白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

微視的細部33

2020年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ネルヴァルが選んだ夢と幻想という方法は、しかし、ネルヴァルの身体自身から遊離したものに見える。もちろん、そう見えるようにネルヴァルは書いているのである。そうでなくてはなぜあえて夢と幻想という方法をわざわざ選んだのか意味をなさないし、身体から湧き出た幻想的遊離状況が文章化されていなくてはネルヴァルは小説家として失敗しているということになる。しかしネルヴァル作品は創作としてどれも失敗していない。むしろ身体的に過剰な敏感さを持ち合わせる人々に特徴的な性質をネルヴァルは多く持っていた。だからこそ身体が敏感に感じ取る様々な衝動を瞬時に遊離させ幻想へ置き換え、その早熟性も相まってあやまたず作品化しえたのだ。

「私は嘗てカバラの書を何冊か集めた。この研究に没頭して、私は幾多の世紀に亘り人間精神がこの点に関して蓄積したところは一切が真であると信ずるに到った。外的世界の存在に就いて懐いていた確信は、あまりにもよく私の読書と符合して、爾来過去の啓示を疑うことは到底できなかった」(ネルヴァル「オーレリア・P.53~54」岩波文庫)

特にカバラでなくてもいいのだが、ネルヴァル作品の幻想性と登場人物が次々に変身していく独特な傾向から見れば、カバラを持ち出して説明に置き換えるには実に都合がいい。そういう側面をカバラは持つ。

「ユダヤ教神秘主義の最初の形態は、神の玉座メルカバーにまでいたるエクスタティックな上昇を特徴とする」(エリアーデ「世界宗教史5・P.261」ちくま学芸文庫)

エクスタシーに関し、その「専門家」としてシャーマンが上げられる。少し前にも触れた。

「シャーマンとは、神学者にして同時に悪魔学者、エクスタシーの専門家にして呪医、狩猟の助言者、共同体と牧畜群の守護者、霊魂の教導者、そして一部の社会では、学者であり詩人でもあるような存在なのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.38」ちくま学芸文庫)

その役割は地域共同体の秩序安定のために年中行事の中で一時的狂気を演じることにあった。蓄積された暗い力を解放して見せること。だからシャーマンが地域共同体の中で占める社会的位置はどんな古代の共同体でも見られるように保守的なものだ。共同体の秩序を規則的に確認する年中行事のため無意識のうちに「解体=狂気」を演じることができる力の持ち主。至上のエクスタシーの体現者。エリアーデはいう。

「これを記述した諸文献は短いうえに曖昧な箇所の多いもので、『ヘハロート(『天の宮殿』)の書』と名づけられている。そこには、幻視者がエクスタシーの旅のなかで通り行く多くの広間や宮殿の様子が描かれ、そして最後に七番目のヘハール〔宮殿。ヘハロートはヘハールの複数形〕に神の栄光の玉座が見いだされる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.261」ちくま学芸文庫)

「エクスタシーの旅のなかで通り行く多くの広間や宮殿」とある。「多くの広間や宮殿」だけではなく無数の諸天圏を総覧することが要求される。それが「幻視者」特有の「旅」だ。諸天圏の総覧という意味ではなじみ深い文学がある。ダンテ「神曲」。地獄、煉獄、天国、と三層化されている。様々な異次元を通り抜けるという意味ではネルヴァルがダンテを尊敬していたことも何ら不思議でない。とはいえダンテ「新曲」の場合、地獄や煉獄に落とし込められているのはヨーロッパに実在した人物ばかりであり、その位置はダンテの宗教的価値観に則ってはいるものの、実質的にダンテにとって気に食わない人物、嫌なやつ、から順番に最も深い地獄に叩き落とされ苦しんでいる。ばらばらに切り刻まれた人間の首ばかりが並んでいたり手足がばらばらに宙を舞っていたりする。しかしその光景が不思議に見えないのは現代人もまた夢の中でそのような不合理で理屈に合わない光景を何度も見ているからである。さらに「神曲」は当時のイタリア語を用いて書かれているけれども、当時の文学のように難解な言語を用いているわけではなくイタリアの世間一般で用いられている俗語で書かれた。誰にでもわかる言葉で宗教的政治的権威者の首や手足をばらばらにしたり神話に出てくる猛獣に喰い殺させたりした。しかし天国の描写はずいぶん趣きが異なる。言葉遣いが詩に変化している点が特徴的。ダンテの場合、天国は詩で出来ている。要するにダンテは知ってか知らずか多層的重層的な意味が表示される世界を描き出すにあたって《言語だけ》で構成する方法を選んでいる。案内者ベアトリーチェは女性だが、天国に至るやいなやベアトリーチェは言語化したというのではなく、そもそもベアトリーチェは《言語として》しか神聖化することができなかった。ダンテの最愛の女性ベアトリーチェが煉獄でイタリアの俗語を喋っていても問題ないが、天国へ入った以上、ダンテにしてみればベアトリーチェにもはや俗語を喋らせるわけにはいかない。ゆえに天国は詩の言語に満ちているのである。逆にネルヴァルの方法は原則的に誰をも特権化することはない。「幻視者がエクスタシーの旅のなかで通り行く多く」の世界。それは「死の世界に魅惑的な形象、造形を与え、豊かなものにすることで、死後の世界を『霊的、精神的なものにする』ことに寄与」する。

「シャーマンが《死の認識》に対し決定的に寄与しうるのは、彼が超自然界に旅して超人間的存在(神々、悪霊)を《見る》ことができるからにほかならない。おそらく、『他界の地理』の多くの特徴や死の神話におけるさまざまな主題は、シャーマンのエクスタシー経験の結果生まれたものであろう。シャーマンがあの世へのエクスタシーの旅の途中で目にする光景、遭遇する人物などは、トランスのあとで、あるいはそのさなかに、シャーマン自身によって詳細に描写される。知られざる恐るべき死の世界に形が与えられ、それぞれ特徴ある定型に従って組織化されていく。そしてやがては一定の構造が定まり、時とともにあたりまえのものとして受け容れられていく。一方、死の国に棲む存在たちも《目に見えるもの》となり、相貌をもち、その性格や来歴にも関心が向けられるようになる。死者の国への認識が徐々に可能になり、死それ自体もまた、《霊的な存在状態》への通過儀礼として価値が与えられるようになる。結局、シャーマンのエクスタシーの旅の物語は、死者の世界に魅惑的な形象、造形を与え、豊かなものにすることで、死後の世界を『霊的、精神的なものにする』ことに寄与した」(エリアーデ「世界宗教史5・P.51~52」ちくま学芸文庫)

このような精神的操作は単純に身に付くものではない。世界中の多くの古代宗教では「苦行」を伴って始めて直感的に身に付くようになる。苦行というのは多くの場合、自分で自分自身の身体を極限状態に起き続ける修行であり、それが儀式化したものだ。この儀式のことを指して一般に「イニシエーション」と呼ばれる。現代社会でも身近なところで言えば、たとえば「成人式」も一種のイニシエーション(儀式)である。今の成人式では取り立てて難行苦行が伴うわけではないが、日本でも儀式的意味合いの強い年中行事の中では独特の風習が残っていたり(正月の寒稽古など)、さらに視野を世界に広げれば、古代の地域共同体では成人するにあたって「バンジージャンプ」に挑まなければならない部族があったりする。よりいっそう厳密で精神的な「エクスタシーの旅」というのは「トランス状態」を含む。失神状態でなければ実行できない。そのため古代諸民族のあいだでは独特の宗教儀式が設定されていたのである。トランス状態をともなう「エクスタシーの旅」にネルヴァルが関心を抱いたことは、ネルヴァルの想像力が遊牧民の創造的感性に近いことを意味する。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

創作活動に打ち込んでいるときのネルヴァルはまるで遊牧民だ。しかしネルヴァルは狂気ではないのか。一八五四年から一八五五年にかけて精神病院入退院を繰り返しながら書かれた「火の娘」そして「オーレリア」。ネルヴァル、ニーチェ、ゴッホ、アルトーらの創作活動についてフーコーはこう述べている。

「狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界にまで際限なく追いやっているのであり、《創作活動が存在するところには、狂気は存在しない》、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の全面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである」(フーコー「狂気の歴史・P.559」新潮社)

また、エリアーデはエクスタシーの旅の進展にともなって、たとえばユダヤ教グノーシス派で行われる最後の試練は「いささか謎めいている」として紹介している。

「タルムードに残されたある断片によると、ラビ、アキバは、『天国』に入ることを望んでいる三人のラビに向かってこう語った。『あなたたちが輝く大理石の板敷の前まで到ったとき、<水だ!水だ!>と言ってはならない。なぜならこう記されている、<虚言を吐く者は我が前に留まることを得ず>と』。つまり、天の宮殿に敷きつめられている大理石板のめくるめく輝きは、海の波のような印象を与えるのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.264」ちくま学芸文庫)

めまいを催す状態で「海の波のような印象を与える」というのは、何もユダヤ教グノーシス派という神秘主義にまでさかのぼらなくても近代文学では少なからず出現している。

「『私の中から魂が抜け出せるわ。高い波の中を航海するわたしの艦隊を考えることができるわ。はげしい接触や衝突の心配はないわ。一人で白い絶壁の下を航海するんだわ。でも沈んでいく、落ちていく!あれは戸棚の隅だし、あれは子供部屋の鏡台だわ。でもそれらが拡がって長くなる。睡りの黒い羽毛の中へ沈んでいくんだわ。あつぼったい羽根がわたしの眼を圧えつけるの。暗闇の中をさまよってると拡がった花壇が見えるわ。ミセス・カンスタブルがパンパス草の隅のうしろから走ってきて、伯母さんが馬車でわたしを連れ戻しに来たって言いに来るわ。舞い上って、逃げるの。ばねの踵のついた靴をはいて木の頂へ飛び昇るの。でも玄関の扉のところにいる馬車の中へ落ちこんでいくわ。伯母さんが黄色い防止の羽根飾りをうなずかせながら坐っているわ。眼を滑かに光る大理石のようにつめたくして。ああ、夢から覚めたい!あら、衣裳箪笥があるわ。こんな海の水から逃げ出したいわ。波がどんどんわたしの上に積み重なってくるの。大きな波の肩の間でわたしをもみ洗い、向きを変えさせ、ひっくりかえされるの。手足が延びていくの。長い光の中で、長い波の中で、果しない小径の中で、人がどんどんつづいていく、つづいていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.25」角川文庫)

ヴァージニア・ウルフ「波」ではどの人物も海の中から「波」の一つとして浮かび上がってきてまたすぐに「波」として消え去ってしまうほんの僅かな実にこころもとない存在でしかない。そして彼ら登場人物は何度か必ず入れ換わり置き換わり互いが互いを通り抜ける。ローダは「荒海に浮かぶコルク」に、「流れては白くたまる泡沫」に、《なる》。ローダの場合は自由な選択として描かれている。逆に、ちなみに日本では一九九〇年代前半、バブル崩壊によって自殺し、「荒海に浮かぶコルク」に、「流れては白くたまる泡沫」に、なってしまった人物の姿形を目にした人は少なくない。一九九〇年代後半になるとさらに昔からの首吊り自殺者と水中への投身自殺者が激増した。ところが興味深いことに、ネット社会の情報化にともなって自動車を用いた「練炭自殺」という方法がいっとき流行した。いずれにしろ自殺は生産的でない。ウルフの場合、小説を書くことで自殺を回避する方法を取っている。「ダロウェイ夫人」を自殺させないため、セプティマスを自殺させるという方法でダロウェイ夫人と同一化したウルフは自分自身の自殺を回避させるという戦略を作品化している。そしてセプティマスが徐々に狂気の領域に深くはまり込んでいく様子は、ダロウェイ夫人が日常生活へ復帰する過程と好対照をなしている。セプティマスはこうおもう。

「だが、あれが無言の合図をする、葉は生きているぞ、木々は生きているぞ、と。そして葉は、いく百万の繊維でこのベンチに腰かけているおれの体とつながれているから、おれの体をあおって高く低くゆすぶるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.35」角川文庫)

ダロウェイ夫人もまたセプティマスとそれほど遠いところにいるわけではない。

「自分はやがてかならず死滅するってことは、それほど大変なことなのかしら。わたしがいなくなっても、これらのすべてのことは平気でつづいて行くにちがいないってことは、怪(け)しからぬことなのかしら?それとも、いっそ、死は絶対に自己消滅だと信ずることが、かえって安心できるんじゃないかしら?自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物のうちに生きる、と信ずることが。だって、わたしは故郷の木々の一部分にちがいないのだ、また、あそこにいく棟にも分かれたしまりのない醜い家の一部分、会ったこともない人々の一部分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.15」角川文庫)

