶれていくのが感じられた。相手は相変わらず微笑んでいる。耐え難い甘美なうずきが腿からこめかみへ昇ってきた。もう何がなんだかわからなくなり、やや息を詰まらせながら、彼は同じ言葉を繰り返した。『バターの中に突き入るように〔やすやすと〕ーーー彼らはバターの中に突き入るようにパリに突き入る』。涙で曇った彼の眼の前を、違う顔が通過した、次から次へと違う顔が続き、どれも同じように美しい。彼らはわれわれに<悪>を及ぼす、これから始まるのは<悪の支配>だ、なんという喜び!彼らに花を投げてやるためにできるなら女になりたかった」(サルトル「自由への道5・P.189~191」岩波文庫)

フランスは蹂躙された。けれども、ドイツより先に全体主義化していたのはほかならぬイギリス、フランス、ソ連など、周囲の諸国家の側だった。その意味ではドイツを取り囲んで離さない周囲の諸大国によるドイツへの圧力があり、その限度を忘れた圧力の蓄積が逆にナチスという前代未聞の「皆殺しの天使たち」を醸成させてしまったとも言えるだろう。しかし問題は、そのような力はいつも「流動している」ということを知ることにある。カスタネダは老ヤキ・インディアンの言葉を報告している。


「世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、《すること》を知っとるからなんだ。もしおまえがそう《すること》を知らなければ、世界はちがっていただろうよ」(カスタネダ「呪師に成る・P.262」二見書房)

大事なのは、《別の仕方》で思考する、と同時にステレオタイプ(既成概念)と決別する、という能動的姿勢でなくてはならない。

BGM

ジュネという身体、そのアナーキー

2019年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネが「別種の美しさ」と呼ぶもの。それらは「多くの性質から成り立っている」という。たとえば、「力」「絶望」「恥」「狡知(こうち)」「怠惰」「あきらめ」「蔑(さげす)み」「倦怠(けんたい)」「勇気」「卑劣さ」「恐怖」ーーー。

「わたしは彼らのことを、美しい、と言った。それは整った美しさではない。別種の美しさで、力とか、絶望とか、その他、次のような、それらを挙げるについては注解を必要とするであろう多くの性質から成り立っている。すなわち、恥、狡知(こうち)、怠惰、あきらめ、蔑(さげす)み、倦怠(けんたい)、勇気、卑劣さ、恐怖ーーーまだいくらでも続くだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.369~370」新潮文庫)

この系列は特権的な項あるいは中心を持たない極めて並列的なレベルで延長された等価物の系列を示している。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

その等価性の内容は商品の場合、労働者による労働力である。逆にいえば、流動する「力への意志」あるいは「情動の動き」が商品として固定されたものである。

「これらの諸性質はわたしの友達の過去や肉体に刻印されているのである。そしてそこで押し合いへし合いし、なかば重なり合い、相争っている。それだからこそわたしは、彼らは魂を持った男たちだと言うのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

それら諸性質はジュネの「友達の過去や肉体に刻印されている」わけだが、完全に凝固して固定されきってしまったものではけっしてない。むしろ「肉体」へ「刻印」されたことで今なお生きいきと「押し合いへし合いし、なかば重なり合い、相争っている」あるいは「緊密に融合している」ということができる。

「《衝動》は、私の理解するところでは、《高級の機関》である。行為、感覚、および感情状態が、たがいに組織し合い、養い合いながら、入りまじって緊密に融合しているのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三一五・P.179」ちくま学芸文庫)

さらにこのことは、ニーチェにいわせれば「身体を手引きにする」ことでもある。

「身体を手引きにして私たちは人間をもともとの生命体の一個の数多性として認識するのだが、それらの生命体は、一部はたがいに闘争し合いながら、一部はたがいに順応したり従属したりしながら、それら個々の生命体を肯定することにおいて思わず知らず全体をも肯定する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三三・P.361~361」ちくま学芸文庫)

しかしこれらの行為はどれも、ほとんどの人間が無意識の裡(うち)に繰り返し反復していることでもある。

「わたしと彼らを結びつけているものとしては共犯関係のほかに、さらにある秘密な和合、ごく繊細な一種の盟約関係とも言うべきものがあるのであり、それを破壊しうる力をもったものはこの世におそらくごく少ないのであり、わたしはそれを巧妙な指先で扱い、それを護(まも)る術(すべ)を知っているのだ、ーーーそれは、我々の恋の夜の思い出、あるいはときとしてはほんの束(つか)の間(ま)の恋の会話、あるいはまた、微笑とそして快楽の予感の押し殺したため息と共になされた体の触れ合い、の思い出なのである」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

ここで問題となっているのは「性愛あるいは恋愛の仕草(しぐさ)」なのだ。そしてそれらは様々に分類可能だが、いずれにせよ、「微笑とそして快楽の予感の押し殺したため息と共になされた体の触れ合い」というカテゴリーの多様性を示すものだ。重要なのは、カスタネダの報告によれば次の言葉に要約される。

「自分の力を自由に流れ出させること」(カスタネダ「呪師に成る・P.238」二見書房)

さて、ジャン・ドカルナンの死とその晩餐についてジュネは述べる。

「彼の死体を食い平らげ、私を愛してくれたかけがえのない愛人を身内に蔵して、いま、私は自分におじけづいている。私は彼の墓場だ。大地は虚しい。死に絶えたのだ。陰茎(ヴェルジュ)も果樹園(ヴェルジェ)もいまでは私の口から生える。つまり彼の口から。ぱっくり開いた私の胸をかぐわせ。一本(ひともと)の李(すもも)の木がその静寂をふくらませる。彼の眼から、たるんだ眼瞼の下へ瞳が溶けて流れた眼窩から、蜂の群が飛び立つ」(ジュネ「葬儀・P.15」河出文庫)

ところで「彼の死体を食い平らげ」という表現について。キリスト教の葬儀のしきたりにしたがっているわけだが、その形式の原典である新約聖書から若干引用しておこう。

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫)

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美(さんび)して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取って食べなさい、これはわたしの体(からだ)である』。また杯(さかずき)を取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、彼らに渡して言われた、『皆この杯から飲みなさい。これは多くの人の罪を赦(ゆる)されるために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十六章・P.155~156」岩波文庫)

