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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/梁(りやう)の道珍(だうちん)・静かな静かな極楽往生

2021年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

梁(りやう)の時代、道珍(だうちん)という僧がいた。念仏を専門に修行に励んだ。水想観といって極楽浄土をイメージしてひたすらその観想に専心する日々を送った。

在る時、道珍は夢を見た。一つの船に百人が乗船して西方(さいはう)に向かっている。道珍もその船に乗せてもらおうとすると先に乗っている者らは道珍の乗船を許可しようとしない。

「道珍、夢ニ水ヲ見ルニ、百人同船ニ乗(のり)テ西方(さいほう)ニ行カムト為(す)ルニ、道珍、其ノ船ニ乗ムラムト為(す)ルヲ、此ノ船ニ乗レル人不許(ゆるさ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)

道珍が乗船拒否の理由を尋ねたところ、「そなたは西方の業(極楽浄土への道程)をまだすべて終えていない。というのは、阿弥陀経(あみだきやう)を読んでいないし、また温室(うんしつ)=沐浴(もくよく)も済ませていないのだから。

「法師ノ西方ノ業未(いま)ダ不満(みた)ズ。其ノ故ハ未(いまだ)阿弥陀経(あみだきやう)ヲ不読(よま)ズ、幷(ならびに)温室(うんしつ)ヲ不行(ぎやうぜ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)

そう言うと百人を乗せた船は百人ごと消え失せた。同時に夢も覚めたようだ。そこで道珍はさっそく阿弥陀経を読み込んで学び、さらに多くの同行の僧らを集めて湯殿を開き沐浴させた。その後、道珍は再び夢を見た。今度はたった一人の人が、蓮台を現わす「白銀(しろかね)ノ楼台(らうたい)」に乗って出現した。そしていう。「そなたは既にすべての修行を終えた。極楽往生は間違いない」。

「汝(なむ)ヂ浄土ノ業既ニ満テリ。必ズ西方(さいはう)ニ可生(うまるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79」岩波書店)

夢から覚めた道珍は夢で見た内容を他人に語ることはせず、記録して経筥(きやうはこ)に中に納めておいた。だから誰も道珍がそんな夢を見たことを知らない。

「其ノ後、此等ノ事ヲ人ニ不語(かたら)ズシテ、記(しる)シテ経筥(きやうはこ)ノ中ニ入レテ納メ置(おき)テケリ。然レバ、人知ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.79~80」岩波書店)

しばらくして遂に道珍の臨終が訪れた時、修行している山の頂上にあたかも数千の火を一度に灯したかのような、壮麗な光明が煌めき輝いた。また、この世のものとも思われない妙なる香りが一帯に打ち広がった。

「遂(つひに)道珍命終(みやうじう)ノ時ニ臨(のぞみ)テ、山ノ頂ニ数千(すせん)ノ火ヲ燃(とも)シタルガ如クニ光明(くわうみやう)有(あり)。異香(いきやう)寺ノ内ニ満(みち)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)

その光景を見て始めて周囲の人々は道珍が極楽往生を遂げたことを知った。その後弟子たちが、死去した道珍の遺品を整理していた時、亡き師の経筥を開いてみると生前に道珍が見た夢のことが記録してあるのに気づいた。道珍は夢のことは何一つ語らずただひたすら修行に専心して往生を達成した。それを思うと弟子たちは深い感慨に打たれた。

「後ニ弟子等、師ノ経筥(きやうはこ)ヲ開(みらき)テ見ルニ、此ノ記(しるし)有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)

さて。第一に異界への通路だが、それはここでもまた「夢」。第二に交換関係は「夢で提出された条件を満たすこと」と「極楽往生」との等価交換である。そしてそれは達成された。しかし注目したいのは、けっして大袈裟に振る舞うことのない道珍の態度とその専心性である。とりわけ人間は思春期を終えて成人を迎えるとたちまち一つのことに専心集中するのが極めて苦手になる。なぜそうなるのかはよくわからないが、逆に童子の頃はそうではない。「甲子夜話」に次の話が見える。

平戸に快行院という名の密教系の僧がいた。夫婦で暮らしており子どもは上が十三、四歳、下は七、八歳と今でいう小学生くらいの年齢の子まで数人いた。快行院はしばしば長子を連れて湯立(ゆだて)の祈祷を行っていた。長子を連れて行っていた理由はゆくゆく長子を後継者にと考えていたためだろう。湯立の法は、湯を沸騰させていつもの「ヲンバロダヤソワカ」という呪文のような詞(ことば)を唱えながら煮え立った湯を体に浴びてもまったく火傷しないという密教独特の法。しょっちゅうやっているので自分の子どもだけでなく隣近所の子どもたちまでその真言=詞(ことば)を覚えてしまった。或る日、快行院が用事のため夫婦で外出したところ、留守のあいだに快行院の子どもたちばかりか隣近所の子どもたちが集まって湯立の真似事を始めた。日頃から興味津々だったのだろう。家の中に置いてあるごく普通の鍋に水を入れ薪を焚いて沸騰させ、耳で覚えただけの例の真言を皆で何度か唱えてみると沸騰させた湯が本当に水になった。ほんの児戯(いたずら)のつもりだったので、子どもたちは笑い合いそのまま別々に散っていった。一方ようやく帰宅した快行院夫婦。ご飯を炊こうと鍋を火にかけたが一向に煮え立ってこない。どうしたわけかと不審に思って右往左往していると、隣人が子どもたちの遊びの様子を見ていたので語って聞かせた。快行院夫婦は半信半疑ながらもそれならと逆に水が湯になる真言=詞(ことば)を唱えてみたところ、本当に湯が沸騰し出した。童子は遊びに対してもまた真剣である。たかが遊び。しかしもはや成人してしまうとこのように遊び一つ取っても専心集中することは極めて困難になるのだろう。

「平戸の下方と云(いふ)所に快行院と云(いへ)る修験あり。十三、四を長として七つ八つまでの子あまたあり。快行院時々その長子を従へ湯立(ゆだて)の祈祷をなす。其時湯の沸起するを持てこれを探り、或は物に潑(そそ)ぐに火傷せず。このとき専らヲンバロダヤソワカと云真言を誦す。然るをかの子児等聞覚て、或日、快行院の他行せしるすに、田舎のことなれば、ゐろりに鍋をかけある辺に、家児も隣児もあまた集り、炉辺をとり囲み、湯立を為るとて薪を焚て、湯沸くと同音の真言を数遍唱ゆるに、湯次第に水になりぬ。子児等戯咲(ぎせう)して散去れり。夫より快行院夫婦還り来て、飯をたかん迚火を焚つけたるに、何(い)かにしても湯わかず。不審に思ひて立廻るうち隣婦来れり。乃(すなはち)このことを語る。婦、児戯の状を告ぐ。夫婦始て驚き、快行院因て湯に返る真言を誦したれば、やがて水わきあがりて飯をたくこと成りたりと云。かの真言は水天の呪なり。児戯は誠一ゆゑに感応せしにや」(「甲子夜話2・巻二十一・二十八・P.28~29」東洋文庫)

フロイトは子供にとって「遊び・真剣・現実」とはどのような関係にあるかについてこう述べている。

「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院)

ところで快行院の一節に「水天」とあるのは「水神」のこと。今の日本では「水天宮」と呼ばれて全国各地にある。そもそもは古代インドの神々の中でも創造主のうちに入る「ヴァルナ」を指す。神としては次第に小さな存在になったがその後に描かれた「リグ・ヴェーダ讃歌」にも僅かだが幾つか記述が見える。

「十 固く掟を守るヴァルナは、水流の中に坐せり、賢明なる神は、完全なる主権を行使せんがために」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-25・P.123」岩波文庫)

「三 最高の君主・強力なる牡牛・天と地との主宰者として、ミトラとヴァルナとは諸民を統(す)ぶ。汝ら〔両神〕は、〔雷光に〕輝く雲を伴い、咆哮(雷鳴)に近づく。汝らは天をして雨降らしむ、アスラの幻力によりて。
五 マルト神群(暴風雨神)は、快速の車を装う、美観を呈せんがために、ミトラ・ヴァルナよ、勇士が牛の掠奪に際してなすごとくに。雷鳴は〔電光に〕輝く空間を馳せめぐる。最高の君主(ミトラ・ヴァルナ)よ、天の乳液(雨)をもってわれらを潤(うる)おせ」(「リグ・ヴェーダ讃歌・5-63・P.132~133」岩波文庫)