ウルフが「序文」でセプティマスはウルフ自身の《分身》だと述べた。だから似ているのは当たり前といえば当たり前だ。一方でセプティマスの狂気はますます底知れない領域へ入っていく。だからセプティマスが狂気を担っている限りでダロウェイ夫人は理性を維持できている。しかしその態度はすでに仮面である。

「今まで何百べん、自分の顔を見たことだろう、いつも同じように眼に見えぬくらいちょっぴり筋肉をひきしめて!鏡を見る時わたしは口をつぼめる。顔を一点に集中するためなの。あれがわたし自身なのだーーーとんがった、投槍(なげやり)のような、はっきりした自分。あれが、自分であろうとする努力、要求が、どれほどてんでばらばらであるかは自分だけが知っているさまざまの部分をひとまとめにして、ただ世間のひとたちのために、そんなふうにして一つの中心、一つのダイヤモンド、一人の女、つまり自分の客間にすわって、一つの会合点となり、退屈な生活を送るひとたちの間では疑いもなく一つの光明となり、たぶん淋(さび)しいひとたちには訪(おとな)うべき慰安の場所となってやる一人の女に、つくりあげた時の自分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.58~59」角川文庫)

このシーンでのダロウェイ夫人の仮面化は、作品「灯台へ」のラムジー夫人の次の動作と極めて近いところへ接近している。

「心の中の思いと実際にやっていることーーースープをよそうことーーーのギャップに思わず眉をしかめつつ、夫人はますます強く、自分が渦の外にいるのを感じた。あるいは何か影が振りかかり、多様な色彩が奪われて、もののあるがままの姿が見えてきたようでもあった。この部屋の雰囲気は(彼女は見わたしてみた)、ずいぶんみすぼらしい。どこにも美しさなど見当たらない。タンズリーさんの方に目を向けるのは、あえて避けた。何ひとつ溶け合うことなく、皆ばらばらにすわっている。そして溶け込ませ、流れを生み、何かを創り出す努力はすべて彼女の肩にかかっていたのだ。反感をもつというよりただの事実として、夫人はあらためて男たちの不毛さを感じた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.156」岩波文庫)

ダロウェイ夫人とラムジー夫人とに与えられている役割(仮面)は、家庭内がばらばらにならないような中心的機能を女性が担わなければならなかった時代とそうではなくなっていく時代とのあいだの時代に、とりわけ欧米で顕著に出現した役割(仮面)であり、仮面自体が新旧の女性像を適切に使い分けなければならないような二重化された重いものだった頃のエピソードだといってよい。さらにダロウェイ夫人でもまた「波」の主題がやや不意に出てくる箇所がある。

「夏の日には、波もまたそのようにあつまり、バランスを失い、くずれる。あつまってはくずれる。そして全世界がますます重苦しい調子で、『それだけのことさ』と言うようになる。もうおそれるな、と心が言う。もうおそれるな、と心が言って、その重荷をどこかの海へまかせる。すると海はありとあらゆる悲嘆をあつめて、それにかわって嘆き、そして再生し、生の営みをはじめ、あつまり、くずれる。そして肉体だけが聴きいる、通りすぎる蜂の声に、くずれる波の音に、遠くでしきりに吠(ほ)えつづける犬の声に」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.62~63」角川文庫)

波は寄せては崩れ、さらに寄せては崩れる。そればかりを未来永劫反復する。ニーチェが見抜いたように「力」には特定の目的など何もないのだ。エリアーデに戻ろう。カバラ成立にあたって見逃すことのできない過程がある。

「カバラーは、一部のキリスト教著述家を通じて、その知識は充分とは言えず、理解のほどもさして深いものではなかったが、ルネサンス期およびそれ以降の、西欧キリスト教の『脱地域化』の過程にも重要な役割を演じている。言いかえれば、カバラーは十四世紀から十九世紀にいたるヨーロッパ思想史の、不可欠の一部となっている」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266」ちくま学芸文庫)

何をいっているのかというと、カバラはそもそもユダヤ教関連文献の中の断片的な部分を占めるものだったのだが、それがキリスト教とともに「旧約聖書」という形で同時に研究される過程で《神秘化》したという点である。
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なお、北朝鮮拉致問題について。あくまでも日本政府が責任を持つべきだと考える。一方、アメリカの軍事力に期待する人々は少なくない。もっともだと思う一方、いったんアメリカに下駄を預ければどういうことになるか考えたいとおもう。第一に沖縄はどうなるのか。沖縄には集団自決問題を始めとして基地問題以前からずっと長く取り組まれてきた課題が今なお山積している。その上になお基地問題が載った形になっている。軍事負担の増大は日本の不十分極まりない社会保障をよりいっそう圧迫しつつ格差拡大にともなう暴力的不安定社会を実現することになるだろう。この傾向は同時に治安当局の出番を増やすことになり、アメリカ本土のように年中どこかで何かのデモや警察と市民との衝突が起きている社会を日本でも出現させることになるのは間違いない。

さらに沖縄での悲劇と同時並行する形で大阪大空襲や東京大空襲があったことは誰でも知っているわけだが、その渦中で起こったことはあまり知られていない。当時は空襲があった場合、部分的に地上から高射砲で対抗するわけだが、たまたま高射砲に近い地下壕にいたため乗り出していって米軍戦闘機を墜落させた民間人がいる。そのうち戦後になって統合失調症を発症した。アルコール依存症で専門病院にいたときに当事者本人から聞かされた話である。長期入院を余儀なくされていて、戦争といえども「人殺し」には変わりないことと、さらに当事者本人が信仰心のある人間だったためもあり、罪の意識から或る宗教団体の熱心な信者になっていた。今では九十歳を越えているが統合失調者だということは自分でも認めている。なので自分では、おかしいのは「頭だけ」だと言い張っている一方、その家族の話を聞くと「頭だけ」でなく肋骨は折れ胃も全摘出している。健康診断のたびに心労が重なる。

さらに戦後、一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて中東で反米勢力が力を付け社会情勢が不安定化してきた頃、特に観光地でもあり避暑地でもあったレバノンで商売を営んでいた日本人のあいだでアメリカの軍事力に期待した人々がおり、その後どうなったかということも念頭に置かねばならない。アメリカの大規模な軍事介入により商売どころの話ではなくなり行き場を失い、無数の反米武装勢力が発生し、遂にニューヨーク「9.11」テロ発生に至った。もしそのような事態を招いてしまえば、アメリカの軍事力をあてにした拉致被害当事者らに対して、今度は日本を滅茶苦茶にする機会を率先して要請したという非難が集中するだろう。日本は地域紛争の激戦区と化す。これまで何度も繰り返し演じられてきた歴史の逆説について日本は日本自身で責任を持つべきだとおもうのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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微視的細部32

2020年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく次の三点を問いとして置いておこう。

「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)

作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。

「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

さらに。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

ダブルバインド状況から統合失調者が出現する家族において顕著に見られる一般的傾向について、続けよう。子供がメタレベルのメッセージに《ついて》何か言うことが禁止されている。常に禁止されている。メタレベルに立って何か言うということはダブルバインド状況に《ついて》何か言うということ、ここには何か矛盾があるということに言及すること、を意味する。そしてその矛盾した状況を作り上げているのはほかでもない母親自身だと告発することになってしまう。子供は母親がいつも発している言動に《ついて》、そこには矛盾があると指摘することを禁じられている。そしてこの禁止がダブルバインド状況を長期間にわたって長引かせれば長引かせるほど、子供のコミュニケーション能力の発達は著しく阻害され続けることになる。そうして「子供はコミュニケーションについてコミュニケートする能力を身につけていくことができず、その結果、相手の真の意図をくみ、自分の真の思いを表現するという、正常な関係にとって基本的な能力に欠けた人間に育っていく」。

「正常な会話では、『どういう意味?』『なんでそんなことをしたの?』『からかっているんだろう?』といったメタ・レベルのメッセージが絶えず取り交わされる。相手が言葉の意図を正しく識別するためには、直接間接に相手の表現に《ついて》何かを言うことができなくてはならない。このメタ・コミュニケーションのレベルを、分裂症者はうまく用いることができないようなのである。その理由は、いままで述べてきた母親のコミュニケーション行動から明らかだろう。彼女がある等級のメッセージを打ち消そうとしているとき、彼女の発言に《ついて》の発言はすべて彼女の脅威となり、彼女はそれを禁じなくてはいられない。そのために、子供はコミュニケーションについてコミュニケートする能力を身につけていくことができず、その結果、相手の真の意図をくみ、自分の真の思いを表現するという、正常な関係にとって基本的な能力に欠けた人間に育っていくのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.305』新思索社)

それが一九五〇年代のアメリカで大量発生してきた若年の統合失調者をめぐる家庭内の一般的状況であった。「神の死」以降「強い父」もまた死んだのであり、新しい神として資本主義がそれに取って代わった。いなくなった「強い父」の代わりにそれを模倣しようとする擬似的父親像を演じる人々が大量出現した。絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、をいいことに「虫のいい」男根至上主義を目指す政治的「俳優」がどばどば出現した。東西冷戦時代の世界はそのような「偽物」ばかりであふれかえっている。本物と偽物との境界線が失われたという意味ではない。もはやオリジナル(起源)とシミュラクル(見せかけ)との区別がそもそも不可能になったのだ。

「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、《オリジナルとコピー》、《モデルと再現を》否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。二番目もなく、三番目もなくーーー類似性は存続しているが、類似性は、発散するセリーがシミュラクルを構築してシミュラクルを共鳴させる分だけ、シミュラクルの外部効果として生産される。同一性は存続しているが、同一性は、あらゆるセリーを巻き込んで強制運動の際に各セリーを各セリーに回帰させる法則として生産される。プラトニズムが転倒されると、類似性は内化された差異について語られ、同一性は一次的力能としての<差異あるもの>について語られるのである。同と同類の本質は、《見せかけ》であること、言いかえるなら、シミュラクルの作動を表現すること以外ではない。もはや選別は可能ではない。階層化されない作品は、共存の縮約、出来事の同時性である。これは、偽の請求者の勝利である。偽の請求者は、仮面を重ねて、父の振り、求婚者の振り、婚約者の振りをする。しかし、偽の請求者について、真理と想定されるモデルに比して偽と語ることはできないし、シミュレーションについて仮象・錯覚と語ることはできない。シミュレーションは幻想そのものである。言いかえるなら、機械設備、ディオニュソス的な機械としてのシミュラクルの作動の効果である。眼目は、力能としての偽、ニーチェが偽の最高の力と語る意味でのプセウドス〔=偽〕である。表面に上昇して、シミュラクルは、<同>と<相似>、モデルとコピーを偽の力能(幻想)の下に置く。シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする。シミュラクルはノマド的配分と戴冠せるアナーキーの世界を創設する。シミュラクルは新たな基礎であるどころか、シミュラクルはすべての基礎を呑み込む。シミュラクルは、全般的基礎崩壊を確かなものにするが、それを、肯定的で喜ばしい出来事として、《脱基礎化》として行なう。『各洞窟の背後には、もっと深い別の洞窟が開けている。各地面の下には、もっと巨大で奇妙で豊かな地下世界が開けている。あらゆる地底の下に、あらゆる基礎の下に、もっと深い深奥が開かれている』」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.148~150」河出文庫)

さて、ベイトソンは簡略にこれまでの記述を要約する。一方で、母親の愛情表現に対応しようとして母親に一定以上接近すると逆に母親は不安に襲われ子供を罰する。子供にとって母親は社会的安全保障=軍事的防波堤の役割を与えられているため、その役割を果たしているかどうかが厳密に試されるような近過ぎる状況の成立には恐怖を伴う警戒を感じるからである。同時に他方、子供が同じ母親の愛情表現に対応しようとして母親から或る程度の距離を取ることを選択すると逆に母親から見れば母の愛とその尊厳を子供が拒絶しているかのように見えるため、その場合も子供は罰せられる。いずれにしても罰せられるのは子供である。さらに子供が、矛盾だらけの母親からの逃走線として母親以外の人間に依存しようとすると母親の愛を否定し出したかに見えるため、この場合も子供は罰せられる。親子関係を社会の基本単位とする世界では、子供はどのような外部を目指したとしてもコミュニケーション回路は「遮断」された状況のもとに厳格に拘束されるほかない。

