白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー3

2019年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
ジャンの死体を収めた「棺桶」がジュネの身体(とりわけ性的記憶と身体的感覚)を通して「棺桶」から「マッチ箱」へと生成変化する過程を見た。頁を少し戻りたい。このようなアナロジー(類似、類推)は棺桶からマッチ箱への移動が始めてでは何らない。カーテンの赤い「ひだに包まれたナチス隊員エリック」から「肛門」への移動が始めてだったわけでもない。もっと前に述べられている。

「ーーー《けつ》のよ!《けーつ》の穴によ!』

はえぬきの兵士たちで賑わうこの物語が、刑を言い渡された兵士、すなわち戦士と泥棒、戦争(いくさ)と窃盗をひとつに溶かし込んだもっとも手のこんだ存在にふさわしい、めったに聞かれぬ言い廻しで幕をあけるのもなにかの因縁だろう。《飴玉》《座金》《玉ねぎ》《後ろ》《お月さん》《奴の糞(くそ)籠》などとも名付けられるものを、<懲役部隊兵>はまた《青銅(けつ)の眼玉(あな)》とも呼びならわす」(ジュネ「葬儀・P.18~19」河出文庫)

ジュネがこみ上げる情動を込めて思い出すシーンは元兵士と街路のごろつきたちとの会話だ。

「やがて、故国へ引きあげてからも、彼らは<懲役部隊>の秘蹟をひそかにまもりつづける。ちょうど『法王』や『皇帝』や『国王』に仕える諸大名が、千年前は勇敢な盗賊団の一員にすぎなかったことを誇りに思うように。囚人兵は、青春を、太陽を、獄吏の折檻を、男色連を、その葉っぱが<懲役兵>の女房とも呼ばれる《うちわさぼてん》をしんみり思い出す。砂漠を、熱砂の行軍を、その気品とたくましさはとりもなおさず自分の陰茎とそしてお稚児さんのそれでもあったしなやかな棕櫚の樹を思い出す。墓場を、刑場を、そして尻(けつ)を思い出す」(ジュネ「葬儀・P.19」河出文庫)

全国共通の歴史的事実が含まれている。「『法王』や『皇帝』や『国王』に仕える諸大名が、千年前は勇敢な盗賊団の一員にすぎなかった」とある。この記述には、古代、中世、近世、近代以降を含め、世界の支配者層について、その過去は何ものであったかという歴史が明らかにされている。ニーチェはいう。

「真理は冷酷である。われわれは、これまであらゆる高度の文化がどのようにして地上に《始まった》か、を容赦することなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫(くじ)かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業か牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」(ニーチェ「善悪の彼岸・二五七・P.265~267」岩波文庫)

とはいえ、「貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」としても、いったん「支配階級」になってしまうと、今度は急に国家として、一般的市民の統治者として振る舞い始める。そして次に「山のなか」や「海の冒険」から新しく出現する「野蛮人階級」に対して国家として振る舞い、新しく登場してきた「野蛮人階級」を犯罪者扱いして刑罰を科してきた歴史がある。国家のあるところでは「野蛮人階級」は飼い馴らされ、去勢され、凡庸化される。その規則にしたがえない場合、彼ら彼女たはただちに犯罪者とされ犯罪者扱いされる。

「社会、私たちの飼い馴らされた凡庸な去勢された社会、それは、山のなかから、ないしは海の冒険からやってくる野生の人間が必然的に犯罪者へと変質するところである」(ニーチェ「偶像の黄昏・四五・P.138」ちくま学芸文庫)

そして犯罪者として、なおかつ「破壊者」として、刑罰を受けなければならなくなる。

「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)

ところが内部から腐敗し軟弱化した国家は時折、根底から転覆されることがある。その反復の連続がすなわち歴史なのだ。なので歴史はあちこち断層だらけだともいえる。また「飼い馴らし、去勢し、凡庸化する」とはどういうことか。主に慣習を通して行われる多少なりとも暴力的な加工=変造の作業である。

「風習とはしかし行為と評価の《慣習的な》方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理もまったくない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを《望む》から、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、『悪い』ということは、『個人的』、『自由な』、『勝手な』、『慣れていない』、『予測がつかない』、『測りがたい』というほどのことを意味している。そのような状態の尺度でいつも測られるので、ある行為が、慣習が命令するからでは《なくて》、別な動機(たとえば個人的な利益のために)、それどころか、かつてその慣習を基礎づけていたまさにその動機自身からなされるときですら、その行為は非倫理的と呼ばれ、その行為をする者からさえそう感じられる。なぜなら、その行為は慣習に対する服従から行なわれたのではないからである。慣習とは何か?それは、われわれにとって《利益になるもの》を命令するからではなくて、《命令する》という理由のためにわれわれが服従する、高度の権威のことである」(ニーチェ「曙光・九・P.25」ちくま学芸文庫)

このようにニーチェを通してジュネを見てくるとアルトーがヘリオガバルスの軌跡について述べた文章との一致がよく見て取れる。それは両者に共通の「アナーキー性」という性格である。

「ヘリオガバルスとは、男であり女である。そして太陽の宗教とは、人間の宗教であるが、自分の姿をそこに反映する男の分身である女なしでは、それは何もできないのだ。行動するために『二者』に切断される『一者』の宗教。『存在する』ために。『一者』の最初の分離の宗教。最初の両性具有者のなかで結ばれた『一者』と『二者』。それは『彼』、男。そして『彼』、女。同時に。『一者』においてそれらは一体となる。

ヘリオガバルスのなかには二重の戦いがある。1、『一者』のままでありながら分裂する『一者』の戦い。女となり、そして永久に男のままである人間の戦い。2、人間として太陽の王であることをうまく受け入れられない人間である『太陽王』の戦い。この王は人間に唾を吐きかけ、最後に人間を溝(どぶ)に投げ込んでしまう。なぜならひとりの人間は王ではなく、しかも彼にとって、王として、孤独な王、受肉した神としてこの世に生きることは、堕落であり、奇妙な罷免であるからだ。ヘリオガバルスはじぶんの神を吸収する。彼は自分の神を食べる。キリスト教徒が自分の神を食べるように。そして彼は自分の生体組織のなかでその原理を分離する。彼は自分の肉体の二重の空洞のなかでこの諸原理の戦いを繰り広げるのである。

そしてこれこそ当時の歴史家ランブリディウスが理解しなかったことなのだ。『彼はひとりの女、内気なコルネリア・パウラをめとり』、と彼は言う、『結婚に湯水のように金を使った』。この歴史家は、ヘリオガバルスが女と寝ることができ、正常に女と交わることができたことに驚いている。生まれつきの男色家にとって奇妙な矛盾であり、しかも男色に対する一種の生体の裏切りであるような行為は、ヘリオガバルスにあっては、このような宗教的で早熟な男色家には思想の一貫性があるのだということを証明している。

しかしこの回転するイメージのなか、受肉したウェヌスの血をひくこの魅惑的で二重の性質のなか、彼の驚くべき性的矛盾のなかには、両性具有的なものよりはるかにずっと、最も厳密な精神の論理のイメージそのものに見えるものがあるが、それこそは《アナーキー》の観念なのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.152~154」河出文庫)

さらに慣習が定着し、慣習があたかも自然法則のように感じられるようになるまでには、国家はどのような組織的暴力を用いてきたか。

「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)