エリアーデはこういっている。

「インドにおいて、水は宇宙開闢の物質をもっともよく代表している」(エリアーデ「世界宗教史2・第九章・73・P.65」ちくま学芸文庫)

日本神話では「古事記」冒頭に出てくる「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」がそれに当たる。

「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)」(「古事記・上つ巻・P.18」岩波文庫)

またギリシア神話でも。一般的に「ウラノス=天空神」と呼ばれる。

「天空(ウーラノス)が最初に全世界を支配した」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.29」岩波文庫)

さらにウラノスの性格は女神として有名な「アプロディテ」に受け継がれている。

「スキュタイ人はそれからエジプトを目指して進んだ。彼らがパレスティナ・シリアまできたとき、エジプト王プサンメティコスが出向いていって、贈物と泣き落し戦術で、それより先へ進むことを思いとどまらせたのである。スキュタイ人は後戻りしてシリアの町アスカロンへきたとき、大方のスキュタイ人はおとなしく通過していったのに、少数のものが後へ残って『アプロディテ・ウラニア』の神殿を荒したのである。この社は私の調べたところでは、この女神の社としては最古のものである。キュプロスにある社もその起源はここに発していることは、キュプロス人が自らいっており、またキュテラの社は、シリアのこの地方からいったフェキニア人が創建したものである。さてアスカロンの社を荒したスキュタイ人とその子孫は後々まで、神罰を蒙り『おんな病』(性病・男色・陰萎等々)に罹った。スキュタイ人も、この連中の患いは右の原因によるものだとしており、スキュタイ人がエナレスと呼んでいるこれらの者たちの実状は、スキュタイへ来て見れば、自分の目で確かめられるといっている」(ヘロドトス「歴史・上・巻一・一〇五・P.97~98」岩波文庫)

ヘロドトスのいう「エナレス」は別の箇所で「おとこおんな」とされている。かつて「ふたなり」と呼ばれたケースを含め、今でいうLGBTに近い。

「スキュティアには多数の占師がいるが、彼らは多数の柳の枝を用い次のようにして占う。占師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一並べながら呪文を唱える。そして呪文を唱えつづけながら、再び棒を束ね、それからまた一本ずつ並べてゆく。この卜占術はスキュティア古来の伝統的なものであるが、例の『おとこおんな』のエナレエスたちは、アプロディテから授かったと自称する方法で占う。いずれにせよそれは菩提樹の樹皮を用いて占うもので、菩提樹の樹皮を三つに切り、これを指に巻きつけたりほどいたりしながら預言するのである」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六七・P.47」岩波文庫)

古代ギリシア時代すでに特権的排除の構造が見られる。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

ちなみに排除といっても、ヘリオガバルスの場合は下へではなく皇帝として上へ排除されたケース。

日本でも江戸時代、「辻君、白人(はくじん)、比丘尼」など女性の売春者らと並んで「野郎・影間」に熱中する同性愛者らは少なくなかった。横井也有「鶉衣(うづらごろも)」にこうある。

「波にうかるるうかれめ、草に音をなく辻君、白人(はくじん)、比丘尼、野郎・影間、それとも賣かふものはさらなり、御油・赤坂の留メ女さへ、おかしからぬ事もよくわらひて、ねよげにみゆる、旅人になじみの文よみてもらひ、さし足袋賣たるえにしより、七日つつしみし始末もやぶれて、一夜の露に落やすきは、いさ此道のならひならぬかは」(日本古典文学体系・横井也有「鶉衣・戀説」『近世俳句俳文集・P.374』岩波書店)

熊楠がいうように「野郎(やろう)」は「男色・衆道」で多くは歌舞伎若衆が目当て、「影間(かげま)」はもう少し若い少年が男色を売り物にする場合。そうしなければ食べていくのもやっと、という事情があったわけだが、何ら嫌々でなく出現し実践されるLGBTは遥か古代から広く世界中で認められた歴史的文化だった。

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熊楠による熊野案内/蘇規(そき)夫婦・鏡から生じた負債

2021年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、蘇規(そき)という人物がいた。国の官僚として遥かに遠い洲へ赴任することになった。蘇規(そき)には妻がおり、単身赴任に当たって妻にこう語った。

「わたしは国王の命に従ってここからかなり遠方の洲へ勅使として赴任することになった。そなたと会うことは久しく不可能となるだろう。その前に言っておきたいと思う。わたしは遠くの洲で任務に当たっている間、他の女性と関係を持つことはけっしてしない。そなたもまた、他の男性と関係を持ってはいけない。そこで一つの鏡があるのだが、この鏡を二つに割って一方をそなたに預けておこうと思う。もう一方はわたしが持って行く。というのは、もしわたしが地方へ出向している間、そなた以外の女性と性的関係を持つや否や二つに割った鏡の半分は否応なくそなたの手元へ飛び来たってそなたの鏡にきっちり符号するはずだからだ。また逆にそなたがわたしの不在時に他の男性と性的関係を持つや否やそなたに預けたもう半分の鏡はたちまちわたしの手元に飛び来たってわたしが持つもう半分の鏡と符号するに違いないから」。

「我レ、国王ノ使トシテ遠キ洲ヘ行ク。汝ト不相見(あひみ)ズシテ久クアルベシ。然レバ我レ、他(ほか)ノ女ニ不可娶(とづぐべから)ズ。汝亦、他(ほか)ノ男ニ不可近付(ちかづくべから)ズ。此レニ依(より)テ、一(ひとつ)ノ鏡ヲ二(ふたつ)ニ破(わり)テ、半(なから)ハ汝ニ預(あづけ)ム、半ハ我レ持(も)テ行(ゆか)ム。若(も)シ我レ、他ノ女ニ娶(とつが)バ、我ガ半ノ鏡必ズ飛ビ来(きたり)テ、汝ガ鏡ニ可合(あふべ)シ。亦若シ、汝(なむ)ヂ、他ノ男ニ娶(とつが)バ、亦汝ガ持(も)タル半(なからの)鏡飛ビ来(きたり)テ、我ガ半(なからの)鏡ニ可合(あふべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第十九・P.332」岩波書店)

蘇規とその妻は両者ともにこの提案に合意した。蘇規は割った鏡の一方をいつも身に付け、妻はもう一方を家にある箱の中に納めた。そして蘇規は遥か遠方の赴任先へ出向していった。しばらくすると妻は家の中に他の男性を連れ込んで性行為に励み始めた。しかし妻は一体どの程度の期間我慢したか。諸本では蘇規の単身赴任後「十日程」とあるようで、ほとんど毎日のように男なしの暮らしに我慢できるタイプではなかったらしい。逆に蘇規は妻の性癖をよく知らなかったか、知っているがゆえにわざと二人で鏡を共有する約束を持ちかけたのかもしれない。

「其ノ後、程ヲ経テ、妻(め)、家ニ有(あり)テ他(ほか)ノ男ニ娶(とつぎ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第十九・P.332」岩波書店)

遠方の洲にいる蘇規に妻の不倫がすぐ発覚する恐れはまずない。蘇規は何一つ知らないまま勤務地で任務に当たっていた。ところがそこへほんの数日前に合意したばかりの鏡がいきなり飛び来たった。両方の鏡を付き合わせて照合してみると両者はぴたりと符合した。蘇規は約束が破られたことを知り、信じ合うということの困難さが身に染み渡った気がした。なお「沙(いさご)ノ如シ」とある箇所は意味不明。だが前後の文章を見ると「契・約・誤(あざむき)・契・違(たがへ)」とあることから帰納すれば、文脈上ほぼ間違いなく「約ノ如シ」と考えるのが妥当だろう。

「蘇規、其ノ事ヲ不知(しら)ズシテ外洲(ほかのくに)ニ有ル間、妻ノ半(なからの)鏡、忽(たちまち)ニ飛ビ来(きたり)テ蘇規ガ半(なからの)鏡ニ合フ事、沙(いさご)ノ如シ。然レバ蘇規、我ガ妻(め)忽ニ約ヲ誤(あざむき)テ、他ノ男ニ娶(とつぎ)ニケリト云フ事ヲ知テ、契ヲ違(たがへ)タル事ヲ恨(うらみ)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第十九・P.332~333」岩波書店)