「この節のポイントを要約しておこう。分裂症者は、ダブルバインディングな家族状況の中で、愛を装う母の行動に母の愛を見出してすりよっていけば、母は不安に駆りたてられ、わが子との近密さから身を守るために、子供を罰する(あるいは子供の側の表現こそ装われたものだと言いたてて、自分自身の行動がどんなメッセージを担うのかについて子供の認識を混乱させる)。母の『愛』に応える行動が、母との近密で安定した結びつきを阻害する結果を生むのである。しかし一方で、もし母親から発せられるいつわりの愛のメッセージに、愛のメッセージをもって応えなければ、母親はそこに自分が愛情に欠けた母親だという宣告を読み取って不安を借り立てられ、自分から離れようとしたことで子供を罰するか、または自ら子供に迫っていって、自分への愛を表現するようせきたてる。ここで子供がそれに応えて母への愛着を示せば、母親はふたたび脅威を感じるばかりか、わが子に愛を強要したことで自責の念に駆られもする。いずれにせよ、一生のうちで最も重要な、他の関係づくりのモデルになる幼児期の母子関係において、愛を示せばそれによって罰せられ、愛を示さなければそれによって罰せられ、しかも母親以外の人間に支えを求める逃げ道も遮断されるという状況に、その子供ははまりこむのだ。なお以上は、母子関係に生じるダブルバインドの基本的な性格を述べたものに過ぎず、『母』を重要な一部とする『家族』全体の、より複雑なしがらみの全体図を記述したものではないことを強調しておきたい」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.305~306』新思索社)

そういうわけで、多少なりともダブルバインド状況に陥った経験のない子供はいないということができる。そのうちどれだけの子供が主に思春期のあいだに統合失調を発症するかあるいはしたかという研究は、それ以外の多種多様な要素の絡み合いがどのように作用したかあるいはしなかったかによって様々に異なってくるため、正確に数値化することはできない。だが少なくとも幼少期にこのようなダブルバインド状況の経験なしに統合失調を発症する人間はほとんどいないといえる。大人になって、たとえば職場で、ダブルバインド(相反傾向、板挟み)に置かれる人々は大変多い。そのとき、幼少期に一度家庭内で経験した状況と極めて類似の状況が再現される。

しばしば見られるケースでは、ダブルバインドに置かれた大人の場合、爆発的自己破壊行為を実行してこれまで自分自身も加わって成立させてきただけでなく他の誰の目にも明らかに現前している事態を「ちゃら」にしてしまおうとする傾向が観察される。つい最近の世界でいえば、北朝鮮の金与正党第一副部長による南北共同事務所爆破であり、アメリカのボルトン元大統領補佐官による暴露本出版であり、韓国の文在寅政権の激怒である。そして日本政府が抱える拉致問題や北方領土問題、さらに戦後七十年以上に渡って続いてきた政権と電通との濃密で問題だらけの暗い関係はまたしてもその影に隠されたまま、特に拉致問題当事者はさらに遠くへ置き去りにされるといった方向へ突き放される。

なお、電通が絡んでいるときいつも問題になることがある。それは戦後電通が満州引きあげ組の有力者によって組織されたということだけでなく、戦前戦中からすでに単なる通信社ではなく旧満州や中国各地で諜報宣伝をも兼ねた通信事業を展開していたという事実であり、意外なほどあっけなく巣鴨プリズンから釈放された人々を問題にしなくてはならない事情による。東京裁判で東條英機はじめ軍事的実務面での戦犯らが過酷な刑を受けたのと比べると驚くべき対照をなしている。なるほど暴露本出版は面白いかもしれない。けれども戦後四年目にして起きた「下山事件」についての説明はいったいいつになれば公開されるのだろうか。アメリカも朝鮮半島も日本政府も、東西冷戦時代に自分たちの手でやったことの「亡霊」に怯え切っている。東西冷戦は終わった。東西冷戦は一度「死んだ」。「死んだ」からこそ「亡霊」は出現する。その構造はたいへんシステマティックで理にかなっている。

「ヨーロッパに幽霊が出るーーー共産主義という幽霊である」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・P.37」岩波文庫)

一八四八年に書かれた文章である。このとき一度、パリのプロレタリアートは数千人単位で虐殺されている。

「パリのプロレタリアートは、ヨーロッパの内乱史上最も巨大な事件である《六月蜂起》でこたえた。ブルジョア共和制が勝利を得た。ブルジョア共和制の側には、金融貴族、産業ブルジョアジー、知識分子、坊主、農村住民がついた。パリのプロレタリアートの側には、彼ら自身のほかだれもいなかった。勝利のあとで、三〇〇〇人以上の蜂起者が虐殺され、一万五〇〇〇人が判決もなしに流刑に処せられた。この敗北とともに、プロレタリアートは革命の舞台の《後景》にひっこんでしまう」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.28」国民文庫)

繰り返せば、アメリカも朝鮮半島も日本政府も、東西冷戦時代に自分たちの手でやったことの「亡霊」に怯え切っている。東西冷戦は終わった。東西冷戦は一度「死んだ」。だから東西冷戦の主役たちはその後継者(暴露主義者、爆破演出家、激情家ら)と御用評論家に向けてこう言うべきだろう。

「死んだ者の葬式は、死んだ者にまかせよ」(「新約聖書・マタイ福音書・第八章・P.91」岩波文庫)

そうでないと、冷戦後を生きる人々が未来のためにせっかく希望を捨てないでいようと世界を懸命になって支えているにもかかわらず、東西冷戦時代の主役たちによって滅茶苦茶にされた世界の現状に阻害されて未来の事業に取り組めないでいるからだ。その中で今の日本政府の立場というのはどのようなものだと考えられるだろうか。

「イスラエルの子らが彼らに言うには『われわれはエジプトの地でヤハウェの手にかかって死んだ方がましだった。われわれは肉の鍋のそばにすわり、あきるまでパンを食べることが出来たのに。ところが君たちはわれわれをこの荒野に導き出して、この全集会を飢え死にさせようとしている』」(「旧約聖書・出エジプト記・第十六章・P.49~50」岩波文庫)

世界中で有名な故事だ。「われわれは肉の鍋のそばにすわり、あきるまでパンを食べることが出来た」。要するに臣下として従順である限り危険の少ない隷属状態でよければ保障された。ところが「君たちはわれわれをこの荒野に導き出して、この全集会を飢え死にさせようとしている」。世界秩序を担う先進諸国の一角として引くに引けない試練の旅に全国民を導き出そうとしている。そういうことだ。自信過剰は常に躓(つまず)く。古代ギリシアから延々と続く歴史の掟である。さらに、いつも歴史センスにうとい日本政府が自信過剰になるとあたかもアキレウスのような死に方を選ぶしかない。これまでもそうだった。アキレウスの母テティスはあらかじめ、子アキレウスは早死にするだろうという予言を受けていた。だから我が子アキレウスをトロイア戦争への参加から回避させようと動いた。ところが。

「アキレウスが九歳になった時に、カルカースが彼なくしてはトロイアーを攻略することができないと言ったので、テティスは彼が軍に加われば必ず死ななくてはならぬことを予知し、女装の下に彼を隠し、乙女としてリュコメーデースにあずけた。そしてそこで育てられるうちにリュコメーデースの娘デーイダメイアと交わり、後にネオプトレモスと呼ばれた男の子ピュロスが生れた。しかし秘密が顕われ、オデュッセウスはリュコメーデースの所にアキレウスを求め、喇叭(らっぱ)を用いて見破った。かくて彼はトロイアーに赴いた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.159~160」岩波文庫)

こうしてトロイアに赴いたアキレウスはトロイア戦争でその急所(=アキレス腱)を射たれて早死にした。ただ、当時は女性の場合も足首を射たれる場合が大変多い。古代ギリシアの文献にはサンダルと足首との美を讃仰する文章が至るところに出てくる。たとえばソクラテスらが大いに議論を繰り広げる「饗宴」。発言者はなるほどソクラテスやアルキビアデスたちだ。けれども、傍らに侍っている稚児については何も書かれていない。ほとんど誰もが稚児を連れていることは当然なので省略されている。また稚児というのは、日本の戦国時代でもそうだが、個人的趣味嗜好によって多くは美少年が選ばれる。美少年の特徴はその美しい足首に顕著だ。古代ギリシアの服装で目に見える部分はほとんどサンダルを履いた足首だったため、戦争になれば性別を問わず、身体の発条(ばね)として機能するだけでなくその魅惑的な美の中心である足首に狙いを付けられたことがわかる。だから射られた側は力と美との両方を失うことになるのである。

さらに、人間は神々と切り離された存在だと開き直って宣言したのはシェイクスピア「リチャード三世」であることも頭に置いておこう。グロスター(リチャード三世)は冒頭で述べる。

「グロスター おためごかしの自然にだまされて、美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたというわけだ。歪(ゆが)んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠(ほ)える。そうさ、そういう俺に、戦(いくさ)も終り、笛や太鼓に踊る懦弱(だじゃく)な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺(なが)め入り、そのぶざまな形を肴(さかな)に、即興の小唄(こうた)でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪(のろ)ってやる」(シェイクスピア「リチャード三世・第一幕第一場・P.11~12」新潮文庫)

古代ギリシア芸術に見られる「美しい五体の均整」を神々の側へとすっかり編入し、同時に「歪(ゆが)んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠(ほ)える。そうさ、そういう俺に、戦(いくさ)も終り、笛や太鼓に踊る懦弱(だじゃく)な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺(なが)め入り、そのぶざまな形を肴(さかな)に、即興の小唄(こうた)でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪(のろ)ってやる」として、人間宣言したのはほかでもないシェイクスピアだった。この辺りから歴史は近代の序曲とでもいうべきものを奏で始める。そして今や人間は単純に人間でしかない。ニーチェいわく「神は死んだ」。そして近代という試練の時期をたくましく生きられる見込みのない先王はグロスター(リチャード三世)によって葬られる。

「グロスター 改めて王の口からお礼を言ってもらいたいものだ、そこへ送りとどけてさしあげたのだから、この地上よりは、あちらの方が、遥(はる)かにふさわしいとなればな」(シェイクスピア「リチャード三世・第一幕第二場・P.23」新潮文庫)

日本政府は二〇二〇年になってようやく立たされるべき立場に立たされるに至った。グロスターなら訊ねるだろう。

「この地上」か「あちらの方」か、日本政府にとってどちらが「遥(はる)かにふさわしい」かと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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微視的細部31

2020年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく次の三点を問いとして置いておこう。

「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)

作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。

「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

さらに。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

ダブルバインド状況から統合失調者が出現する家族において顕著に見られる一般的傾向について。続けよう。なおこれまでベイトソンは母親と子供の関係にばかり絞り込んで見てきたわけではない。父親をも見ている。けれども「分裂症が生じる家庭の父親というのは、子供の支えにはあまりにも影の薄い存在であるのがつねなのだ」。

「ダブルバインドを逃れるために、子供はさまざまな方策に頼ろうとするかもしれない母親への依存を弱めて、父親なり他の家族なりに頼れることができれば、一応の解決にはなるだろう。しかし、はじめに明記しておいたように、分裂症が生じる家庭の父親というのは、子供の支えにはあまりにも影の薄い存在であるのがつねなのだ。彼もまた子供と同様、困難な立場に追いやられている。子供の訴えに、『そうなんだ、ママはおまえを欺いている』と同意することは、彼自身と妻との関係の真の姿を見すえることを意味する。それを認識してしまえば、いままで自分をだましながら保ってきた彼女との関係が危険にさらされる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)