「いつものように杯(さかずき)を受け取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、弟子たちに言われた、『これを取って、みなで回(まわ)して飲みなさい。わたしは言う、今からのち神の国が来るまで、わたしは決して葡萄(ぶどう)の木から出来たものを飲まないのだから』。またパンを手に取り、感謝して裂(さ)き、彼らに渡して言われた、『これはわたしの体(からだ)である』」「新約聖書・ルカ福音書・第二十二章・P.261」岩波文庫)

次のセンテンスでジュネは、「ジャン・ドカルナンの死体」に、「若い勇士」に、「血まみれの唇」に《なる》。キリスト教の葬儀のしきたりにしたがっているだけのことなのだが、ジュネにとってそれはただ単なる葬儀上の儀式というだけでは済まされないのだ。

「市街戦の銃弾に斃れた若者を食らうのは、若い勇士を食い平らげるのは、容易なわざではない。ひとはだれしも太陽にひかれる。私の唇は血まみれだ、そして指も。歯で私は食いちぎった。普通なら、死体は血を流さない、きみのはちがう」(ジュネ「葬儀・P.15」河出文庫)

なぜ「きみのはちがう」のか。ジュネにとってジャンの「美貌は私の脅威だった、また彼の言葉の賢(さか)しさと美しさも」。ゆえに、言語フェチであり美青年フェチであり男根フェチでもあるジュネとしては、ジャンの「陰茎(ヴェルジュ)は、五月の果樹園(ヴェルジェ)を舞台に、私の口をすでに血で染めていた」、という経過を閃光のように瞬時に流通しなければならない。そしてこの経過はジュネ自身の性質であるというだけでなく、むしろ人格が賭かっており、したがって決して避けて通れない或る種の儀式にも似た様相を呈するのである。

「一九四四年八月十九日の市街戦で斃れたとき、彼の陰茎(ヴェルジュ)は、五月の果樹園(ヴェルジェ)を舞台に、私の口をすでに血で染めていた。生前、彼の美貌は私の脅威だった、また彼の言葉の賢(さか)しさと美しさも。当時、私は彼が墓に入ることを願ったものだ、暗い深い墓穴、彼の並外れた在りかたにふさわしい唯一の住まい、そこに彼は蠟燭のあかりをたよりに、ひざまずいて、それともうずくまって暮らすのだ」(ジュネ「葬儀・P.15~16」河出文庫)

後半部分の記述ではジュネ独特の想像力がおおらかに全開されている印象を受けないではいられない。自己省察の深さ。その自由さ。その翼の巨怪さ。なかでも自己省察の自由さとその巨怪さは、ジュネが、というより、読者とともにジュネ自身を、とことん「混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」。ニーチェはいう。

「自己の内奥を覗き見ることあたかも巨大な宇宙を覗きこむごとくである者、そして自己の内奥に銀河を抱いている者、こういう者はまた一切の銀河がどんなに不規則なものであるかを知っている。こういう者たちは、現存在の混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」(ニーチェ「悦ばしき知識・三二二・P.336」ちくま学芸文庫)

この「不規則さ」は、規則的なもの、凝固したもの(ステレオタイプ)、がちがちに打ち固められ拘束され徹底的かつ人工的加工を施された「言語、貨幣、性」という死物に対する自然界からの猛反撃を意味している。そして現実とは、常に既に流動する強度としてしか存在しない「自然」のことをいうのである。マルクスはいう。

「《このパラグラフの最初の部分》、『労働はすべての富とすべての文化の源泉である』。ーーー労働はすべての富の《源泉ではない》。《自然》もまた労働と同じ程度に、諸使用価値の源泉である(じっさい、物象的な富はかかる諸使用価値からなりたっているではないか!)。そしてその労働はそれじたい、ひとつの自然力すなわち人間的な労働力の発現にすぎない」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.25」岩波文庫)

だからこう言える。人間はいつ何時も絶え間なく自然との新陳代謝のうちにあると。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の台風災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。おそらく、測り知れない。

台風十九号。それは常に既に「流動する強度《としての》自然」から見れば人工的に設定された一時的な仮の名に過ぎない。自然界においてそれは様々な多様体からなる一つの多様体の通過である。したがって次のようにいうことができる。

「多様体が分割され、次元を一つでも失ったり獲得したりすると、《必ず多様体の性質が変化する》。そして次元数の変化は多様体に内在するため、《個々の多様体が、共生するたがいに異質な項によって構成されていると考えても、あるいは個々の多様体はその閾と戸口に応じて他の一連の多様体に入り込んで休みなく変化していると考えても、結局は同じことなのだ》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.182~183」河出文庫)

人工的なものはどれほど強力でなおかつ重厚長大なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、いずれ壊れる。溶ける。流動しないわけにはいかない。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。

BGM

詩(ポエジー)と身体/フェチ商品化する欲望

2019年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
ジャヴァの魅力を列挙した後、しかしこれら様々な魅力の「光り輝くばかりの《合金化》」は、ジュネとジャヴァとのあいだで生じた大喧嘩〔罵り合い〕の果ての「別離」の瞬間に最も強烈に把握させられたものだ、とジュネはいう。ジュネはこれまで数頁にわたってジャヴァの諸特質の組み合わせから突然発生する《光輝性》について称賛してきた。しかしそのような瞬間が最も強烈に生じたのはジャヴァとの別れの瞬間においてである、と述べる。

「シャンゼリゼーのマロニエの下で、わたしは彼にわたしの熱情的な愛を告げてやった。わたしは情勢を支配していた。わたしは今なお、そしてまさに彼から離れ去るときに、彼に愛着させるものは、彼の感動であり、わたしの決意を前にしての、そしてこの突然の別離の荒々しさを前にしての、彼の周章狼狽(ろうばい)なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.366」新潮文庫)