さて、アルトー。

有り余る労働力あるいは強度のすべてを生産し製品化し消費する意志を貫徹する資本主義大国アメリカ。スターリンのロシアも例外ではない。

「もはや果実も、樹木も、野菜もなく、薬草も、他の植物もなく、結局食物もなく、ありあまるほどの合成製品が、蒸気のなか、空気中の特殊な液体のなかで、合成によって、抵抗する自然から力づくで抽出された大気の特別な軸の上に生みだされる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10~11」河出文庫)

すべての商品はすでに「抵抗する自然から力づくで抽出された」。しかも「自然」は「抵抗」しているにもかかわらず、とりわけキリスト教は世界制覇とともに資本主義的生産様式を励まし、資本主義発展のために全力で尽力し、とことん高度化してますます自然界を破壊することに貢献してきた。だが自然の側にすればどうだろう。アルトーは皮肉を述べる。

「その自然は戦争に対してはいつも恐れだけを抱いてきたのだ。だから戦争万歳ではないか?」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

アメリカ人だけではなくスターリンのロシアもまた、何に向けて全力を上げて性的リビドー備給のために余念がないのか。

「なぜなら、こうしてアメリカ人が準備したのは、いまも必死で準備しているのはひたすら戦争なのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

だからこういうことが起こってきたし今なお進行中である。

「《力能》。ーーー公理系は、公理系が処理する力能よりも、つまり自分のモデルとなる集合の力能よりも大きな力能を、必然的に作り出してしまうと仮定しよう。この力能はあたかも連続するものの力能のようであり、公理系に繋がりつつもそれを溢れでてしまう。こうした力能をわれわれはただちに、軍事、産業、金融等のテクノロジーのたがいに連続する複合体が体現する破壊の力能、戦争の力能のうちに見出すのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.231~232」河出文庫)

なお、ここ数年の豪雨災害報道について。避難勧告や避難準備に関し、マスコミにしても政府当局にしても、ほとんどがスマートフォンや携帯電話向けに情報発信されているようだ。しかし個別的レベルでいうと、たとえば我が家の場合、上流階級ではなく下層階級なので、スマートフォンは持っていない。他の家電等の買い換えに必要なぶんを差し引くと、スマートフォンを購入する余裕がない。後期高齢者のために携帯電話は一台あるがタイプが古いのでしばしば壊れる。テレビも最も小型のブラウン管式が一台あるだけで今にも壊れそうだ。このような世帯は一体どうすればよいのか。マスコミにしても政府当局にしても「小まめにチェックして」という。けれども「小まめなチェック」など始めから出来ない。下層階級に属している世帯には。

これまで何度も繰り返し述べてきたように、そもそも資本主義本来の性質には二種類ある。第一に均質化作用。第二に上流階級と下層階級への極端な格差社会化である。一方で第一の均質化作用が浸透すればするほど、もう一方で第二の格差社会化はますます深刻さを増していく。これは矛盾のように見えるけれども、どちらも資本主義が最初から孕(はら)み持つ共通の両義性である。どちらが先かということではなく、両方ともが同時多発的に進行する。その中で、災害弱者が抱える深刻な問題というのは、常日頃から政府やマスコミが、後者にあたる極端な格差社会化に関してどのような態度を取るかあるいはふだんから取っているか、取っているとすれば現実的にどのような形でか、という問いである。これに該当するような世帯の場合はどうすればよいのか。できることは山ほどある。にもかかわらずそれが遅々として進まずなかなか実行に移されていないのはなぜなのか。下層階級に属する災害弱者は災害時だけ弱者になるのではなく、常日頃から社会的弱者なのだということを忘れないでほしいとおもう。その意味ではなるほど今の日本政府の諸施策は余りにも偏見と偏りが激しすぎると言わざるをえない。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー2

2019年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
言語化がさらなる言語化を呼び込み続々と連想の系列を再生産させていくジュネ。

「私は椅子に腰かけた。他の連中はひざまずいているのが目に入った。ジャンに敬意を表してだろう、で私も、人目に立たぬようひざまずこうとした。上衣のポケットになんの気なしに手を入れると、マッチの小箱にふれた。それは空っぽだった。投げ捨てるかわりに、うっかりまたポケットに納めてしまったのだ」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)

連想の系列に入っていくジュネ。「比喩」と述べてはいるが、類似の系列ともいえる。

「(私はポケットにマッチの小箱を入れている)

とたんに、いつか、監獄で誰かが囚人に許される小包のことを話題にしたさいに使った比喩が脳裏によみがえったとしても、べつに不思議ではない。

『小包は週に一つしかだめだ。棺桶だろうがマッチ箱だろうが、同じこと。小包一つさ』」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)

このアナロジー(類似、類推)から次のように考えるジュネ。

「ちがいない。マッチ箱も棺桶も同じことだ。おれはポケットに小さな棺桶を入れているのだ」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)

という経過をたどる。何の不思議もない。とはいえ、何もジュネだけが特異な感性を持っているわけではない。このようなアナロジーは世間一般で抵抗なく大変多くの場合に用いられている。たとえば、死者がペンダント愛好家だった場合、他の人々は《事後的》に他のペンダントを買ってきて身に付けたりしないだろうか。記憶は何度でも置き換えられる。そしてその作業はその時その時で組み合わせを変える。ふさわしいものへと加工=編集し直される。記憶とその想起について。ベルクソンから。P.321図5参照。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

さて、アルトー。詩ではあるものの喧伝されているほど難解なものではない。読んでみよう。

「なぜなら生産しなければならないからだ、あらゆる行動手段によって自然が置換しうるいたるところで自然を置換しなければならないのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)

しかし自然を置換するためにはあらかじめ人間による自然界の社会化がなされ終わっていなければならない。それは十九世紀のうちにほぼ完了した。次のように。

「『純粋』科学といえども、その素材どころか目的すら、商業と工業によって、人間たちの感性的活動によって、《初めて》手に入るのである。それほどまでに、この活動、この間断なき感性的な労働と創造、この生産こそが、今日実存する感性的世界全体の基礎なのだから、もしそれがほんの一年でも中断されようものなら、フォイエルバッハは自然界のうちに一大変動を見出すだろうし、また人間界全体も、彼自身の直感能力も、それどころか彼自身の生存すら、たちまち消失してしまうことだろう。もちろん、そのさい《外的》自然の先在性ということは現存する。これら一切のことが、原初の、自然発生によって生じた人間たちには当てはまらないことも、もちろんである。しかし、こうした区別は、人間が自然とは区別されるものとして考察される限りでしか意味をなさない。ちなみに、この人類史に先行する自然なるものは、およそフォイエルバッハが住んでいる自然ではなく、<ニューファウンドランドの奥地>最近誕生したばかりのオーストラリアの珊瑚島嶼の上ならいざしらず、今日もはやどこにも実存せず、したがってフォイエルバッハにとっても実存しない自然である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.47~48」岩波文庫)

そうしていつでも自然を置換できるようになった。

「人間の無気力に強大な領域を与えなくてはならない 労働者は職をみつけねばならず、新しい行動の場を作らなければならない、そこではついにあらゆるまやかしのでっちあげ製品、あらゆる卑劣な人工的代用物が幅をきかすようになる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)