同時に言わねばならないが、もはや「強い父親」というものは《いない》。もうどこにもいない。現代社会ではこの認識が余りにもなさ過ぎる。「神の死」を宣告したのはニーチェだが、それ以前すでに「強い父親」というものは死んでいた。失われていた。資本主義は資本以上に強力な存在者の出現を決して許さない社会であり、いないからこそ、十八世紀末から二十世紀いっぱいを通してあれほど代わる代わる「強い父親」を演じようとする人々が大量発生したのだ。そして国際社会の上位諸国からだんだん置き去りにされつつある日本では二〇二〇年になってようやく「強い父親」は実をいえば強くもなんともなく、むしろ所持金の多い少ないこそが「強い父親像」を演じるための必要最低条件だったことが暴露されるに至った。さらに、大物政治家と貨幣との深い関係についての追及は、先進諸国の中でいえば日本は随分遅いのである。世界の先進二十ヶ国が集まれば恐らく最も遅いだろう。いったん転げ落ち始めると早い。信じがたい社会へ舞い戻った。なぜ舞い戻るのか。未消化の部分があるからだ。日本の場合、近代を消化しきれないままどさくさ紛れに押し切ったがため、今でも何か社会的変動が起こるたびに、例えば今回の「感染=パンデミック」のような事態が起こるたびに、かつて未消化のまま置き去りにしてきた部分へと投げ返され「退行する」ほかない。人間身体と同様に国家もまた「消化力の度合い」の高低によって差が出る。

「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫)

日本の場合、グローバルスタンダードが要求する事態に付いていけなくなるたびに、「勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認」へと「退行する」病的傾向が今なお発作的に起こるような社会である。退行というのは、人間あるいは国家が自分で解決不可能な事態に直面した場合、自己感情の「或る特殊な規定性のなかにとらわれたままでいる」という《特殊性》の状態へ舞い戻りそこへ「固執」する(閉じ込もる)態度をいう。フロイト以前にヘーゲルは次のように述べている。

「主観は、たとい悟性的意識にまで発達した主観であっても、なお自分の自己感情の《特殊性》を固執していて、この特殊性を観念性へ加工し且つ克服することができないという《病気》にかかることができる。悟性的意識における充実された《自己》は、自己内で整合的な意識としての主観であり、またそれの(意識の)個体的な位置と、同じく自己の(外的世界の)内部で秩序づけられている外的世界との連関とにしたがって、自己を保持する意識としての主観である。しかし、悟性的意識における充実された自己は、或る特殊な規定性のなかにとらわれたままでいることによって、この内容に対して悟性的な地位を指示せず、また主観であるところの個体的な世界組織のなかで、その内容に帰属している従属的な地位をも指示しない。主観はこのような仕方で、主観の意識のなかで、組織化された(その主観の)全体性と、この全体性のなかで流動的になっておらず且つ配属も従属もさせられていない特殊な規定性との間の、《矛盾》のなかにある。これが《精神錯乱》である」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.261」岩波文庫)

さらに母親は、子供に対する「共依存」関係を常に維持しようとあらゆる手段を用いるようになる。

「教師など周囲の人間からの支えも得られにくい。子供が自分を必要とし自分を愛することを、母親が切実に必要としているために、子供が自分以外のものに愛着を抱くとそれを脅威に感じて、その愛着を断ち切り、子供を身近に取り戻そうとするのだ。それが、子供を自分にはりつけ、自分を不安に突き落とすことにしかならないにもかかわらず」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)

ここでいう共依存とは、母親への依存なしに子供はけっして生きていくことができないという状況に、子供を常に置いておくことが目指されている。意識しているしていないにかかわらず、多くの政治家の場合も目指していることは同様である。自分なしにその選挙区のどんな人々も生きていくことはできない状況を打ち固めようとする。そしてそれが現金ばらまきによって達成されているような場合はもはや政治哲学、政治思想、政治理念などはもちろん、実施したいと訴えている政治政策そのものが共依存関係を存続させるための手段と化しているというほかない。だが政治家本人にはそれが見えていない。ヘーゲルはそれを極めて深刻な意味で《病気》だとする。

「自分が考えている《主観的なものがまだ客観的には》実存し《ない》ということを知っているならば、まだなんら《精神錯乱》ではない。誤謬および愚行が《精神錯乱》になるということは、人間が自分の《単に主観的な》表象を《客観的なもの》として自分の《眼前に》もっているように信じ、且つ自分の単に主観的な表象と《矛盾》している《現実的客観性に対立して》自分の単に主観的な表象を《固持する》場合に始めて起こることである。精神錯乱におちいっている人々にとっては、自分の単に主観的なものが、ちょうど客観的なものが全く確実であると同じように、全く確実である」(ヘーゲル「精神哲学・上・第一篇・三二・P.271」岩波文庫)

というふうに、今上げた政治家の態度のように、現金ばらまきなしでは何一つ実現できないという「《単に主観的な》表象を《客観的なもの》として自分の《眼前に》もっているように信じ、且つ自分の単に主観的な表象と《矛盾》している《現実的客観性に対立して》自分の単に主観的な表象を《固持する》場合に始めて起こる」のがヘーゲルのいう精神錯乱である。政治家の場合に最も多く露呈するこのような事態をヘーゲルは「こころの法則と自負の狂気」として述べた。与野党問わず政治家というものは、いつも自分とその同類のためにだけ通用する《特殊》な「人類の福祉」をそれぞれ様々な形で実現しようと夢中になる。それが現金ばらまきあるいは或る種の法的暴力を用いるまでに至ると、どのような政治政策であれ、それはどれも「キャッチコピー」として異なるというだけのことであって、ただ単に自分とその同類のためだけの政治権力をさらに増大させようと欲する詭弁に過ぎず、実際は次のような行動を演じていることが明確になる。

「必然性が、自己意識において、真に何物であるかということは、自己意識のこの新しい形態が意識している。この形態においては、自己意識は自己自身にとって必然的なものである。自己意識は、一般者ないし法則を、《直接》〔無媒介に〕自己のうちにもっていると心得ており、この法則は、意識の自覚存在〔自独存在、対自存在〕のうちに、《直接》〔無媒介に〕存在しているという規定をもっているゆえ、《こころの法則》と呼ばれる。この形態は、前節に述べた形態のように、《自分だけで》の〔対自的、自覚的〕《個別性》という形で実在であるけれども、この《自独存在》〔自覚存在、対自存在〕が、必然的であり、一般的であると見られている規定のため、それだけで前の場合より豊かになっている。

こうして、直接自己意識自身のものであるような法則が、言いかえれば、こころでありながらも、法則を自分にもっているものが、自己意識の実現しようとしている《目的》である。そこで考えるべきことは、自己意識の実現が、その概念に一致するかどうか、またこの実現において、自己意識が、この自らの法則を本質として経験するかどうか、ということである。

このこころには、一つの現実が対立している。というのは、こころのうちでは、法則は、やっと《自分だけ》〔対自的、自覚的、自独的〕のものとなっただけであって、まだ実現されてはいないし、したがって、同時に、概念とは《別の》ものであるからである。このため、この他者は、実現さるべきものに対立するものであり、したがって、《法則と個別性の矛盾》であるところの現実として、規定される。だから、この現実は、一方では、個別の個〔人〕性が抑圧される法則であり、こころの法則に矛盾する世間という、暴力的な秩序である。が他方では、この秩序のもとに悩んでいる人間である。そのとき人間は、こころの法則に従っているのではなく、見知らぬ必然性に従属しているのである。ーーーすでに明らかなように、意識の現在の形態に、《対立して》いるように見えるこの現実は、個〔人〕性とその真実態が、分裂しているという前節の関係に、すなわち個〔人〕性を抑圧している残酷な必然性の関係に、ほかならない。だから、《われわれから見れば》、前の運動は、この新しい形態とよき対照をなしていることになる。というのも、この新しい形態は、自体的には前の運動から発したものであり、新しい形態を由来させる契機は、この形態から見れば、当然のことだからである。けれどもこの契機は、この形態にとっては、《見つけられたもの》という形で現われる。というのは、この形態は、自分の由来した《根源》については、何も意識をもっていないし、この形態が本質だと思っているのは、むしろ《自分自身だけで》〔対自的、自覚的、自独的〕あること、言いかえれば、肯定的自体に対する否定であるからである。

だから、こころの法則に矛盾するこの必然性を、また、この必然性のために現に起っている悩みを、廃棄すること、これがこの場合の個〔人〕性の目指していることである。したがって、この個〔人〕性は、個別的な快を求めている前の形態のように、軽率な態度をもはやとるものではなく、まじめな態度で、高い目的を求めるのである。そのまじめな態度は、個〔人〕性自身の《すぐれた》本質をのべることに、また《人類の幸福》〔シラー『群盗』の主人公カール・モールの言参照〕をつくり出すことに、自らの快を求めている。個〔人〕性が実現するものは、法則ですらあり、したがってその快は、同時に、すべてのこころがあまねく感ずる快である。快と法則は、この個〔人〕性にとっては、《分離》したものでは《ない》。その快は法則にかなっている。あまねく人類の法則を実現することは、個〔人〕性の個別的な快を準備することである。なぜならば、個〔人〕性の内部では、個〔人〕性と必然は《そのまま》一つであり、法則とは、こころの法則のことであるからである。個〔人〕性はまだ自分の立場を脱していないし、個〔人〕性と必然性を媒介する運動によって、さらにまた訓練によって、両者の統一が成しとげられるのでもない。直接的で《不作法な》〔訓練を受けていない〕本質を実現することが、あるすぐれたことをのべることだ、と考えられ、人類の幸福をもたらすことだ、と考えられているのである。

ところが、こころの法則に対立するような法則は、こころから分離しており、自分だけで自由である。この法則に従う人類は、法則とこころとの幸福な統一のうちに、生きているのではなく、おぞましい分裂と悩みのうちに生きているか、もしくは、法則に《従う》ときには、少なくとも《自己自身》のよろこびを欠き、そして、この法則に《背く》ときには、自己がすぐれたものだという意識をもてずに生きているのである。そういう暴力的な神的秩序や人間的秩序は、こころとは離れたものであるから〔『群盗』〕、こころからみれば一つの《仮象》であり、その法則になおまだくっついているもの、つまり暴力と現実とは、当然消さるべきものである。なるほど秩序がその《内容》の点で、たまたまこころの法則と一致することは、あるかもしれない。その場合には、こころがその秩序を認めるかもしれない。だが、こころにとって本質的なものは、純粋にそのままで、合法的なものなのではなく、こころがそこで、《自己自身》を意識することであり、そこで、《自ら》満足したつもりでいるということである。だが、一般的必然性の内容は、こころと一致しないときには、その内容から言っても、それ自体何物でもなく、こころの法則に、席を譲らねばならないことになる。

そういうわけで、個人はこころの法則を《遂行》する。つまり、こころが《一般的秩序》となり、快が、一つの絶対的に合法的な現実となる。だが、こうして実現されるとき、実際には、こころのこの法則は、個人から逃げ去ってしまっており、それはそのまま、本来ならば、廃棄さるべきであったような、当の関係になっているにすぎない。こころの法則は、実現されるというまさにそのことによって、《こころ》の法則であることを止める。なぜならば、そのとき法則は、《存在》という形式をとり、そこで《一般的な》威力にはなる、が、この威力に対し、《この》こころは無関心であるため、個人は、《自分自身の》秩序を《かかげ》ながらも、もはや、それが自分のものであることに、気づかないからである。それゆえ自己の法則を実現することによって個人は、《自らの》法則をもたらすのではない。秩序は、自体的には、個人自身のものであるけれども、自覚的には、個人に縁なきものであるため、そこに起ってくることは、現実の秩序のなかにまきこまれること、しかも自分にとって縁なきものであるだけでなく、敵対的でもある、圧倒的威力でさえあるような秩序のなかに、まきこまれることにほかならない。ーーー個人は、自ら行なうことによって、存在する現実という一般的な場〔境位〕の《なか》に入る、あるいはむしろ、一般的場〔境位〕《として》自らを立てる、そこで個人の行為の結果は、それ自身、個人の気持からすれば、一般的秩序という価値をもっているはずである。だがこのために、個人は自分を自分自身から《解放》してしまったことになり、自分で一般性として成長し、個別性からは純化される。個人は、一般性を、自分の直接的な自独存在〔対自存在、自覚存在〕という形でしか、認めようとしない。だからこの個人は、一般性が自分の行為であるため、同時に自分が一般性のものであるのに、この個人から放たれた一般性のうちに、自分を認めはしない。それゆえ個人の行為は、一般的秩序に《矛盾する》という、逆の意味をもっている。というのは、個人の行為の結果は、《自らの》個別的なこころの行為の結果であるはずであって、個に関わりのない、一般的な現実であるはずではないからである。しかもそれと同時に、行為は実際には現実を《承認》してしまってもいる。なぜなら、行為は、自らの本質を、《自由な現実》として立てるという意味をもっている、すなわち、現実を自らの本質として承認するという意味を、もっているからである。

