ネルヴァルが選んだ夢と幻想という方法は、しかし、ネルヴァルの身体自身から遊離したものに見える。もちろん、そう見えるようにネルヴァルは書いているのである。そうでなくてはなぜあえて夢と幻想という方法をわざわざ選んだのか意味をなさないし、身体から湧き出た幻想的遊離状況が文章化されていなくてはネルヴァルは小説家として失敗しているということになる。しかしネルヴァル作品は創作としてどれも失敗していない。むしろ身体的に過剰な敏感さを持ち合わせる人々に特徴的な性質をネルヴァルは多く持っていた。だからこそ身体が敏感に感じ取る様々な衝動を瞬時に遊離させ幻想へ置き換え、その早熟性も相まってあやまたず作品化しえたのだ。
「私は嘗てカバラの書を何冊か集めた。この研究に没頭して、私は幾多の世紀に亘り人間精神がこの点に関して蓄積したところは一切が真であると信ずるに到った。外的世界の存在に就いて懐いていた確信は、あまりにもよく私の読書と符合して、爾来過去の啓示を疑うことは到底できなかった」(ネルヴァル「オーレリア・P.53~54」岩波文庫)
特にカバラでなくてもいいのだが、ネルヴァル作品の幻想性と登場人物が次々に変身していく独特な傾向から見れば、カバラを持ち出して説明に置き換えるには実に都合がいい。そういう側面をカバラは持つ。
「ユダヤ教神秘主義の最初の形態は、神の玉座メルカバーにまでいたるエクスタティックな上昇を特徴とする」(エリアーデ「世界宗教史5・P.261」ちくま学芸文庫)
エクスタシーに関し、その「専門家」としてシャーマンが上げられる。少し前にも触れた。
「シャーマンとは、神学者にして同時に悪魔学者、エクスタシーの専門家にして呪医、狩猟の助言者、共同体と牧畜群の守護者、霊魂の教導者、そして一部の社会では、学者であり詩人でもあるような存在なのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.38」ちくま学芸文庫)
その役割は地域共同体の秩序安定のために年中行事の中で一時的狂気を演じることにあった。蓄積された暗い力を解放して見せること。だからシャーマンが地域共同体の中で占める社会的位置はどんな古代の共同体でも見られるように保守的なものだ。共同体の秩序を規則的に確認する年中行事のため無意識のうちに「解体=狂気」を演じることができる力の持ち主。至上のエクスタシーの体現者。エリアーデはいう。
「これを記述した諸文献は短いうえに曖昧な箇所の多いもので、『ヘハロート(『天の宮殿』)の書』と名づけられている。そこには、幻視者がエクスタシーの旅のなかで通り行く多くの広間や宮殿の様子が描かれ、そして最後に七番目のヘハール〔宮殿。ヘハロートはヘハールの複数形〕に神の栄光の玉座が見いだされる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.261」ちくま学芸文庫)
「エクスタシーの旅のなかで通り行く多くの広間や宮殿」とある。「多くの広間や宮殿」だけではなく無数の諸天圏を総覧することが要求される。それが「幻視者」特有の「旅」だ。諸天圏の総覧という意味ではなじみ深い文学がある。ダンテ「神曲」。地獄、煉獄、天国、と三層化されている。様々な異次元を通り抜けるという意味ではネルヴァルがダンテを尊敬していたことも何ら不思議でない。とはいえダンテ「新曲」の場合、地獄や煉獄に落とし込められているのはヨーロッパに実在した人物ばかりであり、その位置はダンテの宗教的価値観に則ってはいるものの、実質的にダンテにとって気に食わない人物、嫌なやつ、から順番に最も深い地獄に叩き落とされ苦しんでいる。ばらばらに切り刻まれた人間の首ばかりが並んでいたり手足がばらばらに宙を舞っていたりする。しかしその光景が不思議に見えないのは現代人もまた夢の中でそのような不合理で理屈に合わない光景を何度も見ているからである。さらに「神曲」は当時のイタリア語を用いて書かれているけれども、当時の文学のように難解な言語を用いているわけではなくイタリアの世間一般で用いられている俗語で書かれた。誰にでもわかる言葉で宗教的政治的権威者の首や手足をばらばらにしたり神話に出てくる猛獣に喰い殺させたりした。しかし天国の描写はずいぶん趣きが異なる。言葉遣いが詩に変化している点が特徴的。ダンテの場合、天国は詩で出来ている。要するにダンテは知ってか知らずか多層的重層的な意味が表示される世界を描き出すにあたって《言語だけ》で構成する方法を選んでいる。案内者ベアトリーチェは女性だが、天国に至るやいなやベアトリーチェは言語化したというのではなく、そもそもベアトリーチェは《言語として》しか神聖化することができなかった。ダンテの最愛の女性ベアトリーチェが煉獄でイタリアの俗語を喋っていても問題ないが、天国へ入った以上、ダンテにしてみればベアトリーチェにもはや俗語を喋らせるわけにはいかない。ゆえに天国は詩の言語に満ちているのである。逆にネルヴァルの方法は原則的に誰をも特権化することはない。「幻視者がエクスタシーの旅のなかで通り行く多く」の世界。それは「死の世界に魅惑的な形象、造形を与え、豊かなものにすることで、死後の世界を『霊的、精神的なものにする』ことに寄与」する。