さて。説話に従えば、この鏡は「割符」ではない。それどころか「割符」以上のことをする。二つに割った鏡の一方ともう一方との割れ目を慎重に付き合わせてみた上でそれが一致したからといって、ただそれだけで証拠として承認されるのは「性関係」の世界ばかりとは必ずしも限らない。むしろ「貨幣制度」の世界(=金融機構)に向いている。鏡の場合、証拠の一つとして採用されるのは言うまでもないことであり、それ以上に現場を可視化してまざまざと見せつける監視カメラの効果を併せ持つ。その意味でこの種の鏡は金融商品を取り扱うどの機関よりもさらに上のメタ・レベルに立つ。金融取引はこのような構造上、金融機関は金融機関自身をいつも監視し取り締まる機能を身に帯びざるを得ない立場に自分自身を晒している。

では二つに割ったこの鏡は一体何なのだろうか。第一にただ単に二つに割れた鏡の一方と他方とでしかない。しかし第二に、二つに割ったその瞬間、鏡のどちらの側にも負債が発生している。失われたもう一方を別の等価のもので贖わなければならないという負債が、債務として出現している。ただし、この債務は必ずしも別の等価のもので贖われなければならないかといえば必ずしもそうではない。債権・債務関係が義務化した理由は、両者の間で「契約」が交わされたからにほかならない。とはいえ何らの猶予もまるでなくなってしまうわけではない。だがこの場合は違った。夫も妻も合意した上でなおかつ発生した一方の側の「違約」。ゆえに二つに割られた鏡は両者ともども生じた負債から逃れることはもはや不可能になった。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

さらに。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫)

従って「違約」が、この場合は妻による「違約」が、さらに二人を追い詰めることになった。そしてなおかつこの種の負債は、破られるや否やただちに取り立てにやって来る鬼のような義務に取り憑かれている。また、取り憑かれていなくては負債といっても名ばかりに過ぎず、名ばかりの負債に過ぎないのであれば返済義務などもとよりないに等しい。「貨幣・言語・性」に関してまだまだ謎が多過ぎる。ただ、その謎の底知れなさにもかかわらず、謎を覆い隠しているものが今なおある。貨幣にも言語にも性にもただならぬ矛盾や割り切れない部分が多少なりとも生じるのは世の常。この割り切れない部分を覆い隠すために非常に便利な「制度」が実はある。便利なのは信じて疑われることがないか、疑われているにもかかわらず特定地域に限り、それが余りにも幅を利かせているため、どこにでもいそうなごく当たり前の個人の力ではどうすることもできない悪循環にはまり込んでしまっているからである。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

それらは諸外国で既に「制度」としては無効化しつあるばかりか、より一層無効化しながら日々新しく現実的にも有効性の見込めるアイデアの模索とともにアップデートされてきているにもかかわらず、例えば日本に限りほとんどまったくアップデートされる様相一つ見られない諸案件に多い。一つばかり代表的なものを上げるとすれば《家》という「制度」がそうだ。東アジアに色濃く残る「制度」としての《家》。欧米では遥か昔に乗り越えられている。欧米でそれが可能だったのはなぜか。

「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)

またさらに。

「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)

日本にそんな伝統はない、と反論する人々はいる。しかし実際はどうか。漱石はいう。

「東京は目の眩(くら)む所である。元禄(げんろく)の昔に百年の寿(ことぶき)を保ったものは、明治の代に三日住んだものよりも短命である。余所(よそ)では人が蹠(かかと)であるいている。東京では爪先(つまさき)であるく。逆立をする。気の早いものは飛んで来る。小野さんはきりきりと回った」(夏目漱石「虞美人草・四・P.55」新潮文庫)

「制度」としての《家》にいつまでも惨めなまでにしがみ付いている人々は漱石のいう「小野さん」のようなものだ。

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熊楠による熊野案内/国王と取引した人面魚

2021年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、国王は大臣・公卿ら百官に至るまですべての臣下を従えて魚釣りの遊宴に出かけた。大きな江にたどり着くとたちまち数多くの休憩所の設置が始まった。それら休憩所にはどれも美麗な装飾が施され、国王の莫大な権威のほどが伺われる。さっそく始まった魚釣り。釣れること釣れること呆れるばかりの釣果である。

「忽(たちまち)ニ江ノ辺(ほとり)ニ多(おほく)屋ヲ造(つくり)テ、其ノ荘(かざ)リ、美麗ヲ尽セリ。而(しか)ル間、魚多ク鉤(つ)リ得タル事、其ノ員(かず)ヲ不知(しら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.346」岩波書店)

国王・大臣・公卿らが喜んで釣りに打ち興じる一方、釣れた魚は晩餐のために次々と調理に回され、多くは膾(なます)=刺身にしてどんどん工夫を凝らした品々が整えられた。盛り上がる遊宴はやがて夕暮方に及んだ。

「然レバ、此ノ多(おほく)ノ魚ヲ膾(なます)ニ造(つくり)テ、種々(くさぐさ)ニ調(ととの)ヘ備ヘテ食(じき)シ給ハムト為(す)ル間ニ、既ニ日晩方(ひのくれがた)ニ成ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.346」岩波書店)

そんな夕暮れ時、釣りで盛り上がっている大きな江の水面にどことなく不気味な気配が漂いはじめた。国王を取り巻く様々な人々もそれに気づき、様相を一変させた水面を覗き込んでたじろぎ出した。しばらくすると水中から急浮上してくる何かの影が見える。見詰めているとそれは何と体長三メートルを越える巨大魚。

「其ノ時ニ、江ノ面(おも)ヲ見レバ、水ノ上極(きはめ)テ怖(おそろ)シ気(げ)ニ成ル。国王ヨリ始メテ諸(かたへ)ノ人、此レヲ見テ怪(あやし)ムデ、恐(お)ヂ怖ルル事無限(かぎりな)シ。而(しか)ル間、忽ニ水ノ中ヨリ浮ビ出(い)ズル者有リ。諸(かたへ)ノ人、此レヲ見ルニ、大(おほき)ナル魚ノ形也。長サ一丈余也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.346~347」岩波書店)

それだけではない。その巨大魚の頭部を見ると人間の童子の頭部をしている。さらにその眼光は鉄のようにきらきらした燦きを放っておりとてもでないが尋常でない。鼻・口の形は人間のものと変わらない。

「其レ、魚ノ形也ト云ヘドモ、頭(かしら)ヲ見レバ、童ノ頭也。眼キラメキテ甚(はなは)ダ怖シ。鼻・口、皆有(あり)テ、人ノ如シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.347」岩波書店)

水辺にいる国王に向かって音(こゑ)を挙げた。人間の言葉をしゃべっている。「今日は残念でならない。国王がこの江にわざわざやって来られたと思っていたら、大量の魚の殺戮に大喜びしておられる。できれば国王よ、たかが魚といえども今後は無駄な殺生を止めて頂くことはできない相談だろうか」。

「悲哉(かなしいかなや)、国王、此ノ江ニ来リ給テ、多(おほく)ノ魚ヲ殺シ給ヘリ。願(ねがは)クハ、君、此ヨリ後殺生(せつしやう)シ給フ事無(なか)レ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.347」岩波書店)

巨大魚が発する憂鬱この上ない音声に怖(おそ)れおののいた人々はみんな、国王を始め高級官僚から王の取り巻きを含め、釣った魚はもちろんのこと、既に調理して膾=刺身にしてしまった肉塊まで全部江の中へ投げて戻した。すると、膾(なます)にされてしまった魚肉までが元の魚の姿となって生き返り、水の中で再び生き生きと泳ぎ始めた。しばらくして忽然と浮上してきた人面の巨大魚も水中へ返っていったと見ているうちにふっと消え失せた。

「其ノ膾、江ノ中ニ入(いり)テ各(おのおの)生キテ、水ノ中ニ入ヌ。其ノ後、此ノ大(おほきなる)魚モ、水ノ中ニ曳キ入ヌレバ、不見(みえ)ズ成ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十八・P.347」岩波書店)

さて。第一に押さえておきたい点はいつものように変異の起こる時間帯。「日晩方(ひのくれがた)」。第二に交換関係について。巨大魚の側の条件は「殺生戒あるいは放生会」。この条件は明らかに仏教系である。「ブッダのことば」にこうある。