愛の告白と別れの宣告。ジャヴァの情動が最も揺れ動いたのは、その二回きり、であると言明するジュネ。そしてそのときにジャヴァが見せた「周章狼狽(ろうばい)」。さらに「彼はすっかり気が顚倒(てんとう)し」たこと。あるいはジャヴァを罵ったときにジャヴァの「両眼は涙で曇った」こと。ジャヴァは「悲しそうだった」こと。またさらにジャヴァは「黙ったまま悲嘆にくれた」こと。そういった幾つかの「仕草」の組み合わせがジャヴァを「詩(ポエジー)の背光で輝かせ、彼を一段と魅惑的にした」とジュネはいう。なぜなら、「今や彼は霧の中で光り輝いたのだから」、と説明を付け加える。ところで、ここで重要なのは、ジャヴァの「身体《において》出現した幾つかの《仕草》による組み合わせ」が「彼を一段と魅惑的にした」という一連の流れである。ジャヴァは始めから魅惑的であったのではない。また常に終始一貫して魅惑的だったのでもない。そうではなく、或る諸要素がジャヴァの「身体《において》出会う」瞬間、そしてその瞬間にかぎり、ジャヴァは魅惑的であり、同時に「詩(ポエジー)の背光」をまとう、ということでなくてはならない。だからジャヴァは「或る諸要素の出会い」としてのみ《合金》でありなおかつ《光輝》であり、さらに《魅惑的》で《詩的》でもある。ところがその諸要素の組み合わせが崩れ去るやいなやジャヴァはすでに廃墟でしかない。そこにジャヴァはいない。少なくとも光り輝いてなどいない。世間一般で通用しているジャヴァという名前を与えられただけの、ただ単なるごろつきが一人いるというだけのことに過ぎなくなる。なお、「シャンゼリゼーのマロニエの下」とあるが、それはジュネの好みの問題であって、必ずしもそれが詩(ポエジー)と結びついて切り離せないとは限らない。

「彼はすっかり気が顚倒(てんとう)していた。わたしが彼に言ったことーーー我々二人について、特に彼について、言ったことーーーは我々二人の存在を悲痛な色で彩(いろど)ったので、彼の両眼は涙で曇った。彼は悲しそうだった。彼は黙ったまま悲嘆にくれた、そしてこの嘆きは彼を詩(ポエジー)の背光で輝かせ、彼を一段と魅惑的にしたーーーなぜなら今や彼は霧の中で光り輝いたのだから」(ジュネ「泥棒日記・P.366~367」新潮文庫)

避けられない別離。もはや不可避となった別れ。ジュネはジャヴァに対し、そんなときにこそよりいっそう湧き溢れてくる「愛着を感じる」。

「こうして、わたしは、彼から離れ去らねばならないときに、彼にいっそう愛着を感じる」(ジュネ「泥棒日記・P.367~368」新潮文庫)

ニーチェはいう。

「《別れるときに》。ーーー在る心が他の心に近寄ってゆく様子のなかにではなく、それから離れてゆく様子のなかに、私は、それと他の心との親近性や同質性を見てとる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二五一・P.185」ちくま学芸文庫)

さて、作品「葬儀」において、ジュネは或る情動であり、なおかつ或る流動する情動でしかなくなる。

「《ひどい人間》という言葉は、《慣れる》という言葉のこだまで呼び醒されたにちがいない」(ジュネ「葬儀・P.14」河出文庫)

というふうに、或る種の言葉あるいは感覚が、次々と、ほとんど無限といっていいほどの記憶や想像やそれらの奇妙な合成物(モンタージュ)の系列を出現させることは珍しくない。プルーストがそうだ。

「私の就寝の舞台とドラマ、私にとってそれ以外のものが、コンブレーから、何一つ存在しなくなって以来、すでに多く年月を経ていたが、そんなある冬の日、私が家に帰ってくると、母が、私のさむそうなのを見て、いつもの私の習慣に反して、すこし紅茶を飲ませてもらうようにと言いだした。はじめはことわった、それから、なぜか私は思いなおした。彼女はお菓子をとりにやったが、それは帆立貝のほそいみぞのついた貝殻の型に入れられたように見える、あの小づくりでまるくふとった、《プチット・マドレーヌ》と呼ばれるお菓子の一つだった。そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。その快感は、たちまち私に人生の転変を無縁のものにし、人生の災厄を無害だと思わせ、人生の短さを錯覚だと感じさせた」(プルースト「失われた時を求めて1・P.74」ちくま文庫)

プルーストではマドレーヌの香りだった。ジュネの場合はどうだろう。

「ジャンが死を賭してまで向こうに廻して闘った連中のうちの一人を、私が断腸の思いなしに、自分の内面生活のなかへ迎え入れるなどということがありうるのだろうか?だって一九四四年八月十九日の市街戦において、若さと《いなせ》で飾られた惚れぼれするような対独協力義勇兵の弾丸によって弊された、この二十歳(はたち)の共産党員(コミュニスト)のしずかな死は、今も生き永らえている私に恥ずかしい思いを抱かせているのだから」(ジュネ「葬儀・P.14」河出文庫)

ジャン・ドカルナンという人物が兼ね備えていた「美と力」。その名によって保存されている「力《への》意志」である。だからジュネはときどき「ジャン」に《なる》。そればかりかジャンの敵である対独協力義勇兵にも《なる》。ジュネはつねに流動する力としてしか存在しない。ちなみにジャンというのはジュネ(作者ジャン・ジュネ)のことではない。ジャン・ドカルナンのこと。フランスのレジスタンス運動の闘士でありトロツキストであり、さらに男性同性愛者ジュネ(作者)の愛人だった。対独協力義勇兵によって二十歳で射殺された。

「《慣れますよ》という言葉を私は五、六秒も噛みしめていただろうか、そして砂や崩れた塀の堆積(やま)のイメージによってしか表わしようのないほのかな憂愁の一種を私は味わうのだった。ジャンのやさしさは、それを彷彿させる点で、壁土や壊れた煉瓦からーーーごく特有の匂いとともにーーー発散する厳粛な悲しみとどこか似通っている、それらは空洞(うつろ)であるにせよ、詰まっているにせよ、ともかくひどくやわらかな捏物(こねもの)でできているように思われる。若者の表情もこわれやすく、《慣れますよ》という言葉で脆くも崩れ去ってしまった」(ジュネ「葬儀・P.14~15」河出文庫)