「シャーマンが《死の認識》に対し決定的に寄与しうるのは、彼が超自然界に旅して超人間的存在(神々、悪霊)を《見る》ことができるからにほかならない。おそらく、『他界の地理』の多くの特徴や死の神話におけるさまざまな主題は、シャーマンのエクスタシー経験の結果生まれたものであろう。シャーマンがあの世へのエクスタシーの旅の途中で目にする光景、遭遇する人物などは、トランスのあとで、あるいはそのさなかに、シャーマン自身によって詳細に描写される。知られざる恐るべき死の世界に形が与えられ、それぞれ特徴ある定型に従って組織化されていく。そしてやがては一定の構造が定まり、時とともにあたりまえのものとして受け容れられていく。一方、死の国に棲む存在たちも《目に見えるもの》となり、相貌をもち、その性格や来歴にも関心が向けられるようになる。死者の国への認識が徐々に可能になり、死それ自体もまた、《霊的な存在状態》への通過儀礼として価値が与えられるようになる。結局、シャーマンのエクスタシーの旅の物語は、死者の世界に魅惑的な形象、造形を与え、豊かなものにすることで、死後の世界を『霊的、精神的なものにする』ことに寄与した」(エリアーデ「世界宗教史5・P.51~52」ちくま学芸文庫)
このような精神的操作は単純に身に付くものではない。世界中の多くの古代宗教では「苦行」を伴って始めて直感的に身に付くようになる。苦行というのは多くの場合、自分で自分自身の身体を極限状態に起き続ける修行であり、それが儀式化したものだ。この儀式のことを指して一般に「イニシエーション」と呼ばれる。現代社会でも身近なところで言えば、たとえば「成人式」も一種のイニシエーション(儀式)である。今の成人式では取り立てて難行苦行が伴うわけではないが、日本でも儀式的意味合いの強い年中行事の中では独特の風習が残っていたり(正月の寒稽古など)、さらに視野を世界に広げれば、古代の地域共同体では成人するにあたって「バンジージャンプ」に挑まなければならない部族があったりする。よりいっそう厳密で精神的な「エクスタシーの旅」というのは「トランス状態」を含む。失神状態でなければ実行できない。そのため古代諸民族のあいだでは独特の宗教儀式が設定されていたのである。トランス状態をともなう「エクスタシーの旅」にネルヴァルが関心を抱いたことは、ネルヴァルの想像力が遊牧民の創造的感性に近いことを意味する。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
創作活動に打ち込んでいるときのネルヴァルはまるで遊牧民だ。しかしネルヴァルは狂気ではないのか。一八五四年から一八五五年にかけて精神病院入退院を繰り返しながら書かれた「火の娘」そして「オーレリア」。ネルヴァル、ニーチェ、ゴッホ、アルトーらの創作活動についてフーコーはこう述べている。
「狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界にまで際限なく追いやっているのであり、《創作活動が存在するところには、狂気は存在しない》、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の全面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである」(フーコー「狂気の歴史・P.559」新潮社)
また、エリアーデはエクスタシーの旅の進展にともなって、たとえばユダヤ教グノーシス派で行われる最後の試練は「いささか謎めいている」として紹介している。
「タルムードに残されたある断片によると、ラビ、アキバは、『天国』に入ることを望んでいる三人のラビに向かってこう語った。『あなたたちが輝く大理石の板敷の前まで到ったとき、<水だ!水だ!>と言ってはならない。なぜならこう記されている、<虚言を吐く者は我が前に留まることを得ず>と』。つまり、天の宮殿に敷きつめられている大理石板のめくるめく輝きは、海の波のような印象を与えるのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.264」ちくま学芸文庫)
めまいを催す状態で「海の波のような印象を与える」というのは、何もユダヤ教グノーシス派という神秘主義にまでさかのぼらなくても近代文学では少なからず出現している。
「『私の中から魂が抜け出せるわ。高い波の中を航海するわたしの艦隊を考えることができるわ。はげしい接触や衝突の心配はないわ。一人で白い絶壁の下を航海するんだわ。でも沈んでいく、落ちていく!あれは戸棚の隅だし、あれは子供部屋の鏡台だわ。でもそれらが拡がって長くなる。睡りの黒い羽毛の中へ沈んでいくんだわ。あつぼったい羽根がわたしの眼を圧えつけるの。暗闇の中をさまよってると拡がった花壇が見えるわ。ミセス・カンスタブルがパンパス草の隅のうしろから走ってきて、伯母さんが馬車でわたしを連れ戻しに来たって言いに来るわ。舞い上って、逃げるの。ばねの踵のついた靴をはいて木の頂へ飛び昇るの。でも玄関の扉のところにいる馬車の中へ落ちこんでいくわ。伯母さんが黄色い防止の羽根飾りをうなずかせながら坐っているわ。眼を滑かに光る大理石のようにつめたくして。ああ、夢から覚めたい!あら、衣裳箪笥があるわ。こんな海の水から逃げ出したいわ。波がどんどんわたしの上に積み重なってくるの。大きな波の肩の間でわたしをもみ洗い、向きを変えさせ、ひっくりかえされるの。手足が延びていくの。長い光の中で、長い波の中で、果しない小径の中で、人がどんどんつづいていく、つづいていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.25」角川文庫)
