ジャンの死体を収めた「棺桶」がジュネの身体(とりわけ性的記憶と身体的感覚)を通して「棺桶」から「マッチ箱」へと生成変化する過程を見た。頁を少し戻りたい。このようなアナロジー(類似、類推)は棺桶からマッチ箱への移動が始めてでは何らない。カーテンの赤い「ひだに包まれたナチス隊員エリック」から「肛門」への移動が始めてだったわけでもない。もっと前に述べられている。
「ーーー《けつ》のよ!《けーつ》の穴によ!』
はえぬきの兵士たちで賑わうこの物語が、刑を言い渡された兵士、すなわち戦士と泥棒、戦争(いくさ)と窃盗をひとつに溶かし込んだもっとも手のこんだ存在にふさわしい、めったに聞かれぬ言い廻しで幕をあけるのもなにかの因縁だろう。《飴玉》《座金》《玉ねぎ》《後ろ》《お月さん》《奴の糞(くそ)籠》などとも名付けられるものを、<懲役部隊兵>はまた《青銅(けつ)の眼玉(あな)》とも呼びならわす」(ジュネ「葬儀・P.18~19」河出文庫)
ジュネがこみ上げる情動を込めて思い出すシーンは元兵士と街路のごろつきたちとの会話だ。
「やがて、故国へ引きあげてからも、彼らは<懲役部隊>の秘蹟をひそかにまもりつづける。ちょうど『法王』や『皇帝』や『国王』に仕える諸大名が、千年前は勇敢な盗賊団の一員にすぎなかったことを誇りに思うように。囚人兵は、青春を、太陽を、獄吏の折檻を、男色連を、その葉っぱが<懲役兵>の女房とも呼ばれる《うちわさぼてん》をしんみり思い出す。砂漠を、熱砂の行軍を、その気品とたくましさはとりもなおさず自分の陰茎とそしてお稚児さんのそれでもあったしなやかな棕櫚の樹を思い出す。墓場を、刑場を、そして尻(けつ)を思い出す」(ジュネ「葬儀・P.19」河出文庫)
全国共通の歴史的事実が含まれている。「『法王』や『皇帝』や『国王』に仕える諸大名が、千年前は勇敢な盗賊団の一員にすぎなかった」とある。この記述には、古代、中世、近世、近代以降を含め、世界の支配者層について、その過去は何ものであったかという歴史が明らかにされている。ニーチェはいう。
「真理は冷酷である。われわれは、これまであらゆる高度の文化がどのようにして地上に《始まった》か、を容赦することなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫(くじ)かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業か牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」(ニーチェ「善悪の彼岸・二五七・P.265~267」岩波文庫)
とはいえ、「貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」としても、いったん「支配階級」になってしまうと、今度は急に国家として、一般的市民の統治者として振る舞い始める。そして次に「山のなか」や「海の冒険」から新しく出現する「野蛮人階級」に対して国家として振る舞い、新しく登場してきた「野蛮人階級」を犯罪者扱いして刑罰を科してきた歴史がある。国家のあるところでは「野蛮人階級」は飼い馴らされ、去勢され、凡庸化される。その規則にしたがえない場合、彼ら彼女たはただちに犯罪者とされ犯罪者扱いされる。
「社会、私たちの飼い馴らされた凡庸な去勢された社会、それは、山のなかから、ないしは海の冒険からやってくる野生の人間が必然的に犯罪者へと変質するところである」(ニーチェ「偶像の黄昏・四五・P.138」ちくま学芸文庫)
そして犯罪者として、なおかつ「破壊者」として、刑罰を受けなければならなくなる。
「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)
ところが内部から腐敗し軟弱化した国家は時折、根底から転覆されることがある。その反復の連続がすなわち歴史なのだ。なので歴史はあちこち断層だらけだともいえる。また「飼い馴らし、去勢し、凡庸化する」とはどういうことか。主に慣習を通して行われる多少なりとも暴力的な加工=変造の作業である。
「風習とはしかし行為と評価の《慣習的な》方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理もまったくない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを《望む》から、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、『悪い』ということは、『個人的』、『自由な』、『勝手な』、『慣れていない』、『予測がつかない』、『測りがたい』というほどのことを意味している。そのような状態の尺度でいつも測られるので、ある行為が、慣習が命令するからでは《なくて》、別な動機(たとえば個人的な利益のために)、それどころか、かつてその慣習を基礎づけていたまさにその動機自身からなされるときですら、その行為は非倫理的と呼ばれ、その行為をする者からさえそう感じられる。なぜなら、その行為は慣習に対する服従から行なわれたのではないからである。慣習とは何か?それは、われわれにとって《利益になるもの》を命令するからではなくて、《命令する》という理由のためにわれわれが服従する、高度の権威のことである」(ニーチェ「曙光・九・P.25」ちくま学芸文庫)