ジュネはいう。「ジャンのやさしさ」について「壁土や壊れた煉瓦からーーーごく特有の匂いとともにーーー発散する厳粛な悲しみ」との類似性を指摘した上で、それは「空洞(うつろ)であるにせよ、詰まっているにせよ、ともかくひどくやわらかな捏物(こねもの)でできている」と。要するに、かちこちに固定されたものではないのではないか、という問いかけであり、むしろ常に流動し変化し変身を遂げていくものなのではないか、という確信にも似ている。カスタネダの経験したエピソードを引いてみよう。

「わたしが岩の上に腰をおろすと、コヨーテは触れんばかりのところに立っていた。わたしは、ものも言えないほどびっくりしてしまった。それほど近くで野生のコヨーテを見たこともなく、そのとき思いついたのはそれに話しかけてみることだけだった。ーーー人間が言葉を話すようにことばを声にしているのではなく、むしろ、それが話しているという『感覚』だった。ーーーコヨーテはじっさいになにかを言っていたのだ。それは思考を中継し、コミュニケーションは文章にひじょうに似たかたちで行なわれた。わたしは『元気かい、コヨーテ君?』と言うと、それが『元気だよ、君は?』と答えるのが聞こえたような気がした。そしてコヨーテがそれをくりかえすので、とびあがてしまった。コヨーテはまるで動かなかった。わたしが急にとびあがったのに、びっくりしてもいなかった。その目は相変わらずやさしく、澄んでいた。それは腹ばいになり、首をかしげてこうきいた。『なんで怖がってるの?』わたしはそれと向かい合わせにすわった」(カスタネダ「呪師に成る・P.337~338」二見書房)

肝心なのは次の認識である。

「コヨーテは流動体で、液状で、輝く存在だった」(カスタネダ「呪師に成る・P.338」二見書房)

ニーチェは述べる。人間はふつう、「《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない」と。ゆえに途轍もなくたくさんの出来事を取り逃してきたと。

「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)

惨劇のあった現場に足を踏み入れるとき。残された廃墟の上を歩くとき。ジュネはあたかも「ジャンの顔の上を踏みつけているような気分にさそわれる」と述べる。

「取壊し現場の、残骸の真只中へ、その赤色が埃をかぶってやわらげられた廃墟のなかへときどき私は足を踏み入れることがある、すると私は、ジャンの顔の上を踏みつけているような気分にさそわれるのだ、それほどその廃墟は華奢で、慎しく、謙虚で薫らされているからだ。四年前、一九四〇年八月に、私は彼と出会った。彼は十六歳だった」(ジュネ「葬儀・P.15」河出文庫)

さらにニーチェから。

「性欲の妄想は、それが引き裂かれるなら、つねにおのずからふたたび編まれる一つの網である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八七五・P.485」ちくま学芸文庫)

性欲はたとえ「引き裂かれる」としても「おのずからふたたび編まれる」。しかしこのことでニーチェがいっていることは、ただ単にどんどん相手を変えていきながら再び異性と交合することになる、というありふれた陳腐なことだけをいっているわけではない。欲望の対象は必ずしも人間でなくてはならないとは限らないのであって、むしろ世界中でフェティシズムあるいはフェチが商品として流通経済を立派に流動させているではないかという反語的な意味で読まれなければ読解の半分程度しか理解していないことになるだろうと言わねばならない。欲望は、ただそのままでフェチとして《も》生成する。欲望はすでに生産である。またさらに欲望はフェチ商品として世界中を流通し売買され、価値(剰余価値含む)として貨幣と交換され、常に既に利子率決定に参入している。

ところで、ジュネが廃墟の中へ足を踏み入れるとき、あたかも「ジャンの顔の上を踏みつけているような気分にさそわれる」というのは、愛人だったジャン・ドカルナンがその現場で死体と化したからだ。ジャンは射殺現場で廃墟の中へ溶け去った。ジュネにとって廃墟と化しているその現場は今なおジャンの身体(肉体、血、汗、等々)を含んでいる。銃撃戦のあった廃虚はジャンの身体(肉体)として感じられる。ジュネはそのことをジュネ自身の身体(肉体)で感じ取る。

「私たちは肉体に問いたずねる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.36」ちくま学芸文庫)

「今日でも私たちは、いまだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえする」(ニーチェ「権力への意志・下巻・八〇九・P.325」ちくま学芸文庫)

カスタネダもまたメキシコでのフィールドワークで、ヤキ・インディアンの老人が次のように語るのを記録している。

「力や《しないこと》の感じを、自分のからだに見つけさせるんだ」(カスタネダ「呪師に成る・P.275」二見書房)

意識化の作業はもちろん大事だ。しかし意識は言語という形式をとって最後に出現してくるものに過ぎない。だからこそニーチェは何度も繰り返し、驚きをもって《身体》に「問いたずねる」ことの重要性を反復するのだろう。

「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三四三・P.192」ちくま学芸文庫)

これまで人間はかつて自然界に存在したであろう様々な可能性を取り逃してきた。絶滅させ葬り去りさえしてきた。にもかかわらず、ほとんど何らの反省もなしに、今なお人間は様々な可能性を取り逃し続けているのかもしれない。それらは絶え間なく変容する生成変化としてしか存在しないのだから。

BGM

汚辱の水晶ジュネ/音楽としてのセブロン

2019年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
様々なジャヴァの特徴が列挙された。なかでもジュネはそれらの中の「軟弱な性質」に注目する。世間的価値観では否定的とされているような諸要素に。

「人は、このような軟弱な性質の集合が、鉱物の結晶に比すべき鋭い稜角(りょうかく)を形成するということを不思議に思うだろう。また、わたしがーーー行為ではなしにーーーもろもろの行為の倫理的表現を具象的世界の属性に譬(たと)えることをも意外とするだろう。しかし、わたしは、今、わたしが夢中にさせられると言った、この夢中(ファシネ)という語はそれ一つの中に束(フェソー)という観念をーーーそして、よりいっそう、水晶のまばゆい輝きに類する光線の束という観念を含んでいる」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)

さしあたり、「夢中」「束」という言語に関して訳注を参照するのがいいとおもう。こうある。「原語fascine〔夢中〕からアクサンテーギュを除いたfascineという語は束柴を意味し、束faisceauと同じ語源fascisから派生した語である」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)、と。