「過酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ーーー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう」(「ブッダのことば・第四・十五・九五二・P.205」岩波文庫)

だが巨大魚の条件には仏教教義の範囲には収まらないずっと古いアニミズム的宗教観念が或る種の脅しとして響いている。もし巨大魚の側の条件を無視するというなら「国王の治める国家といえどもどんな自然災害の襲来を受けるかわかったものではないと思うが」という恫喝めいた響きが明確に描かれている。一方、国王は巨大魚の提示した条件を丸呑みし、釣り上げた魚と既に刺身にしてしまった肉塊まで含めてすべて元の江に戻した。

さらに巨大魚そのものについて。人間の童形の顔で出現したこと。「人面魚・人面犬」などは現代になってもマスコミに登場して地域振興に一役買って出ている。ただ「似ている」というだけのことだがそれはそれで人間の関心を集める要素を満たすのだ。パスカルはいう。

「個別的にはどれも笑わせない似ている二つの顔も、いっしょになると、その相似によって笑わせる」(パスカル「パンセ・一三三・P.90」中公文庫)

また「人面瘡(じんめんそう)」については一連の「妖怪ブーム・本格ミステリ」の流行に伴い「甲子夜話」や「伽婢子」から引用され散々紹介されているので改めて説明する必要性はないだろう。というのは問題が「人間の手足」ではなく、ほかでもない「人の顔」でなければならないのはなぜかという点だからである。

さらに「人面」と書くと曖昧になってしまうに違いない。説話で国王一行が訪れた江は大きな江である。中国では黄河や揚子江など河川であっても巨大なものが少なくない。さらに古代では大型の江ともなれば何度も繰り返し悲惨な氾濫を起こしただろうことは考えるまでもない。そのような地域は世界中どこにでもあった。熊楠はデンマークの風習の一つだった「馬の生埋め」について語る箇所で日本でもまた「馬の髑髏(どくろ)」を祀る風習があったことに触れている。

「予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬の刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた。しかし、柳田君の『山島民譚集(一)』に、馬の髑髏を柱に懸けて鎮宅除災のためにし、また家の入口に立てて魔除けとする等の例を挙げたのを見ると、橋本氏のも、デンマークで馬を生埋めするごとく、家のヌシとしてその霊が家を衛(まも)りくれるとの信念よりした、と考えらる。柳田君が遠州相良辺の崖の横穴に石塔とともに安置した馬の髑髏などは、馬の生埋めの遺風で、その崖の崩れざらしむるために置いた物と惟う」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.245~246』河出文庫)

文字通り論文名は「人柱の話」。牛・馬以前には何が生贄とされたか。

「大阪の御城内、御城代の居所の中に、明けずの間とて有りとなり。此処大なる廊下の側にあり。ここは五月落城のときより閉したるままにて、今に一度もひらきたることなしと云。因て代々のことなれば、若し戸に損じあれば版を以てこれを補ひ、開かざることとなし置けり。此は落城のとき宮中婦女の生害せし所となり。かかる故か、後尚(なほ)その幽魂のこりて、ここに入る者あれば必ず変殃を為すことあり。又其前なる廊下に臥す者ありても、亦怪異のことに遇ふとなり。観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことに因て、稲葉丹州御城代たりしとき従ひ往たり。或日丹州の宴席に侍て披酒し、覚へず彼廊下に酔臥せり。明日丹州問(とひて)曰く。昨夜怪(あやしき)ことなきやと。宗三郎、不覚のよしを答ふ。丹州曰。さらばよし。ここは若(もし)臥す者あればかくかくの変あり。汝元来此ことを不知。因て冥霊も免(ゆる)す所あらんと云はれければ、宗三聞て始て怖れ、戦慄居る所をしらずと。又宗三物語(ものがたり)しは、天気快晴せしとき、かの室の戸の透間(すきま)より窺ひ覦(み)てば、其おくに蚊帳と覚しきもの、半ははづし、半は鈎にかかりたるものほのかに見ゆ。又半挿(はんざふ)の如きもの、其余の器物どもの取ちらしたる体に見ゆ。然れども数年久(ひさし)く陰閉の所ゆゑ、ただ其状を察するのみと。何(い)かにも身毛だてる話なり。又聞く。御城代某候、其権威を以てここを開きしこと有しに、忽(たちまち)狂を発しられて止(やみ)たりと。誰にてか有けん。此こと林子に話せば大笑して曰。今の坂城は豊臣氏の旧に非ず。偃武の後に築改(きづきあらため)られぬ。まして厦屋(かをく)の類は勿論皆後の物なり。総て世にかかる造説の実らしきこと多きものなり。其城代たる人も旧事詮索なければ、徒(いたづら)に斉東野人の話を信じて伝ること、気の毒千万なりと云。林氏の説又勿論なり。然ども世には意外の実跡も有り。又暗記の言は的證とも為しがたきなり。故にここに両端を叩て後定を竢(まつ)」(「甲子夜話2・巻二十二・二十八・P.64」東洋文庫)

「或人曰。大阪の御城代某候、初て彼地に赴(おもむ)かれしとき、御城中の寝処は、前職より誰も寝ざる所と云伝(いひつたへ)たるを、この候は心剛なる人にて、入城の夜その所にねられしが、夜更(ふけ)て便所にゆかん迚(とて)、手燭をともし障子をあけたれば、大男の山伏平伏して居たり。候驚きもせず、山伏に手燭を持て便所の導(みちびき)せよと云はれたれば、山伏不性げに立て案内して便所に到る。候中に入て良(やや)久しく居て出たるに、山伏猶(なほ)居たるゆゑ、候手水をかけよと云はれたれば、山伏乃(すなはち)水をかけたり。候又手燭を持せて寝処へ還られ、夫より快く臥(ふさ)れし。然るに後三夜の程は同じかりしかど、夫よりは出ずなりしと。総じて世の怪物も大抵その由る所あるものなるが、この怪は何の変化せしにや人その由を知らず。又此候は、本多大和守忠堯と云はれしの奥方、相良氏〔舎候の息女〕、後、栄寿院と称せし夫人の徒弟にてありける。此話もこの相良氏の物語られしを正く伝聞す」(「甲子夜話2・巻二十六・十五・P.160」東洋文庫)

「世に云ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅あり。城中に年久く住りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余は人怯(おそ)れて不登。城主対面する時、妖其形を現すに老婆なりと云ふ。予過し年、雅楽頭忠以朝臣に此事を問たれば、成程世には然云(しかいう)なれど、天守の上別に替ることなし。常に上る者も有り。然れども、器物を置に不便なれば何も入れず。しかる間、常に行く人も稀なり。上層に昔より日丸の付たる胴丸壱つあり。是のみなりと語られき。其後己酉の東覲、姫路に一宿せし時、宿主に又このこと問(とは)せければ、城中に左様のことも侍り。此処にてはヲサカベとは不言、ハツテンドウと申す。天守櫓の脇に此祠有り。社僧ありて其神に事(つか)ふ。城主も尊仰せらるるとぞ」(「甲子夜話2・巻三十・二十・P.247~248」東洋文庫)

「鳥羽侯〔稲垣氏〕の邸は麹町八丁目にありて、伯母光照夫人ここに坐せしゆゑ、予中年の頃までは縷々此邸に往けり。邸の裏道を隔て、向は彦根侯〔井伊氏〕の中荘にして、高崖の上に大なる屋見ゆ。千畳鋪と人云ふ。又云ふ。この屋は以前加藤清正の邸なりし時のものにて、屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花を出せりと。又この千畳鋪の天井に乗物を〔駕籠を云〕釣下げてあり。人の開き見ることを禁ず。或は云。清正の妻の屍を容れてあり。或は云。この中妖怪ゐて、時として内より戸を開くを見るに、老婆の形なる者見ゆと。数人の所話の如し。然るにその後彼荘火災の為に類焼して、千畳鋪も烏有となれり。定めて天井の乗物も焚亡せしならん。妖も鬼も倶に三界火宅なりき」(「甲子夜話4・巻五十九・五・P.194」東洋文庫)