個人は、自らを帰属させた現実の一般性が、自分に背くという在り方を、自らの行為という概念によって、一層詳しく規定したことになる。個人の行為の結果は、《現実》としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの《個々の》個別性として、自らを保とうとしている。いま問題となっているのは、ある一定の法則をかかげることではない。そうではなく、個々のこころと一般性とが、そのままで一つになることは、高まって法則となり、妥当すべきことであるという、思想なのである。つまり、法則であるもののうちに、《各々のこころ》が《自己》自身を認めねばならない、という思想なのである。とはいえ、この個人のこころだけが、その現実を自らの行為の結果のうちに、立てたのであるから、その行為の結果は、個人からみれば、《自分の自独存在》〔対自存在、自覚存在、自立存在〕、つまり《自分の快》なのである。この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式をもっているにすぎない。つまり、その《特殊な》内容が、《そのままで》一般的なものと認めらるべきである、というのである。だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。むしろ、自分たちとは《別の人の》こころが、実現されていることに気がつく。法則であるもののなかに、各人は自分のこころを見つけるべきである、という一般的法則に従って、他人たちは、その《個人》のかかげた現実を、自分たちのものとは逆であると言い、また個人は、他人の現実を、自分のとは逆だと言うのである。だから個人は、初めは、固定した法則だけが、自分のすぐれた意図に反対のもので、いとうべきものだと気がついたのだが、いまとなっては、人間どもの諸々のこころそのものがそうなのだと、気がついたのである〔『群盗』〕。

これまでのべた意識は、一般性がまだやっと《直接的》なものであり、必然性が《こころ》の必然性であると、知っているにすぎない。そのためこの意識は、そういうものの実現と効果の本性を知っていない。つまり、一般性や必然性が《存在者》であって、その真の姿はむしろ《自体的一般者》であり、そこでは、一般性や必然性に信頼を置いている個別的意識が、《この》直接的な《個別性》で《ある》ためには、むしろ亡びるものだということを、この意識は知っていない。この意識が直接的個別性という存在のなかで手に入れるのは、この《自らの存在》ではなくて、《自己自身》の疎外なのである。だが、意識に自分を認めさせないのは、もはや死んだ必然性ではなく、一般的個人性によって命を与えられた必然性である。意識は、神の秩序と人間の秩序を、妥当なものではあるが、一つの死んだ現実と考えた。意識は自分だけで〔対自的に〕存在し、一般者には対立するこころとして、自分を固定させるのであるが、いま言った現実にあっては、この意識自身も、この現実のものである人々も、ともに自分自身の意識をもっていなかったのである。だがいま意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気がつく。意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。なぜならば、このことは、個〔人性〕が、一般者として、自分の対象となりながらも、そのとき自分を認識しない、ということにほかならないからである。

こうして、自己意識のこの形態に、その経験の結果、真理として生まれるものは、この形態が、《自覚的》にそうあるものとは、《矛盾》している。だが、この形態が自覚的にそうあるものは、それ自身、この形態からみれば、絶対的普遍性という形式をもっており、それは、《自己意識》と無媒介〔直接的に、そのまま〕に一つであるこころの法則である。それと同時に、存立し生きている秩序は、やはり自己意識《自身の本質》であり、仕事である。自己意識の生み出すものは、この秩序にほかならない。だから、秩序もやはり、自己意識と無媒介に統一されている。こういうわけで自己意識は、二重の対立した実在に帰属するため、自己自身で矛盾しており、最も内面的なところで、混乱に陥っている。《この》こころの法則は、自己意識に自分自身を認識させるものにほかならない。だが、一般的な妥当する秩序は、例の法則を実現した結果、自己意識にとっては自分自身の《本質》となり、自分自身の《現実》となったのである。だから、己れの意識のうちでは矛盾しているものも、ともに、自己意識にとっての〔自覚的な〕本質であり、己れ自身の現実であるという、形式をとった姿であることになる。

自己意識は、自分の意識的な没落というこの契機を語り、そこに、自らの経験の結果があることを語る。そのとき自己意識は、自らが自己自身の内的転倒であり、意識の狂乱であることを表わす。この意識にとっては、その本質はそのまま非本質であり、その現実はそのまま非現実である。ーーー狂気と言ったが、それは次のように考えられてはならない。つまり、一般的に言って、本質のないものが本質的だと考えられ、現実的でないものが現実だと考えられ、その結果、ある人にとっては、本質的または現実的であるものが、他人にとっては、そうではないとか、現実の意識と非現実の意識、本質と非本質の意識が、ばらばらになってしまうとか、いうふうであってはならない。ーーーつまり、あることが実際に意識一般にとっては、現実的であり、本質的であるが、私にとってはそうではないとすれば、私は、自ら意識一般なのであるから、そのことの空しさを意識すると同時に、それが現実であることをも意識している。ーーーしかも両者がともに固定しているとすれば、これは、一般に狂気と言われるような統一である。しかし、この狂気において狂っているのは、意識にとっての一つの《対象》だけであって、それ自身における、またそれ自身としての、意識そのものではない。だが、ここに起ってきた経験の結果から言えば、意識は、自らの法則のうちに、この現実的なものとしての《自己自身》を、意識していることになる。そして同時に、意識にとっては、この同じ本質、この現実こそは、《疎外された》ものなのであるから、意識は、自己意識として、絶対的な現実として、自己の非現実を意識している。言いかえれば、両側面は、その矛盾によって、そのままに《意識の本質》と見られることになり、したがってこの本質は、その最も深いところで狂っていることになる。

だから人類の福祉を願って脈うつこころは、狂った自負の狂暴へと、自己の破滅に逆らって、身を保とうとする意識の狂熱へと移って行く。そうなるのは、意識が自分自身の姿である転倒を、自分の外に投げ出して、この転倒をどこまでも自分とは別のものと見なし、言い張るためである。だから、一般的秩序は、こころとこころの幸福との法則を、転倒させるものであるが、それは、狂信的な僧侶や飽食した暴君や、この両方から受けた屈辱を、自分より下のものを辱(はずか)しめ抑圧することによって、つぐなっている両者の僕やなどによって、捏造されたものであり、いつわられた人類の、名づけようもない不幸のために、使われたものであると、意識は言明する。ーーー意識は、このような狂乱状態にいながら、《個人》性がこの狂いをひき起し、転倒しているのだと、言明はするものの、その個人性は《他人》のものであり、《偶然》であるとするのである。しかし、こころ、言いかえれば、《そのままで一般的であろうとする、意識の個別状態》は、このように、狂いをひき起し転倒したものそのものであり、その行為が生み出すものは、この矛盾が《自分の》意識になるということにほかならないのである。なぜならば、このこころにとって真実であるものは、こころの法則であり、ーーーこの法則は、ただ《思いこまれた》だけのものであるが、これは存立している秩序のように、日の光に堪えたものではなく、日の光に出会うときには、むしろ亡びるものだからである。こころのこの法則は、《現実》となるはずであった。この点から言えば、こころにとって法則は、《現実》であり、《妥当する秩序》であるため、同時に目的であり本質である。だがこころにとっては、《現実》すなわち、ほかならぬ《妥当する秩序》としての法則は、むしろそのまま空しいものである。ーーーこれと同じように、こころ《自身の》現実は、つまり意識の個別態である《こころ自身》が、こころにとって本質である。けれども、この個別態を《存在する》ものとして立てることが、こころの目的である。だから、こころにとっては、直接的には、むしろ個別的ならぬものであるこころの自己が、本質である、つまり目的であることになる。が、それは法則として、まさにこの点で、こころがその意識自身に対してあるような一般性としてのことである。ーーーこのようなこころの概念は、自らの行為によって一つの対象となる。こころは己れの自己を、むしろ非現実的なものとして経験する、そして、非現実を、自らの現実として経験する。だから、偶然の見知らぬ個人性がではなく、まさにこのこころこそが、あらゆる側面から、自らのうちで転倒したものであり、転倒して行くものである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.416~426」平凡社ライブラリー)

だからとりわけ政治家が用いる現金ばらまきや或る種の法的暴力にはルサンチマン(劣等感、復讐感情)に満ちた、すべての世界に対する刑罰意志=報復欲望があふれかえっている様子がいつもまざまざと見られる。それはどんな手段を用いてでも一般市民を自分より劣等部分に組み込み再編しようとする飽くなき権力意志である。或る意味、あまりにも馬鹿馬鹿しい。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)

ベイトソンに戻ろう。核心的なことは子供自身がダブルバインド状況に「《ついて》発言できるようになることだ」。しかし子供はそれがいつも阻止される状況のうちに縛り付けられている。「コミュニケーションについてコミュニケートする能力、自分自身や他の人間の意味ある行動についてコメントする能力は、社会的交わりに不可欠なもの」であるにもかかわらず、むしろそうであるがゆえ、母親はそうさせまいと禁止の壁で子供を包囲する。

「子供が真にこの状況から逃れる方法はただ一つ、母親によって放り込まれた矛盾状況に《ついて》発言できるようになることだ。しかしそうしたところで、その発言を、自分の愛の欠如に対する非難として受け止める母親は、子供を罰し、おまえは事態を曲解していると言い立てるだろう。状況について語るのを阻止するということは、メタ・コミュニケーションのレベルの表現を禁止するというのと同じである。このレベルでの表現は、しかし、われわれがコミュニケーション行動を正しく理解する上で欠かすことのできないものだ。コミュニケーションについてコミュニケートする能力、自分自身や他の人間の意味ある行動についてコメントする能力は、社会的交わりに不可欠なものなのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304~305』新思索社)

メタレベルの発言を一切禁止された子供は、徐々に様々な語彙を獲得していく段階に達してもなおメタレベルの発言を自分自身で禁止するようになる。すべては母親が発する矛盾した二重の「愛」のメッセージを、両立不可能な二重化されたメッセージを批判に晒さないための自主規制からである。言い換えれば、母親に対してけっしてデモしないという態度であり、だから母親はいつも理性を代表しており、子供自身はいつも「非理性=狂気」の側に置かれることに甘んじるほかないような状況を自ら肯定してしまうという積極的錯乱の態度である。この状況はベイトソンが後々触れているように、実際の臨床の現場で、患者と母親との面会において極めて特殊な親子関係の実在を再現する。母親と面会したあとしばらくして患者が病院職員に殴りかかるというような症状を呈する。

さて、ネルヴァルはアレクサンドル・デュマをたいへん尊敬している。次のような記述がある。

「アレクサンドル・デュマのおかげで名が知られたクロシュ・ホテル」(ネルヴァル「アンジェリック」『火の娘たち・P.76』岩波文庫)

十九世紀前半は血まみれの流血戦がまだ数多く見られた。けれどもこのような形で観光名所化したところもたいへん多くあった。ネルヴァルにとってはルソーが暮らしたエルムノンヴィルのように。「クロシュ・ホテル」の「クロシュ」について。

「コンピエーニュには、そこに一度しか泊らなかったものでも忘れることのできない、すばらしい一軒のホテルがある。パリ郊外を歩きまわったおり、一度そこに足をとめたことのあったアンドレアは、その《鐘と罎のホテル》のことを思い出した」(アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯6・第九十八章・P.345」岩波文庫)

フランス語で“cloche”(クロシュ)、英語で“clock”(クロック)。どちらも、時計、時の鐘、という意味を持つ。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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微視的細部30

2020年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく次の三点を問いとして置いておこう。

「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)

作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。

「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

さらに。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

統合失調者を育む家庭環境、とりわけ親子関係が社会的最小単位として取り扱われている社会で生じてくるダブルバインド状況について、続ける。母親が子供に与える「愛」とはどのようなものか。絶体的な正解というものがないのは当然のことだ。試行錯誤の連続が始まるかそれとも一般的にマニュアル化されている方法に従って親子関係は進行する。けれども「マニュアル化」されてしまっている時点ですでにその「“愛”は装われたものである」。子供がその事情に気付いていないと考えるとすればあまりにも楽観的であるだけでなく単なる希望的観測に過ぎない。子供は母親の両義的な態度を指摘して母親を弾劾するようなことはできないし、やろうとしてもそのための言語を持ち合わせていない。下手にやってしまうと昨今の日本で多発している家庭内暴力による子供の虐待死ばかりが増大する一方だろう。子供は親が発するシグナルに対して思いのほか敏感に反応している。差し当たり母親の意図を気遣うあまり自分の意志を自分自ら「歪曲」することで母親を側を尊重した形に収めようと苦悶する。