ヴァージニア・ウルフ「波」ではどの人物も海の中から「波」の一つとして浮かび上がってきてまたすぐに「波」として消え去ってしまうほんの僅かな実にこころもとない存在でしかない。そして彼ら登場人物は何度か必ず入れ換わり置き換わり互いが互いを通り抜ける。ローダは「荒海に浮かぶコルク」に、「流れては白くたまる泡沫」に、《なる》。ローダの場合は自由な選択として描かれている。逆に、ちなみに日本では一九九〇年代前半、バブル崩壊によって自殺し、「荒海に浮かぶコルク」に、「流れては白くたまる泡沫」に、なってしまった人物の姿形を目にした人は少なくない。一九九〇年代後半になるとさらに昔からの首吊り自殺者と水中への投身自殺者が激増した。ところが興味深いことに、ネット社会の情報化にともなって自動車を用いた「練炭自殺」という方法がいっとき流行した。いずれにしろ自殺は生産的でない。ウルフの場合、小説を書くことで自殺を回避する方法を取っている。「ダロウェイ夫人」を自殺させないため、セプティマスを自殺させるという方法でダロウェイ夫人と同一化したウルフは自分自身の自殺を回避させるという戦略を作品化している。そしてセプティマスが徐々に狂気の領域に深くはまり込んでいく様子は、ダロウェイ夫人が日常生活へ復帰する過程と好対照をなしている。セプティマスはこうおもう。
「だが、あれが無言の合図をする、葉は生きているぞ、木々は生きているぞ、と。そして葉は、いく百万の繊維でこのベンチに腰かけているおれの体とつながれているから、おれの体をあおって高く低くゆすぶるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.35」角川文庫)
ダロウェイ夫人もまたセプティマスとそれほど遠いところにいるわけではない。
「自分はやがてかならず死滅するってことは、それほど大変なことなのかしら。わたしがいなくなっても、これらのすべてのことは平気でつづいて行くにちがいないってことは、怪(け)しからぬことなのかしら?それとも、いっそ、死は絶対に自己消滅だと信ずることが、かえって安心できるんじゃないかしら?自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物のうちに生きる、と信ずることが。だって、わたしは故郷の木々の一部分にちがいないのだ、また、あそこにいく棟にも分かれたしまりのない醜い家の一部分、会ったこともない人々の一部分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.15」角川文庫)
ウルフが「序文」でセプティマスはウルフ自身の《分身》だと述べた。だから似ているのは当たり前といえば当たり前だ。一方でセプティマスの狂気はますます底知れない領域へ入っていく。だからセプティマスが狂気を担っている限りでダロウェイ夫人は理性を維持できている。しかしその態度はすでに仮面である。
「今まで何百べん、自分の顔を見たことだろう、いつも同じように眼に見えぬくらいちょっぴり筋肉をひきしめて!鏡を見る時わたしは口をつぼめる。顔を一点に集中するためなの。あれがわたし自身なのだーーーとんがった、投槍(なげやり)のような、はっきりした自分。あれが、自分であろうとする努力、要求が、どれほどてんでばらばらであるかは自分だけが知っているさまざまの部分をひとまとめにして、ただ世間のひとたちのために、そんなふうにして一つの中心、一つのダイヤモンド、一人の女、つまり自分の客間にすわって、一つの会合点となり、退屈な生活を送るひとたちの間では疑いもなく一つの光明となり、たぶん淋(さび)しいひとたちには訪(おとな)うべき慰安の場所となってやる一人の女に、つくりあげた時の自分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.58~59」角川文庫)
このシーンでのダロウェイ夫人の仮面化は、作品「灯台へ」のラムジー夫人の次の動作と極めて近いところへ接近している。
「心の中の思いと実際にやっていることーーースープをよそうことーーーのギャップに思わず眉をしかめつつ、夫人はますます強く、自分が渦の外にいるのを感じた。あるいは何か影が振りかかり、多様な色彩が奪われて、もののあるがままの姿が見えてきたようでもあった。この部屋の雰囲気は(彼女は見わたしてみた)、ずいぶんみすぼらしい。どこにも美しさなど見当たらない。タンズリーさんの方に目を向けるのは、あえて避けた。何ひとつ溶け合うことなく、皆ばらばらにすわっている。そして溶け込ませ、流れを生み、何かを創り出す努力はすべて彼女の肩にかかっていたのだ。反感をもつというよりただの事実として、夫人はあらためて男たちの不毛さを感じた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.156」岩波文庫)