だから要するに、「夢中」という言葉の綴りの中には、語源的に、「束」という言葉が含まれている。したがって「夢中」は「束」を含んでいるかぎりで、それは様々な諸要素の水晶〔あるいは結晶〕として「まばゆい輝きに類する光線の束という観念を《も》含」む、とジュネはいいたがっているにちがいない。ジュネ固有の言語の活用方法と考えてよいとおもわれる。

「そしてこの水晶などの輝きは、それを形づくるいくつかの断面の一定の組合せの結果なのである。わたしはジャヴァにおける、意気地無さ、卑劣さ、等々が形成する新しい美質ーーー功力ーーーを、この結晶体の光輝(炎)に比するのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)

もちろん「水晶などの輝き」はいつも必ず光り輝いて止まないものではない。むしろ本来的にばらばらなものだ。ところが或る条件が揃ったとき、ジュネのいう「いくつかの断面の一定の組合せ」が揃うやいなや、それはいきなり「光輝(炎)に比する」べきものと《なる》。たとえばヘンリー・ミラーはそのような瞬間に出現するものを「一種の熱帯性植物」と呼んでこう述べる。

「病める卵巣という考えから、電光のような一瞬のうちに、あれやこれやおよそ雑多なよせ集めからなる一種の熱帯性植物が生育しはじめた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.71」講談社文芸文庫)

ドゥルーズとガタリでは、それを多様体の変化として次のように述べる。

「多様体が分割され、次元を一つでも失ったり獲得したりすると、《必ず多様体の性質が変化する》。そして次元数の変化は多様体に内在するため、《個々の多様体が、共生するたがいに異質な項によって構成されていると考えても、あるいは個々の多様体はその閾と戸口に応じて他の一連の多様体に入り込んで休みなく変化していると考えても、結局は同じことなのだ》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.182~183」河出文庫)

そしてその「功力(くりき)」は特定の「名を持たない」。仮にその「力」を「放散する者の名前」について世間では一般的かつ制度的にジャヴァと呼ぶことになっている、というだけのことに過ぎない。むしろそれはつねに変化過程にある燃え上がる炎(光輝)というべきものであって、いつも揺れ動く動的状態を保持しており、諸条件が整うやいなや瞬発的かつ衝撃的に放射されるものだ。だから名がない。しかしもしあえて名づけるとすれば、固有名詞を通り越してただ「愛」とだけ呼ばれるほかないような流動する強度としてのみである。「ジャヴァ」という固有名詞はあくまで仮の社会的制度上の名前であるに過ぎない。

「この功力は名を持たない、それを放散する者の名前のほかは。そして、その者から出るやいなや、この放射された炎(光輝)は、わたしというそれが燃やしうる物質に出くわして、わたしを燃えあがらせる、ーーーそれが愛なのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)

ドゥルーズとガタリは次のように説明している。それはほとんど「不意打ち」といってよいし、そもそも「不意打ち的」で衝動的な一瞬の閃光としてしか把握できない。

「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解(包摂)された純粋な不定法の主体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)

前回述べた。重要なのは、もろもろの諸要素のばらばらに列挙された部分ではなく、諸要素の融合する「合金のごときもの」として、それらすべての「ジャヴァ《における》出会い」が、ジュネを「夢中にする」ということでなくてはならない、と。その瞬間、そしてその瞬間にかぎり、ジャヴァは「光り煌(きら)めく」しジュネは「燃える」。

「わたしは、わたしの内部におけるこの可燃の物質に比すべきものを探究することに努めてきたので、わたしは反省によって、それらの諸性質の欠如を獲得するのである。ジャヴァという人間における、それら諸性質の出会いがわたしを眩惑する。彼は光り煌(きら)めく。わたしは燃える、彼がわたしを燃やすから」(ジュネ「泥棒日記・P.365~366」新潮文庫)

そして「彼がわたしを燃やすから」。なぜジュネは自分が燃えていると知ることができるのか。「泥棒日記」冒頭部にあるように、二人の行為がジュネの身体を「歌わせる」から、ということでなくてはならない。ジュネは音楽に《なる》。

「音楽へ《の》生成変化」を極めて簡略化して言い現わすとすれば、ただ、ひたする「創造《への》意志」に《なる》ということであるだろう。

「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)

したがって、次のようにジュネはいうわけだ。

「わたしが短い瞑想(めいそう)をしようとして書く手を休めるとき、わたしの脳裡(のうり)に押し寄せてくる言葉は、光と熱を想起させる語であり、ふつう人(ひと)が愛について語るときに用いるのを常とする言葉なのである、すなわち、眩惑とか、放射線とか、灼熱(しゃくねつ)、束線、熱中、火傷(やけど)、等である。それにもかかわらず、ジャヴァの諸性質ーーー彼の光輝(ほのお)を構成するものーーーはどれも氷のように冷たい。それらはどれも別々には、情熱的気質、熱の欠如を思わせるものなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365~366」新潮文庫)

列挙されたどの諸要素は、本来的に何の関係もないばらばらなものでしかない。が、或る条件のもとにかぎり、「水晶のまばゆい輝きに類する光線の束」としてジュネを「眩惑」(げんわく)すると同時にジュネは音楽に《なる》、という事情でなければならない。

さて、ブレスト出港直前の艦船。セブロン中尉が、クレルの規律違反とセブロンによるその黙許という二重の軍律背反ならびにその共犯を演じたために、セブロンは交錯した欲望の瞬間的独占を獲得したことは前回述べた。置いてけぼりにされたクレルは白昼堂々と娼婦たちをからかっていたわけで、セブロン中尉がクレルを規律に則って艦船に連れて帰ればその場でそれ以上のことは何も起こらなかったはずだった。けれども置いてけぼりになったクレルはただ単なる水兵の一人でしかない。商売道具である娼婦を思うがままにからかわれて怒らせてしまった娼婦の紐(ひも)でありふだんは街路のごろつきどもがクレルに近づいてきて色々と因縁をつけ始めた。だがクレルは一応は軍人でもあるので、ごろつきどもはクレルを暴行するわけにもいかない。で、言語による「因縁攻め」にした。今でいう言葉の暴力とか脅迫とかである。やけを起こしたクレルは何軒かの飲み屋を梯子した後、べろべろに酔っ払って艦船に戻ってくる。クレルの体はふらふらである。そしてセブロン中尉の部屋に勝手になだれ込む。もう夜だ。

「士官の首にぶら下がりながら、クレルがふたたび立ちあがろうとして示した動作は、しかし、今までにないほどの放埒さとしだらなさに満ちあふれたものだったので、どこから来たのか分らない女性的なものが波のように彼の内部に流れこみ、この彼の動作を、男性的な美の傑作たらしめた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.391」河出文庫)

クレルがセブロンに屈することになるシーン。ジュネはクレルの中に「女性的なものが波のように彼の内部に流れこみ」と書いている。二人の関係は男性同性愛的なものである。だからここで「女性的なもの」とあるのは、男性同性愛において女性の側を演じる人物として、クレルが女性に《なる》ということでなくてはならない。しかし重要なのは、或る種のものがまた別の種のものへと「流れこむ」とはどういうことかということであろう。ホフマンスタールはいう。

「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)

また、カスタネダの報告にこうある。ヤキ・インディアンの老師ドンファンの言葉だ。

「中央メキシコの山の深い森にいるときだった、急にきれいな笛の音が聞こえてきたーーーどこから聞こえてくるのかもわからなかった、まるであっちこっちから聞こえてくるように思えたーーーたぶんまだ知らない動物の群れに囲まれとるんだろうと思った。すると、またこのじれったい音が聞こえてきた、そこいらじゅうから聞こえるような気がした。そのとき、ーーーそれが不思議な生き物、シカだってことがわかったんだ。それにわしは、シカってやつはふつうの人間や狩人の習性を知っとることもわかった。ーーーどうしたかというと、大急ぎで逆立ちをしてやさしく泣き声をだしたのさ。本当に涙を出していたし、あんまり長いことすすり泣いていたんで、あやうく気が遠くなるところだった。すると突然、やわらかいそよ風を感じたんだ。右耳の後ろの髪を、何かがクンクンやってるんだよ。わしはそれがなんだか見ようと思って首をまわそうとしたんだが、倒れてすわりこんじまったんだ。すると、輝くばかりの生き物がわしを見つめとった。そのシカがわしを見つめとるから、わしは、なにもしないよ、と言ってやった。そしたら、シカもわしに話しかけてきたんだ」(カスタネダ「呪師に成る・P.119~120」二見書房)

ここでもまたドゥルーズとガタリによる説明が有効かもしれない。

「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)

クレルはアルコールの酩酊のうちに隠されたまま「女性に《なる》」。「女性《への》生成変化」を遂げる。生成変化には「勝ち負け」という価値概念などまったくない。強度の流動だけがある。しかし当時(一九三〇年代)のフランスの海軍士官であったセブロンの価値観にしたがえば、クレルの女性化はほかならぬセブロン中尉の側の完全な勝利なのだ。クレルは敗北したわけだ。けれども、ひとことで敗北といってもその類型は実に多様だ。それこそ星の数ほどある。クレル自身、今後はセブロンに対しておそらく海軍に所属しているあいだは、さらに除隊したとしてもなお、これからは男性同性愛者として女性の側を演じることになっていくだろう。それをおもうと、クレルは今後ずっとありとあらゆる屈辱的姿勢で自分の尻をセブロンとその類似性を共有する男性たちに捧げつづける「飼犬」に《なる》のは決定的といわねばならない。とはいえ、言葉が同じというだけのことでクレルが「凋落、汚れ、困難な致命傷」を負ったと感じたとしても、クレル自身は実のところほとんど何ら傷ついていない。なぜなら、「凋落、汚れ、困難な致命傷」というのは、クレルが属している世界とは違う世界、いわゆる世間一般の価値観から見るかぎりでの「凋落、汚れ、困難な致命傷」に過ぎないからである。むしろ次の文章にあるように、クレルはこのシーンで明確に描かれている屈辱的転倒について、その事態を「微笑」とともに受け入れる。多少の苦さは残るかもしれない。しかしそれは性倒錯の苦さではまったくないのだ。もともとクレルは「倒錯者《への》意志」を潜在させていた。それが現実化したに過ぎない。さらに「敗北」といってもそれは、両者の力関係において軍隊内での「階級」に限っていえばなるほどセブロンは中尉ゆえに上回っていたけれども、ほかならなぬ「実質的権力」はこれまで圧倒的にクレルの側にあったということが一つ。次に、「肉体美」という両者に共通の価値観の上でいえば、今なお「勝利」はあくまでクレルの側にあるにもかかわらず、という意味で「敗北」したと言えることでもあるからだ。さらにこの苦さは、これまでクレルを上回る男が出現してこなかったからというだけのことであって、セブロンがクレルを上回った以上、この転倒は性倒錯者たちにとってはごくありふれた自然な転倒として感じられるだろう。

「というのは、少尉の首のまわりにめぐらされた、花束よりもっと魅力的な花籠であることを意識した、この筋肉のたくましい腕は、その通常の意味をあえて剥奪して、その真の本質を指し示す何か別の意味をおびていたからである。クレルは、もはやそこから引返すことはできず、そこで心の平和を見出さねばならない恥辱の近くに自分がきていることを思って、微笑を浮べた。自分がまことに無力な、みごとに敗北した人間であるという意識が、彼の心にこんな思いになって表われた。それは彼に凋落、汚れ、困難な致命傷といったことを思い出させるものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.391」河出文庫)

今後、クレルにとってセブロンは、セブロンとその系列として出現することになるであろう。プルースト作品におけるアルベルチーヌの無限の系列のように。

「私の内部に相ついで刻々立ちあらわれる想像のアルベルチーヌの無限の系列」(プルースト「失われた時を求めて3・P.285」ちくま文庫)

「さまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)

そしてまた、セブロンからクレルを見た場合、今後のクレルは植物へも変化を遂げていくだろう。そんなとき、クレルは植物に《なる》。次のように。

「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)

一方、淫売屋の女将リジアーヌは総括的に回想する。だがその前にニーチェの言葉をもう一度思い出しておきたい。

「性欲の妄想は、それが引き裂かれるなら、つねにおのずからふたたび編まれる一つの網である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八七五・P.485」ちくま学芸文庫)

回帰するのだ。どんどん相手を取り換えていきつつ性愛という「力《への》意志」は留まるところを知らない。無方向的に放出されるアナーキーなものだからだ。しかし差し当たり、リジアーヌにとっての問題はロベールとクレルという兄弟の関係であり、兄弟のあいだで可愛がられていてまるで二人の子供のように見えるロジェのことである。リジアーヌはおもう。

「《たとえ離れていても、あの二人は世界の端と端から互いに呼び交わしているんだわーーー》

《兄が航海をはじめれば、ロベールの顔はいつも西の方を向いていることになるだろう。あたしは日まわりの花と結婚しなければなるまいーーー》

《微笑と悪罵が投げ交わされ、二人のまわりに巻きつき、二人を結びつけ縛りあげてしまう。二人のうち、どちらが強いかは誰にも分らない。そして彼らの子供は、二人のあいだを自由に通り過ぎるけれども、少しの邪魔にはならないんだわーーー》

何ものも切り離すことのできない二人の恋人の秘密の物語に、彼女は立会っているのだった。彼らの喧嘩は微笑でいっぱいになり、彼らの遊びは侮辱で飾られている。微笑と侮辱はその意味を変える。彼らは笑いながら罵り合う」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.392~393」河出文庫)

ところでなぜ「微笑と侮辱はその意味を変える」のか。両者はどのようにして等価性の獲得と同時に意味の置き換えを成就させることができるのか。彼らはそれを知ってはいない。「しかし、それを行う」のだ。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

言い方を変えてみよう。異種のものを始めから等価物として交換し合えるわけがない。そうではなく、「異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値する」からこそ、そしてそうするやいなや、等価関係は多少なりとも暴力的に貫徹されるのである。もっとも、この種の暴力は殴る蹴るといった暴力ではないので目には見えないが。あるいはヴァージニア・ウルフ作品の場合。トンネルを抜ける列車の窓に映る異性の姿を見て、異性の側もこちらが見えているという前提で、それを「社交」と呼んでいる。女子学生ジニーの言葉。

「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』。ーーー『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)

リジアーヌに戻ろう。

「恋人たちのことを考えながら、彼女は、《彼らは歌っている》という文字を眺めていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.393」河出文庫)

男たちは「歌っている」とおもう。どんな歌詞だろうか。頁を巻き戻さなければならない。まだクレルに対して卑屈な態度しか取ることのできなかったセブロン中尉。その或る夜の海岸でのエピソード。激烈な怒りの込もったセブロンの心の叫びとして記述されている。

「彼は自分の内部に向けた、声にならない声でこう言った、《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》ブレストのこの特殊な地点から霧の中心へ向って、海にそそり出た道路や倉庫に向って、軽やかな風が、サーディの薔薇の花びらよりもっとやわらかな香り高いセブロン少尉の湿気を、世界中にまき散らすのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.379」河出文庫)

天上の音楽への上昇。しかしその歌詞は《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》でなければならない。とはいえ、セブロンが社会から排除されつつ生まれてきたジュネの分身にほかならないから、というだけの理由からだけではおそらくない。ジュネは言語を意識しつつ当然のことながら常に無意識とは何かという難問に挑んでいたにちがいないからだ。ジュネたちにとって社会一般の価値観は転倒して見えているのである。現代社会でいえば、なぜ「祝福される」結婚と「祝福されない」結婚とがあるのか。そもそも「祝福」とはなんなのか。結婚もまた社会的「制度」というに過ぎないではないか。さらに性愛の多様性である。なぜ一人の男と一人の女でなければならない、ということになっているのか。それこそただ単なる嫉妬ではないか。実際の性愛はもっとはるかに奔放だというのに。自由を求めて逆に不自由に転倒しているのは世間一般の側ではないのか。性愛の事実はもっと醜悪でなおかつ美しいものなのではないのか。その繊細巧緻な暴力性、卑劣さ、巧妙さ、思いがけなさ、醜さ、舌を擦り付け合ったり、噛み合ったり、爪を立て合ったり、お互いの醜い性器をとことん押し付け擦り付け合ったり、突き貫き合ったりして、できる限り深く長く快楽の悦びとその延長を味合い尽くそうと、これ以上ないほど汚れて穢れきった性欲の極致へ必死になって到達したがる。しかもなお、それら淫猥さの極致を越えたとき始めて聴くことができる音楽があるのではないのか。セブロンの主張が《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》でなければならないのは、その醜悪ぶりの中心へどっぷり没入することが、事実上「《こうした醜いものに快感をおぼえた》」ということ、「美そのもの」を生きたということではないのか、という問いに対する絶望的欲望による返答にほかならないからにちがいない。ニーチェはいう。

「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)

「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫)

しかしゾラ「居酒屋」の続編「ナナ」で、ナナは何として登場し、何として機能するだろうか。プライドが高く自尊心も自立心も旺盛だったジェルヴェーズ。周囲への気配りあるいは面倒見のよさにもかかわららず、というより面倒見のよさゆえに、力尽きて堕落しきっってしまったジェルヴェーズ。その娘ナナ。しかしナナは持ち前の明るさゆえに社交界で評判の娘になる。社会的最底辺にまで失墜した母の娘であるにもかかわらず、というべきだろうか。そうではない。むしろ持ち前の明るさゆえに、ナナの社交界の中でのすべての振る舞いあるいは社交という雑多で猥雑な交わり合いは、母を取り返しのつかない失墜へと導いてしまったフランス社交界に対して発揮される《獣性》そのものにほかならなくなる。ありとあらゆる雑多で猥雑な交わり合い、その談笑、その奔放、その懶惰、その伝染病、等々を、大都会における社交的交合を通して媒介しまき散らし拡大再生産するのである。無意識の裡(うち)に。

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様々に結晶するジャヴァ/セブロンの独占欲

2019年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネがジャヴァを愛するとき、世間の価値観では否定的に位置づけられている諸要素は何ら邪魔にならない。むしろ様々な「諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす」と述べる。

「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす」(ジュネ「泥棒日記・P.364」新潮文庫)

さらに次のような諸要素も列挙する。改めて並べて読んでみよう。すると、それら諸要素は多少なりともどの人間にも一般的に当てはまる諸要素に過ぎない、ということに気づくだろう。しかし重要なのは、それら諸要素が「一個の結晶体」として「イメージ」されるときだという点である。

「わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.364」新潮文庫)

この記述はただちにラヴクラフトによる次の記述を思い起こさせないわけにはいかない。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

そしてまた、これらの変容が繰り返し反復されるとしよう。するとほとんど「n次元」としてしか言いようのない任意でなおかつ無限の諸断面を持つ多様体の共存の実在を想定するほかなくなってくるだろう。そしてジャヴァは、仮にジャヴァと名づけられている或る種の「煌(きら)めき」として、「独異の功力(ちから)」に《なる》。

「ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)

仮にジャヴァと名付けられている或る種の「煌(きら)めき」として、「独異の功力(ちから)」として、諸要素の融合する「合金のごときもの」として、それらすべての「ジャヴァ《における》出会い」が、ジュネを「夢中にする」ということでなくてはならない。

「わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)

それは、たとえばドゥルーズとガタリにいわせれば、或る「即興」(アドリヴ)であり、またこの「即興」(アドリヴ)は「世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ」ということになるだろう。

「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)

さて、場面は変わって霧のブレスト。ロベールと性行為に耽っているとき、クレルとロベールという兄弟の顔が入れ換わって仕方がない、と半ば呆れ顔のリジアーヌ。二人を区別するにはどうすればよいのか。あるいはなぜ二人の身体が入れ換わり立ち換わりして止まないのか。見た目が似ているだけでなく性質も似ているということはなるほど重要な要素である。しかし二人を区別するための最終的な優先権はどこに求めることができるだろうか。

「クレルの勃起はそれほど堅くなかったが、少なくとも彼女があれほど夢に見たこの男根は、彼女を失望させはしなかった。それは重々しく、ふとく、どっしりしていて、上品ではないけれども、たくましい力にあふれていた。要するにリジアーヌ夫人は、この男根がロベールのそれと違っていたので、いくらか心が休まったのである。二人の兄弟は、結局その点で識別されるのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.381~382」河出文庫)

二人を区別するための最終的な優先権は、両者の《身体》あるいは肉体(筋肉)の運動の《差異》にあるということが承認されなくてはならない。リジアーヌは正当にもそう承認する。ニーチェはいっている。

「私たちは肉体に問いたずねる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.36」ちくま学芸文庫)

「今日でも私たちは、いまだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえする」(ニーチェ「権力への意志・下巻・八〇九・P.325」ちくま学芸文庫)

一方、クレルとセブロン中尉との力関係の均衡が破れ、クレルはセブロンに自分の身体を与えてもいいと考えるようになる。艦船出航までの暇つぶしを装って、白昼のブレストの街路をぶらぶらしている娼婦たちに声をかけ、からかって歩くクレル。そこでクレルは偶然にもセブロン中尉と出くわす。海軍の軍規上、セブロンはクレルを注意しなければならないが寛大さを見せつけたいセブロンはクレルの遊びを黙って見逃す。すれ違いざま、クレルはセブロンの目にはっきりと焼き付くように、欠かさぬ微笑とともに「自分の背中に、肩に、尻に、瞬間のすべての力を注ぎこ」み、「誘惑せんとする彼のすべての意志が、彼の肉体のこの部分に結集」するよう振る舞う。

「そのとき、彼は微笑の観念を自分の内部に保持しながら、自分の背中に、肩に、尻に、瞬間のすべての力を注ぎこんでいたのである。要するに、誘惑せんとする彼のすべての意志が、彼の肉体のこの部分に結集していたのである。この部分こそ、彼の真の顔であり、彼の水兵としての顔なのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.385」河出文庫)

それこそクレルの、「水兵としての顔」であり、「彼の真の顔」に《なる》。

「この顔が微笑を浮べ、相手の心を動かすことができるようにと彼は望んでいた。クレルはそれをあまりにも強く望んでいたので、ほとんど目に見えない震えが、首筋から臀部まで、彼の背骨を突っ走ったほどであった。自分自身のいちばん貴重なものを、彼は士官に献呈した」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.385~386」河出文庫)

「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)

ニーチェの言葉にしたがうとすれば、人間の「素顔」は、時と場合により、様々な形態を取りつつ移動する、ということになる。そのことは特権的な「素顔」など実はどこにも存在しないという事情を意味する。むしろ素顔はつねに変容しつつ移動しつつ状況全体を巻き込みつつ、或る過程としてしか存在しないという事情を説明している。マルクスにいわせれば、どの商品も特権性を帯びることなく脱中心化された諸運動として流通するようなものだ。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ところがクレルの意に反してセブロンは「行動を開始しなかった」。セブロンは「規律を守らせる必要を自分の内部に十分認めていながらも」、一人の水兵が街路で少しばかり遊んでいたからといってわざわざ怒鳴りつけたりせず、規律に対する侵害を「黙許することに、一種の自由の快楽、違反した張本人との共犯の快楽を味わっていた」。

「彼は行動を開始しなかった。よしんば自分のそばに同僚がいなかったとしても、彼は行動を開始しようとは思わなかったにちがいない。というのは、この規律を守らせる必要を自分の内部に十分認めていながらも、彼はそれに違反すること、あるいはそれに対する侵害を黙許することに、一種の自由の快楽、違反した張本人との共犯の快楽を味わっていたからである。それに、こんな有頂天になった恋人同士に対しては、笑って見逃してやる態度を示すことこそ、粋なやり方であり、《最高度に味のある》(彼は心のなかでこんな言葉を使っていた)やり方ではなかろうか、と彼には思われた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.386」河出文庫)

セブロンは海軍士官として、クレルの上官として、「黙許すること」を「《最高度に味のある》」、「粋なやり方」ではなかろうかと考え、自分で自分自身に酔っていた。クレルによる規律違反、それを黙許したセブロンの規律違反、この二重の背信行為。さらに両者の共犯関係がもたらす快楽。セブロン中尉は二重の背信と共犯関係がもたらす自己陶酔の快楽に身を任せることにしたのだった。「粋」というより単なる「独り占め」に過ぎないのだが。

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