このようにニーチェを通してジュネを見てくるとアルトーがヘリオガバルスの軌跡について述べた文章との一致がよく見て取れる。それは両者に共通の「アナーキー性」という性格である。
「ヘリオガバルスとは、男であり女である。そして太陽の宗教とは、人間の宗教であるが、自分の姿をそこに反映する男の分身である女なしでは、それは何もできないのだ。行動するために『二者』に切断される『一者』の宗教。『存在する』ために。『一者』の最初の分離の宗教。最初の両性具有者のなかで結ばれた『一者』と『二者』。それは『彼』、男。そして『彼』、女。同時に。『一者』においてそれらは一体となる。
ヘリオガバルスのなかには二重の戦いがある。1、『一者』のままでありながら分裂する『一者』の戦い。女となり、そして永久に男のままである人間の戦い。2、人間として太陽の王であることをうまく受け入れられない人間である『太陽王』の戦い。この王は人間に唾を吐きかけ、最後に人間を溝(どぶ)に投げ込んでしまう。なぜならひとりの人間は王ではなく、しかも彼にとって、王として、孤独な王、受肉した神としてこの世に生きることは、堕落であり、奇妙な罷免であるからだ。ヘリオガバルスはじぶんの神を吸収する。彼は自分の神を食べる。キリスト教徒が自分の神を食べるように。そして彼は自分の生体組織のなかでその原理を分離する。彼は自分の肉体の二重の空洞のなかでこの諸原理の戦いを繰り広げるのである。
そしてこれこそ当時の歴史家ランブリディウスが理解しなかったことなのだ。『彼はひとりの女、内気なコルネリア・パウラをめとり』、と彼は言う、『結婚に湯水のように金を使った』。この歴史家は、ヘリオガバルスが女と寝ることができ、正常に女と交わることができたことに驚いている。生まれつきの男色家にとって奇妙な矛盾であり、しかも男色に対する一種の生体の裏切りであるような行為は、ヘリオガバルスにあっては、このような宗教的で早熟な男色家には思想の一貫性があるのだということを証明している。
しかしこの回転するイメージのなか、受肉したウェヌスの血をひくこの魅惑的で二重の性質のなか、彼の驚くべき性的矛盾のなかには、両性具有的なものよりはるかにずっと、最も厳密な精神の論理のイメージそのものに見えるものがあるが、それこそは《アナーキー》の観念なのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.152~154」河出文庫)
さらに慣習が定着し、慣習があたかも自然法則のように感じられるようになるまでには、国家はどのような組織的暴力を用いてきたか。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
さて、アルトー。
有り余る労働力あるいは強度のすべてを生産し製品化し消費する意志を貫徹する資本主義大国アメリカ。スターリンのロシアも例外ではない。
「もはや果実も、樹木も、野菜もなく、薬草も、他の植物もなく、結局食物もなく、ありあまるほどの合成製品が、蒸気のなか、空気中の特殊な液体のなかで、合成によって、抵抗する自然から力づくで抽出された大気の特別な軸の上に生みだされる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10~11」河出文庫)
すべての商品はすでに「抵抗する自然から力づくで抽出された」。しかも「自然」は「抵抗」しているにもかかわらず、とりわけキリスト教は世界制覇とともに資本主義的生産様式を励まし、資本主義発展のために全力で尽力し、とことん高度化してますます自然界を破壊することに貢献してきた。だが自然の側にすればどうだろう。アルトーは皮肉を述べる。
「その自然は戦争に対してはいつも恐れだけを抱いてきたのだ。だから戦争万歳ではないか?」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
アメリカ人だけではなくスターリンのロシアもまた、何に向けて全力を上げて性的リビドー備給のために余念がないのか。
「なぜなら、こうしてアメリカ人が準備したのは、いまも必死で準備しているのはひたすら戦争なのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
だからこういうことが起こってきたし今なお進行中である。