ダロウェイ夫人とラムジー夫人とに与えられている役割(仮面)は、家庭内がばらばらにならないような中心的機能を女性が担わなければならなかった時代とそうではなくなっていく時代とのあいだの時代に、とりわけ欧米で顕著に出現した役割(仮面)であり、仮面自体が新旧の女性像を適切に使い分けなければならないような二重化された重いものだった頃のエピソードだといってよい。さらにダロウェイ夫人でもまた「波」の主題がやや不意に出てくる箇所がある。
「夏の日には、波もまたそのようにあつまり、バランスを失い、くずれる。あつまってはくずれる。そして全世界がますます重苦しい調子で、『それだけのことさ』と言うようになる。もうおそれるな、と心が言う。もうおそれるな、と心が言って、その重荷をどこかの海へまかせる。すると海はありとあらゆる悲嘆をあつめて、それにかわって嘆き、そして再生し、生の営みをはじめ、あつまり、くずれる。そして肉体だけが聴きいる、通りすぎる蜂の声に、くずれる波の音に、遠くでしきりに吠(ほ)えつづける犬の声に」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.62~63」角川文庫)
波は寄せては崩れ、さらに寄せては崩れる。そればかりを未来永劫反復する。ニーチェが見抜いたように「力」には特定の目的など何もないのだ。エリアーデに戻ろう。カバラ成立にあたって見逃すことのできない過程がある。
「カバラーは、一部のキリスト教著述家を通じて、その知識は充分とは言えず、理解のほどもさして深いものではなかったが、ルネサンス期およびそれ以降の、西欧キリスト教の『脱地域化』の過程にも重要な役割を演じている。言いかえれば、カバラーは十四世紀から十九世紀にいたるヨーロッパ思想史の、不可欠の一部となっている」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266」ちくま学芸文庫)
何をいっているのかというと、カバラはそもそもユダヤ教関連文献の中の断片的な部分を占めるものだったのだが、それがキリスト教とともに「旧約聖書」という形で同時に研究される過程で《神秘化》したという点である。
ーーーーー
なお、北朝鮮拉致問題について。あくまでも日本政府が責任を持つべきだと考える。一方、アメリカの軍事力に期待する人々は少なくない。もっともだと思う一方、いったんアメリカに下駄を預ければどういうことになるか考えたいとおもう。第一に沖縄はどうなるのか。沖縄には集団自決問題を始めとして基地問題以前からずっと長く取り組まれてきた課題が今なお山積している。その上になお基地問題が載った形になっている。軍事負担の増大は日本の不十分極まりない社会保障をよりいっそう圧迫しつつ格差拡大にともなう暴力的不安定社会を実現することになるだろう。この傾向は同時に治安当局の出番を増やすことになり、アメリカ本土のように年中どこかで何かのデモや警察と市民との衝突が起きている社会を日本でも出現させることになるのは間違いない。
さらに沖縄での悲劇と同時並行する形で大阪大空襲や東京大空襲があったことは誰でも知っているわけだが、その渦中で起こったことはあまり知られていない。当時は空襲があった場合、部分的に地上から高射砲で対抗するわけだが、たまたま高射砲に近い地下壕にいたため乗り出していって米軍戦闘機を墜落させた民間人がいる。そのうち戦後になって統合失調症を発症した。アルコール依存症で専門病院にいたときに当事者本人から聞かされた話である。長期入院を余儀なくされていて、戦争といえども「人殺し」には変わりないことと、さらに当事者本人が信仰心のある人間だったためもあり、罪の意識から或る宗教団体の熱心な信者になっていた。今では九十歳を越えているが統合失調者だということは自分でも認めている。なので自分では、おかしいのは「頭だけ」だと言い張っている一方、その家族の話を聞くと「頭だけ」でなく肋骨は折れ胃も全摘出している。健康診断のたびに心労が重なる。
さらに戦後、一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて中東で反米勢力が力を付け社会情勢が不安定化してきた頃、特に観光地でもあり避暑地でもあったレバノンで商売を営んでいた日本人のあいだでアメリカの軍事力に期待した人々がおり、その後どうなったかということも念頭に置かねばならない。アメリカの大規模な軍事介入により商売どころの話ではなくなり行き場を失い、無数の反米武装勢力が発生し、遂にニューヨーク「9.11」テロ発生に至った。もしそのような事態を招いてしまえば、アメリカの軍事力をあてにした拉致被害当事者らに対して、今度は日本を滅茶苦茶にする機会を率先して要請したという非難が集中するだろう。日本は地域紛争の激戦区と化す。これまで何度も繰り返し演じられてきた歴史の逆説について日本は日本自身で責任を持つべきだとおもうのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「私は嘗てカバラの書を何冊か集めた。この研究に没頭して、私は幾多の世紀に亘り人間精神がこの点に関して蓄積したところは一切が真であると信ずるに到った。外的世界の存在に就いて懐いていた確信は、あまりにもよく私の読書と符合して、爾来過去の啓示を疑うことは到底できなかった」(ネルヴァル「オーレリア・P.53~54」岩波文庫)