なお、最初に引いた「大阪城落城時の宮中婦女の死」と新しく再建された大阪城とはまた別というのは分かりきった話である。だが人柱としての信仰は再建されようがされまいがその場所に残されるのが原則であり林氏が時間的ずれを持ち出して勘違いだと笑って済まそうとしたのは、人柱の期日(大阪城落城前)と工事日程(大阪城再建後)とが別なので、この種の信仰の意味に含まれている恐ろしく古いアニミズム性を見逃してしまっているからに過ぎない。だからといって幽霊が出る出ないはこれまた別問題であって、さらなる思想・信仰の自由並びに人類学的・民俗学的問題系に属する。

そこで問題は牛・馬・猿などの動物が恐ろしく古い時代から干支(えと)として君臨している点を見ておきたいと思う。例えば「馬蹄石(ばていせき)」は日本の昔話の中でも全国各地で有名だが、熊楠が引用しているように、柳田國男が収集した「神体・魔除け」としての馬は「髑髏(どくろ)」でなければ意味がないという箇所。

「駿河安倍郡大里村大字川辺ノ駒形神社ノ御正体モ亦(マタ)一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿国雑志〕。此ハ多分安倍川ノ流レヨリ拾イ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ伝エ居タリシナラン。此ノ地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顕著ナル風習ニシテ、此ノ村ニモ彼(カ)ノ村ニモ其ノ遺跡充満ス。前ニ挙ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外(ホカ)ニ、安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコシュク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ数百年ノ間家ノ柱ニ引キ掛ケタリ。其ノ為ニ此ノ家ニハ永ク火災無ク、且(カ)ツ病馬悍馬(カンバ)ヲ曳キ来タリテ暫(シバラ)ク其ノ柱ニ繋ギ置クトキハ、必ズ其ノ病又ハ癖ヲ直シ得ベシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思ウニ、諸国ニ例多キ駒留杉、鞍掛杉、駒繋桜ノ類ハ恐ラクハ皆此ノ柱ト其ノ性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名将ノ一旦(イッタン)ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此ノ素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ家ノ祖先山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其ノ馬狂ウトキ之ヲ此ノ木ニ繋ゲバ必ズ静止スルニヨリテ、之ヲ奇ナリトシテ其ノ庭ニ移植スト云エリ〔大日本老樹名木誌〕。此ノ説頻(スコブ)ル古意ヲ掬(キク)スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加ウレバ、此ノ種ノ霊木ハ亦馬ノ霊ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル為ニ馬頭ヲ以テ其ノ梢ニ掲ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良(サガラ)ヨリ堀之内ノ停車場ニ向ウ道ニテ、小笠(オガサ)郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅(ワズ)カナル横穴ヲ堀リ、馬ノ髑髏(ドクロ)ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其ノ中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ図トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル為ニ耳ノ穴ニ縄ヲ通シテアル外(ホカ)ハ些(スコ)シモ異ナル点無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ変遷少ナキコト感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿(オガ)半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除(マヨケ)トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類学雑誌第百八号〕」(柳田國男「山島民譚集(一)」『柳田国男全集5・P.235~237』ちくま文庫)

童子の顔をした巨大魚の説話に戻ると、大量に釣れた魚はごく普通の種だが、忽然と浮上した人面魚ばかりは他の魚とは異なり特に大きく、なおかつ人間の言語を話したという点。特権的排除を通した過剰=逸脱の公式が見える。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

日本では「甲子夜話」に、四、五十匹ばかり出現したどこにでもいる猴(さる)の群れの中に一匹だけとりわけ大きい猴がおり、それが他の猴と異なる「白い猴」だった話が見える。鳥銃(てっぽう)で捕えようとしているうちにふっと消え去ったらしい。周囲の里の年配者に尋ねたところ、この辺りに白い猴はいないという。だが松平定信が隠居後、伊豆国で目撃したと言い同行していた谷文晁もしっかり見たと言っていたらしい。

「松平楽翁、宴席にての物語には、某先年蒙命て、伊豆国の海辺を巡見するとて山越(やまごえ)せしとき、何とか云〔名忘〕所に抵(いた)り、暫し休(やすら)ひ居せしとき、某処は前に谷ありて、向は遥に森山を見渡し、広き芝原の所ありしに、何か白きものの人の如く見ゆるが、森中より出来りぬ。夫に又うす黒き小きものの、数多く従ひ出(いで)く。遥に隔りたるゆへ、折ふし携へる遠目鏡にて視しに、白きと見えしは其大さ人にひとしき猴(さる)にて、純白雪の如し。小き者は尋常の猴にて大小あり。其数四、五十にも及(および)なん。彼白猴を左右よりとりまきて居けり。白猴は石上に腰をかけて、某が通行を遠望する体なり。いかにも奇なることと思ひしが、風(ふ)と彼白猴を鳥銃(てっぽう)にて打取んと思ひ、持(もた)せつる鳥銃をと傍の者に申せしに、折ふし先の宿所へ遣(やり)て其所には無し。その内はや猴は林中に入ぬ。奇異のことゆへ、其辺の里長に尋(たずね)させしに、里長の答には、白猴この山中に住候こと、いまだ聞及ばずと。これは山霊にや有りけんなど語られし。此日、谷文晁も陪坐せしが、晁云ふ、其行に従ひしが、共に親く見しと也」(「甲子夜話1・巻一・五十一・P.2~243」東洋文庫)

「今昔物語」の説話は古代中国で仏教の「殺生戒・放生会」の教えとそれ以前からあったアニミズム的原始信仰とが入り混じっていく過程で出現したものに違いないと考えられる。また敢えて熊楠「人柱の話」を引いたかは言うまでもなく古代中国で灌漑技術が醸成されていく過程で、巨大な河川・湖が繰り返す氾濫に関し、古くヨーロッパでも見られたような「人柱信仰」が日本同様に根強く存在したと思われるからである。

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熊楠による熊野案内/邵(せう)ノ師弁(しべん)・巨大化した鼻の腫瘍

2021年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、東宮(とうぐう)ノ右監門(うかんもん)兵曹参軍(ひやうさうさんぐん)を務める邵(せう)ノ師弁(しべん)という人物がいた。東宮(とうぐう)ノ右監門(うかんもん)は皇太子の宮殿警護のための役所。兵曹参軍(ひやうさうさんぐん)はそこで兵士を統率する参謀職。師弁(しべん)はまだ二十歳の時、突然死した。両親ともに生きており、息子の突然死に悲壮を極めた。ところが三日後の夜中、師弁は突然生き返った。父母ともに驚きながらもたいへん喜んだ。師弁は死んでいた間のことを覚えているらしく、次のように語り始めた。

師弁は死んだ後、気付くと自分の周囲にわっと人が集まってきて捕縛された。閻魔庁の大門へ連行されて中へ入れられた。見ると他に百人を越える者らと一緒にいて、みんな連なりあって歩いている。全員北方向を向いている。六列に並ばされており、誰も彼も痩せ細った体つきで首枷せと鉄の鎖に繋がれ、あるいは帯を締めないだらしなくみすぼらしげな風情で萎えている。周囲は冥途で死者の護送に当たる厳(いかめ)しそうな兵者(つはもの)に取り巻かれている。

師弁はその三列目の中にいて、東側から数えて三番目の位置。帯が締められておらず見るからに惨めな格好。我ながら恐ろしさに身震いしている。ただもう心の中ですがりつく思いで繰り返し念仏ばかり唱えていた。

「師弁ハ第三ノ行ニ至リ当(あたり)テ、東(ひむがし)ノ側(ほとり)ニ第三ニ立(たて)リ。亦、帯ヲ不令帯(おびしめ)ズシテ袖ヲ連ヌ。師弁、怖(おそろ)シキ事無限(かぎりな)シ。可為(すべ)キ方(はう)不思(おぼえ)ズシテ、只、心ヲ至シテ仏ヲ念ジ奉ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.166」岩波書店)