「《力能》。ーーー公理系は、公理系が処理する力能よりも、つまり自分のモデルとなる集合の力能よりも大きな力能を、必然的に作り出してしまうと仮定しよう。この力能はあたかも連続するものの力能のようであり、公理系に繋がりつつもそれを溢れでてしまう。こうした力能をわれわれはただちに、軍事、産業、金融等のテクノロジーのたがいに連続する複合体が体現する破壊の力能、戦争の力能のうちに見出すのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.231~232」河出文庫)
なお、ここ数年の豪雨災害報道について。避難勧告や避難準備に関し、マスコミにしても政府当局にしても、ほとんどがスマートフォンや携帯電話向けに情報発信されているようだ。しかし個別的レベルでいうと、たとえば我が家の場合、上流階級ではなく下層階級なので、スマートフォンは持っていない。他の家電等の買い換えに必要なぶんを差し引くと、スマートフォンを購入する余裕がない。後期高齢者のために携帯電話は一台あるがタイプが古いのでしばしば壊れる。テレビも最も小型のブラウン管式が一台あるだけで今にも壊れそうだ。このような世帯は一体どうすればよいのか。マスコミにしても政府当局にしても「小まめにチェックして」という。けれども「小まめなチェック」など始めから出来ない。下層階級に属している世帯には。
これまで何度も繰り返し述べてきたように、そもそも資本主義本来の性質には二種類ある。第一に均質化作用。第二に上流階級と下層階級への極端な格差社会化である。一方で第一の均質化作用が浸透すればするほど、もう一方で第二の格差社会化はますます深刻さを増していく。これは矛盾のように見えるけれども、どちらも資本主義が最初から孕(はら)み持つ共通の両義性である。どちらが先かということではなく、両方ともが同時多発的に進行する。その中で、災害弱者が抱える深刻な問題というのは、常日頃から政府やマスコミが、後者にあたる極端な格差社会化に関してどのような態度を取るかあるいはふだんから取っているか、取っているとすれば現実的にどのような形でか、という問いである。これに該当するような世帯の場合はどうすればよいのか。できることは山ほどある。にもかかわらずそれが遅々として進まずなかなか実行に移されていないのはなぜなのか。下層階級に属する災害弱者は災害時だけ弱者になるのではなく、常日頃から社会的弱者なのだということを忘れないでほしいとおもう。その意味ではなるほど今の日本政府の諸施策は余りにも偏見と偏りが激しすぎると言わざるをえない。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「ーーー《けつ》のよ!《けーつ》の穴によ!』
はえぬきの兵士たちで賑わうこの物語が、刑を言い渡された兵士、すなわち戦士と泥棒、戦争(いくさ)と窃盗をひとつに溶かし込んだもっとも手のこんだ存在にふさわしい、めったに聞かれぬ言い廻しで幕をあけるのもなにかの因縁だろう。《飴玉》《座金》《玉ねぎ》《後ろ》《お月さん》《奴の糞(くそ)籠》などとも名付けられるものを、<懲役部隊兵>はまた《青銅(けつ)の眼玉(あな)》とも呼びならわす」(ジュネ「葬儀・P.18~19」河出文庫)
ジュネがこみ上げる情動を込めて思い出すシーンは元兵士と街路のごろつきたちとの会話だ。
「やがて、故国へ引きあげてからも、彼らは<懲役部隊>の秘蹟をひそかにまもりつづける。ちょうど『法王』や『皇帝』や『国王』に仕える諸大名が、千年前は勇敢な盗賊団の一員にすぎなかったことを誇りに思うように。囚人兵は、青春を、太陽を、獄吏の折檻を、男色連を、その葉っぱが<懲役兵>の女房とも呼ばれる《うちわさぼてん》をしんみり思い出す。砂漠を、熱砂の行軍を、その気品とたくましさはとりもなおさず自分の陰茎とそしてお稚児さんのそれでもあったしなやかな棕櫚の樹を思い出す。墓場を、刑場を、そして尻(けつ)を思い出す」(ジュネ「葬儀・P.19」河出文庫)
全国共通の歴史的事実が含まれている。「『法王』や『皇帝』や『国王』に仕える諸大名が、千年前は勇敢な盗賊団の一員にすぎなかった」とある。この記述には、古代、中世、近世、近代以降を含め、世界の支配者層について、その過去は何ものであったかという歴史が明らかにされている。ニーチェはいう。
「真理は冷酷である。われわれは、これまであらゆる高度の文化がどのようにして地上に《始まった》か、を容赦することなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫(くじ)かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業か牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」(ニーチェ「善悪の彼岸・二五七・P.265~267」岩波文庫)