特にカバラでなくてもいいのだが、ネルヴァル作品の幻想性と登場人物が次々に変身していく独特な傾向から見れば、カバラを持ち出して説明に置き換えるには実に都合がいい。そういう側面をカバラは持つ。
「ユダヤ教神秘主義の最初の形態は、神の玉座メルカバーにまでいたるエクスタティックな上昇を特徴とする」(エリアーデ「世界宗教史5・P.261」ちくま学芸文庫)
エクスタシーに関し、その「専門家」としてシャーマンが上げられる。少し前にも触れた。
「シャーマンとは、神学者にして同時に悪魔学者、エクスタシーの専門家にして呪医、狩猟の助言者、共同体と牧畜群の守護者、霊魂の教導者、そして一部の社会では、学者であり詩人でもあるような存在なのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.38」ちくま学芸文庫)
その役割は地域共同体の秩序安定のために年中行事の中で一時的狂気を演じることにあった。蓄積された暗い力を解放して見せること。だからシャーマンが地域共同体の中で占める社会的位置はどんな古代の共同体でも見られるように保守的なものだ。共同体の秩序を規則的に確認する年中行事のため無意識のうちに「解体=狂気」を演じることができる力の持ち主。至上のエクスタシーの体現者。エリアーデはいう。
「これを記述した諸文献は短いうえに曖昧な箇所の多いもので、『ヘハロート(『天の宮殿』)の書』と名づけられている。そこには、幻視者がエクスタシーの旅のなかで通り行く多くの広間や宮殿の様子が描かれ、そして最後に七番目のヘハール〔宮殿。ヘハロートはヘハールの複数形〕に神の栄光の玉座が見いだされる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.261」ちくま学芸文庫)
「エクスタシーの旅のなかで通り行く多くの広間や宮殿」とある。「多くの広間や宮殿」だけではなく無数の諸天圏を総覧することが要求される。それが「幻視者」特有の「旅」だ。諸天圏の総覧という意味ではなじみ深い文学がある。ダンテ「神曲」。地獄、煉獄、天国、と三層化されている。様々な異次元を通り抜けるという意味ではネルヴァルがダンテを尊敬していたことも何ら不思議でない。とはいえダンテ「新曲」の場合、地獄や煉獄に落とし込められているのはヨーロッパに実在した人物ばかりであり、その位置はダンテの宗教的価値観に則ってはいるものの、実質的にダンテにとって気に食わない人物、嫌なやつ、から順番に最も深い地獄に叩き落とされ苦しんでいる。ばらばらに切り刻まれた人間の首ばかりが並んでいたり手足がばらばらに宙を舞っていたりする。しかしその光景が不思議に見えないのは現代人もまた夢の中でそのような不合理で理屈に合わない光景を何度も見ているからである。さらに「神曲」は当時のイタリア語を用いて書かれているけれども、当時の文学のように難解な言語を用いているわけではなくイタリアの世間一般で用いられている俗語で書かれた。誰にでもわかる言葉で宗教的政治的権威者の首や手足をばらばらにしたり神話に出てくる猛獣に喰い殺させたりした。しかし天国の描写はずいぶん趣きが異なる。言葉遣いが詩に変化している点が特徴的。ダンテの場合、天国は詩で出来ている。要するにダンテは知ってか知らずか多層的重層的な意味が表示される世界を描き出すにあたって《言語だけ》で構成する方法を選んでいる。案内者ベアトリーチェは女性だが、天国に至るやいなやベアトリーチェは言語化したというのではなく、そもそもベアトリーチェは《言語として》しか神聖化することができなかった。ダンテの最愛の女性ベアトリーチェが煉獄でイタリアの俗語を喋っていても問題ないが、天国へ入った以上、ダンテにしてみればベアトリーチェにもはや俗語を喋らせるわけにはいかない。ゆえに天国は詩の言語に満ちているのである。逆にネルヴァルの方法は原則的に誰をも特権化することはない。「幻視者がエクスタシーの旅のなかで通り行く多く」の世界。それは「死の世界に魅惑的な形象、造形を与え、豊かなものにすることで、死後の世界を『霊的、精神的なものにする』ことに寄与」する。
「シャーマンが《死の認識》に対し決定的に寄与しうるのは、彼が超自然界に旅して超人間的存在(神々、悪霊)を《見る》ことができるからにほかならない。おそらく、『他界の地理』の多くの特徴や死の神話におけるさまざまな主題は、シャーマンのエクスタシー経験の結果生まれたものであろう。シャーマンがあの世へのエクスタシーの旅の途中で目にする光景、遭遇する人物などは、トランスのあとで、あるいはそのさなかに、シャーマン自身によって詳細に描写される。知られざる恐るべき死の世界に形が与えられ、それぞれ特徴ある定型に従って組織化されていく。そしてやがては一定の構造が定まり、時とともにあたりまえのものとして受け容れられていく。一方、死の国に棲む存在たちも《目に見えるもの》となり、相貌をもち、その性格や来歴にも関心が向けられるようになる。死者の国への認識が徐々に可能になり、死それ自体もまた、《霊的な存在状態》への通過儀礼として価値が与えられるようになる。結局、シャーマンのエクスタシーの旅の物語は、死者の世界に魅惑的な形象、造形を与え、豊かなものにすることで、死後の世界を『霊的、精神的なものにする』ことに寄与した」(エリアーデ「世界宗教史5・P.51~52」ちくま学芸文庫)
このような精神的操作は単純に身に付くものではない。世界中の多くの古代宗教では「苦行」を伴って始めて直感的に身に付くようになる。苦行というのは多くの場合、自分で自分自身の身体を極限状態に起き続ける修行であり、それが儀式化したものだ。この儀式のことを指して一般に「イニシエーション」と呼ばれる。現代社会でも身近なところで言えば、たとえば「成人式」も一種のイニシエーション(儀式)である。今の成人式では取り立てて難行苦行が伴うわけではないが、日本でも儀式的意味合いの強い年中行事の中では独特の風習が残っていたり(正月の寒稽古など)、さらに視野を世界に広げれば、古代の地域共同体では成人するにあたって「バンジージャンプ」に挑まなければならない部族があったりする。よりいっそう厳密で精神的な「エクスタシーの旅」というのは「トランス状態」を含む。失神状態でなければ実行できない。そのため古代諸民族のあいだでは独特の宗教儀式が設定されていたのである。トランス状態をともなう「エクスタシーの旅」にネルヴァルが関心を抱いたことは、ネルヴァルの想像力が遊牧民の創造的感性に近いことを意味する。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
創作活動に打ち込んでいるときのネルヴァルはまるで遊牧民だ。しかしネルヴァルは狂気ではないのか。一八五四年から一八五五年にかけて精神病院入退院を繰り返しながら書かれた「火の娘」そして「オーレリア」。ネルヴァル、ニーチェ、ゴッホ、アルトーらの創作活動についてフーコーはこう述べている。
「狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界にまで際限なく追いやっているのであり、《創作活動が存在するところには、狂気は存在しない》、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の全面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである」(フーコー「狂気の歴史・P.559」新潮社)
また、エリアーデはエクスタシーの旅の進展にともなって、たとえばユダヤ教グノーシス派で行われる最後の試練は「いささか謎めいている」として紹介している。
「タルムードに残されたある断片によると、ラビ、アキバは、『天国』に入ることを望んでいる三人のラビに向かってこう語った。『あなたたちが輝く大理石の板敷の前まで到ったとき、<水だ!水だ!>と言ってはならない。なぜならこう記されている、<虚言を吐く者は我が前に留まることを得ず>と』。つまり、天の宮殿に敷きつめられている大理石板のめくるめく輝きは、海の波のような印象を与えるのである」(エリアーデ「世界宗教史5・P.264」ちくま学芸文庫)
めまいを催す状態で「海の波のような印象を与える」というのは、何もユダヤ教グノーシス派という神秘主義にまでさかのぼらなくても近代文学では少なからず出現している。
「『私の中から魂が抜け出せるわ。高い波の中を航海するわたしの艦隊を考えることができるわ。はげしい接触や衝突の心配はないわ。一人で白い絶壁の下を航海するんだわ。でも沈んでいく、落ちていく!あれは戸棚の隅だし、あれは子供部屋の鏡台だわ。でもそれらが拡がって長くなる。睡りの黒い羽毛の中へ沈んでいくんだわ。あつぼったい羽根がわたしの眼を圧えつけるの。暗闇の中をさまよってると拡がった花壇が見えるわ。ミセス・カンスタブルがパンパス草の隅のうしろから走ってきて、伯母さんが馬車でわたしを連れ戻しに来たって言いに来るわ。舞い上って、逃げるの。ばねの踵のついた靴をはいて木の頂へ飛び昇るの。でも玄関の扉のところにいる馬車の中へ落ちこんでいくわ。伯母さんが黄色い防止の羽根飾りをうなずかせながら坐っているわ。眼を滑かに光る大理石のようにつめたくして。ああ、夢から覚めたい!あら、衣裳箪笥があるわ。こんな海の水から逃げ出したいわ。波がどんどんわたしの上に積み重なってくるの。大きな波の肩の間でわたしをもみ洗い、向きを変えさせ、ひっくりかえされるの。手足が延びていくの。長い光の中で、長い波の中で、果しない小径の中で、人がどんどんつづいていく、つづいていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.25」角川文庫)