「母親は子供の反応を用いて、自分の行動が愛によるものであることを確証しようとする。しかしその“愛”は装われたものであるから、子供は母親との関係を維持するために、彼女のコミュニケーションの真実を見破ってはならないという状況にはまりこむ。母の本当の気持はこうであり、優しさを表わすコミュニケーションの方は、母の心をそのまま示すのではなく、それとは違った論理階型に属するということを受け入れるのは、子供にとって破滅的なことだ。それを受け入れずにすますために、子供はメタなレベルのシグナルについての自分の理解を体系的に歪める必要に迫られる。例を考えよう。母親が子供のことをうとましく思い(いとおしく思っても同じだが)、子供から身を引かずにはいられない気持に襲われたとき、彼女は、『もうおやすみなさい。疲れたでしょう。ママはあなたにゆっくり休んでほしいの』とでも言うだろう。言葉になって明確に発せられたこの“愛”のメッセージには、言葉でいうとしたら『お前にはうんざりだ、わたしの目の入らないところに消えておしまい』とも表現される感情を否定する意図が含まれている。ここでもし子供が彼女のメタ・コミュニケーションのシグナルを正確に識別すれば、母が自分をうとましく感じ、しかも優しいそぶりでだまそうとしている事実に直面しなくてはならない。メッセージの等級を正しく区別する学習をすることで、『罰』を受けるのだ。子供は、母に嫌われていることを受け入れるよりは、自分が疲れていることを認めてしまうことに傾くだろう。これは、自分の身体から得るメッセージに関して、自分自身をあざむいて、母親のあざむきに加担するということだ。母親との生活を守るために、子供は他者からのメッセージばかりか、自分自身が体感するメッセージについても誤った識別を行なうように駆りたてられるのである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302~303』新思索社)

問題は、母親が用いている「“愛”のメッセージ」を子供の側は尊重しようとして自分の意志を歪曲するほかないという事情だけにあるのではない。母親が用いているメッセージは二重である。両義的だ。パルマコンであるといえる。「パルマコン=医薬/毒薬」である。母親のメッセージがどれほどパルマコン的であっても、子供としては、その毒薬性については気づかぬふりをしてあくまでも医薬として受け取らねば少なくとも安心して母親のもとでともに生活していくことはできない。発せられたメッセージの二重性にもかかわらず、その矛盾をあばき立てることなく、毒薬性については沈黙し医薬性を指し示している意味にしたがう。子供にとって重大な歪曲がなされるのはそのときであるが、歪曲するためにはコミュニケーションのために用いられている文脈ごとすっかり歪曲してしまわねばならないばかりでなく実際にそうするという言語に対する裏切り行為をも同時に習得する。「母に嫌われていることを受け入れるよりは、自分が疲れていることを認めてしまうことに傾く」といったように。こうして子供はまだ幼稚園や保育所に入るか入らないかといった早い時期から言語の社会的意義の重要性を知る以前すでにそれを裏切ることを身に付ける。自分で自分自身を欺き、たった一度の自己欺瞞のためにその後もずっと自己欺瞞の上に自己欺瞞を重ねていく必然性にまとわりつかれ続けていく。十代になると平気で嘘を連発するようになるか、そうでなければ極めて言葉に敏感な性格の持ち主になる。しかし嘘を連発してその場しのぎで生きていくことを覚えた年少者は、嘘を付くたびごとに、ますます罪の意識(良心のやましさ)は破格の勢いで内面に蓄積されていくことになるほかない。他方、嘘を付くことへの嫌悪感から言葉に敏感な性格を形成した年少者の場合もなお、今度は周囲に合わせず嘘を付かない態度を貫くことで、周囲に合わせなかったという終わりの見えない罪の意識(良心のやましさ)を内面に蓄積させていく。いずれの立場においても内面化された罪の意識(良心のやましさ)は思春期どころかその子供が大人になってからも生涯を通して生き続ける。それは典型的な場合、自己破壊の一種として自殺という結果を容易に招く。また逆に十代の場合、義務教育期間に当たっているため、外界への吐け口を求めて学校での度重なる暴力事件や相手を次々に置き換えて実行されるいじめ行為といった形で出現する。しかしなぜそうなるのか。この場合、子供は母親の発する「メッセージの等級を正しく区別する学習をすることで、『罰』を受ける」立場に置かれているからである。「母親との生活を守るために」、あえて子供は、「自分自身をあざむいて、母親のあざむきに加担する」。

大人になってもつきまとって離れないこの種の事例としてしばしば見られるのは、たとえば選挙期間中の現金ばらまきがそうだ。地域社会から排除されないようにするためには与えられた「現金」=「パルマコン=医薬/毒薬」が明らかに毒薬であることが分かっていても、そうではなくあたかも医薬であるかのように生涯のあいだずっと自分で自分自身を自己欺瞞し続けていかなくてはならない。するとしばらくしてその地域特有の隠語の系列が発生する。ジュネがミニョン独自の隠語について語ったように。

「監獄のなかで彼がそっと噴射させた臭いには真珠の鈍い艶があって、その臭いは彼のまわりにからみつき、彼の全身を後光で包み、彼を孤立させるが、彼の美しさが恐れず口にした表現ほどには彼を孤立させはしない。『俺は真珠をひとつ放つ』が示しているのは、屁は大きな音を立てなかったということである。音を立てるとすれば、それは下品である、そして間抜けがおならをすると、ミニョンは言う、『俺のちんぽこのムショが崩れちまうぜ!』。驚くほど見事に、背が高く金髪である彼の美しさの魔法によって、ミニョンはサバンナを出現させ、黒人の人殺しが私に対してきっとそうするよりもっと深く、もっと横柄に、黒い大陸の中心にわれわれを追いやるのだ。ミニョンはさらにつけ加えて言う、『くっせえ臭いだぜ、われながら自分のそばにはいられねえーーー』。要するに、彼は自分の汚辱を真っ赤な焼きゴテでむし出しの肌につけられた傷跡のように身にまとっているのだが、この貴重な傷跡が、往時のならず者たちの肩の上の百合の花と同じように、彼を気高くする」(ジュネ「花のノートルダム・P.50~51」河出文庫)

しかし彼ら「泥棒、裏切り者、性倒錯者」が用いるすぐれた隠語には詩(ポエジー)がある。よく練り上げられたそれら隠語の系列を逸脱した言葉だとたちまちつまらない白けた雰囲気を周囲に漂わせ、本当の屁よりもなお忌み嫌われる。彼ら「泥棒、裏切り者、性倒錯者」が用いる隠語の系列は実に繊細緻密な配慮に満ちている。

「それは、恐らくどんなものよりも私を仰天させーーーあるいはミニョンがいつも言うように、残酷であるが故に、私を悩ませるーーー隠語のうちのひとつが、スルシエールの独房のひとつで発せられたという話なのだが、その独房をわれわれは『三十六のタイル』と呼んでいて、あまりに狭い独房なので船の通路に思えるほどである。私は、ひとりの頑丈な看守について、誰かが『カマ掘られ野郎』と、それからすぐ後に『串刺し帆桁野郎』と呟くのを聞いた。ところで、たまたまそれを口にした男は自分は七年間船乗りをしたとわれわれに言ったのである。このような営みーーー帆桁による串刺し刑ーーーの壮麗さは私を頭のてっぺんから足の先まで震えさせた」(ジュネ「花のノートルダム・P.288」河出文庫)

また、隠喩の系列は同時にフェチの系列としても出現する。両者は置き換え可能である。列挙してみる。

「世間の人間は、私をまったく知らない連中までも、私にたいして最大の敬意を払うべきだった、なぜなら私は自分のなかでジャンの喪に服していたのだから。寡婦たちの正式な喪服は認めるが、それを徴(しる)し程度にちぢめたもの、黒の腕章や、上衣の衿の黒い布切れや、また労働者にみかける帽子の庇のすみっこの黒い徽章などは、これまで私の眼に滑稽に映ったものだ。とつぜん、私はその必要性に気づいたのである。それは敬意をもってきみに接し、いたわりを示さねばならぬことを人々に告げるためのものなのだ、だってきみは神聖な想い出をうちに秘めているのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)

「何度かエリックはリトンと出くわした、がいちども彼に言葉をかける機会がなかった。遠くから眺めるだけで。リトンは彼に気づかなかった、だって顔見知りではなかったからだ。ーーー或る日のこと彼はエリックの営舎になっている小学校(兵舎に改造された)へ電報を届けにいかされた。入口のところで彼と出くわした。黒ラシャをまとった見事な彫像とぶつかったのだ。一目で惚れ込んでしまった。ーーー玄関では、エリックはさいしょ若造の顔を見るひまがなかった。後ろを振り返って見てその身体つき、背丈、後ろ姿の比類ない瀟洒さ、そして胴体を二巻きしている革バンドに目をとめた」(ジュネ「葬儀・P.110」河出文庫)

「乱暴に向き直ったために、もともと目深に傾いでいた私の黒い軍帽は肩の上にずり落ち、地面へころがった。(俺から葉っぱが落ちたのだ)という考えがすばやく、私の脳裏をかすめた。地面に落ちた略帽を拾い上げようとするかのように私の左手はかすかに動きかけた」(ジュネ「葬儀・P.153」河出文庫)

「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)

「革具の音からの連想だろうが、特殊な娼家でよく黒いカーテンのかげにかくされているのを見かける、革紐や、バンドや、鉄の締め金や、御者の鞭や、長靴など、例の道具一式をひそめた不吉な布地の下で息づき、死の魅惑をたたえているところから、その太腿はますます神秘的なものに思えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.220~221」河出文庫)

以上の中から、「喪服=黒の腕章=帽子の庇のすみっこの黒い徽章=黒ラシャ=後ろ姿の比類ない瀟洒さ=革バンド=黒い軍帽=略帽=革や銅や鉄の鎧=黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)=荘厳な行進曲(マーチ)=黒いカーテン=革紐=バンド=鉄の締め金=御者の鞭=長靴=道具一式をひそめた不吉な布地=その太腿」といった系列を上げることができる。そして作品「葬儀」の場合、それらフェチの系列なくしてハーケンクロイツが力を発揮することはけっして不可能だったと十分に言える。

「問題が子供にとってより一層錯綜したものになるのは、子供の身体から発せられるメッセージを、母親が本人になり代わり、『思いやりにあふれた』言葉で決めつけるからだ。彼女は子供の『疲れ』について、あからさまな母親らしい気遣いを表明している。あるいはこう言ってもいい。ーーー『ママはママ自身のことでなく、あなたのことだけを気遣っている』と言い張ることで、母親は、子供による身体的メッセージの解釈を制御するとともに、母親に対する子供の反応を子供自身がどう解釈するのかということも制御する。たとえば、もし子供が母親の言動をなじったときには、『本気じゃないわよね、あなたは本気でそんなことをいう子じゃないものね』という“愛”の言葉によって、『ぼくはママを責めている』という子供の認識を崩してしまう。そんなふうに封印された子供にとって最も楽な選択は、母親の擬装された優しい態度を本物として受け入れることだろう。こうして子供は、状況の実の姿を捉えようとする欲求を、根本から突き崩されていくことになる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.303』新思索社)

ありがちなパターンである。母親は実にしばしば子供の未熟さにつけ込む形で子供の言葉を制してその場の空気を仕切ってしまう。<母親=医師>であり<子供=患者>であるとしよう。すると患者が言おうとしている言葉を医師の言葉が患者の《代わり》の位置を占めることになってしまう。<子供=患者>の主体性は<母親=医師>によって、その資格において、ものの見事に簒奪されてしまうのである。子供から主体性を奪い取り母親の意志がこの位置を占拠する。言い換えれば、子供の主体性を母親の意志が無理やり強姦して去勢してしまう。問題は解消するどころか、幼少期のうちにもはや解消とは逆方向へ向かい始める。

「それでもなお、母親が自分から身を引き、しかもその『逃亡』を愛の関係の正しいあり方として決めつける現実は、消えずに残るのだ。母親のいつわりの優しさを本物として受け入れたとしても、問題は一向に解消しない。子供がそこで『ママはやさしい』と誤認した場合、母は子に近寄っていこうとするだろう。しかし、この親密さへの移行こそ、母親の恐怖と絶望感をかき立てるものなのだ」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.303~304』新思索社)