すると生きていた時に知り合った一人の僧の姿が目にとまった。僧は師弁の姿を見つけると冥途の獄卒らの間に割って入ってきて師弁を見て尋ねた。「そなた、生前は何らの功徳も行っていなかったな。今、どう思っているか」。師弁はいう。「お願いですからわたしに慈悲の心を向けてはもらえないでしょうか」、と答えになっていない返事を返した。僧はいう。「わたしはそなたを助けてやってもいいと思っている。ただし、もし本当にここから遁(のがれる)ことができれば、誠心誠意、本心から仏法修行者として戒律を守って生きていく覚悟があるか」。師弁はいう。「ここから遁(のがれる)ことができるのなら、それはもう、戒律を守り抜いて生きていくことを誓いましょう」。問答している間に冥官がやって来て師弁ら一団を引き連れて閻魔庁の官舎へ召喚した。行列の順に従って容赦ない尋問が始まった。師弁の番が回ってきた。するとそこへ先程の僧が尋問に立ち会って間に入り、冥官に向かって師弁に功徳を積む意志のあることを語って聞かせた。冥官はそれを聞くと師弁を放免してくれた。

「師弁ガ許(もと)ニ来(きたり)テ語(かたり)テ云(いは)ク、『汝(なむ)ヂ、生(いき)タリシ時、功徳(くどく)ヲ不修(しゆせ)ズ。今何(いかに)ゾ』ト。師弁答(こたへ)テ云(いは)ク、『願(ながは)クハ我レヲ憐(あはれび)テ助ケ給ヘ』ト。僧ノ云(いは)ク、『我レ、今、汝ヲ助ケム。遁(のが)ルル事ヲ得(え)テバ、心ヲ至シテ専(もはら)ニ戒ヲ可持(たもつべ)シ』ト。師弁ガ云(いは)ク、『我レ、遁ルル事ヲ得(え)テバ、専(もはら)ニ戒ヲ可持(たもつべ)シ』ト。而(しか)ル間、官人(くわんにん)有(あり)テ、此ノ被捕(とたへら)レタル者共(ども)ヲ引(ひき)テ官ノ内ニ入(いり)テ、次第ニ此等ヲ問フ。師弁、見レバ、前(さき)ニ有(あり)ツル僧尚有(なおあり)テ、官人ニ向(むかひ)テ師弁ガ業(ごふ)ノ福ヲ語ル。官人、此レヲ聞(きき)テ、師弁ヲ放(はな)チ免(ゆる)ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.166~167」岩波書店)

僧は師弁を門の外へ連れ出すと五つの戒めをよくよく説き、瓶の水を師弁の額に灌(そそい)で灌頂の儀式を行い、「日が西に傾く時、そなたは生き返るだろう」といって黄色の衣を与え、「これを着て家に帰りなさい。帰ったら黄色の衣を家の中の清浄な場所に置いておくように」といって帰り道を教えてくれた。師弁は言われたとおりに動くと家に帰ってくることができた。

家では両親を始め家の者らが死んだ師弁を囲んでうつむいている。すると突然、師弁は目を見開き体をうごめかした。父も家人も驚嘆してのけぞり、あるいはすぐさまその場を去ろうとした。ただ母だけがそばから動かずに声をかけた。「そなた、生き返ったのですか」。師弁はいう。「日が西に傾く時、わたしは蘇るでしょう」。師弁はてっきり今は正午に違いないと思っている。母はいう。「今は真夜中ですよ」。とすれば死んでいる時と生きている時とでは昼夜逆転しているのか、と師弁はわかった気がした。しばらくすると徐々に気持ちも落ち着きを取り戻し、さらに日が西に傾いた頃、ようやく食事を取った。この世で食事を取って始めて師弁は生き返った実感が湧いた。また、生き返るに当たって持たせてもらった黄色の衣だが確かに床の端に置いてある。師弁が起き上がれるようになるとなぜかその衣はうっすらと消え失せていく。ただ、冥途で見た時のように黄金色の光は放たれたまま。しかしその黄金色の光も生き返って七日ほど経つと消え失せた。

「師弁ガ云(いは)ク、『日、西ニテ当(まさ)ニ我レ可活(よみがへるべ)シ』ト。師弁ガ心ニ、日午(ひのうま)ノ剋(とき)ト疑(うたがひ)テ母ニ問フ。母ノ云(いは)ク、『只今ハ半夜(はんや)也』ト。然レバ、死(しに)テ生(いく)ル事及ビ昼夜(よるひる)ヲ知ル。其ノ後(のち)漸(やうや)ク心付(つき)テ、既ニ日、西ニ至ルニ、遂ニ飲食(おんじき)シテ例ノ如ク成(なり)ヌ。尚(なお)、有(あり)ツル衣ヲ見ルニ、床ノ端ニ有リ。師弁起(おく)ル時ニ成(なり)テ、有(あり)ツル衣漸ク失(うせ)ヌ。但シ、光リ有(あり)テ、七日ト云フニナム其ノ光リ失畢(うせをはり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.167」岩波書店)

それから師弁は冥途で約束したとおり五戒を守り、仏法の作法に則って日常生活を取り戻した。やがて数年が経った。そんな或る日、家に友人が訪ねてきた。友人はしきりに猪の肉でもどうかと進める。師弁は肉食禁止の身だったからか猪の肉塊をむしゃむしゃと食った。

その夜、師弁は夢を見た。自分の全身が羅刹(らせつ)=鬼神に変身している。爪も歯も三十センチばかりの長さ、生きたままの猪を口に咥えてむさぼり喰っている。夜明け前に夢から覚めた。夢はなるほど夢だったわけだがどこか違和感がある。唾を吐いてみると生臭い。唾と思って吐いたのだがその実は血。ただちに家の従者を呼んで口の中を調べさせた。すると口の中いっぱいに血の塊が詰まっている。その生臭さは言いようがない。師弁は戦慄してもう二度と肉は食うまいと心に誓った。

「其ノ夜、師弁ガ夢ニ、我ガ身忽(たちまち)ニ変ジテ羅刹(らせつ)ト成(なり)ヌ。爪・歯長クシテ、生(いき)タル猪ヲ捕ヘテ食(じき)スト見テ、暁方(あかつきがた)ニ夢覚(さめ)ヌ。其後(そののち)、口ノ中ヨリ腥(なまぐさ)キ唾(つばき)ヲ咄(は)キ、血ヲ出(あや)ス。忽(たちまち)ニ従者(とものもの)ヲ呼(よび)テ此レヲ令見(みしむ)ルニ、口ノ中ニ凝(こほれ)ル血満(みち)テ、極(きはめ)テ腥(なまぐさ)シ。師弁、驚キ恐レテ、其ノ後、亦肉食(にくじき)ヲ断ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.168」岩波書店)

一方、師弁には数年連れ添った妻がいた。或る日、妻は妻なりに夫の体力を案じてかもしれない、やたらに肉食を進めた。師弁はまた肉をむさぼり喰った。しかしこの時は特に何らの異変も起こらなかった。それから五、六年ほど過ぎただろうか、師弁の鼻に皮膚病のような大きな腫瘍ができた。数日経っても治るどころか逆に患部はおびただしく爛れて鼻は巨大化するばかり。戒を破った罪なのかと昼夜を問わず恐怖におののき続けたが、鼻に出現した腫瘍は一向に癒えることなく今度こそ師弁は死んでしまった。

「而(しか)ルニ、亦、師弁ガ年来(としごろ)ノ妻(め)有(あり)テ、強(あながち)ニ肉食(にくじき)ヲ勧ムルニ依(より)テ、亦食(じき)シツ。其ノ度(たび)ハ久ク其ノ咎(とが)無シト云ヘドモ、遂ニ其ノ後(のち)五、六年ヲ過(すぎ)テ、師弁ガ鼻ニ大キナル瘡(かさ)出(いで)ヌ。日来(ひごろ)ヲ経(へた)ルニ、大(おほき)ニ乱(ただ)レテ、死(し)ヌルニ及ブマデ愈(いゆ)ル事無シ。此レ、偏(ひとへ)ニ戒ヲ破レル咎(とが)也ト知(しり)テ、昼夜朝暮ニ恐レ迷(まど)フト云ヘドモ、更ニ愈(いゆ)ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十七・P.168」岩波書店)

さて。生き返る説話は多いが、ここで考えたいのは後半の「夢」。肉食厳禁を誓ったにもかかわらず友人から進められた猪肉を思わず食ってしまった。その夢はただ単なる罰ではなく、むしろもう一度与えられたチャンスだった。ただし予兆としてのそれである。次に妻の薦めで肉食した時には何も起こらなかったし不吉な夢も見ていない。ところがその五、六年後、いきなり鼻に巨大な腫瘍が出現する。それは一方的かつおびただしく爛れていくばかりで治癒の見込みも見られないまま遂に師弁は死去する。しかし問題はなぜ「鼻」なのか。本朝部で何度も繰り返し出てきたように、それはおそらく「天狗の鼻」。「今昔物語」では、仏教と対立する宗教勢力あるいは仏教以前からあった諸々の土着の神々は仏教と敵対して敗北を喫した時、なぜか「天狗化」されるパターンが圧倒的に多い。それが余りにも驚異的な強敵だった場合は「酒呑童子」とか「玉藻前」のように特権的に祀られたりしている。