ヴァージニア・ウルフ「波」ではどの人物も海の中から「波」の一つとして浮かび上がってきてまたすぐに「波」として消え去ってしまうほんの僅かな実にこころもとない存在でしかない。そして彼ら登場人物は何度か必ず入れ換わり置き換わり互いが互いを通り抜ける。ローダは「荒海に浮かぶコルク」に、「流れては白くたまる泡沫」に、《なる》。ローダの場合は自由な選択として描かれている。逆に、ちなみに日本では一九九〇年代前半、バブル崩壊によって自殺し、「荒海に浮かぶコルク」に、「流れては白くたまる泡沫」に、なってしまった人物の姿形を目にした人は少なくない。一九九〇年代後半になるとさらに昔からの首吊り自殺者と水中への投身自殺者が激増した。ところが興味深いことに、ネット社会の情報化にともなって自動車を用いた「練炭自殺」という方法がいっとき流行した。いずれにしろ自殺は生産的でない。ウルフの場合、小説を書くことで自殺を回避する方法を取っている。「ダロウェイ夫人」を自殺させないため、セプティマスを自殺させるという方法でダロウェイ夫人と同一化したウルフは自分自身の自殺を回避させるという戦略を作品化している。そしてセプティマスが徐々に狂気の領域に深くはまり込んでいく様子は、ダロウェイ夫人が日常生活へ復帰する過程と好対照をなしている。セプティマスはこうおもう。
「だが、あれが無言の合図をする、葉は生きているぞ、木々は生きているぞ、と。そして葉は、いく百万の繊維でこのベンチに腰かけているおれの体とつながれているから、おれの体をあおって高く低くゆすぶるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.35」角川文庫)
ダロウェイ夫人もまたセプティマスとそれほど遠いところにいるわけではない。
「自分はやがてかならず死滅するってことは、それほど大変なことなのかしら。わたしがいなくなっても、これらのすべてのことは平気でつづいて行くにちがいないってことは、怪(け)しからぬことなのかしら?それとも、いっそ、死は絶対に自己消滅だと信ずることが、かえって安心できるんじゃないかしら?自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物のうちに生きる、と信ずることが。だって、わたしは故郷の木々の一部分にちがいないのだ、また、あそこにいく棟にも分かれたしまりのない醜い家の一部分、会ったこともない人々の一部分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.15」角川文庫)
ウルフが「序文」でセプティマスはウルフ自身の《分身》だと述べた。だから似ているのは当たり前といえば当たり前だ。一方でセプティマスの狂気はますます底知れない領域へ入っていく。だからセプティマスが狂気を担っている限りでダロウェイ夫人は理性を維持できている。しかしその態度はすでに仮面である。
「今まで何百べん、自分の顔を見たことだろう、いつも同じように眼に見えぬくらいちょっぴり筋肉をひきしめて!鏡を見る時わたしは口をつぼめる。顔を一点に集中するためなの。あれがわたし自身なのだーーーとんがった、投槍(なげやり)のような、はっきりした自分。あれが、自分であろうとする努力、要求が、どれほどてんでばらばらであるかは自分だけが知っているさまざまの部分をひとまとめにして、ただ世間のひとたちのために、そんなふうにして一つの中心、一つのダイヤモンド、一人の女、つまり自分の客間にすわって、一つの会合点となり、退屈な生活を送るひとたちの間では疑いもなく一つの光明となり、たぶん淋(さび)しいひとたちには訪(おとな)うべき慰安の場所となってやる一人の女に、つくりあげた時の自分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.58~59」角川文庫)
このシーンでのダロウェイ夫人の仮面化は、作品「灯台へ」のラムジー夫人の次の動作と極めて近いところへ接近している。
「心の中の思いと実際にやっていることーーースープをよそうことーーーのギャップに思わず眉をしかめつつ、夫人はますます強く、自分が渦の外にいるのを感じた。あるいは何か影が振りかかり、多様な色彩が奪われて、もののあるがままの姿が見えてきたようでもあった。この部屋の雰囲気は(彼女は見わたしてみた)、ずいぶんみすぼらしい。どこにも美しさなど見当たらない。タンズリーさんの方に目を向けるのは、あえて避けた。何ひとつ溶け合うことなく、皆ばらばらにすわっている。そして溶け込ませ、流れを生み、何かを創り出す努力はすべて彼女の肩にかかっていたのだ。反感をもつというよりただの事実として、夫人はあらためて男たちの不毛さを感じた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.156」岩波文庫)