母親が用いる手持ちの「子育てマニュアル」に対して子供が素早く調子を合わせ、母親はけっして子供(自分)を憎んでいるわけではなく、逆に愛しているのだと考え改める。すると子供はいったん母親から遠ざかったとしても今度は以前よりずっと近くへ接近してくる。そして「この親密さへの移行こそ、母親の恐怖と絶望感をかき立てる」ことになる。ところが子供をそのような精神状態に叩き込んでいくのはほかでもない母親の言葉そのものである。母親が手際よく用いる矛盾した二つのメッセージからなる言語が子供をそうさせてしまう。

「そこで彼女は子供を遠のけようとする。ところがそのとき、子供が素直に彼女から身を引いていくと、そのそぶりから、わが子が自分を愛情深い母親ではないと言っていると感じ取り、そのことで子供を罰するか、子供を自分に引き寄せようと自分から近づいていくかするだろう。しかしそこでまた子供との間が近密になれば、ふたたび子供を遠のけずにはいられない。《子供は母親の気持の表われを正確に認識したことで罰せられ、不正確に認識したことで罰せられる》。まさにダブルバインドの状況である」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.304』新思索社)

それこそが子供をのちのち統合失調者へ導く前提として与えられるダブルバインド状況の一般的条件となる。なお、ここでは「母親」となっているけれども、問題は現代社会の中で子供に対してかつて「母親」にのみ与えられていた社会的位置なのであって、実在する母親でなくてもまったく構わない。今や母親の機能は様々な他の人間や機械(ゲーム)やペットによってすっかり置き換えられている。重要なのは、一体誰(何)がということではもはやなく、《どのような方法で》子供と接することができるかということであり、またそれがなぜ後々、子供が主に十代後半になって統合失調症状の傾向を見せ始めるかという関係が重視されなくてはならないということだろう。子供の面倒を見る役割が母親にばかり押し付けられているのが主流だった時代でも或る特異的な病的傾向はしばしば顕著に見られた。子供は自分(母親)を必要とし自分(母親)なしには生きていくことができないという環境が実際にあるところでは、子供が成長するとともに子供が母親でなく他のもの(人間でも玩具でも何でも構わない)に愛着を示すやがらりと態度が変わり、露骨な家庭内暴力によって子供のコミュニケーション能力を著しく阻害する母親は昔から出現していた。幼少児を傷害致死に追いやる親というのは今になって突如発生してきたわけではない。ただ、インターネットや福祉政策の充実によって早期発見が可能になったのは事実としても、むしろ逆に幼少児を傷害致死に追いやる親(あるいは他のものへ置き換えられたその機能)が一向に減少する気配がないのはなぜだろうか。減少どころかかえって増大してきたのはなぜか。その逆に子供の側による両親の殺害という事例もまた増えているわけだが。

さて、つい先日日本の首相が断言したように憲法改正論議を進めるのも天皇制の是非を含めて大いに結構だろう。拉致問題当事者の自然消滅を待ってでもいるかのような態度をむき出しにしたままの状況で。北方領土や沖縄基地問題に対してもそうだ。「拉致問題を持ってしまっている」、「北方領土問題を持ってしまっている」、「原発汚染水処理従事者を持ってしまっている」、とはどういうことか。今の内閣をアルコール依存症者としてのフィッツジェラルドに喩えると話が早い。

「当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.276」河出文庫)

ところで、ニーチェによる「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、中心的なものの分散転移、変動相場制)の宣告は有名だが、その少し前、ネルヴァルはこう述べている。

「『《おそらく神は死んでる》』とジェラール・ド・ネルヴァルは本書の著者に向かってある時言った」(ユーゴー「レ・ミゼラブル4・第五部・第一編・第二十章・P.255」岩波文庫)

ユーゴー「レ・ミゼラブル」は一八五八年から一八六二年まで五年間かけて執筆された。ネルヴァル「エミリー」の原案は一九三九年に一度出来上がっており、だから「懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル)が「《おそらく神は死んでる》(神はほとんど死んでいる)」と考えたのはたいへんよく理解できるかと思う。また、新しい思想家として十八世紀に登場したルソーから大変多くの影響を受けたのはもちろんネルヴァルだけでない。ルソーを師と仰ぎルソー直系として生きたロベスピエールはフランス大革命で新興ブルジョワ階級によるブルジョワ革命を成し遂げた。しかしルソーの思想からはただ単なる理想主義には留まらない世界共和国構想とでも言える壮大な社会的ヴィジョンがうかがわれる。

「一つの人民に制度を与えようとあえてくわだてるほどの人は、いわば人間性をかえる力があり、それ自体で一つの完全で、孤立した全体であるところの各個人を、より大きな全体の部分にかえ、その個人がいわばその生命と存在とをそこから受けとるようにすることができ、人間の骨組みをかえてもっと強くすることができ、われわれみなが自然から受けとった身体的にして独立的な存在に、部分的にして精神的な存在をおきかえることができる、という確信をもつ人であるべきだ。ひとことでいえば、立法者は、人間から彼自身の固有の力を取り上げ、彼自身にとってこれまで縁のなかった力、他の人間たちの助けをかりなければ使えないところの力を与えなければならないのだ」(ルソー「社会契約論・第二編・第七章・P.62~63」岩波文庫)

もし、できる限り速やかに国連正常化委員会というものが創設されるとすれば、「一般意志」とともにこのような世界的枠組み作りも検討されるべきだろう。というのも、今やどの人間も一人残らず間違いなく「社会的諸関係の総体」であるほかないからである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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微視的細部29

2020年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらく次の三点を問いとして置いておこう。

「『デロシュが死ぬ前に片っぱしからドイツ兵を殺したということですがーーーつまりこういってよければ、それはじつに《殺人的》な《自殺》であったと』」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.435』岩波文庫)

作者ネルヴァルのいうように当時の多くの人々はどんな精神状態でいたか。

「昨今多く見られるような、半ば懐疑的なキリスト教徒になっていた」(ネルヴァル「エミリー」『火の娘たち・P.473』岩波文庫)

さらに。

「すべてを否定した大革命と、キリスト教信仰をまるごと取り戻そうとする反動の世の中と、二つの時代の相反する教育のあいだで迷う、不信心というよりは懐疑的な世紀の子である私」(ネルヴァル「イシス」『火の娘たち・P.380』岩波文庫)

ベイトソンは分裂症を育む家庭状況について一般的特徴を三つ上げる。形式的過ぎるように見えるかもしれないが、それについてはすぐ後で説明がある。まず特徴的な三点について見ておくことが大事だ。

「1 そこには、母からの愛を感じて近寄っていくと母が不安から身を引いてしまう、そういう母親をもつ子がいる。つまり、子の存在が母親にとって特別の意味をもち、子との親密な場に引き入れられそうになると母親の中に不安と敵意が起こるという状況がある」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)

家庭という場を通して母親に与えられた役割が過剰だった時代、多かれ少なかれこのような傾向はどこにでも見られた。フーコーは十九世紀になって出現した性的欲望の装置の中で女性の身体について或る意味付けがなされた点に注目している。

「《女の身体のヒステリー化》」(フーコー「知への意志・P.134」新潮社)

どういうことだろうか。要約すると、「女の身体」が問題視されるのは第一に社会の《生産性》にとってである。女性はいつも《順調な繁殖力を維持しているべき》だとする社会規範が出現したのは太古の大昔のエピソードではない。逆に資本主義的生産様式が定着してくる過程で発生してきたまったく最近の、ここ二百年ばかりのうちに発生した産物でしかない。それが世界的規模で拡張されたときこの産物はすでに《神話》の次元にまでのぼりつめていた。さらに生物学的見地から、子供は女性の身体から生み出されるものなので、子供への道徳的責任と安全保証は女性の役割であるという見解がすべての異論を排除する形で固定化される。そして家族という空間の基礎的機能を根底から担う存在として規定される。この時点で発生したのが《母性》というものであり、ニーチェの言葉を借りれば世界的規模での「でっち上げ」が完成したのである。だからヒステリーは健康な女性のネガティヴな姿として、否定的なものとして、「健康な女性」という《神話》と同時に出現し、「健康な女性」というポジティヴな《神話》を支えるネガティヴな役割を与えられるとともに一種の「狂気」とされるに至る。ところがこの構造は構造自体の作用によって、理性は狂気の支えなしに存在しないという事情を覆い隠してしまう。だからといって、女性はただ単に子供を産めば良いということではない。それは資本主義の生成期において妥当する事情ではあっても、テクノロジーの高度化によって剰余価値の増殖が可能になった以上、ますます可能になっていく以上、ただ単に子どもばかり生まれてしまっては逆に国家は困惑することになる。問題は、産児制限したり逆に産児制限を抑制したりといった、人間の身体を《調整する》ことにある。生殖装置としての婚姻は労働力商品の再生産でもあるが、他方、性的欲望の装置は生殖とは関係のない性的欲望を増殖させ、それを質的にも量的にも測定し様々に分類し情報化し管理社会の実験的強化に資する。だからフーコーは「性的欲望の解放」とは呼ばず「性的欲望の装置」と呼ぶのだ。そのための身体の計測であり、中央集権的管理領域の無限の増殖強化に供される身体なのである。増殖する性的欲望を《欲望する管理》があるのだ。

子供たちの安全保障として制度化された女性の立場。母親が子供とその接近に対して感じる危機感はこの「死を賭しても子供を守らなければならない」という安全保障=軍事的防波堤として配分された社会的立場の重圧からもたらされる。

「2 そこには、わが子に対して不安や敵意を持っていることができない母親がいる。彼女はそうした感情を否定するために、子供を愛していることを強調する行動を子供の前でとる。そしてそのとき子供から返ってくる反応が、自分を愛情に満ちた母親として見るものでない場合、彼女はその場から身を引いてしまう。ここで『愛を強調する行動』とは、必ずしも『優しさを示す行動』を意味しない。子供を『いい子にしつける』ための『適切な』行動も、そのなかに含まれる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)

「しつけ」という問い。親子関係をその最小単位とする現代社会では親と子との関係はいつも「儀式としての試験」を通して、「監視する側/監視される側」という対立する両極へ分裂して置かれているという事実。しかしまた監視する側は原則的に目に見える人物であってはならない。母親の姿は見えていても親子関係の順調性について常に問いただすことを怠らない《機能》(役割)としては不可視でなくてはならない。規律・訓練型社会における「試験」の意味についてフーコーはいう。

「規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。規律・訓練では、見られるべきものは、こうした当の相手(部下であり、受験生である)のほうである。彼らに行使される権力の支配は、彼らを明るみに出すことで確保される。規律・訓練における個人を服従強制(臣民化、主体化でもある)の状態に保つのは、実は、たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態である。しかも試験とは、権力が自らの強さの表徴を明らかにするかわりに、また自らの標識を当の相手〔=主体〕に押しつけるかわりに、ある客体化の機制のなかで当の相手をつかまえる場合の、そうした技術である」(フーコー「監獄の誕生・P.190」新潮社)

さらに、どのような方法で家庭は社会的最小単位の理念型として今なお起動しているのか。ドゥルーズ=ガタリはいう。

「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.151~152」河出書房新社)

ベイトソンに戻ろう。「父親」が登場する。

「3 そこには、母子関係の間に割り込み、矛盾のしがらみに捉えられた子供の支えになるような存在ーーー洞察力のある強い父親などーーーがいない」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)

というわけだがもはや「強い父親」というものは《いない》。もうどこにもいない。現代社会ではこの認識が余りにもなさ過ぎる。「神の死」を宣告したのはニーチェだが、それ以前すでに「強い父親」というものは死んでいた。失われていた。資本主義は資本以上に強力な存在者の出現を決して許さない社会であり、いないからこそ、十八世紀末から二十世紀いっぱいを通してあれほど代わる代わる「強い父親」を演じようとする人々が大量発生したのだ。強いかどうかは別にして、ただ、資本に服従する限りでなら、主体として認められる余地が与えられた。

「権力についての全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるのか、自分が何をしたのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべてが何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な工事でありーーーその間に、他の形の作業が資本の蓄積を保証していたわけだがーーーそこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである」(フーコー「知への意志・P.79」新潮社)

例えば、ヒットラー、スターリン、ルーズベルト、毛沢東。さらに、レーガン、サッチャー、中曽根康弘、等々。後者になればなるほど小物化していくのはマルクスが指摘した「利潤率の傾向的低下の法則」と「増大する絶対的利潤量」との相反傾向がより一層グローバルな広範囲にわたって浸透したことの証明になるだろう。後者では資本に服従する限りで疑似的な「強い父親像」を与えられた種々雑多な権力者が世界中にあふれ出した時期に当たっている。「種々雑多な権力者の世界的蔓延」は「増大する絶対的利潤量」に相当するためその一人一人を見れば「利潤率の傾向的低下」を現わしているように見え、実際にも力の配分が世界中で多岐にわたったため、一人一人の権力者はどれほど「強い父」を気取ろうとしてもその実質は逆に均質化していく傾向を見せつけるほかない。

そして国際社会の上位諸国からだんだん置き去りにされつつある日本では二〇二〇年になってようやく「強い父親」は実をいえば強くもなんともなく、むしろ所持金の多い少ないこそが「強い父親像」を演じるための必要最低条件だったことが暴露されるに至った。さらに、大物政治家と貨幣との深い関係についての追及は、先進諸国の中でいえば日本は随分遅いのである。世界の先進二十ヶ国が集まれば恐らく最も遅いだろう。いったん転げ落ち始めると早い。信じがたい社会へ舞い戻った。なぜ舞い戻るのか。未消化の部分があるからだ。日本の場合、近代を消化しきれないままどさくさ紛れに押し切ったがため、今でも何か社会的変動が起こるたびに、例えば今回の「感染=パンデミック」のような事態が起こるたびに、かつて未消化のまま棚上げしてきた箇所へ不可避的に押し返され「退行する」ほかない。

「以上はひとつの形式的記述であって、母親が子供に対してなぜそうした心理を抱くのかという具体的な点は考察から除外されている。理由を考えるとすれば、いろいろあるだろう。単に子供を持ったということから、自分自身について、また自分と家族の関係について、不安が生じるケースもあるだろう。その子が男であること、また女であることが理由で不安をつのらせる母親もいるだろうし、またその子の誕生日が誰か身内の命日と重なっていることに大きな意味を付与する母親もいるだろう。また家庭内でその子の占める位置が自分の位置と重なることを感じて神経を滅入らせるというケースもあるだろうし、その他の感情的な問題との関わりから、その子を特別視するケースもあるだろう」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.301』新思索社)

もっと幾つもの条件を勘案していけば無数と言っていいほど多種多様な様相を呈するとベイトソンはいう。もっともな話だ。しかし多種多様な個々のケースを取り上げれば取り上げるほどどれがダブルバインド状況から生じた症例なのかますますわからなくなるのは言うまでもない。だから差し当たり三つの条件に絞り込んだわけである。またこれらの三つの条件が最も一般的に妥当するのは確かだ。さらに。

「ともかく、右の三つの特徴をもった家庭状況では、分裂症者の母親は、少なくとも二つの等級にまたがったメッセージを発しつづけている、とわれわれは考える。議論を簡単にするため、ここでは等級を二つだけに限定しておこう。その二つとは、大まかに、次のようにまとめることができる」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)

「aー子供が彼女に近づくたびに生じる敵意に満ちた、あるいは子供から身を遠ざけるような行動。

bー彼女の敵意に満ちた、子供から身を引くような行動を、子供がそのまま受け止めたとき、自分が子供を避けていることを否定するためにとられる、愛の装い、あるいは子供へ近寄っていくそぶり」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)

このような母親の両義的な矛盾した態度について気づいていたのは何もニーチェだけでなく、それ以前にヘーゲルが指摘していた。その結果、子供の精神においてもたらされる統一を得ることのない「不幸な意識」という言い回しで。

「ここで彼女の問題は、自分の不安を、子供との距離の調節によって制御しているという点にある。言い換えればこういうことだ。子供に愛情のこもった親密な気持ちを抱き始めた瞬間、母親は危機を感じ、その子から身を引かなければならなくなる。ところが彼女はそうした“敵対的”な行動を受け入れることができず、それを否定するために、子供に対して愛情あふれる親密さを装うことになる。重要なのは、そのときの母親の子供に対する優しいそぶりが、敵対的な行動の埋め合わせをするという点で、後者に対するコメントになっているというところだ。すなわちここで『愛』のメッセージは、『敵意』のメッセージに《ついて》言及するメッセージになっている。両者は《メッセージの等級を異にする》。と同時に、この高次のメッセージは、その言及対象である低次のメッセージ(敵対者に身を引く態度)の存在を否定するものである」(ベイトソン「精神分裂症の理論化に向けて」『精神の生態学・P.302』新思索社)

ベイトソンのいう「《メッセージの等級を異にする》」態度が同時に発せられダブルバインド状況が作り上げられるとき、当事者の間でどのような事態が生じるかについて、マルクスもまた次のような形で気づいていた人々の一人である。

「キリスト教国家は、みずからを《国家として》完成するために、キリスト教を必要としている。民主的な国家、現実的な国家は、みずからの政治的完成のために、宗教を必要としない。この国家はむしろ宗教を度外視することができる。というのは、この国家においては、宗教の人間的基礎が現世的なかたちで仕上げられているからである。それとは反対に、いわゆるキリスト教国家は、宗教に対しては政治的な態度を、政治に対しては宗教的な態度を、とるのである。この国家は、国家諸形態を見せかけのものに引きおとすが、それと同様に、宗教をも見せかけのものに引きおとす」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.30~31』岩波文庫)

次の部分では「解決できない葛藤におちいる」という言葉が見られる。

「国家が『守っていないばかりか、《国家が国家として完全に解体してしまう意思がない以上は、けっして守ることができない》』ような福音書の言葉が引き合いにだされるとき、この国家も、その基礎となっている《塵のような人間たち》も、宗教的意識の立場からは克服することができない痛ましい矛盾におちいることになる。では、なぜ国家は完全に解体してしまう意思をもたないのであろうか?国家自身このことについて、自分にも他人にも答えることができない。この国家《自身の意識》にとっては、公式のキリスト教国家は、実現不可能な《当為》なのであり、ただ自分自身を欺瞞することによってしかその存在の《現実性》を確かめることができず、それゆえに国家自身にとって、つねに疑惑の対象に、あてにならず、いかがわしい対象にとどまっている。したがって、批判が聖書に根拠を求める国家を強制して意識の錯乱におちいらせ、もはや国家自身、自分が《空想されたもの》か《現実のもの》か判らないようにして、宗教の仮面をかぶっている国家の《現世的》諸目的の醜悪さと、宗教を現世の目的と思っている国家の《宗教的》意識の高潔さとが、解決できない葛藤におちいるようにさせるとき、この批判はまったく正当なのである」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.33~34』岩波文庫)

さらにエンゲルスは国家と個人との関係についてこう述べる。

「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)

そして犠牲者はいつも一般市民(羊、家畜、子供)である。ところでマルクスがそのようなダブルバインド状況において出現してくる上位者に特徴的な「見せかけ」という態度について述べている点はたいへん重要である。近現代を貫いて、とりわけ戦後に入って顕著になった点だが、それはオリジナルなものの消滅ということではもはやない。ありとあらゆるものが商品化される資本主義社会においてオリジナルなものはすでに存在せずすべては「見せかけ(シミュラクル)」となっていて、「オリジナル(起源)/見せかけ(シミュラクル)」という区別は判断不可能となり、この種の問いが遂に無効化したという極めて今日的な社会状況についての言及となっていることに注目したい。

「シミュラクルは、劣化したコピーではなく、《オリジナルとコピー》、《モデルと再現を》否定する積極的な力能を隠匿している。シミュラクルに内在化される少なくとも二つのセリーについて、どちらかをオリジナルやコピーとして指定することはできない。<他なるもの>のモデルを呼び出しても足りない。どんなモデルもシミュラクルの眩暈には抗えないからである。あらゆる観点に共通の対象がないように、特権的な観点もない。階層も可能ではない。二番目もなく、三番目もなくーーー類似性は存続しているが、類似性は、発散するセリーがシミュラクルを構築してシミュラクルを共鳴させる分だけ、シミュラクルの外部効果として生産される。同一性は存続しているが、同一性は、あらゆるセリーを巻き込んで強制運動の際に各セリーを各セリーに回帰させる法則として生産される。プラトニズムが転倒されると、類似性は内化された差異について語られ、同一性は一次的力能としての<差異あるもの>について語られるのである。同と同類の本質は、《見せかけ》であること、言いかえるなら、シミュラクルの作動を表現すること以外ではない。もはや選別は可能ではない。階層化されない作品は、共存の縮約、出来事の同時性である。これは、偽の請求者の勝利である。偽の請求者は、仮面を重ねて、父の振り、求婚者の振り、婚約者の振りをする。しかし、偽の請求者について、真理と想定されるモデルに比して偽と語ることはできないし、シミュレーションについて仮象・錯覚と語ることはできない。シミュレーションは幻想そのものである。言いかえるなら、機械設備、ディオニュソス的な機械としてのシミュラクルの作動の効果である。眼目は、力能としての偽、ニーチェが偽の最高の力と語る意味でのプセウドス〔=偽〕である。表面に上昇して、シミュラクルは、<同>と<相似>、モデルとコピーを偽の力能(幻想)の下に置く。シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする。シミュラクルはノマド的配分と戴冠せるアナーキーの世界を創設する。シミュラクルは新たな基礎であるどころか、シミュラクルはすべての基礎を呑み込む。シミュラクルは、全般的基礎崩壊を確かなものにするが、それを、肯定的で喜ばしい出来事として、《脱基礎化》として行なう。『各洞窟の背後には、もっと深い別の洞窟が開けている。各地面の下には、もっと巨大で奇妙で豊かな地下世界が開けている。あらゆる地底の下に、あらゆる基礎の下に、もっと深い深奥が開かれている』」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.148~150」河出文庫)

ニーチェからの引用部分。「各洞窟の背後には〜」について。

「隠遁者の著作のうちには、常に何かしら荒野の谺(こだま)のようなもの、孤独の囁(ささや)きと自分の周囲を物怖(ものお)じしながら見廻す眼のようなものが開かれる。彼の極めて強い言葉から、彼の叫びそのものから、なお一種の新しい、より危険な種類の沈黙が響き出る。年々歳々、そして昼も夜も、ひとり自分の魂とのみ対座して親しく係争し対話して来た者が、自分の洞窟ーーーそれは迷宮でもあれば、金抗でもありうるーーーのうちで穴熊か宝掘りか宝守(も)りか竜になった者、ーーーこういう者の概念そのものは、ついに或る固有の薄明の色調を帯び、深所と黴(かび)の臭いを放ち、傍(そば)を通り過ぎるあらゆる人々に冷たく吹きつける何か打ち明けがたいものと嫌悪すべきものをもっている。隠遁者は、かつて哲学者ーーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーーが自己の本来の究極の意見を著書のうちに表現した、とは信じない。自分のうちに秘めていることを隠すためにこそ書物が書かれるのではないか。ーーー実に彼はこう疑うであろう。およそ哲学者は『究極的かつ本来的な』意見をもち《うる》か、彼にあってはあらゆる洞窟の背後になお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、ーーー皮相的なものを越えた一つのより広汎な未知の豊かな世界があり、あらゆる根拠の背後に、あらゆる『根拠づけ』の背後に一つの深淵があるのではないか、と。あらゆる哲学は一つの前景の哲学であるーーーこれが隠遁者の判断である。すなわち、『哲学者が《ここ》で立ち停(ど)まり、後を振り返り、周囲を見廻したということ、彼が《ここ》で更に一層深く掘り下げず、鋤(すき)を棄てたということには、何かしら恣意的なものがある、ーーーこれには何となく不信なものさえある』と。あらゆる哲学は更に一つの哲学を《隠している》。あらゆる意見もまた一つの隠れ場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二八九・P.301~302」岩波文庫)

もはやすべては仮面である。さらに「なお一層深い洞窟」へ、「より広汎な未知の豊かな世界」へ、どんどん掘り下げていくとすればどういうことになるだろうか。

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)

ドゥルーズのいうように「シミュラクルは、分有の秩序、配分の固定、階層の決定を不可能にする」。ダブルバインドをただ単なる悲劇的状況として捉えればそうなる。統合失調者の中でも解体型に顕著なように、実にしばしば文脈にそった論理階梯を無視することでかろうじて生きていく戦略を選択するほかない。けれどもドゥルーズはここでニーチェのいう「運命愛」概念を導入することで危機を逆に悦ばしき「チャンス」として捉えることも忘れていない。

「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・下巻・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)

全的肯定の態度。といってもそれは漫然としたものではけっしてなく、当然のことながら、生の各瞬間において「然り、然り、然りーーー」と積極的に引き受ける態度である。危険なニヒリズムに陥らないために。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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