シミュラクル(見せかけ)の商品化。ボードリヤールはいう。

「現実的なものの規定は、《それに等しい複製の生産が可能なもの》ということだ。この規定は、ある過程が一定の条件のもとで正確に再生産できるとする近代科学や、事物の等価性の普遍的システムを提起する産業的合理性と同時代のものである(古典的表象行為は等価性の原則に基づいていない。それは、オリジナルの書き換えであり、説明であり、注釈である)。この複製過程では、現実は、単に複製可能なものではなく、《いつもすでに複製されてしまったもの》、つまり、ハイパー現実なのだ。

それでは、現実と芸術はお互いに完全に吸収しあって、姿を消してしまうのだろうか。そうではない。ハイパー・リアリズムは、現実と芸術を、シミュラークル(見せかけ)のレベルーーーそれらを成り立たせている特権と偏見のレベルーーーで、とりかえることによって、その頂点にまで高めることになる。ハイパー現実は、シミュレーション過程にどっぷりとつかっているからこそ、表象行為を乗り越えているのだ。それがもたらす表象作用の回転式ショーケース化は、気違いじみたものだ。だがこの種の内部で爆発する狂気は、芸術の中心からはずれているどころか、中心に流し目を送り、その深部ではみずからが反復されることを願っている。夢のなかで、これは夢を見ているのだなと気づくのに似ているが、この場合は、検閲作用と夢の状態の持続性の働きにすぎない。ところが、ハイパー・リアリズムは、それが持続させるコード化された現実(この現実を、ハイパー・リアリズムはなにひとつ変えようとしない)の不可欠な一部分なのである。

したがって、ハイパー・リアリズムの定義は逆転されねばならない。《ハイパー現実となったのは、今日では現実そのものの方だ》。すでに、シュルレアリスムの秘密は、もっとも平凡な現実が超現実となりうることのうちにあったのだが、そういうことが起こるのは、まだ芸術と想像力の領域に属している特権的な瞬間に限られていた。ところが、現在では、政治的、社会的、歴史的、経済的等々の日常的現実のすべてが、ハイパー・リアリズムのシミュラークル(見せかけ)の領域にすでに組みこまれてしまった。われわれは、いたるところで、現実の『美的』幻覚にとりかこまれて暮らしている。『事実は小説よりも奇なり』という古い格言は、生活の審美化のシュルレアリスム的段階に対応するもので、今では乗り越えられてしまった。生活がたちむかえるような(そして勝利をおさめられるような)虚構は、もはや存在しないーーー今や現実全体が、現実のゲームとなり、クールでサイバネティックス的な段階の根源的な幻滅が、ホットで幻覚的な段階にとってかわったのである」(ボードリヤール「象徴交換と死・P.175~177」ちくま学芸文庫)

あらゆる性行為は人工的な性行為に置き換え可能だ。そして製造されるものは必ずしも人間の身体だとは限らない。続々と生み出される強度としての人工的性行為はすべて、姿形を変えて他の何にでも製造されうるようになった。「軍隊と戦艦」の絶え間ない「生産」もまた。

「そこでは美しい本物の自然など無用で、恥ずべきことにこれを最後に、わがもの顔の代用品に場所をあけわたさねばならない そこではあらゆる人工授精工場の精液がめざましい効果をあげ、軍隊と戦艦を生産する」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)

再生産過程は多種多様な可能性への分岐を果たした。そしてもちろん、それらはただ単に生産されるだけではない。たとえば十月十八日、日本政府は自衛隊の中東派遣検討に入った。

「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)

グローバル資本主義の一帰結。国家は戦争機械の所有者ではなくなって、逆に国家は戦争機械の一部分に過ぎなくなったという新しい事実をよく見て取ることができる。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)

「神戸市いじめ教諭問題」について。加害者はできるかぎりサディズムになりきっていたいと欲望している印象を強く受けた。サディストではなくサディズムというわけは、それが死の本能そのものと化した超自我だからであり、サディズム以外の何ものでもない超自我だからである。基本的に人間は「無生物へ還ろう」とする死の本能をサディズムとして何度も繰り返し反復させる欲動をもつ。

「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)

しかし自己内部で完結させてしまうのでなしに、死の本能は外部へも向かう。そして周囲の社会的事情が許せばしばしば外部へのみ向かう場合がある。それがサディズム丸出しになった超自我本来の「死の本能=暴力《への》意志」である。そのときサディストの超自我は自分の自我のすべてを他者の中へ無理やり押しつけ押し込むとともに徹底的に死の本能そのものとしてのサディズムと化す。被害者はサディストの死の本能の思うがままに「生物以前」の状態へ、「無生物あるいは単なる無機物」へと暴力的に還元されるほかない。ドゥルーズはいう。

「サディストとはおのれ自身の超自我であって、外部にしか自我を見いださない。通常であれば、超自我を道徳化するのは、自我の内面化と補完性であり、この自我に対して超自我は手厳しい仕打ちを行う。また超自我を道徳化するのは、この補完性を庇護する母性的な構成要素でもある。だが超自我が解き放たれ猛威を振るうとき、超自我が自我を追放し、それとともに母のイメージをも追放するとき、超自我の根っからの不道徳性が、サディズムと呼ばれるもののなかでその姿をあらわすのである。サディズムの犠牲者とは、母と自我にほかならない。《サディズムの自我は外部にしか存在しない》。これこそサディズムの無感動の根本的な意味なのだ。《サディズムには犠牲者の自我のほかに自我などない》。超自我へと還元される怪物、おのれの全面的な残酷性を実現させる超自我、そして、おのれの力能を外へと逸脱させるやいなや、充足せるセクシャリティを跳躍のうちに再発見する超自我。サディストには犠牲者の自我のほかに自我などない」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.186~187」河出文庫)

なので、放置しておくといずれ被害者は殺害されていたか殺害されるに等しい行為(飛び降り、等々)を強要されていたか、少なくとも自殺に追い込まれていたにちがいない。またなお、加害教諭らは二〇代の被害教諭らに対し「セックスを強要しその映像を送る」ことを命じていたとされる点についいて。残酷さと性的官能性との関係について。

「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)

「或る人間の性欲の程度と性格とは、その精神の絶頂にまで及ぶ」(ニーチェ「善悪の彼岸・七五・P.104」岩波文庫)

とすれば比較対象が出てくる。先日判決のあった「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」。判決は最終的に終身刑。今回の「いじめ教諭」は死者こそ出ていないものの顕著な類似性を感じないではいられない。なお、「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」の被告の場合、被告はまだ自分の欲望に関して正直に話していた。が、「神戸市いじめ教諭事件」の加害者側はいっこうに正直でもなければ真面目でもない。或る意味、残酷さはなるほど程度の差に過ぎないかもしれない。だが一定の年齢を越え、社会的に狡猾になっているぶん、よりいっそう《残酷なもの》は姿形を変えて残るのである。当局発表では「なるべく予断を排して」とのことだった。ところがしかし「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」は、当局発表にある「予断」に入るのかそれとも入らないのか。そんなこともわからない状態なのである。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー1

2019年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
アルマンに対する裏切りという実践へ踏み切ることに眩(まばゆ)く光り輝く抵抗できない誘惑を覚えるジュネ。ジュネは強度をスティリターノの側へ素早く移動させる。

「そのうえさらにすばらしいことは、わたしを愛していない、そしてわたしにとって裏切ることなど思いもよらないスティリターノが、そのことでわたしを援(たす)けてくれるということだった。スティリターノという人間の、鋭い性格は、心臓を刺し通す短剣、というイメージにこのうえなく相応(ふさ)わしかった。悪魔の力、その我々に対する威力は、彼の皮肉さにある」(ジュネ「泥棒日記・P.386」新潮文庫)