師弁の転化について。第一に「死者・師弁」から「修行者・師弁」への転化。第二に「修行者・師弁」から「天狗・師弁」への転化。

また、そうでなくても朝廷内の権力闘争の敗者の場合。崇徳院を祭る白峯神宮、早良親王を祭る崇道社、菅原道真を祭る北野天満宮など。なかでも崇徳院の天狗姿への変貌は「保元物語」の次の箇所がよく知られる。師弁の予言的な夢の中で「爪・歯長ク」とあるが崇徳院の場合は「御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其(その)血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状(ごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後(そののち)ハ御(み)グシモ剃(そら)ズ、御爪(おんつめ)モ切(きら)セ給ハデ、生(いき)ナガラ天狗(てんぐ)ノ御姿ニ成(なら)セ給(たまひ)テ」とある。

「『我願(ねがはく)ハ五部大乗経ノ大善根(だいぜんごん)ヲ三悪道(さんあくだう)ニ抛(なげうつ)テ、日本国(につぽんごく)ノ大悪魔(だいあくま)ト成ラム』ト誓ハセ給テ、御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其(その)血ヲ以テ、御経ノ奥ニ此御誓状(ごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後(そののち)ハ御(み)グシモ剃(そら)ズ、御爪(おんつめ)モ切(きら)セ給ハデ、生(いき)ナガラ天狗(てんぐ)ノ御姿ニ成(なら)セ給(たまひ)テ、中(なか)二年有テ、平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月九日(ここのかの)夜、丑剋(うしのこく)ニ、右衛門督信頼(うゑもんのかみのぶより)ガ左馬頭義朝(さまのかみよしとも)ヲ嘩(かたらつ)テ、院ノ御所三条殿ヘ夜討(ようち)ニ入(いり)テ、火ヲ懸(かけ)テ、少納言入道信西(せうなごんにふだうしんせい)ヲ亡(ほろぼ)シ、院ヲモ内(うち)ヲモ取進(とりまゐらせ)テ、大内(おほうち)ニ立テ籠(ごもつ)テ、叙位除目(じよゐぢもく)行フ。少納言入道ハ山ノ奥ニ埋(うづま)レタルヲ、堀リ興(おこ)サレテ、首(かうべ)ヲ被切(きられ)、大路(おほち)ヲ渡サレ、獄門(ごくもん)ノ木ニ被懸(かけられ)シ事、保元ノ乱ニ多(おほく)ノ人ノ頸(くび)ヲ切(きら)セ、宇治ノ左府ノ死骸ヲ堀興(ほりおこ)シタリケル其報(そのむくい)トゾ覚ヘタル。信頼卿(のぶよりのきやう)軍(いくさ)ニ負(まけ)テ、六条川原ニテ被切(きられ)ヌ。義朝方ノ負シテ、都ヲ落(おち)テ、尾張国(をはりのくに)野間(のま)ト云所(いふところ)ニテ、長田四郎忠致(をさだのしらうただむね)ガ為ニ被討(うたれ)ニケリ。一年(ひとと)セ保元ノ乱ニ乙若(おとわか)ガ云(いひ)シ詞(ことば)ニ少(すこし)モ違(たがは)ズ」(新日本古典文学体系「保元物語・下・新院血ヲ以テ御経ノ奥ニ御誓状ノ事付崩御ノ事」『保元物語/平治物語/承久記・P.133』岩波書店)

ところで今度の東京五輪を巡るマスコミ報道を見ていると、「現場」と「数字」とが入り乱れていて視聴者としては限りなく理解不可能というに近い。どの「現場」のどの「数字」なのか。「賛成・反対・よくわからない」といういずれの陣営がどの「現場」を指しどの「数字」をどんな意味で取り上げて何を主張しその責任はどこにあるのか、もはやさっぱり。ちなみに韓非子に次の説話が見える。靴のサイズ(数字)と自分の足で履いて確かめてみて(現場)はどうかという有名なエピソード。

「鄭人有且買履者、先自度其足、而置之其坐、至之而忘操之、已得履、乃曰、吾忘持度、反帰取之、及反市罷、遂不得履、人曰、何不試之以足、曰、寧信度、無自信也

(書き下し)鄭人、且(まさ)に履(くつ)を買わんとする者有り。先ず自ら其の足を度(はか)りて、これを其の坐に置き、市に之(ゆ)くに至りてこれを操(と)るを忘る。已(すで)に履を得、乃ち曰わく、吾れ度(ど)を持つを忘れたりと。反(かえ)り帰りてこれを取る。反るに及べば市罷(や)み、遂に履を得ず。人曰わく、何ぞこれを試むるに足を以てせざると、曰わく、寧(むし)ろ度を信ずるも、自ら信ずる無きなりと。

(現代語訳)鄭の人で鞋(くつ)を買おうとする者がいた。まず自分で足をはかって、その寸法書きを傍(そば)に置いたが、市場にゆくときになってそれを持って出るのを忘れた。鞋(くつ)を手にしてから、そこで『わしは寸法書きを持ってくるのを忘れた』と言って、とって返して家に取りに帰ったが、戻ってくると市場は終わっていて、そのまま鞋(くつ)は買えなかった。人が『どうして自分の足に合わせてみなかったのです』とたずねると、『寸法書きは信用できても、自分の足は信用できないからだ』と答えた」(「韓非子3・外儲説左上・第三十二・P.55~58」岩波文庫)

思わずこのエピソードが横切らない日はないというほかない。

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熊楠による熊野案内/賈誼(かぎ)と薪(しん)・国史編入まで

2021年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

漢の時代、賈誼(かぎ)といって多くの典籍に通じ、並外れて理解も深い一人の学者がいた。息子の名は薪(しん)。ところが薪(しん)が幼少期のうちに父の賈誼(かぎ)は死去した。薪は父から学問を教わる暇もなく父を失ったことになる。他の誰が父の代わりを務めてくれるわけでもない。

或る日の夜、薪は父の墓に赴いた。そしていう。「学問がないのにこの世をどうやって渡っていけばよいというのでしょう」。学問を習得するのに付き纏う様々な困難な事情について泣く泣く語りかけた。

「薪、『文無クシテ世ニ何(いか)ニシテカ可有(あるべ)カルラム』ト心細ク思ヒ歎(なげき)テ、夜、父ノ墓ニ行(ゆき)テ、諸(もろもろ)ノ事ヲ云ヒ次(つづ)ケテ、泣々(なくな)ク拝ス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.340」岩波書店)

するとどういうわけか、死去したはずの父・賈誼が出現した。それを見た薪はとっさに尋ねた。「わたしは学問で生計を立てていきたいと思っています。でもお父さん無き今、一体誰を師として学ぶべきがよいのかわからないのです」。

「我レ、文ヲ学セムト思フト云ヘドモ、誰(たれ)ヲ師ト為(し)テカ可学(がくすべ)キ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.340」岩波書店)

賈誼はただ、こう答えた。「薪よ、もし学問の道に入りたいのなら、このように夜ごとにここにやって来て、私に付いて学ぶことにしなさい」。

「汝、文ヲ学セムト思(おも)ハバ、如此(か)ク夜々(よなよな)此(ここ)ニ来(きたり)テ、我レニ随(したがひ)テ可学(がくすべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

そう聞いた薪はその後、毎夜父の墓前を訪れ、父の導きのもとで学問に没頭した。そのうち十五年が過ぎた。こんなふうに学問に没頭した十五年。いつしか薪の学力は学者といって差し支えない領域に達していた。

「薪、其ノ後、父ノ教ヘニ随(したがひ)テ、夜々(よなよな)、墓ニ行(ゆき)テ文ヲ学スルニ、既ニ十五年ヲ経タリ。如此(かくのごと)ク習フ間ニ、既ニ其ノ道ニ達(さとり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