とはいえ、「貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」としても、いったん「支配階級」になってしまうと、今度は急に国家として、一般的市民の統治者として振る舞い始める。そして次に「山のなか」や「海の冒険」から新しく出現する「野蛮人階級」に対して国家として振る舞い、新しく登場してきた「野蛮人階級」を犯罪者扱いして刑罰を科してきた歴史がある。国家のあるところでは「野蛮人階級」は飼い馴らされ、去勢され、凡庸化される。その規則にしたがえない場合、彼ら彼女たはただちに犯罪者とされ犯罪者扱いされる。
「社会、私たちの飼い馴らされた凡庸な去勢された社会、それは、山のなかから、ないしは海の冒険からやってくる野生の人間が必然的に犯罪者へと変質するところである」(ニーチェ「偶像の黄昏・四五・P.138」ちくま学芸文庫)
そして犯罪者として、なおかつ「破壊者」として、刑罰を受けなければならなくなる。
「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)
ところが内部から腐敗し軟弱化した国家は時折、根底から転覆されることがある。その反復の連続がすなわち歴史なのだ。なので歴史はあちこち断層だらけだともいえる。また「飼い馴らし、去勢し、凡庸化する」とはどういうことか。主に慣習を通して行われる多少なりとも暴力的な加工=変造の作業である。
「風習とはしかし行為と評価の《慣習的な》方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理もまったくない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを《望む》から、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、『悪い』ということは、『個人的』、『自由な』、『勝手な』、『慣れていない』、『予測がつかない』、『測りがたい』というほどのことを意味している。そのような状態の尺度でいつも測られるので、ある行為が、慣習が命令するからでは《なくて》、別な動機(たとえば個人的な利益のために)、それどころか、かつてその慣習を基礎づけていたまさにその動機自身からなされるときですら、その行為は非倫理的と呼ばれ、その行為をする者からさえそう感じられる。なぜなら、その行為は慣習に対する服従から行なわれたのではないからである。慣習とは何か?それは、われわれにとって《利益になるもの》を命令するからではなくて、《命令する》という理由のためにわれわれが服従する、高度の権威のことである」(ニーチェ「曙光・九・P.25」ちくま学芸文庫)
このようにニーチェを通してジュネを見てくるとアルトーがヘリオガバルスの軌跡について述べた文章との一致がよく見て取れる。それは両者に共通の「アナーキー性」という性格である。
「ヘリオガバルスとは、男であり女である。そして太陽の宗教とは、人間の宗教であるが、自分の姿をそこに反映する男の分身である女なしでは、それは何もできないのだ。行動するために『二者』に切断される『一者』の宗教。『存在する』ために。『一者』の最初の分離の宗教。最初の両性具有者のなかで結ばれた『一者』と『二者』。それは『彼』、男。そして『彼』、女。同時に。『一者』においてそれらは一体となる。
ヘリオガバルスのなかには二重の戦いがある。1、『一者』のままでありながら分裂する『一者』の戦い。女となり、そして永久に男のままである人間の戦い。2、人間として太陽の王であることをうまく受け入れられない人間である『太陽王』の戦い。この王は人間に唾を吐きかけ、最後に人間を溝(どぶ)に投げ込んでしまう。なぜならひとりの人間は王ではなく、しかも彼にとって、王として、孤独な王、受肉した神としてこの世に生きることは、堕落であり、奇妙な罷免であるからだ。ヘリオガバルスはじぶんの神を吸収する。彼は自分の神を食べる。キリスト教徒が自分の神を食べるように。そして彼は自分の生体組織のなかでその原理を分離する。彼は自分の肉体の二重の空洞のなかでこの諸原理の戦いを繰り広げるのである。
そしてこれこそ当時の歴史家ランブリディウスが理解しなかったことなのだ。『彼はひとりの女、内気なコルネリア・パウラをめとり』、と彼は言う、『結婚に湯水のように金を使った』。この歴史家は、ヘリオガバルスが女と寝ることができ、正常に女と交わることができたことに驚いている。生まれつきの男色家にとって奇妙な矛盾であり、しかも男色に対する一種の生体の裏切りであるような行為は、ヘリオガバルスにあっては、このような宗教的で早熟な男色家には思想の一貫性があるのだということを証明している。