人間はなぜ「神」に祈るのだろう。なぜ「悪魔」に祈らないのだろう。たとえば日本でも、打ち続く豪雨災害に対して「悪魔のよう」だという人々がいる。それなら「悪魔」に対して慈悲を乞うのが妥当ではと考えないのはなぜなのか。「神」は何も約束しないし「悪魔」もまたそうだ。どちらも人間による創造物でしかない。そしてそれが悪魔に見えたのなら、なぜ悪魔に向かって許しを乞わないのだろうか。ジュネは興味深いことを述べている。

「ヘルメス(マーキュリー)は、ギリシャ・ローマ時代の泥棒たちの守護神であったということだ。つまり泥棒たちはいかなる力に加護を求めたらよいかを知っていたーーー。悪魔と盟約を結ぶことは、あまりにも自己をのっぴきならない立場に置くことである、それほど悪魔は、我々が最後の勝利者であることを知っている神に対立する存在なのだ。人殺しでさえも、悪魔に祈る勇気はあるまい」(ジュネ「泥棒日記・P.307」新潮文庫)

どちらがどちらなのかわからない、ということがようやく明確になってきた。要するに、神(秩序)は悪魔(無秩序)から生まれた。そして無秩序とは自然の猛威であり、秩序とは社会的な約束事の束である。ジュネはおもう。スティリターノはなぜ魅力的なのか。

「彼の魅力は、あるいは、彼の我々に対する冷淡さにほかならないのではあるまいか」(ジュネ「泥棒日記・P.386~387」新潮文庫)

スティリターノの冷淡さはアルマンの抵抗力よりも魅惑的なのだ。スティリターノは自然力に対して冷淡な態度を取る。アルマンはどうか。

「世間的道徳の掟(おきて)を否定した際のアルマンに見られた激しさ(フォルス)は、アルマン自身の力(フォルス)を証明すると共に、彼にのしかかっていたそれらの掟の強大な力をも証明していた」(ジュネ「泥棒日記・P.387」新潮文庫)

アルマンの場合、世間からの蔑視に対して全力で対抗する。それはアルマンの犯罪者としての自尊心がそうさせるからだ。しかしスティリターノは違っている。ジュネはアルマンとスティリターノとを簡略に比較して述べる。

「ところがスティリターノのほうは、そうした掟に対してただ薄笑いをもって対するだけだった。彼の皮肉さが、わたしをすっぽり魅了したのだった。彼の皮肉さは、そのうえ厚かましくも、世にも稀(まれ)な美しい顔の上に自己を表現していた」(ジュネ「泥棒日記・P.387」新潮文庫)

アルマンの持つ驚異的な精神的肉体的威力と比較してスティリターノの力はどこが異なっているのか。スティリターノが世間からの蔑視に対して見せている力。それはニーチェのいう「ニヒリスト」の態度なのだ。それがジュネを魅了した。

「《完全なニヒリスト》。ーーーニヒリストの眼は、《醜いものへと理想化し》、おのれの追憶に背信をおこなうーーー。すなわち、追憶が転落し凋落するにまかせ、遠いもの過ぎ去ったもののうえへと弱さのそそぐ屍色(かばねいろ)に追憶が色あせてゆくのをふせごうとはしない。そしてニヒリストは、おのれに対してなさぬこと、そのことを人間の全過去に対してもなすことはない、ーーー彼はそれを転落するにまかせる」(ニーチェ「権力への意志・第一書・二一・P.37」ちくま学芸文庫)

だがしかし、ニーチェのいうニヒリズムはここから先、二種類に区別される。「能動的ニヒリズム」と「受動的ニヒリズム」とにである。問題になるのは前者の「能動的ニヒリズム」である。それは《ディオニュソス的》「運命愛」を肯定する。この肯定は、自ら選択した次の次元へ意志する能動的通過の態度として考えることができる。

「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)

さて、「葬儀」。

「私はジャンの死によって惹き起された苦しみを通して自分の恋慕に気づきつつあった、が、同時に、その恋慕は自分の外に熱中しうる対象を持たぬ以上、その情熱によって私を磨りへらし、すみやかに私の死を招くのではないかという恐ろしい不安が次第にはびこりだすのだった」(ジュネ「葬儀・P.27~28」河出文庫)

リビドー備給の逆転を恐れるジュネ。それは「私にけっきょく災害をもたらす」とほとんど確信に近い予感を持つ。

「その炎は(私の瞼の縁(へり)はすでに焼けこげていた)方向を逆転して、と私は考えるのだった、ジャンの面影をうちにとどめて、自分とひとつに溶け込ませている私にけっきょく災害をもたらすことになるだろう」(ジュネ「葬儀・P.28」河出文庫)

ではなぜ、リビドー備給の逆転は「私にけっきょく災害をもたらす」ことになるのだろうか。すでにジュネは「私の瞼の縁(へり)はすでに焼けこげていた」と述べているわけだが。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

この方向の転倒を回避することはできないのだろうか。或る程度なら或る方法で回避することができる。アルトーのいうように、社会的に作られた「神」=「ステレオタイプ」(固定観念)による力のベクトルに縛られないという態度を取ることによって。重要なのは、社会的規模であらかじめ与えられた諸条件に対する全面的な態度の変更である。

「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

神、
そして神とともに
その器官ども。

私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.44~45」河出文庫)

アルトーのいう「器官なき身体」についてドゥルーズとガタリは次のように述べる。

「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)

前に触れた資本主義独特の平均化作用について。ほとんどすべての一般人は均質化され、平板化され、群畜化され、一般化される。均質化作用というのはどの個人もすべて同じものになるということを意味する。だからこれまでそれぞれに違った賃金を受け取ってきた賃金労働者は、均質化されることによってどの労働者も同じ価格の賃金を受け取ることになる、ということを必ずしも意味しない。むしろ雇主の側から見れば、質的に同一であるのなら、いっそのことAIにすべて任せ切ってしまえばわざわざ人間を雇って労賃を支払う義務から解放されると考えるのである。ただし過程は今なお進行中であって絶望的なまでに決定してしまったわけではない。とはいえ、条件がこれまでと同じであれば、高度テクノロジーの進歩が多くの労働者を労働現場から排除することに成功してきたように事態は進むにちがいない。

なお、神戸市の小学校で発覚した「いじめ教諭」問題。当局は「徹底的に調査する」という。けれども、「当局発表」という行為について、これまで何度も繰り返し裏切られてきた一般市民としては、容易に信じがたいと言わねばならない。さらに、どの語彙にしてもそうなのだが、繰り返し使用すればするほど、もし言葉に内容が伴っていなかった場合、言語としての価値を急速に喪失していく傾向がある。「徹底的」という言葉もまた例外ではない。たとえば、使用される言語が日本語であれば、それはただちに日本語に対する侮辱を意味する。日本語の主催者とされる天皇に対する侮辱でもある。ちなみに神戸市教育委員会は「カレー給食中止」を発表したが、あまりにも世間一般を舐めきった瞞着的措置であるとしかおもえない。神戸市教育委員会の中にはなるほど右派もいれば左派もいる。しかし一つの組織としては右派も左派も関係ない。すでに日本社会に対して侮辱的瞞着を加えただけでなく、日本語の主催者とされる天皇を侮辱したという点ではもはや決定的な一撃だったとおもえる。しかし自らの自主的判断でそうしたというのであれば、それはそれで「思想信条の自由」ではあり、法律によって保障されねばならない。しかし「思想信条の自由」からそうしたのでない場合、それはただ単に日本社会に対する侮辱でしかない。ところが、もし仮に本当に「徹底的な調査」の上で相当とされる刑罰が実施されるとしよう。刑罰には刑罰独特のトリックが内在されている。それはどういうことかというと、刑罰は《犯罪そのもの》を裁くのではなしに、わざと的を外して「犯罪《者》」を裁くという致命的見当違いである。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

《犯罪そのもの》を裁くのではなしに、わざと的を外して「犯罪《者》」を裁くという見当違い。この「ねじれ」。あまりにも長い間にわたって習慣化されてきたために「ねじれ」が「ねじれ」に見えないという悲喜劇。そして習慣はいったん成立してしまうとどのような事態をもたらすのか。マルクスはいう。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

今後はもっと根本的な〔ラディカルな〕議論が必要とされるだろう。とはいえ、「根本的な〔ラディカルな〕」とはどのような態度を指すのか。

「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫)

ところでニーチェのいう刑罰における「ある種の顧慮」とはどのような「顧慮」なのか。

「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)

だから人間はいつも国家によって利用されるだけ利用され、徹底的に利用され尽くしたあげく、ほとんどの場合ただ単に棄てられて終わる。そのような国家風土を作り上げている文化的条件とはどのような条件なのか。

「《悪用され雇い入れられている一種の文化》が存在しているーーー周りを見給え!今や最も活動的に文化を促進している諸力こそは、そうしながら下心を抱いているのであって、純粋な非利己的な心情において文化と交渉しているのではない。

第一に《営利者の利己心》があり、これが文化の援助を必要とし、その返礼のつもりで文化を助けてもいるのだが、しかしもちろん、その際同時に目標と尺度を指図したがっている。

第二に《国家の利己心》があるが、国家もまた文化のできるだけの普及と一般化を渇望し、そしてその願望を満足させるための極めて有効な道具を手にもっている。単に束縛を解くのみならず、また適当な時に軛(くびき)につなぎうる十分な力のあることが国家に分かっており、また国家の土台が教養の円天井をそっくりもちこたえるのに十分なほどしっかりし広大であると前提すれば、その場合には国民の間に教養を普及しておくことは他国と競争する際にも、いつも専(もっぱ)ら国家それ自身にとって有利である。現在『文化国家』について語られるあらゆる場合に、時代の精神力を、これが現存の制度に奉仕し役立ちうる範囲内で解放するという課題が国家に負わされているのが見られる。しかしまたただそういう範囲内においてのみであるが、これは森の流れが堰(せき)や篔(かけひ)を使って分けて引き込まれ、かなり小さな力で水車を廻すのと同様であるーーーもし流れの全力があたれば水車にとって有用であるよりもむしろ危険であろう。あの解放は同時にというよりはむしろはるかに多く束縛である。

第三に文化は、《醜いあるいは退屈な内容》を自覚しておりながら、これをいわゆる『《美しい形式》』によってたぶらかそうとするすべての人々によって促進されている。内なるものが外面に即して判定されるのが通例であることを前提にして、外面的なものによって、言葉、身振り、飾り、誇示、気取った作法によって観察者を強制して内容に関して誤った結論を下させるつもりなのである。近代人はお互いに際限なく退屈し合い、遂にあらゆる芸術の助けをかりて自分を興味あるものに仕立てる必要を感じているらしく私には時として思われる。そこで彼らは彼らの芸術家によって自分たちをぴりっとした、塩も利いている料理として食卓に出してもらう、そこで彼らは東洋西洋の全体にわたる香料を自分たちにふりかける、そして確かに!今や彼らはいかにも甚だ興味ある匂い、東洋風西洋風全体の匂いを放っている。そこで彼らはどんな趣味をも満足させるように準備する。だから、芳香を放つものであれ悪臭を放つものであれ、高尚なものであれ田舎風な粗末なものであれ、ギリシア風であれシナ風であれ、悲劇であれ劇化された猥談(わいだん)であれ、お好みのままに注文に応じますというわけだ」(ニーチェ「反時代的考察・第三篇・四・P.299~302」ちくま学芸文庫)

そしてまた、或る特定の地域において言語(あるいは言語的記号)の主催者が神格化されるという現象は何も日本にかぎったことではない。世界中のあちこちで古代からずっとあった。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)

したがってこういえる。なるほど「見た目」はどのように変わって見えていても、その内実は、少なくとも現状では今だにそうだと。さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。

BGM

交錯し合うジュネたち/解体し去るアルトー

2019年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
次に問いたいのはジュネたちの意志が軽やかに、なおかつ様々に交錯し合うシーン。

「わたしはふと、事実は彼がわたしに言う前にロベールにも同じ話を持ちかけて、断わられたのではないかと考えた。その同じ時刻に、もしかすると、ロベールは、わたしをスティリターノに結びつけていたのと同じような親密な関係をアルマンとのあいだにつうろうと試みているのかもしれないと思った。しかし、わたしには、この相手を変える交錯ダンスで、わたしがわたしの選ぶべき相手を正しく選んだという確信があった」(ジュネ「泥棒日記・P.384」新潮文庫)

このような状況をヴァージニア・ウルフは「社交」と呼んでいる。

「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』。ーーー『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)

列車の窓が「鏡」として機能している。そこで、というより、「鏡《において》」、始めてこの種の「社交」は可能になる。しかし「鏡」は差し当たりまだ特権的な貨幣形態を持っていない。むしろ分散され延長されている。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

スティリターノのことを思い切れないジュネ。というふうに読んでしまいがちだが、「アルマンを裏切る」快感を得んが《ために》わざわざスティリターノの身体へ想像力を注ぎ込み、アルマンからスティリターノへリビドー備給の強度を移動させたというのが真相だろう。その行為はきっと「眩(まばゆ)い」から。すなわち「音楽」に《なる》にちがいないから。

「アルマンを裏切るという考えが、わたしを眩(まばゆ)いばかりの光明で照らした。わたしはあまりにも彼を恐れ、愛していたので、彼を欺(あざむ)き、彼を裏切り、彼から盗むことを欲せずにはいられなかった」(ジュネ「泥棒日記・P.386」新潮文庫)

ただ単に「裏切る」だけでなく「盗む」とある。もちろん「ブレストの乱暴者」に出てきたセブロンのように、クレルが昼寝している肉体を「盗み見る」ことも含まれる。キリスト教の教義というのはそれほどまで多様な性愛に奉仕するための語彙で今なお溢れかえっているといえよう。

「わたしは、瀆聖(とくせい)の行為に伴う不安に満ちた悦楽を予感した。彼が神であったのならば(彼は憐(あわ)れみの感情を知っていた)、そしてわたしに情けをかけてくれたのならば、彼を否認することは、わたしにとっていうにいわれぬ優しい感動であった」(ジュネ「泥棒日記・P.386」新潮文庫)

さて、「葬儀」から。かつて儀式というものは長いものだった。今ではもっと短縮された。ということは儀式は延長することもできるし短縮することもできるということを意味する。必ずしも「こうでなくてはならない」という絶対的規則が始めからあったわけではない。伸び縮みする。しかしなぜ値段も変化するのだろう。ジャンの葬儀もこじんまりしていて、ジャンの母は嘆く。だがジャンの母の情夫は、息子ジャンを射殺した側であるナチスの一員エリックなのだ。昔はよくあった話かもしれないが。なので情報通信システムが比較にならないほど発達した今はもっと大量にあるかもしれない。

「人夫が棺の蓋を運び込んだ。私は胸をえぐられるような思いを味わうのだった。蓋はねじでしっかりとめられた。その凍結が目に見えない、たたき割ることも、また無視することだって可能な死体硬直のあとに、脆そうな、そのくせ頑丈で、確実な樅(もみ)板の鈍重さのせいで酷たらしい、最初の別離が控えていた」(ジュネ「葬儀・P.26」河出文庫)

しかしどうして葬儀にたずさわる人々は「単なる人夫」として取り扱われるのか。それ以上ではなく以下であってもならないのか。それについてはいずれ取り扱うことになるだろう。先へ進もう。

ジュネは「胸をえぐられる」悲しみを感じる。けれどもジュネ的態度から考えると、アクセントが置かれているのは明らかに「味わう」という部分だろう。存分に味わい尽くすこと。それが大事だ。そうでないとジャンに《なる》ことなど畏れ多いと感じるジュネなのである。

「ジャンの魂より悪質な魂なら溶かし去ってしまえそうな、軽い、小さな孔だらけの、猫かぶりの板」(ジュネ「葬儀・P.26」河出文庫)

確かにそうだ。しかしどんなに「軽い」「小さい」「猫かぶりの」、ただ単なる「板」ではあっても、儀式というものはそれを破壊したくなる衝動を躊躇させなくてはならない。儀式は掟だ。しかしただ単なる「板」でしかないのなら、やろうとおもえばそれこそ叩き割ってしまうことはできる。儀式はキリスト教の伝統に則って執り行われている。キリスト教の信者でなくなってしまえば関係ない。だがそれは礼を失した行為にあたる。よほど余裕のない状況下に置かれないかぎり誰もそうしない。ところで、もしこの「板」が手に入らなかったとしたら。放置しておくことになるのだろうか。そうではない。なぜかはわからないが、人間は人間の死に対して何らかの手を加えずにはいられないように出来ている。といっても、そうするのは人間が始めから宗教的な感情を備えているからではない。生き残った側の人間が死者に対して「良心の疚(やま)しさ」を感じるからである。善意からではないのだ。「良心の疚(やま)しさ」が大きければ大きいほど生き残った人間は死者を神妙かつ手厚く葬り去りたくなる。それは生前の人間に対して加えていたかもしれない暴力、憎悪、怨念、嫉妬、復讐感情、等々に対するせめてもの罪滅ぼしを荘厳化した行為だ。さらに儀式の荘厳化は自然の掟に対する畏怖の念を汲み取った結果でもある。生きている人間はいつも自然界からの報復を恐れている。ところが死は人間に、個々別々にではあれ、いずれ死ぬべき生きものでしかないという自然界の暴力的掟を現実のものとしてまざまざと思い起こさせる。人間は自分では自然の脅威をどれほど超越していると考えていても死の到来を通してどのみち自然界へ暴力的に連れ戻される。だから死は儀式という形式に還元された《暴力的祝祭》によって贖われねばならない。しかし儀式はときとして荒々しく転倒されることがある。敗北が決まって逆さ吊りにされたムッソリーニのように。それにしてもなぜ「逆さ吊り」なのか。情勢が決定的に逆転したことを内外に知らしめる、というより、まず誰よりも先に自分で自分自身に十分納得させ「味わう」ための「逆さ吊り」であるにちがいない。

「こいつは、黒々と、傲慢に、そのくせ私の冷やかな目つきと、その樹陰を歩むしっかりした足どりに怯えながら私の坂道をおおっていた、あの樹々のなかの一つから切り出されたのにちがいない、だって愛が飾り気なく私を迎え入れるあの高みへ私が訪れたおりの目撃者なのだから」(ジュネ「葬儀・P.26」河出文庫)

ここでは「目撃」に力がこもっている。

「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)

ニーチェが「アポロン的」な「幻想の力」というように、静かな興奮の裡(うち)に、どこにでも何にでも類似性を発見していかざるをえないジュネ。この類似性の系列はあまりにもあっさりと書かれているため、その多種多様性について、それこそ大したものだとおもうこともないではない。ジュネは言語的な重層構造について一定の区切りを付けて無視するということができない。言語に対してふつうに振る舞うということができない。短絡的な言語活用を逆に偽善として軽蔑する。その態度はいつも世間一般の法則外あるいは道徳外に位置してしまうという事態を自分みずから呼び寄せる。しかしこのように道徳外に位置することには、それはそれでそれなりに利得というものがいつも付いてくるのである。

「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)

さらに。

「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)

しかし他の人々の想像力が貧困なのか、それともジュネの側の想像力が余りにも突出しているのか。もし両者に違いがあるとしても、そのあいだには無数の想像力の差異があるにちがいない。ネット社会の到来によって今や両者の境界線は茫漠たる彼方へ消え去ってしまおうとしていることは確かだ。これまで無数の驚異的労働力あるいは知力または体力が陽の目を見ぬまま無駄に消費されていったにちがいない。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

悲しいかぎりというほかない。とはいえ、ジュネの記述を見るかぎり、悲しさはすぐさま壮大な想像力あるいは力能へ転化されているようにおもえる。というより、転化を待つまでもなくすでにジュネの想像力は拡張される瞬間を今か今かと待っていたかのように限度をぶち壊して押し広げられる。とうとう愛人ジャンと隔てられてしまったにもかかわらず。書かれているように、たった一枚の「板」だけで。宗教的儀式の威力というのはこういうときにまざまざと見せつけられるものだ。たった一枚の「板」に過ぎないのだが、それでもなお儀式ゆえ、叩き割ってしがみつくことはもうできない。そういえば、話題になっていた京都大学の立て看板。あれは「板」で出来ている。そしてそれらは記号であり旗でもありなおかつ主張でもあって、さらに人力でできているかぎり、「力《への》意志」が「板」へと加工されたぶん、個々別々に様々な儀式性を含んでいる。少なくとも八〇年代後半のそれらはどれも見事な出来栄えだった。芸術的でさえあった。それはさておき。

「ジャンは私から奪い去られた」(ジュネ「葬儀・P.26」河出文庫)

ジャンとの切断は新たな接続への入口でもある。その意味でジュネはさらなる「境界性」「変則性」「放浪性」へと生成変化していく自由を手に入れたことになる。とりわけ「放浪性」はドゥルーズとガタリにいわせると、こうなるにちがいない。

「旅人は生成変化を変更する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.182」河出文庫)

あるいは、よりいっそう微粒子化するといってもよい。人間であって人間でなくなるといっても構わないほどだ。その意味でアルトーは徹底的なリアリストだ。

「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

神、
そして神とともに
その器官ども。

私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.44~45」河出文庫)

アルトーのいう「自動性から解放」するということ。連綿と受け継がれてきた有機体からの解放。それは人間の歴史の極めて早い時期から、人間は「こうでなければならない」とされてきた「神」というカルト的信仰への抵抗である。「神」の教えに基づいてステレオタイプ(固定観念)化された「有機体《としての》人間」という「鋳型」(いがた)。アルトーはそこからの全面的解放を意志する。というよりアルトーは極めてありふれた本当のことを語っているだけだ。人間はいつも神の名の濫用によって、神の名の濫用の下で、或る種の「鋳型」(いがた)へ流し込まれ加工=変造される憐れな流動性に過ぎないと。解体し微粒子化し絶え間なく流動し去っていくアルトー。

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廃絶されたギュイヤーヌ/機銃掃射の奇蹟

2019年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネの感覚が一般人の持っている感覚とそれほど異なっているとはあまり思えないのはなぜだろう。一般人の起こす犯罪があまりにも醜悪に見えるからだろうか。それともジュネたちの起こす犯罪の側が実は一般人の起こす犯罪と類似する点を多く持っているからだろうか。この違いはどこからくるのか。社会一般の感覚というのは、犯罪者と非犯罪者とを区別する境界線というものに、あまりにも信頼を置き過ぎているというのが本当のところなのではなかろうか。

「わたしは、わたしがある自分の知らない罪を購(あがな)うために、徒刑場へ行くことを望んでいるのかどうか知りたいとは思わないが、わたしのそれへのノスタルジーはあまりにも強いから、わたしはどうしてもそこへ連れていってもらわねばすまないだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.377」新潮文庫)

ジュネはジュネ自身の好みゆえ、そう言う。ところがニーチェは正当にも次のように述べる。

「人々は、堅気(かたぎ)の男と悪党とのあいだの道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は、教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七〇五・P.439」ちくま学芸文庫)

あくまでも「ギュイヤーヌ」監獄にこだわるジュネ。監獄に入ったことがあるかどうか。囚人になったことがあるかどうか。その境界線が余りにも長い間にわたり、余りにも強く深く信じ込まれてきた、という経緯がある。

「わたしは、ただそこにおいてのみ、わたしがそこに入ったときに断ち切られた人生を続けてゆくことができると確信している」(ジュネ「泥棒日記・P.377」新潮文庫)

だから、ジュネもまた、ギュイヤーヌへの夢を断ち切れない。ギュイヤーヌという監獄においてかつてどのような刑罰が行われていたか。そしてそこで犯罪者は加工=変造されたのだった。「秩序」というものに本来性などなく、むしろ「秩序」は監獄の《あり方において》改めて創られるものだった。そしてそこでさらなる犯罪的知性を獲得し練磨することで犯罪者はよりいっそう強力でなおかつ洗練された犯罪的知性の所有者と化して出てくることになる。

「栄光や富への顧慮から解放されて、わたしは気長なそして細心の忍耐をもって、もろもろの受刑人(罰せられた者)たちの苦しいしぐさを遂行するだろう。わたしは、毎日、ただそれが懲役人(ちょうえきにん)を屈服させているところの、そして懲役人を創(つく)りだすところの一つの秩序から発したという以外の権威を持たない規則の命ずる労役を行うだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.377」新潮文庫)

ところが思わぬことに、ジュネが欲望するような身体刑というものは徐々に形態を変えていく。だからといって身体刑が持っていた役割自体が変わるわけではない。刑罰の形式は徐々に変化していくが、その「経済性」、「合理性」、「懲役人を創(つく)りだすところの一つの秩序性」という点ではほとんど変わらない。むしろ更新されていく。ともかく、ジュネのいう身体刑の過酷さはどのような役割を持っていたか。フーコーから。

「刑罰としての身体刑は、身体へのありとあらゆる処罰を包括しているわけではない。というのは、それは分化したかたちで苦痛を生み出すことであり、刑の犠牲の刻印のために、また処罰する権力の明示のために組織される祭式であって、自分の立てた原則を忘れ自己統御を失ってしまうような司法権力の激怒のすがたではないのである。身体刑の《極端さ》には、権力の一つの経済策全体がもりこまれている」(フーコー「監獄の誕生・P.39」新潮社)

さらに「経済策」としての「身体刑の《極端さ》」は必ず「統治者が凱歌をあげる儀式」として成立しなければならず、そしてまた次のように「身体刑を課せられる身体において双方をともに結びつける」役割をも果たさなくてはならない。

「身体刑につきまとう《極度の残忍性》は、したがって二重の役割を果たすのである。つまり、それは刑罰と犯罪のつながりの根本である反面、犯罪にたいする懲罰の激昂状態でもある。それは真実の華々しさと権力の華々しさとを一挙に保証するのであって、完了しつつある証拠調べの祭式、しかも統治者が凱歌をあげる儀式である。しかもそれは身体刑を課せられる身体において双方をともに結びつける」(フーコー「監獄の誕生・P.59」新潮社)

ところが、かつての「ギュイアーヌ」(今の南米ギニアの一区画にあった徒刑場)はもう「廃絶されている」。

「わたしは自分をすりへらすだろう。わたしがそこで再会する仲間たちがわたしを援(たす)けてくれるだろう。わたしも彼らのように丁寧になるだろう。すっかりこすり磨(みが)かれてーーー。しかしわたしが語っている徒刑場はすでに廃絶されているのである」(ジュネ「泥棒日記・P.377~378」新潮文庫)

しかし問題は、目に見える「刑罰」の廃絶とともに、より目に見えにくい「刑罰」へ変化したことである。目に見えにくい「刑罰」へ変化したことで逆に《刑罰的なものは》よりいっそう狡猾なものになり広範囲かつ長期的に生き延びるのである。

さて、「葬儀」から。

死体と化して棺桶(かんおけ)に収まっているジャン。皆が順番にその顔を覗いて廻るシーン。ジュネにもそろそろ順番が廻ってくる。「機銃掃射」による射殺だからとことん無惨であるにちがいないという皆の好奇心を読み取るジュネ。ジュネはそれを皮肉を込めて「機銃掃射の奇蹟」と書く。けれどもジュネがおもう「奇蹟」は、恐るおそるの《受動的》好奇心ではなく、「機銃掃射」によって「かくもいたいけなしろものに、一人の若者に変り果てた若者の姿」、という落差あるいは差異の出現という「奇蹟」であり、また落差あるいは差異による「変り果て《ぶり》」に怖気を奮(ふる)いつつ死体そのものに奮(ふる)い付きたいという愛欲が「奇蹟」という言語によって生産され、《積極的》かつ《能動的》に目指されているのではと思われる。このような場合の愛欲のことをフロイト用語で「性的リビドー備給」と呼んでも差し支えないだろう。

「機銃掃射の奇蹟によって、かくもいたいけなしろものに、一人の若者に変り果てた若者の姿を眺めるために、私は人々の肩ごしに身を乗り出すのだった」(ジュネ「葬儀・P.24~25」河出文庫)

ところが尻フェチのジュネとしては「機銃掃射」による「穴だらけ」になったジャンのぼろぼろの顔面をこそ期待していたのかも知れないが、そもそもそういう事態を期待していたかどうかはわからない。けれども、常日頃のジュネにすれば、穴ならむしろ「尻の穴」であってほしいと願っているため、ジャンの死体がそうでないのを見て「あまりにもありふれている」と落胆する。

「それはたぶん死神の顔にほかならなかった、が、じっと動かぬその様は、あまりにもありふれているために、心のなかで私はこんなふうに考えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.25」河出文庫)

死神に不平不満を押し付けるジュネ。しかしこの不平不満の列挙は重要な意味を含んでいる。

「死神はどうしてまた肉体なんか、顔や、手足なんか身についているのか、映画スターや、海外巡業の名演奏家や、亡命中の女王や、追放された国王の場合も同じことだが。彼らの魅惑は人間的魅力とは別個のものから由来しているのに」(ジュネ「葬儀・P.25」河出文庫)