ダロウェイ夫人とラムジー夫人とに与えられている役割(仮面)は、家庭内がばらばらにならないような中心的機能を女性が担わなければならなかった時代とそうではなくなっていく時代とのあいだの時代に、とりわけ欧米で顕著に出現した役割(仮面)であり、仮面自体が新旧の女性像を適切に使い分けなければならないような二重化された重いものだった頃のエピソードだといってよい。さらにダロウェイ夫人でもまた「波」の主題がやや不意に出てくる箇所がある。
「夏の日には、波もまたそのようにあつまり、バランスを失い、くずれる。あつまってはくずれる。そして全世界がますます重苦しい調子で、『それだけのことさ』と言うようになる。もうおそれるな、と心が言う。もうおそれるな、と心が言って、その重荷をどこかの海へまかせる。すると海はありとあらゆる悲嘆をあつめて、それにかわって嘆き、そして再生し、生の営みをはじめ、あつまり、くずれる。そして肉体だけが聴きいる、通りすぎる蜂の声に、くずれる波の音に、遠くでしきりに吠(ほ)えつづける犬の声に」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.62~63」角川文庫)
波は寄せては崩れ、さらに寄せては崩れる。そればかりを未来永劫反復する。ニーチェが見抜いたように「力」には特定の目的など何もないのだ。エリアーデに戻ろう。カバラ成立にあたって見逃すことのできない過程がある。
「カバラーは、一部のキリスト教著述家を通じて、その知識は充分とは言えず、理解のほどもさして深いものではなかったが、ルネサンス期およびそれ以降の、西欧キリスト教の『脱地域化』の過程にも重要な役割を演じている。言いかえれば、カバラーは十四世紀から十九世紀にいたるヨーロッパ思想史の、不可欠の一部となっている」(エリアーデ「世界宗教史5・P.266」ちくま学芸文庫)
何をいっているのかというと、カバラはそもそもユダヤ教関連文献の中の断片的な部分を占めるものだったのだが、それがキリスト教とともに「旧約聖書」という形で同時に研究される過程で《神秘化》したという点である。
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なお、北朝鮮拉致問題について。あくまでも日本政府が責任を持つべきだと考える。一方、アメリカの軍事力に期待する人々は少なくない。もっともだと思う一方、いったんアメリカに下駄を預ければどういうことになるか考えたいとおもう。第一に沖縄はどうなるのか。沖縄には集団自決問題を始めとして基地問題以前からずっと長く取り組まれてきた課題が今なお山積している。その上になお基地問題が載った形になっている。軍事負担の増大は日本の不十分極まりない社会保障をよりいっそう圧迫しつつ格差拡大にともなう暴力的不安定社会を実現することになるだろう。この傾向は同時に治安当局の出番を増やすことになり、アメリカ本土のように年中どこかで何かのデモや警察と市民との衝突が起きている社会を日本でも出現させることになるのは間違いない。
さらに沖縄での悲劇と同時並行する形で大阪大空襲や東京大空襲があったことは誰でも知っているわけだが、その渦中で起こったことはあまり知られていない。当時は空襲があった場合、部分的に地上から高射砲で対抗するわけだが、たまたま高射砲に近い地下壕にいたため乗り出していって米軍戦闘機を墜落させた民間人がいる。そのうち戦後になって統合失調症を発症した。アルコール依存症で専門病院にいたときに当事者本人から聞かされた話である。長期入院を余儀なくされていて、戦争といえども「人殺し」には変わりないことと、さらに当事者本人が信仰心のある人間だったためもあり、罪の意識から或る宗教団体の熱心な信者になっていた。今では九十歳を越えているが統合失調者だということは自分でも認めている。なので自分では、おかしいのは「頭だけ」だと言い張っている一方、その家族の話を聞くと「頭だけ」でなく肋骨は折れ胃も全摘出している。健康診断のたびに心労が重なる。
さらに戦後、一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて中東で反米勢力が力を付け社会情勢が不安定化してきた頃、特に観光地でもあり避暑地でもあったレバノンで商売を営んでいた日本人のあいだでアメリカの軍事力に期待した人々がおり、その後どうなったかということも念頭に置かねばならない。アメリカの大規模な軍事介入により商売どころの話ではなくなり行き場を失い、無数の反米武装勢力が発生し、遂にニューヨーク「9.11」テロ発生に至った。もしそのような事態を招いてしまえば、アメリカの軍事力をあてにした拉致被害当事者らに対して、今度は日本を滅茶苦茶にする機会を率先して要請したという非難が集中するだろう。日本は地域紛争の激戦区と化す。これまで何度も繰り返し演じられてきた歴史の逆説について日本は日本自身で責任を持つべきだとおもうのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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