夜毎に父の墓前で学問し続けている男子がいる。その話は遂に国王の耳にまで届いた。国王は試しに薪を召し出して使ってみることにした。すると本当に一流の学者というにふさわしいレベルに達している。

「国王、此ノ由ヲ聞キ給テ、薪ヲ召シテ被仕(つかは)ルルニ、実(まこと)ニ其ノ道ニ達(さと)レリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

国王に見出される形で、薪は、宮廷で重職を拝命することになった。その後、薪は亡き父の墓を訪れたが薪が学者として認められたと同時に、父・賈誼が薪の前に出てくることはもう二度となかった。

「其ノ後ハ、薪、墓ニ至ルト云ヘドモ、賈誼更ニ見エザリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第二十四・P.341」岩波書店)

さて。「今昔物語」に多く見られる「夢」という装置がこの説話には見られない。「夢」という回路を通すことなく薪(しん)の亡き父・賈誼(かぎ)はいとも簡単に登場している。この説話でのフィルターは「夢」ではなく「墓地」。墓地と幽霊・亡霊とは余りにも長い間、余りにも古くから紐づけられて語り継がれてきたため、もはや「そこにある不思議なものを不思議がらなく」なってしまっていたのだろう。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

また、薪(しん)が国王の重臣として登用されることが決定するや否や父・賈誼(かぎ)の幽霊は二度と出現しない点で、その構造は「子育飴(こそだてあめ)」説話に似る。「子育飴(こそだてあめ)」の場合も、赤子が発見されるやもはや育てる役割は地域社会へと移動し幽霊としての亡き母の役割は終了するが、それとともに飴を買いに来る亡き母の幽霊はもう二度と出現しなくなる。仏教でいえば「成仏」したとされる。だが問題は「子育飴」は明らかに日本版だが「今昔物語」に見える「賈誼・薪父子」の説話は古代中国が舞台である点。韓非子にこうある。

「燕人李季、好遠出、其妻私有通於士、季突之、士在内中、妻患之、其室婦曰、令公子裸而解髪、直出門、吾属佯不見也、於是公子従其計、疾走出門、季曰、是何人也、家室皆曰無有、季曰、吾見鬼乎、婦人曰然、為之奈何、曰取五姓之矢浴之、季曰諾、乃浴以矢

(書き下し)燕人李季(りき)、遠出を好む。其の妻私かに士に通ずる有り。季突(にわか)に之<至>(いた)るに、士内中(ないちゆう)に在り。妻これを患(うれ)う。其の室婦(しつふ)曰わく、公子をして裸(はだか)にして髪を解き、直(ただ)ちに門を出(い)でしめよ。吾が属(ぞく)、見ずと佯(いつわ)らんと。是(ここ)に於いて公子其の計に従い、疾走して門を出(い)づ。季曰わく、是れ何人ぞやと。家室皆な曰わく、有ること無しと。季曰わく、吾れ鬼(き)を見たるかと。婦人曰わく、然りと。これを為すこと奈何(いかん)。曰わく、五姓(牲)の矢(し)を取りてこれに浴せよと。季曰わく、諾(だく)と。乃ち浴するに矢を以てせり。

(現代語訳)燕(えん)の人である李季(りき)は遠くへ旅に出ることを好んだ。そこでその妻はこっそり若い男と通じていた。季が突然に帰宅したとき、その若い男が寝室の中にいたので、妻は青くなった。召使いの女が言った、『あのお方(かた)に、裸になってさんばら髪で、まっしぐらに門から飛び出してもらいなさい。わたくしどもは見えなかったふりをしましょう』。そこで、その若い男は計略どおりに突(つ)っ走って門を出た。李季は『あれは何ものだ』とたずねたが、家じゅうの者みな『何もおりません』と答えた。李季が『わたしは幽霊でも見たのかな』と言うと、女ども『そうです』。『〔変なものに取りつかれたようだが〕どうしたらよかろうか』。『五牲の糞を集めて体に浴びることです』。李季は『よし』と言って、そこで糞を浴びた」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.318~321」岩波文庫)

まだ仏教がそれほど広まっていなかった頃の古代中国では「浴狗矢」=「魔除けのために犬の糞を浴びる」風習があった。この一節を見ると漢語の「鬼」は現代語訳で「幽霊」と訳されている。とすればこう考えられる。

「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態

x量の商品A=y量の商品B または x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(亜麻布20エレ=上衣1着 または二〇エレの亜麻布は一着の上衣に値する)。

1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。

ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。

相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.94」国民文庫)

従って置き換えは次のようになる。

「妖魔としての鬼=幽霊」または「妖魔としての鬼は幽霊に値する」。

さらに浄化するものとして「狗の糞」に特権性が与えられている点も見逃せない。世界中どこでも狗=犬は古くから人間社会の一員として承認されていたばかりか、その並外れた感受性の高さは人々を驚嘆させるに十分だった。「日本書紀」にもこうある。

「爰(ここ)に万が養(か)へる白犬(しらいぬ)有(あ)り。俯(ふ)し仰(あふ)ぎて其の屍(かばね)の側(ほとり)を廻(めぐ)り吠(ほ)ゆ。遂(つひ)に頭(かしら)を嚙(く)ひ挙(あ)げて、古冢(ふるはか)に収(おさ)め置(お)く。横(よこさま)に枕(まくら)の側(かたはら)に臥(ふ)して、前(まへ)に飢(う)死(し)ぬ。河内国司、其の犬(いぬ)を尤(とが)め異(あやし)びて、朝庭(みかど)に牒(まう)し上ぐ。朝庭、哀不忍聴(いとほしが)りたまふ。符(おしてふみ)を下したまひて称(ほ)めて曰(のたま)わく、『此の犬、世(よ)に希聞(めづら)しき所(ところ)なり。後(のち)に観(しめ)すべし。万が族(やから)をして、墓(はか)を作(つく)りて葬(かく)さしめよ』とのたまふ。是(これ)に由(よ)りて、万が族(やから)、墓を有真香邑(ありまかのさと)に双(なら)べ起(つく)りて、万と犬とを葬(かく)しぬ。河内国司言(まう)さく、『餌香川原(ゑがのかはら)に、斬(ころ)されたる人(ひと)有(あ)り。計(かぞ)ふるに将(まさ)に数百(ももあまりばかり)なり。頭(かしら)身(むくろ)既(すで)に爛(ただ)れて、姓字(かばねな)知(し)り難(がた)し。只(ただ)衣(きもの)の色(いろ)を以(も)て、身(むくろ)を収(をさ)め取(と)る。爰(ここ)に桜井田部連胆渟(さくらゐのたべのむらじいぬ)が養(か)へる犬(いぬ)有り。身頭(むくろ)を嚙(く)ひ続(つづ)けて、側(かたはら)に伏(ふ)して固(かた)く守(まも)る。己(おの)が主(あるじ)を収めしめて、乃(すなは)ち起(た)ちて行(ゆ)く』とまうす」(「日本書紀4・巻第二十一・崇峻天皇即位前紀・P.72~74」岩波文庫)

二つのエピソードが載っているが、一方は万という人物の飼い犬について。白犬だった。万の死後、白犬は鳴きながら万の屍体の周りを何度もぐるぐる巡り歩いた。そしてとうとう万の屍体を口で咥えて墓に納めて置いた。白犬は万を埋めた墓の横に伏せってじっとしたまま飢え死した。それを聞いた天皇は哀れにおもい印璽を押した文を下し、飼い主の万の墓と並べて白犬の墓を作って葬った話。もう一方は数百名を越す死者が出た戦場に桜井田部連胆渟の飼い犬がやって来た話。戦死した飼い主の亡骸(なきがら)を口で咥えて移動させ、他人を寄せ付けずすぐそばに蹲って伏したまま屍体を雑踏による損傷から手堅く守り抜き、飼い主を墓に収めたのを見届けた後、立ち上がってその場を去って行ったというもの。

説話に戻っていえば、「賈誼・薪父子」がどれほど高い成果を出していたとしても、時の国王(政治的指導者)にそれを見抜く眼力がなければ以前取り上げた「玉造(たまつくり)職人・卞和(べんくわ)」のように、寸手のところで何もかも無駄になっていたことである。それが「宿報」とか「世俗」とかではなく「国史」に編入されている理由だろう。

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