世間一般でいう「映画スター」「海外巡業の名演奏家」「亡命中の女王」「追放された国王」。日本では折口信夫のいう「貴種流離」に相当する。説明しだすとあまりに長くなるので省略する。ウィキペディア参照。なお、日本では天皇はどうなのかという問いが出てくるにちがいない。どちらとも言えないとしか言えない。追放されたことがあるのかないのか、実際のところはよくわからないし、そもそも日本史は書き換えられた痕跡がすさまじい。だが、たとえばスサノオ神話の場合、神話ではあるものの、なおかつ天皇ではないものの、追放されたという記述がある。詳しくは山口昌男「天皇制の深層構造」『天皇制の文化人類学・P.51~92』(岩波現代文庫)を参照してほしい。スサノオを神でもなく人間でもなく一種の記号として捉え、スサノオが神話の中で果たしている役割に焦点を当てて述べられている。四〇頁も丸写しできないので。

また、今の天皇制でいえば、昨年の豪雨災害の被災地での振る舞いが話題になった「ひざまずく天皇」というキャッチコピー。天皇がひざまずくシーンをマスコミを通して見て、個人的には、何かこれといった違和感を抱いた人々はかつてほど多くはなかったのではという感想を持っている。なぜ「おかしい」と見えないか。それは言うまでもなく資本主義特有の平均化作用が皇室内へも浸透しているからだというほかない。資本主義の平均化、均質化、一般化作用がどれほど世界的規模で浸透するものか、それがいち早く始まったのは近代ヨーロッパにおいてであり、その兆候をいち早く察したニーチェはこういっている。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)

したがって、これ以上天皇と国民とを近づけることは危険だと感じる右翼あるいは左翼は、いずれの陣営にしても資本主義の持つ一般化、群畜化、平板化作用について、今後どのような態度を取るのか。決めるべき時期が加速的に到来したことは確かだとおもう。なるほど「ひざまずいた」ことは確かだ。けれども、あの光景がどうして「おかしい」と見えないか、あるいは「おかしい」と見えるか、それは人々が個々別々に考え思うことであって国家が介入すべきでない。そうでないと「思想信条の自由」は消滅する。日本からは右派も左派も両方ともまったくいなくなってしまい、ほとんど「記号《としての》人間」しか存在しなくなってしまうからでもある。資本主義というモンスターは、アフリカや南米や中東を見ればわかるように、絶え間なく流動する多様性としては、まだまだ有り余るエネルギーを噴出している。日本だけが例外というわけにはいかない。その実例として、「ひざまずく天皇」という光景が、かつてほど「おかしく」は見え《ない》という一つの事例として出現したと見るのが実際的なのではと思うのである。先手を打っていたのは日本の国会議員ではなくましてや与党でも野党でもなく、ほかでもない資本主義という世界的規模の諸力の運動だというべきではないだろうか。少なくともそのための認識を刷新させる機会にはなったと思われるのである。しかしかつてはそうではなかった。

ジュネは「マッチ箱の姿で現われる」ことも可能なはずだとして「サラ・ベルナール」の名をあげる。そしてその条件として殺到する人間は「客車の昇降口にひしめく百姓女ども」でなければならないと考える。なぜなら、是非「見たい」と殺到する側と「見られる」ことを前提に殺到される側とのあいだには、或る《距離》が必要だからだ。

「だから、彼女を一目見ようとして客車の昇降口にひしめく百姓女どもの熱狂を裏切ることなく、サラ・ベルナールはマッチ箱の姿で現われることだってできたはずだ」(ジュネ「葬儀・P.25」河出文庫)

この《距離》は始めはただ単なる《差異》に過ぎない。だがしかし《差異》は、ただ単に出現するだけでなく、出現するやいなや或る種の感情をも同時に出現させないではおかない。それは「憎悪」である。

「《差異は憎悪を生む》」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六三・P.280」岩波文庫)

また、何度も繰り返し引用しているように、ニーチェは人間の「仮面/顔」について、「最良の仮面は素顔である」、と述べている。

「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)

とすれば、次のセンテンスはどう考えればいいのだろうか。

「私たちは顔ではなく、死んだジャンを拝(おが)みにやってきたのだ、おまけに私たちの期待はたいそう熱烈なために、それほど私たちを驚かせることなく、彼はどのようなかたちででも出現する権利を有していた」(ジュネ「葬儀・P.25」河出文庫)

ジャンの素顔は流動する。常に既にさらに生成変化の過程にある。ジュネが「拝(おが)みにやってきた」ジャンの顔は、常に既にさらに流動する生成変化の過程としてのジャンである。だから、ジャンの素顔がたとえばジュネ好みの「尻の穴」に変容していたとしてもジュネはけっして驚くことはない。むしろジュネにとってとりわけジャンらしい部分はジャンという若年のレジスタンス運動の闘士として果敢に躍動する様々な姿態であり、なかでも最もジャンらしい部分はほかでもないジャンの「尻の穴」をおいてほかにないからだ。ゆえに棺桶の中に収められたジャンの顔は、あの華々しく生きていた頃と同様の力とともに「尻の穴」という素顔で「出現する権利を有していた」にもかかわらず、なぜありふれたただ単なる顔でしかないのかという脱力感がジュネにはある。

ヒントとしてのカスタネダ。

「見つめることは《すること》だが、《見ること》、それは《しないこと》なんだ」(カスタネダ「呪師に成る・P.261」二見書房)

人間は或る対象を見つめているうちにその対象を対象たらしめている諸条件を総動員して、その対象についてのステレオタイプ(固定概念)に行きついてしまう。それが「見つめること=《すること》」であり、結局のところ、与えられた対象についてのステレオタイプ(固定概念)を再認し、再認を反復し、再認の反復を再生産してしまうことにしかならない。だがしかし「《見ること》」は「見つめること=《すること》」とは異なる作業である。それは或る対象を「見つめること」によってその対象についてのステレオタイプ(固定概念)を再認し、再認を反復し、再認の反復を再生産することにはけっして《行きつかない》作業だ。その対象を対象たらしめている諸条件を逆に《忘れてしまうこと》。さらに《別の仕方で》アプローチするための準備体操ともいうべき生きいきした別種の感性を解放することだ。したがって、「《見ること》、それは〔これまでと同じようには〕《しないこと》」なのである。「《見ること》、それは〔これまでと同じようには〕《しないこと》」によって、すなわち《別の仕方で》アプローチすることによって、まったく新らしい発見を見出すことになる。ドゥルーズとガタリならこういうだろう。

「生成変化とは、線が点から解放され、線が点を識別不可能にする運動なのだ。つまり樹木状組織の対極にあるリゾーム。樹木状組織からの離脱。《生成変化は反-記憶である》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.271~273」河出文庫)

そしてさらに。

「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)

というように。あるいはニーチェは次のように述べる。

「《非歴史的》に感覚する能力ーーー忘却する力を全然所有せず、到る所に成長を見るように宣告されている人のことを考えてみてくれ給え。かかる人はもはや彼自身の存在を信ぜず、もはや自己を信ぜず、すべてのものが分散して動点に流れ込むのを見、生成のこの流れのなかに自己を見失う」(ニーチェ「反時代的考察・P.124~125」ちくま学芸文庫)

そのような「新陳代謝」の作業がときどきは必要なのだ。でないと人間は非多様的な一本調子の歴史の密室の中に監禁され窒息して死んでしまうほかないだろうから。

BGM