しかしこの回転するイメージのなか、受肉したウェヌスの血をひくこの魅惑的で二重の性質のなか、彼の驚くべき性的矛盾のなかには、両性具有的なものよりはるかにずっと、最も厳密な精神の論理のイメージそのものに見えるものがあるが、それこそは《アナーキー》の観念なのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.152~154」河出文庫)
さらに慣習が定着し、慣習があたかも自然法則のように感じられるようになるまでには、国家はどのような組織的暴力を用いてきたか。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
さて、アルトー。
有り余る労働力あるいは強度のすべてを生産し製品化し消費する意志を貫徹する資本主義大国アメリカ。スターリンのロシアも例外ではない。
「もはや果実も、樹木も、野菜もなく、薬草も、他の植物もなく、結局食物もなく、ありあまるほどの合成製品が、蒸気のなか、空気中の特殊な液体のなかで、合成によって、抵抗する自然から力づくで抽出された大気の特別な軸の上に生みだされる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10~11」河出文庫)
すべての商品はすでに「抵抗する自然から力づくで抽出された」。しかも「自然」は「抵抗」しているにもかかわらず、とりわけキリスト教は世界制覇とともに資本主義的生産様式を励まし、資本主義発展のために全力で尽力し、とことん高度化してますます自然界を破壊することに貢献してきた。だが自然の側にすればどうだろう。アルトーは皮肉を述べる。
「その自然は戦争に対してはいつも恐れだけを抱いてきたのだ。だから戦争万歳ではないか?」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
アメリカ人だけではなくスターリンのロシアもまた、何に向けて全力を上げて性的リビドー備給のために余念がないのか。
「なぜなら、こうしてアメリカ人が準備したのは、いまも必死で準備しているのはひたすら戦争なのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
だからこういうことが起こってきたし今なお進行中である。
「《力能》。ーーー公理系は、公理系が処理する力能よりも、つまり自分のモデルとなる集合の力能よりも大きな力能を、必然的に作り出してしまうと仮定しよう。この力能はあたかも連続するものの力能のようであり、公理系に繋がりつつもそれを溢れでてしまう。こうした力能をわれわれはただちに、軍事、産業、金融等のテクノロジーのたがいに連続する複合体が体現する破壊の力能、戦争の力能のうちに見出すのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.231~232」河出文庫)
なお、ここ数年の豪雨災害報道について。避難勧告や避難準備に関し、マスコミにしても政府当局にしても、ほとんどがスマートフォンや携帯電話向けに情報発信されているようだ。しかし個別的レベルでいうと、たとえば我が家の場合、上流階級ではなく下層階級なので、スマートフォンは持っていない。他の家電等の買い換えに必要なぶんを差し引くと、スマートフォンを購入する余裕がない。後期高齢者のために携帯電話は一台あるがタイプが古いのでしばしば壊れる。テレビも最も小型のブラウン管式が一台あるだけで今にも壊れそうだ。このような世帯は一体どうすればよいのか。マスコミにしても政府当局にしても「小まめにチェックして」という。けれども「小まめなチェック」など始めから出来ない。下層階級に属している世帯には。
これまで何度も繰り返し述べてきたように、そもそも資本主義本来の性質には二種類ある。第一に均質化作用。第二に上流階級と下層階級への極端な格差社会化である。一方で第一の均質化作用が浸透すればするほど、もう一方で第二の格差社会化はますます深刻さを増していく。これは矛盾のように見えるけれども、どちらも資本主義が最初から孕(はら)み持つ共通の両義性である。どちらが先かということではなく、両方ともが同時多発的に進行する。その中で、災害弱者が抱える深刻な問題というのは、常日頃から政府やマスコミが、後者にあたる極端な格差社会化に関してどのような態度を取るかあるいはふだんから取っているか、取っているとすれば現実的にどのような形でか、という問いである。これに該当するような世帯の場合はどうすればよいのか。できることは山ほどある。にもかかわらずそれが遅々として進まずなかなか実行に移されていないのはなぜなのか。下層階級に属する災害弱者は災害時だけ弱者になるのではなく、常日頃から社会的弱者なのだということを忘れないでほしいとおもう。その意味ではなるほど今の日本政府の諸施策は余りにも偏見と偏りが激しすぎると言わざるをえない。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM