白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<戦乱と貧困>の産物「ざしき童子のはなし」

2021年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ザシキワラシとは一体何ものか。出現の仕方はそれぞれ幾つかのバリエーションに区別することができるが、いずれの目撃譚にも当てはまる同一条件がある。その条件というのは<戦乱と飢饉と>である。ところで「ザシキワラシ=ざしき童子(ぼっこ)」について語るにあたり作者=宮沢賢治は四つのケースに分類・列挙するという方法を選択している。

或る日、大人たちはみんな村の仕事へ出かけて行ってしまい、子どもが二人だけ家の中に残された時のこと。

(1)「家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒(はうき)の音がしたのです」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.163』新潮文庫 一九九〇年)

子どもたちばかりの世界。それは一方で真剣に遊びに集中できる世界であり、社会的用語でいう「ハレの日」に相当する。そんな時に出現する。しかし姿形を見せることはほとんどない。さらにまた、ザシキワラシ関連民話が大量に語られ始めたのはいつ頃からか。ずいぶん最近のことだ。明治維新以後になってからである。一見「妖怪」か「ものの怪」の一種に思われるものが、しかしなぜ明治維新以降、近世日本が近代日本へ編成されてから徐々に語られるようになったのか。次の文章はより明確に「ハレの日」の出来事として書かれている。

(2)「『大道めぐり、大道めぐり』。一生けん命、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつなぎで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷(ざしき)のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。そしたらいつか、十一人になりました。ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔をなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出てきて云(い)いました」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.164』新潮文庫 一九九〇年)

子どもが増えるとはどういうことか。産まれたかそれとも人身売買の結果かいずれかでしかあり得ない。ここで「ハレの日」の恒例行動として「夜這い」を上げないわけにはいかない。江戸時代どころか昭和になってなお地方の寒村では普通に行われていた。そうでもしてムラの人口調整を行なっておかなくては明日にでも飢え死にするという危機感が日常的生活条件の中に含まれていたからである。赤松啓介はいう。

「夜這いはもっと自由に、男と女とが性交を楽しむものである。都市や宿場の遊女、飯盛女と遊ぶようなもので、ただ代償の支払いをしないだけ、双方に選択の自由が確保されていたのだ。これが商業的経営の売春との、決定的な違いであり、夜這いが極めて健康な性的民俗として深く浸透し、作動していた所以である」(赤松啓介「性・差別・民俗・一・民俗境界論序説・四・性的民俗の境界性・P.63」河出文庫 二〇一七年)

赤松のいうように<民俗としての>「夜這い」には「商業的経営の売春との、決定的な違い」がある。その点について宮本常一は次の記録を残している。

「ここは土佐の山中、檮原(ゆるはら)村。そしてここの老人のこの住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛しているのである。土間に籾(もみ)がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入口もむしろをたれたまま。時々天井の上を通っていく足音がきこえる。寒そうないそぎ足である。『ーーーわしはてて(父)なし子じゃった。母者(ははじゃ)が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわし。ーーーそのうちにな、年上の子守りが<✕✕するちうのはここへ男のをいれるのよ、おらこないだ、家の裏の茅のかげで、姉(ねえ)と若い衆がねているのを見たんじゃ。おまえもおらのにいれて見い>いうてな、わしのをいれさせた。それがわしのおなごを知ったはじめじゃった。別にええものとも思わなかったし、子守りも<なんともないもんじゃの>いうてーーー。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守りたちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。ーーー盗人はごうどう亀ばかりじゃない。ずいぶんえっとおったもんでまたそれの宿があった。盗人宿とはおとし宿ともいうてな。たいがいは山の腹にポツンと一軒あるような家が多かった。盗人をとめたり、盗人のとったものを売ったりしておった。だからぬすっと宿ちうもんはたいがい、ええ身代をつくっておる。山の中の金持ちにはぬすっと宿じゃったものが多い。ま、そういう盗人や盗人宿にくらべれば、ばくろうは格式が一つ上じゃった。それにまァばくろうのうそは、うそが通用したもんじゃ。とにかくすこしべいぼう(ぐうたら)な百姓の飼うたしようもない牛を、かっせいな(よく稼ぐ)百姓のところへひいていって押しつけて来ても、相手が美事な牛にするんじゃから、相手もあんまりだまされたとは思っておらん。うそがまことで通る世の中があるもんじゃ。そりゃのう、根っからわるい牛は持って行けん。十が十までうそのつっけるもんじゃァない。まァうそが勝つとしっても三分のまことはある。それを百姓が、八分九分のまことにしてくれる。それでうそつきも世がわかれたのじゃ。時にはうそばかりついておれんことはあった。げんに、牛市へ牛をひいて行けば、わるい牛は誰にでもわかる。人はだましておれん。その上牛の品評会がある。あれにはかなわん。牛相撲で勝つほどの牛なら十人が十人とも見てわかる。そこでわしらみたいな小ばくろうはなるべくそういう所へは出んようにして山の奥ばかりあるくようにしたもんじゃ。ーーー二十の年じゃった。わしの親方が、死んで、うぇあしは一人だちすることになった。親方はまだ若うて、かっぷく(体格)のええ男じゃったが、女出入が多うくて、うらみを買うことがあったのじゃろう。あるばくろう宿で後家とねているところを殺されて、家へ火をかけられて、風のつよい日で家は丸やけになった。こたつの火の不始末で火事になり、焼け死んだという事になったが、それにしては焼けただれた二人の死がいが並うで出て来たのが不思議じゃった。ーーーわしらみたいに村の中にきまった家のないものは、若衆仲間にもはいれん。若衆仲間にはいっておらんと夜這いにもいけん。夜這いにいったことがわかりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ちすえられる。そりゃ厳重なもんじゃった。じゃからわしの子供の時に子守りらとよく✕✕したことはあったが、大人になって娘とねた事はない。わしのねたのは大方後家じゃった。一人身の後家なら表だって文句をいうものはない。ーーー百姓ちうもんはかたいもんぞな、昼は二人ではたらき、夜はまた夜で夫婦で納戸にねる。そういう中で浮気をするのはよっぽど(余程)女好きか男好きじゃでーーー。わしらみたいに女をかまうもんは大方百姓しておらん人間じゃ。みんなにドラといわれた人間じゃ。ーーー秋のいそがしい時でのう、小松の間から見える谷の田の方では、みな稲刈りにいそがしそうにしておる。そういうときにわしはよその嫁さんをぬすもうとしておる。何ともいえん気持じゃった。ーーーわしがニコッと笑うたら、嫁さんもニコッと笑いなさった。それからあがって来た嫁さんを手にとって、お堂のところへつれていってあがり段に腰をおろした。そしたら嫁さんが人の目につくといけんからいうて、お堂の中へはいっていった。わしもはいった。<わしのような者のいうことをどうしてきく気になりなさったか>いうてきいたら<あんたは心のやさしいええ人じゃ、女はそういうものが一番ほしいんじゃ>といいなさった。身分の高い女で、わしをはじめて一人まえに取り扱こうてくれた人じゃった。それから四、五回もおうたじゃろうか。わしはこの人に迷惑かけてはいかんと思うて、この人にも内緒、婆にも何にもいわんで、四年目にまた雪のふる道を一人で伊予へもどった。わしは一代のうちにあの時ほど身にこたえたことはなかった。半年というものは、何をして暮したかもおぼえておらん。気のぬけたように暮したのう。何べん峠の上までいったかわからん。婆に逢うのがいやで、半年ほどかくれておった。半年ほどたつと、やっとこらえられるようになった。わしはそれからまたばくろうになった。それからのわしはこれと思う女をみなかもうた。しかし、あの嫁さんのような人にはあわだった。いや、一人あった。ーーーわしは庄屋のおかた(奥さん)に手をつけてのう。旦那は県会議員をしておって、伊予の奥ではいちばんの家じゃった。ーーー<なめますで、なめますで。すきな女のお尻ならわたしでもなめますで>いうたら、おかたさまはまっかになってあんた向こうをむきなさった。牡牛を牡牛のところへつれていきました。すると牛は大きなのを立てて、牝牛の尻へのっていきよる。わじゃもうかけるほうに一生けんめいで、おかたさまのほうへ気をとられることはなかったがのう、牛のをすませて、いかたさまのほうを見たら、ジイッと見ていなさる。牡牛はすましたあと牝牛の尻をなめるので<それ見なされーーー>というと<牛のほうが愛情が深いのか知ら>といいなさった。わしはなぁその時はっと気がついた。<この方はあんまりしあわせではないのだなァ>とのう。<おかたさま、おかたさま、人間もかわりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまのーーー>。おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。わしは牛の駄屋の隣の納屋の中でおかたさまと寝た。ーーーわしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出あうと必ず啼(な)くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった』」(宮本常一「土佐源氏」『忘れられた日本人・P.132~158』岩波文庫 一九八四年)

第三点。第三項排除の問題。病気(はしか)にかかり長く療養していた子どもが一人いた。病気は治癒したがその間に祭りが延期されたり、病気(はしか)にかかったその子の見舞いのために「鉛(なまり)の兎(うさぎ)」など玩具類を大人たちに取り上げられてしまったせいで、理不尽にも病気の子の側が他の子どもたちから疎まれ「いじめられっ子」として指名されてしまう。だが病気から回復した子どもは是非とも「如来さんの祭」に行きたいという。そして祭りに出かけたが他の子どもたちはその子を「いじめてやろう」と手ぐすね引いて待ちもうけている。病み上がりの子をおどかすため他の子どもたちが「ざしき」に隠れようとしたところ。

(3)「そのざしきのまん中に、今やっと来たばかりの筈(はず)の、あのはじかをやんだ子が、まるっきり痩(や)せて青ざめて、泣き出しそうな顔をして、新らしい熊(くま)のおもちゃを持って、きちんと座っていたのです。『ざしきぼっこだ』一人が叫んで逃げだしました。みんなもわあっと遁げました。ざしきぼっこは泣きました」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.166』新潮文庫 一九九〇年)

第四点。労働力としての「子ども」。或る「渡し守」(船頭)が語ったという形を取る。その渡し守は酒を飲んで早くに眠ってしまっていたところ「おおい、おおい」という呼び声を聞いた。船で川を渡して欲しいというのだろう。川岸に行ってみると「紋付(もんつき)を着て刀をさし、袴(はかま)をはいたきれいな子供」である。ただ単に「紋付袴」というだけなら見逃してしまうかも知れないが、ここでは以前指摘したように「平家物語」や「太平記」に出てきたような「きれいな子供」であり<特権的童子性>の象徴として登場していることに注意しなくてはならない。次の文章は船頭と「きれいな子供」との対話。童子の移動が直接的に貨幣の移動にかかわっているケース。

(4)「『お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田(ささだ)のうちに、ずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外(ほか)へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば更木(さらき)の斎藤(さいとう)へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢(ゆめ)だかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終ったし、めきめき立派になったから』」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.166~167』新潮文庫 一九九〇年)

ところでザシキワラシについて柳田國男は二つのケースを取り上げている。

(1)「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫 一九八九年)

(2)「ザシキワラシまた女児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門といいう家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、ある年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にてこちらへ来る。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答う。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり」(柳田國男「遠野物語・十八」『柳田國男全集4・P.23』ちくま文庫 一九八九年)

さらに柳田は「日本の昔話」の中で「聴耳頭巾(ききみみずきん)」を取り上げている。陸中(岩手県)上閉伊郡の伝承。舞台の条件は冒頭箇所ですでに描かれる。不景気のため余りの貧困に耐えられそうになくなった老人が地元の氏神である稲荷(いなり)におもむき祈願したところ一つの「赤頭巾(あかずきん)」を授かった。その赤頭巾を頭にかぶると動物の声が人間の言葉に翻訳されて聞こえるというすぐれもの。老人が試してみるとなるほど烏(からす)の会話が聴こえる。地域社会で噂になっている最新情報が烏たちの会話を通していろいろ耳に入ってきた。そこで老人は八卦見(はっけみ)を装って烏が話していた家に赴き、問題(長引く病気とその原因)を解決に導く。そして受け取った謝礼金を大事に蓄え、貧乏な身から長者になり、これ以上欲を出すのはよくないと思ったところで八卦見を廃業して普通の長者としてまずまず無事な生涯を送ることになったという話。

次のケースはザシキワラシについてではないものの、そのぶん、明治維新以後、子どもが置かれることになった境遇をよりいっそう明確にしている。

(1)「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫 一九八九年)

(2)「また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.82~83』ちくま文庫 一九八九年)

柳田民俗学がしばしば批判されるのは柳田の文章の中に「ただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが」と、まるで他人からの聞き書きに過ぎないような文体へシフトされている点に顕著である。柳田國男は他人から聞いて始めて知ったわけではない。むしろ実際を知った上であえて地方の農山漁村ではこのようなことがあるらしいと他人事のように振る舞ったためである。要するに柳田國男は地方の実状を目の当たりに知っている立場でなくては<検閲・修正>不可能な文章をわざと仕立て上げているのである。一方、南方熊楠は柳田よりずっと早くから民俗学に取り組んでいたため地方の風習ばかりか日本では「人柱」がつい最近まで行われていたことをよく知っていた。だから「人柱の話」では何の遠慮もなく論文化し発表している。柳田の場合、急いで国家改造=近代化を目指す明治政府による厳重な箝口令がどんどん敷かれていく時期に当っていたことと、柳田自身の立場が中央官僚だったため、事実をそのまま書き残せる立場ではすでになかった。したがって柳田はただ単なる「語り部に堕した」と厳しく批判されることになったのである。では柳田の立場では書き残すことができなかった歴史的事実はどうなったか。柳田以外の民俗学者が書き残した。ふたたび赤松啓介から引こう。

「お通夜の晩に雑魚寝になるムラもある、ということだ。お通夜だから近親が多いわけで、そうした解放もあったのである。摂津、播磨の国境地帯、有馬、美囊郡接触地域で、姉の産見舞に来た妹を妊娠させたと噂が出た。民俗学をやっているから、まるまる非難する気はない。どうなっているのかと聞いたら、姉妹がお産するとお互いに産見舞に行く。この辺では産後七五日といって、主人はお預けを食う。姉妹が多いほど差し繰りができるわけだが、ともかくその間に適当に産見舞に行ってやる。男たちもお互いさまで、女房が出産すれば他の姉妹が来てくれた。お互いの気心もわかるし、親族としての団結も固くなる。そううまいことばかりでもあるまいが、ともかく古い様式の兄弟の一群と、姉妹の一群との婚姻みたいなものに近い。どうしてこうした性民俗が行われていたのか、一夫一婦制では考えられないようなことである。夜這い民俗の日常的な存在といい、こうした近親の性解放といい、日本のムラでは性の自由が極めて大であった。日本の婚姻史は上層の、文献だけがたよりであるから、ほんとうの民衆の性民俗が殆どわかっていない。一夫一婦式限定性民俗と、不特定多数式自由性民俗とがあったわけで、いま二つの接点、境界の民俗が僅かに古い民衆の性民俗を伝承していることになる。戦乱と飢饉、疾病と天災とにさらされていたムラが、絵に描いたような一夫一婦式限定性民俗を維持できるはずがない。極めて自由な、どのような情況にでも対応できる、不特定多数式自由性民俗の発生と展開とは、おそらく古代のムラから継承してきた伝統であろう。日本書紀に極めて複雑な近親婚があり、古くから絵解きが盛んである。しかし一般民衆の生活では、それほど複雑な近親婚が普通であったのであり、ムラの限定された社会環境、民衆の生活ではいわゆる村内婚を主とすれば、近親婚の重複も発生した。近代のムラでも母子、父娘、兄弟姉妹の性関係、共棲生活は、そう珍しいことでもない。むしろ、そうした性関係を含めて、極めて多様の不特定多数式自由性民俗であった。いまわれわれにとっての課題は、国家的支配権力の管理機構である一夫一婦式限定性民俗を解体させ、もとあるままのムラの不特定多数式自由性民俗を確保、あるがままの人間としての性の自由を確立することである。ムラにとって、民衆にとって支配権力、国家とはなんであったのか。徳川幕藩体制三百年の支配も、ムラにとって、民衆にとって『年貢』をとりにくる余所者にすぎなかった。さすがに維新変革を切開した連中は、その実相を知っていたから、ムラを、民衆を恐怖している。維新後の天皇制確立、市町村制施行も、ムラを破壊し、百姓を解体させるための装置であった。しかしムラは、村落共同体は生き続けている。忠君愛国の猛烈な宣伝、教育にもかかわらず、ムラは解体されなかった。ムラにとって、明治以後の政権、天皇制国家とはなんであったのか、それは『税金』をとりにくる余所者にすぎない」(赤松啓介「性・差別・民俗・一・民俗境界論序説・四・性的民俗の境界性・P.64~65」河出文庫 二〇一七年)

確実な<年貢>取立対策・確実な<税金>取立対策のための犠牲としてかつての「ムラ」とその風習は解体された。ところがしかし人間の性的欲望というものを操作することはそう簡単ではない。そこで開発されたのが「商業的経営の売春」《制度》だった。明治国家成立以前には<戦乱と飢饉>を乗り越えるためむしろそうするしか「ムラ」の人口維持=労働力維持のための方法がなかった近親婚がタブーとされ厳しい取り締まり対象となるや、今度は近親婚による<トラウマ>が発生してきた。近代国家は民衆に対して<罪の意識>を強引に注入し病的に転倒した資本主義制度に従わせる方向へ進んだ。したがって逆に「商業的経営の売春」《制度》を利用している人々にはまるで<罪の意識>がない。そしてその《制度》によっていつも凱歌を上げるのは「生産・流通・金融」の三つの資本に限られることになったのである。ところが二十一世紀も二十年を過ぎた今になって再び<戦乱と貧困>はますます増大する傾向をあらわにしてきた。政府はどうすべきか。どうしたいのか。どこで何をどのように間違ってしまったのか。時折立ち止まって反省〔反照〕してみるのも悪くないだろう。ヘーゲルはいう。

(1)「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。

<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)

(2)「《自己に即した》区別は《本質的な》区別、《肯定的なもの》と《否定的なもの》である。肯定的なものは、否定的なもので《ない》という仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なもので《ない》という仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが《他者でない》程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は《対立》であり、区別されたものは自己にたいして《他者一般》をではなく、《自己に固有の》他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に《固有》の他者である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一九・P.28」岩波文庫 一九五二年)

(3)「本質はまず《自己のうち》で反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として《定立》されている。したがってこれは《直接態》あるいは《有》の復活である。が、この有は《媒介の揚棄によって媒介されている有》、すなわち《現存在》である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一二二・P.42」岩波文庫 一九五二年)

(4)「生きた実体は、実際には《主観》〔体〕であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観〔体〕としては純粋で《単一な否定性》である。であるからこそ、単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を《回復する》相等性もしくは他在において自己自身へと復帰〔反照〕することにほかならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.33」平凡社ライブラリー 一九九七年)

(5)「なぜなら、媒介とは自ら動いて自己自身と等しくなることにほかならないからである、言いかえれば、媒介とは自己自身に帰〔反照す〕ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性であるからである。あるいは〔全くの抽象のレベルまでおとしてしまえば〕、《単一な生成》である。自我もしくは生成一般というこのような媒介のはたらきは、単一なものであるから、生成しつつある直接態であり、無媒介なものそれ自身にほかならない。それゆえ、反照するはたらきを真理から除外してしまい、それを絶対者の肯定的な契機と考えないならば、理性を見あやまることになる。反照は真理を結果とするが、また真理の生成に対するこの結果という対立を、止揚するようなものでもある」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.35~36」平凡社ライブラリー 一九九七年)

<反省〔反照〕すること>と<媒介すること>とがなぜ同じ動作なのか。とりわけ「国民のための奉仕者=政治家」は少しくらい身に沁みて知っていてもいいのではと思われる。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・信仰と抹消の問題「烏の北斗七星」

2021年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
或る寒冷地の田んぼが舞台。一面雪化粧している。農耕地に住む烏たちは烏の義勇艦隊(ぎゆうかんたい)を編成し、山に住む山烏の襲来に備えていた。というのもその年はまたしても飢饉に見舞われ烏と山烏との間で戦闘が行われていたからである。もっとも、作者の眼から烏の艦隊を見れば「石ころ」のようであり「胡麻(ごま)つぶ」のようでもあり望遠鏡を通して見ると「大きなのや小さなのがあって馬鈴薯(ばれいしょ)」のように見える。一方、烏目線に戻るとそれぞれが一大戦闘部隊であり、「二十九隻の巡洋艦(じゅんようかん)」や「二十五隻の砲艦(ほうかん)」から編成されている。ところが艦隊が順序正しく一斉に飛び立っていく終わりに二隻ばかり調子っぱずれの艦隊もいる。作品「マリヴロンと少女」にも同じ意味を持った描写がある。

「あたりはくらくなり空だけは銀の光を増せば、あんまり、もずがやかましいので、しまいのひばりも仕方なく、もいちど空へのぼって行って、少うしばかり調子はずれの歌をうたった」(宮沢賢治「マリヴロンと少女」『銀河鉄道の夜・P.110~111』新潮文庫 一九八九年)

烏の場合「ここらがどうも烏の軍隊の不規律なところです」と書かれている。

さて農耕地に住む烏の義勇艦隊の一人「烏の大尉」は、明日の戦闘のことを考えて眠れずふとこう呟(つぶやく)く。

「烏の大尉は、眼が冴(さ)えて眠(ねむ)れませんでした。『おれはあした戦死するのだ』。大尉は呟(つぶ)やきながら、許嫁(いいなずけ)のいる杜の方にあたまを曲げました」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.60』新潮文庫 一九九〇年)

さらに同僚の「若い声のいい砲艦」が居眠っている横でこう思う。

「じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマジエルの星を仰(あそ)ぎながら、ああ、あしたの戦(たたかい)でわたくしが勝つことがいいのか、山烏がかつのがいいのかそれはわたくしにわかりません、ただあなたのお考(かんがえ)のとおりです、わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます、みんなみんなあなたのお考えのとおりですとしずかに祈って居りました」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.61~62』新潮文庫 一九九〇年)

この場面で出てくる「七つのマジエルの星」は日本で「北斗七星」と呼ばれている星座。「北斗七星」を含む「大熊座(おおぐまざ)」を意味するラテン名“Ursa Major”の「マジョール」から取られたもの。彼ら農耕地に住む烏たちは「北斗七星」を神とする集団として設定されたことがわかる。さらにその先には北極星が位置するわけだが、東北地方・北海道・樺太・中国東北部・シベリアへと続く宮沢賢治の北方志向は実際の北極がどうなのかというより、とても似通った厳しい気象条件のもとで暮らすすべての人々に向けられている。しかしなぜ天空の神なのか。ニーチェはいう。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.356~357」ちくま学芸文庫 一九九四年)

そんな夜明け前。「白い峠(とうげ)の上」の「一本の栗の木」の梢で空を見上げている一羽の山烏がいた。烏の大尉は「非常召集(ひじょうしょうしゅう)」と怒鳴りながら部下を起してまわり「突貫(とっかん)」と命じた。山烏の足はぐらぐらしている。奇襲をかけた烏の艦隊に包囲され攻撃を受けて「よろよろ」とあっけなく死んだ。そして夜が明けた。雪に覆われた田んぼはきらきら輝いている。烏の艦隊は整列し、大尉はいう。

「『ギイギイ、ご苦労だった。ご苦労だった。よくやった。もうおまえは少佐になってもいいだろう、おまえの部下の叙勲(じょくん)はおまえにまかせる』。烏の新らしい少佐は、お腹(なか)が空(す)いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、あの山烏を思い出して、あたらしい泪をこぼしました。『ありがとうございます。就(つい)ては敵の死骸(しがい)を葬(ほうむ)りたいとおもいますが、お許し下さいましょうか』。『よろしい、厚く葬ってやれ』」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)

新しく少佐に任命された烏は次のように祈る。

「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)

露骨な信仰告白。従来から指摘されてきた点だがこれと同様の文章は独白という形式であちこちに見られる。

(1)「『それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても遁(に)げられないのでね』。『先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようお詞(ことば)を下さい』。『それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事に代れるものはそうはない』。『私のようなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから』」(宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」『風の又三郎・P.294~295』新潮文庫 一九八九年)

(2)「かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの空の向うに行ってしまおう」(宮沢賢治「よだかの星」『銀河鉄道の夜・P.35』新潮文庫 一九八九年)

(3)「ところがある霧(きり)のふかい朝でした。虔十は萱場(かやば)で平二といきなり行き会いました。平二はまわりをよく見まわしてからまるで狼(おおかみ)のようないやな顔をしてどなりました。『虔十、貴(き)さんどごの杉伐(き)れ』。『何(な)してな』。『おらの畑ぁ日かげにならな』。虔十はだまって下を向きました。平二の畑が日かげになると云ったって杉の影がたかで五寸もはいってはいなかったのです。おまけに杉はとにかく南から来る強い風を防いでいるのでした。『伐れ、伐れ。伐らないが』。『伐らなぃ』。虔十が顔をあげて少し怖(こわ)そうに云いました。その唇(くちびる)はいまにも泣き出しそうにひきつっていました。実にこれが虔十の一生の間のたった一つの人に対する逆らいの言(ことば)だったのです。ところが平二は人のいい虔十などにばかにされたと思ったので急に怒(おこ)り出して肩を張ったと思うといきなり虔十の頬(ほお)をなぐりつけました。どしりどしりとなぐりつけました。虔十は手を頬にあてながら黙(だま)ってなぐられていましたがとうとうまわりがみんなまっ青に見えてよろよろしてしまいました。すると平二も少し気味が悪くなったと見えて急いで腕(うで)を組んでのしりのしりと霧の中へ歩いて行ってしまいました。さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでいました」(宮沢賢治「虔十公園林」『風の又三郎・P.211~212』新潮文庫 一九八九年)

(4)「『もう二年ばかり待って呉(く)れ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事があるしただ二年だけ待ってくれ。二年目ならおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋(いぶくろ)もやってしまうから』。小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるという風でうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせかなが木の枝(えだ)の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それから丁度二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒(たお)れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。丁度二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした」(宮沢賢治「なめとこ山の熊」『注文の多い料理店・P.351』新潮文庫 一九九〇年)

(4)「ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺(さぎ)をつかまえてせいせいしたとよろおんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸(さいわい)になるなら自分があの光る天の川の河原(かわら)に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙(だま)っていられなくなりました」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『銀河鉄道の夜・P.192』新潮文庫 一九八九年)

そしてその解決法として賢治は「ブルカニロ博士」を登場させてこう言わせている。「ほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる」。

「『おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。けれども昔(むかし)はそれを水銀と塩でできていると云ったり、水銀と硫黄(いおう)でできていると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互(たがい)ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考(かんがえ)とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(しんこう)も化学と同じようになる』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」『ポラーノの広場・P.375』新潮文庫 一九九五年)

しかしこうも露骨な信仰の発露について賢治は一方で<童話・童謡>としてはどうなのかという疑問をいつも抱いていた。そこで「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」に記述した「ブルカニロ博士」の発言はすべて抹消され、「ブルカニロ博士」の存在さえもまったく消してしまう。しかし一体何が賢治を極めて自己犠牲的な、全人類の救済のためには死んでも構わないというような深い宗教性に酔いしれさせたのか。

何度も言われてきたことだが賢治の生家は花巻の地域社会では知らぬもののない富商であった。代々質屋を営んでおり、貧困層に金を貸し付けて環流させ、舞い戻ってくる利子だけで暮らしていくことができた。その種の生き方が近代知識人としての賢治にとって耐えがたい<負の意識>を打ち込んだ。生まれてきた時すでに生家は富裕層に属していた。近代資本主義の黎明期のただなかで、周囲の農民たちは生きるか死ぬかの日々を送っている。なのに自分は何不自由なく彼らの貧困をのんきに眺めているばかりか利息だけで生きていくことができる。経済的貧困層に対しては間違いなく《債権者》であるが同時に社会的倫理に照らし合わせてみるといついかなる時でも《債務者》へ転化するほかない。高利貸しとしては訴えられる側の<被告>であるともいえる。そしてそのように二重化された自分を見ているもう一人の自分がいる。しかしこの二重化された立場は自分から望んで手に入れた立場ではいささかもない。生まれてきた時すでにそのような<被告的>立場に置かれていた。とりかえしのつかない事情である。生まれてすぐ、あらかじめ与えられていた社会的立場であって、目の前にありありと横たわり毎年のように繰り返される悲惨な事実を否定することはもはやできない。生まれた時すでに《債権者》であるとともに《債務者》でもあるというア・プリオリな事情を「持ってしまっている」。ドゥルーズはそのような<とりかえしのつかない>事態をいつもすでに<持っている>立場についてこう述べている。例に上げられているのは一九三〇年代に入ってからたちまち零落していった後期のフィッツジェラルドだ。

(1)「アルコール飲みは、この硬直が隠匿する柔らかさを愛するのと同様に、自分を捕える硬直も愛するのである。一方の時期が他方の時期の中にあり、現在がこれほど固くなり硬直するのは、破裂しそうな柔らかな点を占拠するためにほかならない。同時的な二つの時期は、奇妙な仕方で複合される。すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、《複合過去》しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)。これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全-能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の《中で》経験するやり方を表現する。ここにおいて、複合過去は隔たりや完遂をまったく表現していない。現在の時期は、動詞・持つの時期であるが、すべての存在者は、『過去』として、《同時的な》別の時期の中に、分有の時期、分詞の固定の時期の中にある。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.275~276」河出文庫 二〇〇七年)

(2)「さらに別のものになるために、緊張は解けてしまう。というのは、当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する。そして、この逃走の効果が、たぶん、フィッツジェラルドの作品の最大の力になっているものであり、フィッツジェラルドが最も深く表現したものである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.276~277」河出文庫 二〇〇七年)

(3)「興味深いのは、フィッツジェラルドは、作中人物が飲んでいるところや飲もうとしているところを提示しないということ、欠如や欲求の形態としてアルコリスムを見てはいないのである。慎み深かったのだろう。あるいは、いつでも飲めたのかもしれない。あるいは、アルコリスムには多くの形態があるのかもしれない。ともかく、アルコリスムの一形態は数分前の過去をも自分の過去として振り返る。(ラウリーは反対にーーー。しかし、欲求の激しい形態としてアルコリスムが生きられるときにも、時間の深い変形が現出する。今度は、将来のすべてが《前-未》来として生きられてしまう。そして、この複合未来は恐ろしいほどに加速し、死に到る効果の効果を生み出す)。フィッツジェラルドの主人公にとって、アルコリスムとは、崩壊の過程そのものであり、この過程が過去の逃走の効果を決定するのである。こうして、素面だった過去が、主人公から切り離されるだけではなく(『わが神よ、十年間も酩酊』)、先ほど飲んでいた近い過去や、一次効果の幻想的な過去も、主人公から切り離されるのである。すべては等しく遠ざかってしまうので、また飲むのが必要だと、あるいはむしろ、飲み直してしまったことを持っているのが必要だと決定される。硬化して色褪せた現在、唯一存続し死を意義する現在に勝利するためには必要だと決定されるのである。この点で、アルコリスムが範例的になる。というのは、金銭の喪失、愛の喪失、祖国の喪失、成功の喪失といった他の出来事は、それぞれの仕方でアルコール-効果を与えるからである。それらは、アルコールから独立に外在的な仕方でアルコール-効果を与えるが、アルコールの結末に似ているのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.277~278」河出文庫 二〇〇七年)

しかしフィッツジェラルド作品の中で最も魅力的なものの多くは社会的に零落してしまってから後の短編小説群であることに間違いはないのである。一方、物価高騰を上手く処理できずますます経済的苦境に陥った日本政府は治安維持法で反対運動を封じ込めてしまう。そんななか、晩年の賢治は農村各地を奔走し社会活動に打ち込み続けた。もちろんそれまで書いてきた短編群に多くの訂正を施し推敲を重ねた。最も盛大に活動した時期と病状悪化の時期が重なったのは偶然かもしれないが、最晩年に推敲に推敲を重ねたことは偶然ではないだろう。

なお年末に当たり次の言葉を引用しておくのは無駄ではないだろう。荘子から二箇所。(1)は今の市民生活にとって延期できないものの中で最も必要なものは何かについて。(2)は一方の大木は使い道がない点で長生きした反面、もう一方の駝鳥はけたたましく鳴くことができるため長生きした。一方は無用ゆえの長寿、もう一方は芸能ゆえの長寿。要するに動植物が長生きするかどうかの条件はさしあたり用不用にはまるで関係がないこと。

(1)「荘周家貧、故往貸粟於監河候、監河候曰、諾、我將得邑金、將貸子三百金、可乎、荘周忿然作色曰、周昨来、有中道而呼者、周顧視、車轍中有鮒魚焉、周問之曰、鮒魚来、子何爲者邪、対曰、我東海之波臣也、君豈有斗升之水而活我哉、周曰、諾、我且南遊呉越之王、激西江之水而迎子、可乎、鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我无所處、吾得斗升之水、然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆

(書き下し)荘周(そうしゅう)、家貧(まず)し。故に往(ゆ)きて粟(ぞく)を監河候(かんかこう)に貸(か=借)る。監河候曰わく、諾(だく)。我れ将(まさ)に邑金(ゆうきん)を得んとす。将(まさ)に子(し)に三百金を貸さんとす。可(か)なるかなと。荘周、忿然(ふんぜん)として色を作(な)して曰わく、周、昨(きのう)来たりしとき、中道にして呼ぶ者あり。周、顧視(こし)するに、車轍(しゃてつ)中に鮒魚(ふぎょ)あり。周これに問うて曰わく、鮒魚よ、子は何為(なんす)る者ぞやと。対(こた)えて曰わく、我れは東海の波臣(はしん)なり。君豈(あ)に斗升(としょう)の水ありて而(よ=能)く我れを活(い)かさんかと。周曰わく、諾(だく)。我れ且(まさ)に南のかた呉(ご)・越(えつ)の王に遊ばんとす。西絵の水を激して子を迎えん。可(か)なるかと。鮒魚、忿然として色を作(な)して曰わく、吾れは我が常与(じょうよ)を失なえり。我れ処(お)る所なし。吾れは斗升(としょう)の水を得れば、然(すなわ=則)ち活(い)きんのみ。君乃(すなわ)ち此れを言う。曾(すなわ)ち早く我れを枯魚(こぎょ)の肆(し)に索(もと)めんに如(し)かずと。

(現代語訳)荘周は家が貧乏であったので、監河候(かんかこう)のところに出かけていって食べる米を借りることにした。監河候は答えた、『承知した。わたしにはまもなく領地の税金が入るから、それであなたに三百金を貸すことにしよう。それでよいですか』。荘周は怒って顔つきを変えるとこういった。『わたくし、昨日こちらに来るとき、途中で呼びかけるものがありました。わたくし、ふりむいて見ると、車の轍(わだち)の水たまりに鮒(ふな)がいるのです。わたくしがたずねかけて<鮒よ、君はいったいどうしたんだね>というと、答えました。<わたしは東海でお仕えしている波まの家臣です。あなた、いくらかの水を持ってきて、わたしを元気づけてくれませんか>。わたくしは答えました、<承知した。わしはまもなく南方の呉(ご)と越(えつ)の王さまに遊説するから、そのとき西の方の長江の水をかきたてて君を迎えに来るようにさせよう。それでよいかね>。鮒は怒って顔つきを変えると、こういいました、<わたしはいつもの相棒(あいぼう)の水からはぐれて、身のおきどころもないんだ。一斗(と)か数升(しょう)そこそこのわずかな水さえあればわたしは元気になれるというのに、あなたはそんなのんきなことを言われる。それじゃ、早く乾物屋の店先きに行って、〔干乾(ひぼし)になった〕このわたしをさがした方がましというもんだ>』」(「荘子(第四冊)・雑篇・外物篇・第二十六・二・P.11~13」岩波文庫 一九八三年)

(2)「荘子行於山中、見大木枝葉盛茂、伐木物、止其旁而不取也、問其故、曰、无所可用、荘子曰、此木以不材得終其天年矣、出於山、舎於故人之家、故人喜、命豎子殺鴈而亨之、豎子請曰、其一能鳴、其一不能鳴、請奚殺、主人曰、殺不能鳴者

(書き下し)荘子(そうじ)山中を行き、大木の枝葉盛茂(せいも)せるを見る。木を伐(き)る者、其の旁(かたわ)らに止(とど)まるも、而(しか)も取らざるなり。其の故を問う。曰わく、用うべき所なしと。荘子曰わく、此の木、不材を以て其の天年を終うるを得たりと。山を出で、故人(こじん)の家に舎(やど)る。故人喜び、豎子(じゅし)に命じて鴈(がん)を殺してこれを亨(すす=饗)めしむ。豎子請うて曰わく、其の一は能(よ)く鳴き、其の一は鳴く能(あた)わず。請う奚(いず)れをか殺さんと。主人曰わく、鳴く能わざる者を殺せと。

(現代語訳)荘子が山中で旅したとき、枝も葉もぞんぶんに生い茂った大木を見た。ところが、樹木を伐採する樵夫(きこり)がその傍で足をとめても、それを伐採しようとはしない。そこでその理由をたずねると、『どうにも使いようがないんだ』と答えた。荘子はそこで、『この木は、能(のう)なしの役たたずのために、その天寿をまっとうすることができるのだ』とつぶやいた。山を出てから旧友の家に泊まったが、旧友は喜んでその召使いに鵞鳥(がちょう)を殺してもたなすようにと命じた。召使いがたずねていうには、『一羽の方はよく鳴きますが、もう一羽の方は鳴くことができません。どちらを殺したものでしょう』。主人は『鳴けない方を殺せ』と答えた」(「荘子(第三冊)・外篇・山木篇・第二十・一・P.69~70」岩波文庫 一九八二年)

さらにもう一つ韓非子から。

「上古之世、人民少而禽獣衆、人民不勝禽獣虫蛇、有聖人作、搆木為巣、以避群害、而民悦之、使王天下、号之曰有巣氏、民食果蓏蚌蛤、腥臊悪臭而傷害腹胃、民多疾病、有聖人作、鑚燧取火、以化腥臊、而民説之、使王天下、号之曰燧人氏、中古之世、天下大水、而鯀禹決瀆、近古之世、桀紂暴乱、而湯武征伐、今有搆木鑚燧於夏后氏之世者、必為鯀禹笑矣、有決瀆於殷周之世者、必為湯武笑矣、然則今有美尭舜禹湯武之道於当今之世者、必為新聖笑矣、是以聖人不期脩古、不法常可、論世之事、因為之備、宋人有耕田者、田中有株、兎走触株、折頸而死、因釈其耒而守株、冀復得兎、兎不可復得、而身為宋国笑、今欲以王之政、治当世之民、皆守株之類也

(書き下し)上古の世、人民少なくして禽獣衆(おお)し。人民、禽獣虫蛇(ちゅうだ)に勝たず。聖人の作(おこ)る有り、木を搆(かま)えて巣を為(つく)り、以て群害を避く。而して民これを悦び、天下に王たらしむ。これを号して有巣氏(ゆうそうし)と曰う。民は果蓏蚌蛤(からほうこう)を食らい、腥臊(せいそう)悪臭にして腹胃(ふくい)を傷害し、民に疾病(しっぺい)多し。聖人の作(おこ)る有り、燧(すい)を鑚(き)りて火を取り、以て腥臊を化す。而して民これを悦(よろこ)び、天下に王たらしむ。これを号して燧人氏(すいじんし)と曰う。中古の世、天下大いに水あり、而して鯀(こん)・禹(う)、瀆(とく)を決す。近古の世、桀(けつ)・紂(ちゅう)暴乱す、而して湯(とう)・武(ぶ)征伐す。今、夏后氏(かこうし)の世に搆木(こうぼく)鑚燧(さんすい)する者有らば、必ず鯀・禹の笑いと為(な)らん。殷・周の世に決瀆する者有らば、必ず湯・武の笑いと為らん。然らば則ち今、尭・舜・禹・湯・武の道を当今の世に美(ほ)むる者有らば、必ず新聖の笑いと為らん。是(ここ)を以て聖人は脩古(しゅうこ)を期せず、常可(じょうか)に法(のっと)らず、、世の事を論じて、因(よ)りてこれが備えを為す。宋人(そうひと)に田(でん)を耕す者有り。田中に株有り、兎(うさぎ)走りて株に触(ふ)れ、頸(くび)を折りて死す。因りて其の耒(すき)を釈(す)てて株を守り、復(ま)た兎を得んことを冀(ねが)う。兎復たは得(う)べからずして、身は宋国の笑いと為る。今、先王の政を以て当世の民を治めんと欲するは、皆な株を守るの類なり。

(現代語訳)上古の時代では、人間は少なくて鳥獣が多かった。そのため人間は、鳥獣や虫や蛇などに勝てなかった。そこに一人の聖人があらわれて、木を組みあわせて住居を作り、さまざまな危害を避けられるようにした。そこで人々はそれを喜んで世界の王者として頂き、彼のことを有巣氏(ゆうそうし)とよんだ。また人々は、草木の実や貝類を常食としたが、生臭くて悪臭もあり、胃腸をこわして病気になるものが多かった。そこに一人の聖人があらわれて、木をこすって火をおこし、その火で生(なま)ものを調理した。そこで人々はそれを喜んで世界の王者として頂き、彼のことを燧人氏(すいじんし)とよんだ。中古の時代になると、世界じゅうにしきりと洪水が起こったので、鯀(こん)と禹(う)とは河川をきりひりて水を流した。近古の時代では、夏(か)の桀(けつ)や殷(いん)の紂(ちゅう)が暴虐な政治を行なったので、殷の湯王と周の武王とは彼らを征伐した。今もし中古の夏王朝の時代に、木を組みあわせて住居を作ったり木をこすって火をおこしたりする者がいたなら、きっと鯀や禹に笑いものにされたであろう。また近古の殷や周の時代に、河川をきりひらいて水を流す者がいたなら、きっと湯王や武王に笑いものにされたであろう。してみると、いま尭・舜・禹や湯王・武王たちの道を、今の時代にも通用するとして賛美する者がいるとしたら、きっと新しい聖人に笑いものにされるであろう。それゆえ、聖人は古いことなら何でもよいなどとは考えず、一定不変の規準などというものには従わない。その時代の事情をよく考えて、それに応じた対策を立てるのである。宋の国の人で畑を耕している者がいた。畑の中に木の切り株があったが、たまたま兎(うさぎ)が走ってきてその切り株にぶつかり、首を折って死んだ。兎をもうけた彼は、それからすきを捨てて耕作をやめ、切り株のそばを離れないで、また兎を得たいと願った。もちろん彼は二度とは得られず、その身は宋の国じゅうの笑いものにされた。いま古代の聖王の政治によって現代の民を治めようとするのは、すべてこの切り株のそばを離れずにいるのと同じたぐいである」(「韓非子4・五蠹・第四十九・一・P.165~168」岩波文庫 一九九四年)

韓非子は人々の生活環境を織り成している諸条件が変化すれば変化に応じて速やかに<現実>を修正していく必要性を厳しく説く。それはまたヘーゲルのいう「<理想>と<現実>」・「<主観>と<客観>」との関係にも通じる。

「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」(ヘーゲル「法の哲学・上・序言・P.34」岩波文庫 二〇二一年)

ここで問題となっている「理性的なもの」と「現実的なもの」とについて。

「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。ーーー<補遺>人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。カテゴリーおよびその表示を人々がそうまで厳密に考えていない日常生活においては、そうしたことも許されるであろう。例えば、或る税制計画(日常的には、此のようなものもイデーとよばれている)が、それ自身としては全くすぐれていて目的にかなっているが、いわゆる現実のうちには見出されず、また与えられた諸事情のもとでは実行できないというようなことも、もちろんおこりうるであろう。しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一四二・P.81~83」岩波文庫 一九五二年)

<主観>と<客観>とに関して。

(1)「みずからが《自由であると主観的に規定する》ための《個々人の法》〔権利〕は、彼らが人倫的現実性に帰属することにおいて実現される。というのは、個々人のもつ、自分が自由だという《確信》は、このような客観性のなかで《その真理》をえ、そして個々人は、人倫的なものにおいて、《自分自身の》本質、自分の《内的な》普遍性を《現実的に》所有するからである」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・一五三・P.27~28」岩波文庫 二〇二一年)

(2)「自らの欲〔要〕求のためにする個人の《労働》は、自己自身の欲〔要〕求の満足であるように、また他人の欲〔要〕求の満足でもある。個人が自己の欲〔要〕求を満足させるのは、ただ他人の労働によるのである。ーーー個別者は、自ら《個別的に》労働するとき、すでに《意識せずに》、《一般的な》労働を果たしているように、一般的な労働をも、自らの《意識》的な対象として、果たしてもいる。全体は、《全体として》個別者の仕事となり、この仕事のために、個別者は自分を犠牲とし、まさにこの犠牲によって、全体の方から、自分自身を逆に支えられるのである。ーーーここには相互的でないようなものは何もない」(ヘーゲル「精神現象学・上・理性・理性的自己意識の自己自身による実現・P.400」平凡社ライブラリー 一九九七年)

ところがこれらは政治家自ら率先して動こうとしなければ実現されるにはほど遠い。賢治はいう。

「あっちもこっちも ひとさわぎおこして いっぱい呑(の)みたいやつらばかりだ 羊歯(しだ)の葉と雲 世界はそんなにつめたく暗い けれどもまもなく さういうやつらは ひとりで腐(くさ)って ひとりで雨に流される」(宮沢賢治「詩ノート・政治家」『宮沢賢治詩集・P.258』新潮文庫 一九九〇年)

しかし当然のことだが、「真面目な政治家もいるがゆえすべての政治家が悪人だと考えてはいけない」、とわざわざ政治家を擁護する論者も少なくない。その論者の言葉に間違いはない。けれども少数の真面目な政治家がいるという言葉はその言葉自身の作用によって実にしばしば他の大多数の政治家が多少なりとも持っている悪質な過去や今後実現されるだろう悪意に満ちた構想をすっかり覆い隠してしまう。それでは本末転倒していくばかりだと言わなければならない。一方、歴史的弁証法はそんな甘いものではまるでない。

「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)

或る対象の一面、この場合では「政治《制度》」の一面だけでも、何からの増減・置き換えが生じてしまえばそれはもうまったく別の対象として取り扱われなくてはならない。「政治《制度》」に寄せる人々の宗教的なまでの信頼感はただちに変化している。バタイユはいう。

「実のところを言うと、死の非現実性というのはある表層的な一面にしか過ぎない。事物たちの世界の内にその場を持たないもの、現実世界においては非現実的であるものは、正確に言うと死ではないのである。事実死は現実のまやかしを暴露する。という意味は、ただ単に持続の不在が現実というものの虚偽を想い出させるという点でそうするというだけではなく、なによりも死が生の偉大な肯定者であり、生に驚嘆して発せられた叫びであるという点でそうするのである。現実秩序が投げ棄てるのは、死がそうであるような現実の否定というよりもむしろ内奥的な、内在的な生命の肯定、つまりその際限のない激烈さ=暴力性(ヴァイオレンス)が事物たちの安定にとって危険であり、また死においてのみ初めて十分に啓示されるような内奥の生命の肯定なのである。現実秩序はこの内奥の生を無効にーーーつまり中和化ーーーしなければならない。そしてその代りに、労働という共同性の中にある個人がそうであるような事物を対置しなければならぬのである。だかしかしそういう現実秩序も、いままさに死のうちへと生が消滅する瞬間において、けっして《事物》ではありえない生が、その《不可視の》閃光を開示することがないようにしてしまうわけにはいかない。死の力が意味しているのは、この現実世界が生に関してある中和化されたイメージしか持てないということであり、また内奥性がその世界において眼を眩ますばかりの消尽のさまを開示するのは、ただまさしく内奥性が欠けんとする瞬間においてのみだということである。死がそこにあったときには、誰もそこに《それがある》と知らなかった。死は無視されており、それが現実的な事物たちの利にかなうことであった。死は他のものたちと同じように一つの現実的事物だったのである。しかし突如として死は、現実社会が嘘をついていたことを示す。するとそのとき深く考慮に入れられるのは、事物が喪失されたということではなく、また有用なメンバーが失われたということでもない。現実社会の失ったものは一人のメンバーではなく、その真理なのである。内奥の生命はもうすでに私にまで十分到達する力を失っており、それを私は基本的には一個の事物のようにみなしていたのであるが、その内奥の生を十分なまで私の感受性へと戻してくれるのは、それが不在となることによるのである。死は生をその最も充溢した状態において啓示し、現実秩序を沈み込ませる。それ以降は、この現実秩序が、もはや存在しないものの持続の要請であることは、ほとんど重要性を持たなくなる。諸関係に基づいて立てられている一つの存在体は、一個の基本要素が自らの要請に背いて消え去るときに、欠如する部分が生じて病み苦しむというのではない。そういう存在体は、すなわち現実秩序は、一度に全体として消え失せてしまったのである。もはやその現実秩序が問題となることはなく、そして死が涙のうちに運んでくるものは、内奥次元〔L’ordre intime〕の、なんの有用性も持たぬ消尽なのである」(バタイユ「宗教の理論・第一部・三・供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則・P.60~62」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

この箇所で「現実社会の失ったものは一人のメンバーではなく、その真理なのである。内奥の生命はもうすでに私にまで十分到達する力を失っており、それを私は基本的には一個の事物のようにみなしていたのであるが、その内奥の生を十分なまで私の感受性へと戻してくれるのは、それが不在となることによるのである。死は生をその最も充溢した状態において啓示し、現実秩序を沈み込ませる。それ以降は、この現実秩序が、もはや存在しないものの持続の要請であることは、ほとんど重要性を持たなくなる。諸関係に基づいて立てられている一つの存在体は、一個の基本要素が自らの要請に背いて消え去るときに、欠如する部分が生じて病み苦しむというのではない。そういう存在体は、すなわち現実秩序は、一度に全体として消え失せてしまった」とあるのは、その瞬間に或る秩序はもはや別の秩序に変化したということであり、いつもすでに<現実社会>は隅から隅まで「否定的」な運動によって押し貫かれているということでなくてはならない。コジェーヴはいっている。

「(真の)認識の中でそれ自身によりそれ自身に開示された《存在者》を、対象とは異なり対象に『対立』する主観によって、『主観』に開示された『対象』へと変ずるものは、この《欲望》である。人間が《自我》として、本質的に《非我》と異なり根本的にそれと対立する《自我》としてーーー自己自身及び他者に対しーーー自己を構成し自己を開示するのは、『自己の』《欲望》の中で、『自己の』《欲望》により、より適切には、『自己の』《欲望》としてである。(人間の)《自我》とは、或る《欲望》のーーー或いは《欲望》そのもののーーー《自我》なのである。したがって、人間の存在そのもの、自己意識的な存在は、《欲望》を含み、《欲望》を前提とする。そうである以上、人間的な実在性は、生物的な実在性、動物的な生の枠内でなければ構成され維持されることができない。だが、たとえこの《動物的欲望》が《自己意識》にとって必要な条件であるとしても、それだけでは十分な条件とは言えない。《動物的欲望》のみでは《自己感情》が構成されるにすぎない。認識が人間を受動的な静的状態に保つのとは対照的に、《欲望》は人間をそわそわさせ、人間を行動へ追いやる。《欲望》から生まれた以上、行動はこの欲望を充足させようとするが、『否定』によらなければ、すなわち欲望の対象を破壊するか、少なくともその形態を変じなければ、それを遂行することができない。例えば、空腹を満たすためには、食物を破壊しなければならない、ともかくもその形態を変じなければならない。このように、いかなる行動も『否定的』である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・第一章・P.11~12」国文社 一九八七年)

バタイユ「宗教の理論」の巻頭にコジェーヴのこの言葉が置かれていることには極めて重要な意味があるのだ。

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Blog21・どちらでもありどちらでもない<山猫軒>「注文の多い料理店」

2021年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
寓話がカバーする範囲には一定の限界がある。なぜならその言語使用の系列はいつも作者の置かれた時代に束縛されている限りで理解可能だからである。ところが言語というものは作者の置かれた時代が過ぎてもなお死語化しない限り何食わぬ相貌で同じように使用されていく。するとたちまちその寓話全体の意味がすっかり変わってみえてくることになる。それが古典を面白くする要素の一つだが、作品「注文の多い料理店」などはその典型的なケースに属する。

まず第一に「二人の若い紳士(しんし)」が登場する。生活のための狩猟ではまるでなく逆に「趣味・嗜好」としての<ハンティング>のためせっせと山奥まで出かけてきた。二人の最初の対話はこうだ。

「『ぜんたい、ここらの山は怪(け)しからんね。鳥も獣(けもの)も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ』。『鹿(しか)の黄いろな横っ腹なんぞに、二、三発お見舞(みまい)もうしたら、ずいぶん愉快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒(たお)れるだろうねえ』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.41』新潮文庫 一九九〇年)

そのうち余りにも深く山奥へ迷い込んだ。寒気と空腹を覚えて不安にかられる二人の紳士。と、そこへ「立派な一軒(いっけん)の西洋造りの家」が忽然と出現した。玄関の札にこうある。「RESTAURANT 《西洋料理店》 WILDCAT HOUSE 山猫軒」。「山猫」は“WILDCAT”とあるので「やまねこ」と読むのが正しい。従って料理店の名称は「山猫軒(やまねこけん)」。

ドアには最初に金文字でこうある。

(1)「『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮(えんりょ)はありません』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.44』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『ことに肥(ふと)ったお方や若いお方は、大歓迎(だいかんげい)いたします』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.44』新潮文庫 一九九〇年)

この(2)に「肥(ふと)ったお方や若いお方は、大歓迎(だいかんげい)」とある。「今昔物語・巻第二十六・第八話・飛騨国猿神(ひだのくにのさるがみ)、止生贄語(いけにへをとどむること)」に出てくる条件と同じシチュエーション。

「然(さ)ニハ非(あら)ズ。生贄ヲバ裸ニ成(なし)テ、俎(まないた)ノ上ニ直(うるはし)ク臥(ふせ)テ、瑞籬(みづかき)ノ内ニ掻入(かきいれ)テ、人ハ皆去(さり)ヌレバ、神ノ造(つくり)テ食(くふ)トナン聞(きく)。痩弊(やせつたな)キ生贄ヲ出(いだ)シツレバ、神ノ荒(あれ)テ、作物(さくもつ)モ不吉(よからず)、人モ病(やみ)、郷(さと)モ不静(しづかならず)トテ、此何度(かくいくたび)ト無(なく)物ヲ食(くは)セテ、食(く)ヒ太ラセント為(する)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.38」岩波書店 一九九六年)

次のドアからは黄色の文字。

(1)「『当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.45』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.45』新潮文庫 一九九〇年)

さらに続くドアからは赤色の文字に変わる。まるで信号のようだ。

(1)「『お客さまがた、ここで髪(かみ)をきちんとして、それからはきものの泥(どろ)を落してください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.46』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『鉄砲と弾丸(たま)をここへ置いてください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.46』新潮文庫 一九九〇年)

(3)「『どうか帽子(ぼうし)と外套(がいとう)と靴をおとり下さい』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.47』新潮文庫 一九九〇年)

(4)「『ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡(めがね)、財布(さいふ)、その他金物類、ことに尖(とが)ったものは、みんなここに置いてください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.47』新潮文庫 一九九〇年)

そこから先は文字の色について一つも記述がない。もっとも、この先の事情についてそもそも文字の色は何ら関係がなくなる。次元が異なっているからである。二人の紳士自身が率先して打ち込まなければならない作業へ入っていく。

(1)「『壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.48』新潮文庫 一九九〇年)

そのクリームは実は「牛乳のクリーム」。

(2)「『クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.49』新潮文庫 一九九〇年)

念入りなことだ。ところが二人の紳士は余りの寒さゆえ凍傷で耳がひび割れを起こしそうになっていたところなので、かえって「ここの主人はじつに用意周到(しゅうとう)だね」とか「細かいところまでよく気がつくね」とか言う。どちらの文章にしても同じ文章であるにもかかわらず立場の違いによって同時に二通りの意味に取ることができる。詩人でもあった作者=賢治はこのような言語の使い方に熟達していたに違いない。さらに。

(3)「『料理はもうすぐできます。十五分とお待たせはいたしません。すぐたべられます。早くあなたの頭に瓶(びん)の中の香水をよく振(ふ)りかけてください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.49』新潮文庫 一九九〇年)

二人の紳士は思う。その香水は「どうも酢(す)のような匂(におい)がする」と。

そして次のドアにはとりわけ大きな文字が書かれている。

「『いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだの中に、壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.50』新潮文庫 一九九〇年)

二人の紳士はお互い顔を見合わせながらぎょっとする。

「『どうもおかしいぜ』。『ぼくもおかしいとおもう』。『沢山(たくさん)の注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ』。『だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家(うち)とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらがーーー』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.50』新潮文庫 一九九〇年)

二人は逃げ出そうとするがドアにはもう鍵がかけられていて逃げられない。しかしその奥にもう一枚ドアがある。

「『いや、わざわざご苦労です。大へん結構にできました。さあさあおなかにおはいりください』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.51』新潮文庫 一九九〇年)

二人の紳士はとうとう声をあげて泣き出し「がたがたがたがた」ふるえ始めた。逆に罠に気づかれたしまった「山猫軒」の側。店には「親方」がいる。その下で働く部下がいる。いずれも動物のようだ。しかし注目したいのは次の対話の中で親方とその部下との労使関係があかるみに出される点。

「『どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨も分けて呉(く)れやしないんだ』。『それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ』。『呼ぼうか、呼ぼう。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。お皿(さら)も洗ってありますし、菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい』。『へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラドはお嫌(きら)いですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.52』新潮文庫 一九九〇年)

呼びかけはさらに続く。

「『早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます』」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.52』新潮文庫 一九九〇年)

二人の紳士はどうなったか。

「二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑(かみくず)のようになりお互いにその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました」(宮沢賢治「注文の多い料理店」『注文の多い料理店・P.52』新潮文庫 一九九〇年)

もっとも、作品のラストはよく知られているように二人の紳士たちは救出される。だが「さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになりませんでした」とある。作者=賢治は二人の紳士たちに背負わせたトラウマを可視化している。「もとのとおりになりませんでした」という記述によれば、このトラウマは生涯ずっと元に戻ることはなかったと言える。さらに現代医療の現場でわかってきたことだが、トラウマは脳内に記憶されるものだという点で生涯<癒える>ことはない。病気の症状として姿形を変えることはあっても。

それと並んで二十一世紀も二十年を過ぎた今、将来的に重視されなくてはならない問題が顔を覗かせている。歪曲され、ますます歪曲されていく<力>の行方についてだ。大きく三点上げられる。第一に労働力への転化。しかしよりいっそう重大な問題は近代社会構造の成立とともに樹立された次の方向性である。ニーチェに従えば二点上げることができる。(1)は世界的紛争を舞台とすることで発生する「戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」という状況。

(1)「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫 一九九三年)

この点についてバタイユは次のように述べている。差し当たり(a)と(b)の二箇所に分けて引用しよう。

(a)「ある一つの社会の個別性は、祝祭の融合状態がそれを基礎づけるのであるが、まず初めに現実的な仕事=作業の面のうえでーーー農地による生産の面のうえでーーー定義される。そうした現実的な仕事=作業は、供儀を事物たちの世界の内へ取り込み、合体させるのである。このようにして一つの集団が統一されるということは、破壊的な激烈さ=暴力性を、外部へと向かわせる能力を持つことになる。外へと向かう暴力は、原則としてまさしく供儀や祝祭に対立する。供儀や祝祭の暴力は、内部で猛威をふるうからである。ただ宗教のみが、その宗教によって生気を与えられてえいる人々を、自分自身の実質を破壊するような消尽へと向かうよう促すことができるのである。これに対し武器を持った行動は、他の人々を破壊するか、あるいは他の人々の富や財産を破壊する。そもそも武装行動は一つの集団の内部で、個人的に実行されることもありうるけれども、構成された集団はそれを外部へと向かって行使することが可能であり、そうなると武装行動はしだいに重大な結果を及ぼし始めるのである。戦争はその死を賭けた戦闘や、虐殺、掠奪などにおいて、祝祭の意味に近い意味を持ちうる。というのは、敵はそこで一個の事物として扱われているのではないという点においてである。しかし戦争はこうした爆発的な力の行使に限られているのではなく、またいま述べたような枠組みの内においても、供儀がそうであるような失われた内奥性への回帰を目ざして行われるゆっくりした行動ではない。それはある無秩序な噴出であって、その作用の方向が外部へと導かれるせいで、戦士が達するかに見える内在性はたちまち奪われてしまうのである。そして確かに戦争行動は、個人の固有な生の価値を否定的に賭に投入することによって、独特な様式で個人を解体する方向性を持っているけれども、やがて時間の継続のうちに、逆にその価値を強調するようになることは避けがたい。というのも生き残った方の個人が、その賭への投入の結果を利益として享受する人になるからである。個体-事物の彼方へと向かうはずの個人の展開を、戦争は栄光に充ちた戦士の個人性の方向へと限定してしまう。そういう栄光ある個人は、まず最初は個人性の否定という手段によって、個体のカテゴリー(つまり根本的に事物たちの秩序を表現しているカテゴリー)のうちに、神的な次元を導入する。しかしながら彼は、そのような持続の否定を持続的なものにしようという矛盾した意志を持つことになるのである。だから彼の力は、一部分は嘘をつく力である。戦争は一つの大胆な突出ではあるけれども、そのからくりは最も見えすいたものである。したがってこういう栄光の戦士が過大評価しているものに目をつぶって無関心となるためには、あるいはまたなにものでもないものにたぶらかされて自分を大したものだと空威張りするためには、力に劣らず単純さがーーーそして愚かしさがーーー必要であろう。戦争のこうした表面的で、虚偽の性格は、重大な結果をもたらすことになる。戦争は、計測しようのない荒廃という形態だけに限られるわけではない。戦士は労働という利益を目ざす行動の仕方を排除するある種の使命を、不分明に漠然とした形では意識しているけれども、結局のところ自分の同類を奴隷状態へと還元してしまうのである。こうして彼は激烈な暴力性を服従させ、その力を、人間性をこの上なく全的に事物の秩序へと還元することに用いるようになるのである。おそらく戦士はこの還元作用を先導する者ではないであろう。奴隷を一個の事物にする操作は、労働があらかじめ制度化されていたということを前提としているからである。しかし自由な労働者は、自発的に事物となったのであった。それもある一定の時間のあいだだけそうなのだった。だから奴隷のみが、こうした還元の結果を全面的に受け入れることになる。つまり軍事秩序は、そのような奴隷を一個の商品にするのである。(さらに正確を期すためには、もし奴隷制度がなかったならば、事物たちの世界はその全面的開花に達することはなかったであろう、と付け加えておく必要さえ感じる)。このようにして戦士の見えすいた無意識状態は、現実秩序を支配的なものにする方向に主として働くのである。戦士が不当にも我が物にしている聖なる威信は、実は深い地点で有用性という錘(おもり)にまで還元された世界の上辺をうろつく見せかけにしか過ぎない。戦士の高貴さとはちょうど淫売婦の微笑と同じような性質のものであって、その真実は利益追求にあるのである」(バタイユ「宗教の理論・第一部・三・供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則・P.75~78」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

(b)「軍事秩序は、消尽が大饗宴(オルギア)さながらに頻繁に繰り返される情況に応じていたあの漠然たる不安感や不満の感情に終止符を打った。それは諸力を合理的に用いるよう命じ、そうすることで権力の絶え間ない増大を計ったのである。征服という方法的な精神は、供儀の精神とは正反対なものであり、そもそも初めから軍事社会の王たちは供儀に捧げられるのを拒むのである。軍事秩序の原則は、暴力性を方法的なやり方で外部へと方向転換することである。もし暴力性が内部で猛威をふるっているとすると、軍事秩序は可能な限りそれに対立しようとする。そして暴力の方向を外へとずらしながら、ある現実的な目標へとそれを服従させる。このようにして軍事秩序は一般的に暴力を服従させるのである。だから軍事秩序は派手に人目をひく戦闘の諸形態とは、つまりそういう戦闘は有効性を合理的に計算することよりも狂熱の堰を切ったような爆発によりよく応じているのだけれども、そのような戦闘形態とは正反対のものなのである。軍事秩序はもはや、かつて原始的な社会体制が戦闘や祝祭においてそうしたように、諸力の最も大きな濫費を狙うことはない。諸力を蕩尽する活動は残っているけれども、ある効率的生産性の原則に最大限に服従しているのである。力が濫費されるとしても、それはもっと大きな力を獲得する目的でそうされるのである。原始的な社会は、戦争においても、奴隷を掠奪することに限定していた。そしてその社会の原則に応じて、こうした獲得物を祭礼において虐殺することでその埋め合せをしていたのである。ところが軍事秩序は戦争から得た収益を奴隷へと編成し、奴隷という収益を労働へと編成する。征服という活動をある方法的な操作、つまり帝国の拡大を目ざした操作とするのである」(バタイユ「宗教の理論・第二部・一・軍事秩序・P.85~86」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

続いて(2)。この動向はより遥かに難解な課題となって世界中を覆い尽くすことになるだろう。

(2)「《機械文化への反作用》。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ネット依存社会の全面化。日本でも小学生から始まり思春期を通して比較的低年齢層の患者の増大が激しい。三十歳から四十歳代では当り前のようにいる。また五十歳代からそれ以上の場合でもネット操作に慣れた人々の間では少なくないというよりむしろ普通にいる。一九九〇年代一杯をかけて職場での仕事の方法が大きく変わった。その結果が原因となり原因がさらなる結果となりより一層多くの原因を打ち広がらせ、今やネット依存の無数の病態が出現してきた。原因と結果の複数性は南方熊楠がいっていた通りである。

「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫 一九九一年)

というふうに原因は必ずしも「ネットだけ」にあるのではない。むしろ人間自身を含めた「ネット環境全体」が様々に組み合わされ組み換えられて行く条件が世界的規模で整っていることと、同時に大量の人間を特定のネット環境に集中させてしまう社会的重圧が生身の人間に備わっている免疫機能を遥かに越えて限界突破してしまっていることが上げられる。またネット依存の場合はアルコールや薬物とはやや異なりギャンブル依存症に似ている。人間の身体が何らかの物質を直接摂取するわけではない。だがその作用は脳の中で瞬時に記憶される。或る脳機能が別の脳機能へとまたたく間に転倒する。ヘーゲルはいう。

(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)

(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)

(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)

(3)「生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(ヘーゲル「小論理学・上・P.286」岩波文庫)

(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)

(5)「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫 二〇一六年)

(6)「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)

(7)「弁証法が最初に運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫 二〇一六年)

(8)「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫 二〇一六年)

さらに有名な言葉。

「理性的なものは現実的であり、そして現実的なものは理性的である」(ヘーゲル「法の哲学・上・序言・P.34」岩波文庫 二〇二一年)

ここで問題となっている「理性的なもの」と「現実的なもの」とについて。

「現実性とは、本質と現存在との統一、あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。ーーー<補遺>人々は、普通、よく考えもしないで、現実と思想(正確に言えば、理念)とを対立させており、かくしてわれわれは人々がよく次のように言うのを聞く。すなわち、或る思想が正しく真理であることに異論はないが、しかしそうしたものは現実のうちには存在しない、あるいは、現実のうちにそれを実現することはできない、と。しかしこういう言い方をする人は、それによって、かれらが思想の本性をも現実の本性をも正しく把握していないことを証明しているのである。このような言い方においては、思想は主観的表象、計画、意図などと同じ意味に理解され、現実は外的な、感覚的な現存在と同じ意味に理解されている。カテゴリーおよびその表示を人々がそうまで厳密に考えていない日常生活においては、そうしたことも許されるであろう。例えば、或る税制計画(日常的には、此のようなものもイデーとよばれている)が、それ自身としては全くすぐれていて目的にかなっているが、いわゆる現実のうちには見出されず、また与えられた諸事情のもとでは実行できないというようなことも、もちろんおこりうるであろう。しかし抽象的な悟性が理念と現実という二つの規定をとらえて、その区別を動かすことのできない対立にまで高め、われわれはこの世界においては理念を頭から作り出さねばならないなどと言う場合には、われわれはこのような考え方を学問および健全な理性の名において決定的にしりぞけなければならない。なぜなら、一方において、理念はけっしてわれわれの頭脳のうちにのみあるものでもなく、またわれわれが勝手に実現したり、しなかったりできるような無力なものでもなく、絶対的に活動的なものであり、現実的なものであるからであり、他方、現実は、無思想な、あるいは、思惟をきらい、思惟の点では全く駄目になった実際家たちが考えるほど、悪くもなければ不合理でもないからである」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一四二・P.81~83」岩波文庫 一九五二年)

<主観>と<客観>とに関して。

(1)「みずからが《自由であると主観的に規定する》ための《個々人の法》〔権利〕は、彼らが人倫的現実性に帰属することにおいて実現される。というのは、個々人のもつ、自分が自由だという《確信》は、このような客観性のなかで《その真理》をえ、そして個々人は、人倫的なものにおいて、《自分自身の》本質、自分の《内的な》普遍性を《現実的に》所有するからである」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・一五三・P.27~28」岩波文庫 二〇二一年)

(2)「自らの欲〔要〕求のためにする個人の《労働》は、自己自身の欲〔要〕求の満足であるように、また他人の欲〔要〕求の満足でもある。個人が自己の欲〔要〕求を満足させるのは、ただ他人の労働によるのである。ーーー個別者は、自ら《個別的に》労働するとき、すでに《意識せずに》、《一般的な》労働を果たしているように、一般的な労働をも、自らの《意識》的な対象として、果たしてもいる。全体は、《全体として》個別者の仕事となり、この仕事のために、個別者は自分を犠牲とし、まさにこの犠牲によって、全体の方から、自分自身を逆に支えられるのである。ーーーここには相互的でないようなものは何もない」(ヘーゲル「精神現象学・上・理性・理性的自己意識の自己自身による実現・P.400」平凡社ライブラリー 一九九七年)

これではしかし、ミネルヴァの梟が何百何千と飛び立っても際限がないだろう。そしてまたミネルヴァの梟が何百何千もいるとすれば、<特権的>「ミネルヴァの梟」はもはやたった一羽もいなくなったということを意味している。ニーチェのいうように「神は死んだ」のだ。

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Blog21・<贈与>としての北上山地「鹿踊りのはじまり」

2021年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
降りそそぐ夕陽は今日の終わりを確実なものにする。だからといって明日がやってくる確実な根拠にはなり得ない。そんな或る日の夕暮れ時、疲れて居眠っている<わたくし>は秋の風から「鹿踊(ししおど)り」の話を聞いた。

「夕陽(ゆうひ)は赤くななめに苔(こけ)の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました。わたくしが疲(つか)れてそこに眠(ねむ)りますと、ざあざあ吹(ふ)いていた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上(きたかみ)の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.129』新潮文庫 一九九〇年)

嘉十(かじゅう)が祖父たちとともにその地に移ってきた頃、その辺りはまだまるっきり黒い林のまま野原には丈(たけ)の高い草がぼうぼう生い茂っていた。嘉十たちはそこに小さな畑を切り開き、粟(あわ)・稗(ひえ)などをつくっていた。怪我をした時は「湯の湧(わ)くとこへ行って、小屋をかけて泊(とま)って療(なお)す」のが通例だった。或る時、栗の木から落ちた嘉十もまた湯治のため「糧(かて)と味噌(みそ)と鍋(なべ)」を背負って一人山中に入っていった。途中、「栃(とち)と栗とのだんご」を取り出して食べた。腹一杯になったと感じた嘉十は「栃の団子」を<うめばちそう>の「花の下に置き」ながら「こいづば鹿(しか)さ呉(け)でやべか。それ、鹿、来て喰(け)」とひとりごとのように言ってさらに歩き出した。「栃団子(とちだんご)」は作品「タネリはたしかにいちにち嚙んでいたようだった」に出てくる「こならの実」と同じく典型的な救荒食料(備荒食品)の一つ。

しばらく歩いた時、食事を取った場所に手拭(てぬぐい)を忘れたのを思い出して急いで引き返した。ところがそのすぐ近くまで来ると何やら「鹿のけはい」がする。すすきの陰(かげ)に隠れて様子を伺っていると、六疋ほどの鹿が出てきており「さっきの芝原を、ぐるぐるぐるぐる環(わ)になって廻(まわ)っている」のが見えた。もう少しよく見てみると鹿たちが気にかけているのは「団子」ではなく嘉十が忘れて置いてきた「白い手拭」らしい。鹿たちが演じる環はただ単にぐるぐる廻るだけでなく徐々に速度を落としてゆるやかになり、今度は速度を上げてまた廻り出す。読者はそこに或る種のリズムがあるのを認めるだろう。そうでなくてはただ単なる動物の「集団行動」にしか見えない。逆に特定のリズムが介在することで始めてそれは「踊り」に見えるのである。様子を見ていた嘉十の耳が突然「きいん」と鳴った。と同時に嘉十は「鹿ことばがきこえ」るようになっている自分に気づく。

「嘉十はにわかに耳がきいんと鳴りました。そしてがたがたふるえました。鹿どもの風にゆれる草穂(くさぼ)のような気もちが、波になって伝わって来たのでした。嘉十はほんとうにじぶんの耳を疑いました。それは鹿のことばがきこえてきたからです」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.132~133』新潮文庫 一九九〇年)

六疋の鹿は嘉十の「手拭(てぬぐい)」が一体何なのかわからず大変訝(いぶか)しそうに首をひねる。それぞれ意見を述べながら一疋ずつ「手拭」に近づき、その正体を確かめることにする。六疋が一度ずつ近づくので合わせて六個の見解が提出される。順番に列挙してみよう。なお「なじょだた」は「どんなものだ」の方言。

(1)「『なじょだた。なにだた、あの白い長いやづあ』。『縦に皺(しわ)の寄ったもんだけあな』。『そだら生ぎものだないがべ、やっぱり蕈(きのこ)などだべが。毒蕈(ぶすきのこ)だべ』。『うんにゃ。きのごだない。やっぱり生ぎものらし』。『そうが。生ぎもので皺うんと寄ってらば、年老(としよ)りだな』。『うん年老りの番兵だ。ううはははは』。『ふふふ青白の番兵だ』『ううははは、青じろ番兵だ』。『こんどいれ行って見べが』。『行ってみろ、大丈夫(だいじょうぶ)だ』。『喰(く)っつかないが』。『うんにゃ、大丈夫だ』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.134』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『なじょだた、なして逃げで来た』。『嚙(か)じるべとしたようだたもさ』。『ぜんたいにだけあ』。『わがらないな。とにかく白どそれがら青ど、両方のぶぢだ』。『匂(におい)あなじょだ、匂あ』。『柳の葉みだいな匂だな』。『はでな、息(いぎ)吐(つ)でるが、息(いき)』。『さあ、そでば、気付けないがた』。『こんどあ、おれあ行って見べが』。『行ってみろ』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.135~136』新潮文庫 一九九〇年)

(3)「『何(な)して遁げできた』。『気味悪(きびわり)くなてよ』。『息(いぎ)吐(つ)でるが』。『さあ、息(いぎ)の音(おど)あ為(さ)ないがけあな。口(くぢ)も無いようだけあな』。『あだまあるが』。『あだまもゆぐわがらないがったな』。『そだらこんどおれ行って見べが』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.136』新潮文庫 一九九〇年)

(4)「『おう、柔(や)っけもんだぞ』。『泥(どろ)のようにが』。『うんにゃ』。『草のようにが』。『うんにゃ』。『<ごまざい>の毛のようにが』。『うん、あれよりあ、も少し硬(こわ)ぱしな』。『なにだべ』。『とにかく生ぎもんだ』。『やっぱりそうだが』。『うん、汗臭(あせくさ)いも』。『おれも一遍(ひとがえり)行ってみべが』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.137』新潮文庫 一九九〇年)

(5)「『じゃ、じゃ、嚙(か)じらえだが、痛(いだ)ぐしたが』。『プルルルルルル』。『舌抜(ぬ)がれだが』。『プルルルルルル』。『なにした、なにした。なにした。じゃ』。『ふう、ああ、舌縮(ちぢ)まってしまったたよ』。『なじょな味だに』。『味無いがたな』。『生ぎもんだべが』。『なじょだが判(わか)らない。こんどあ汝(うな)あ行ってみろ』。『お』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.138』新潮文庫 一九九〇年)

六番目の鹿は口に「手拭」をくわえて戻ってきた。

(6)「『おう、うまい、うまい、そいづさい取ってしめば、あどは何(なん)っても怖(お)っかなぐない』。『きっともて、こいづああ大きな蝸牛(なめくずら)の旱(ひ)からびだのだな』。『さあ、いいが、おれ歌(うだ)うだうはんてみんな廻(ま)れ』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.139』新潮文庫 一九九〇年)

そんなわけで鹿たちはみんなで「手拭」の周囲をぐるぐるぐるぐる廻り始めた。「手拭」をくわえて戻ってきた六番目の鹿は「歌を歌う」と言っていたように歌い踊り出す。この歌の歌詞がとりあえず六度に及ぶ鹿たちの見解の総括の役割を演じる。

「『のはらのまん中の めっけもの すっこんすっこの 栃だんご 栃のだんごは 結構(けっこう)だが となりにいからだ ふんながす 青じろ番兵(ばんぺ)は 気にかがる。青じろ番兵(ばんぺ)は ふんにゃふにゃ 吠(ほ)えるもさないば 泣ぐもさない 痩(や)せて長くて ぶぢぶぢで どごが口(くぢ)だが あだまだが ひでりあがりの なめぐじら』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.139~140』新潮文庫 一九九〇年)

鹿たちは環を描きつつ一生懸命歌い踊る。その後、嘉十が置いていった「栃団子(とちだんご)」を食べる。食べ終わると再び鹿たちは歌い踊り始めた。その時。

「太陽はこのとき、ちょうどはんのきの梢(こずえ)の中ほどにかかって、少し黄いろにかがやいて居(お)りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合い、やがて一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立ったのでした」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.141』新潮文庫 一九九〇年)

<はんの木>は全国どこにでもあるが、その梢(こずえ)に太陽の日がかかって黄金色に輝いた瞬間、鹿たちは「一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立った」。陽光と<はんの木>とが重なり合う時、鹿はそこに限りない<贈与>を感じ取る。そっくり似た光景が作品「猫の事務所」にある。その事務所の中で<かま猫>は最底辺に置かれた最弱者でありいつも「いじめれっ子」の立場を演じるほかない。しかし「金いろの獅子(しし)」が唐突に出現した瞬間、なぜか<かま猫>だけが「泣くのをやめて、まっすぐに立」つシーン。

「その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向うにいかめしい獅子(しし)の金いろの頭が見えました。獅子は不審(ふしん)そうに、しばらく中を見ていましたが、いきなり戸口を叩(たた)いてはいって来ました。猫どもの愕(おど)ろきようといったらありません。うろうろうろうろそこらをあるきまわるだけです。<かま猫>だけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました」(宮沢賢治「猫の事務所」『銀河鉄道の夜・P.136』新潮文庫 一九八九年)

動物は<贈与>について人間のように知っているわけではまるでない。しかし人間がすでに忘れ去ってしまった<贈与>については遥かに深く知っているのである。ニーチェはいう。

(1)「高所にある者がその力をたずさえて下方へさがろうとするとき、どうしてそれを《欲》と呼ぶことができよう?まことに、こういう欲求と下降には、卑しいところ、うしろめたいところは少しもないのだ。孤独な高所にある者が、永久の孤独と自己満足には住みつくまいとする気持、山が谷へ、高みの風が低地へ下りようとする憧れ、ーーーおお、こういう憧れを言いあらわす正しい名称、徳の名を、だれが見いだすことができよう。『贈り与える徳』ーーーそうツァラトゥストラは、かつてこの名づけえぬものを呼んだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・三つの悪・P.303」中公文庫 一九七三年)

(2)「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫 一九七三年)

また「はんの木」について。賢治は「はんの木」に或る種の神々しさを見ていたようだ。文語詩「流氷(ザエ)」の冒頭にこうある。

「はんのきの高き梢(うれ)より、きららかに氷華(ひようくわ)をおとし、汽車はいまややにたゆたひ、北上のあしたをわたる」(宮沢賢治「文語詩稿・流氷(ザエ)」『宮沢賢治詩集・P.310』新潮文庫 一九九〇年)

鹿たちは重なり合った陽光と<はんの木>に向かって歌を捧げる。六疋なのでここでも歌の数は合計六個。

(1)「『はんの木(ぎ)の みどりみじんの葉の向(もご)さ じゃらんじゃららんの お日さん懸(か)がる』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.141』新潮文庫 一九九〇年)

(2)「『お日さんを せながさしょえば はんの木(ぎ)も くだげで光る 鉄のかんがみ』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.142』(新潮文庫 一九九〇年)

そう聞いた嘉十もまた思わず知らず「太陽とはんのきを拝みました」とある。鹿たちの歌は続く。

(3)「『お日さんは はんの木(ぎ)の向(もご)さ、降りでても すすぎ、ぎんがぎが まぶしまんぶし』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.142』(新潮文庫 一九九〇年)

(4)「『ぎんがぎの すすぎの中(なが)さ立ぢあがる はんの木(ぎ)のすねの 長(な)んがい、かげぼうし』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.142』(新潮文庫 一九九〇年)

(5)「『ぎんがぎがの すすぎの底(そご)の日暮(ひぐ)れかだ 苔(こげ)の野はらを 蟻(あり)こも行がず』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.143』(新潮文庫 一九九〇年)

(6)「『ぎんがぎがの すすぎの底(そご)でこっそりと 咲ぐうめばぢの 愛(え)どしおえどし』」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.143』(新潮文庫 一九九〇年)

歌い終わるや再び鹿たちは激しく廻りながら環になって歌い踊った。北風が吹いてくる。はんの木の葉が擦れあい、すすきの穂も鹿たちに混じって一緒にぐるぐる踊りを踊っているかのようだ。その光景のまばゆさゆえ、<鹿>と<人間>との<あいだ>に横たわる「ちがい」を忘れた嘉十は、すすきの陰から飛び出して姿を現してしまう。鹿たちは驚いて一目散にどこかへ逃げ去っていった。もう嘉十は鹿の話を聞き取ることができない。

「嘉十はちょっとにが笑いをしながら、泥のついて穴のあいた手拭(てぬぐい)をひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです」(宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」『注文の多い料理店・P.144』(新潮文庫 一九九〇年)

そこで<わたくし>はこのエピソードを<風>から聞いたという由来に回帰してくるのである。なかでも「鹿踊(ししおど)り」の様相について「輪(わ)」ではなく「環(わ)」と表記されている点は作者=賢治独特の宇宙論的思想を思わせてとても印象的だ。だがしかし<掟の贈与>については事情がまるで異なってくる。デリダはいう。

「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟を必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。

こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。

与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局 一九八九年)

<贈与>をこれほどまで困難にしたのは一体何だろうか。そしてこの種のアポリア(困難)が今後ますます増大する見込みは存分にある一方、減少する見込みは逆に果てしなく少ないのはどうしてだろう。アメリカにせよ中国にせよいずれにせよ、この種のアポリア(困難)を解決できそうにない。両国ともその程度の無能国家に落ちぶれ果てつつあることは確かだろう。もし万が一そうでないというのなら両大国とも歴然たる証拠ならびに根拠を国際世論に向けて明確に見せつけなければならない。そしてなおかつ拉致被害者全員帰国を実現させなければ、その中に日本政府を含め、いずれの国家をも一定以上信頼することはもはやできない。

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Blog21・親友の死とトラウマの行方「鳥をとるやなぎ」

2021年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
慶次郎(けいじろう)はだしぬけに<私>に言う。「煙山(けむやま)にエレッキのやなぎの木があるよ」。作品「鳥をとるやなぎ」はニーチェのいう「原因と結果との取り違え」から始まる。それは二点ある。その第一。<私>は慶次郎に詳細を尋ねてみる。

「『さっきの楊の木ね、煙山の楊の木ね、どうしたって云うの』。慶次郎はいつものように、白い歯を出して笑いながら答えました。『今朝権兵衛(ごんべえ)茶屋のとこで、馬をひいた人がそう云っていたよ。煙山の野原に鳥を吸い込(こ)む楊の木があるって。エレキらしいって云ってたよ』。『行こうじゃないか。見に行こうじゃないか。どんなだろう。きっと古い木だね』」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.228』新潮文庫 一九八九年)

慶次郎のいう「鳥を吸い込(こ)む楊の木」の話の出どころについて、<私>の意識は「権兵衛(ごんべえ)茶屋」で慶次郎が耳にした会話から始まったと思い込む。なるほどそうかも知れない。少なくとも慶次郎個人にとっては「権兵衛茶屋」で耳にした会話が原因であることは確かだ。しかし「馬をひいた人がそう云っていた」のは「権兵衛茶屋」でだけに限った話だったのだろうか。むしろ「馬をひいた人がそう云っていた」のは「権兵衛茶屋」だけではなく複数の人間が集まって対話可能なあちこちで語った話の一つだったかも知れない。

さらに「取り違え」の第二。言語の置き換えに関わる。慶次郎の話では「馬をひいた人がそう云っていた」とされているけれども、そもそも「馬をひいた人」は煙山にあるという「鳥が集まる楊の木」について、ただ単に「鳥を吸い込(こ)む楊の木」という比喩を用いて気軽に語ったに過ぎなかったのかも知れない。ところが<私>も慶次郎もともに「鳥が集まる楊の木」ではなく「鳥を吸い込(こ)む楊の木」というフレーズの側へ一方的に「吸い込まれて」しまっている。とすると「鳥を吸い込(こ)む楊の木」の話は<私>と慶次郎との対話を接点として立ちどころに「神話化」されたことになる。都市伝説というものはいつも必ず大都市から発生して地方へ広がると限ったわけではまるでなく、いつどこでも複数の人間が集まる場所、作品「鳥をとるやなぎ」では二箇所、(1)「権兵衛茶屋」での対話と(2)「学校の教室」での対話との二箇所から生じている。そしてまた「原因と結果との取り違え」は一旦発生するやどれが原因でどれが結果なのか、さっぱりわからなくなるまでに組み合わされ組み換えられつつたちまち合体・解体・再合体していく傾向を持つ。そもそもを言えば「原因」はいつもすでに複数ある。にもかかわらず唯一絶対《であるに違いない》という人間自身の《思い込み》が人間社会全体を見誤らせてしまうに至る。南方熊楠はいう。

「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫 一九九一年)

またなぜ人間は「唯一絶対的な原因」という<錯覚>の側を愛し求めたがるのか。ニーチェはいう。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

さて、<私>は慶次郎と二人でその日の午後、煙山(けむやま)の楊を木を探しに出かける。けれども鳥の群れはなかなか見つからない。鳥の群れが見つからなければ鳥が一本の楊の木に吸い込まれていく光景を見ることはできない。しかし。

「そして水に足を入れたとき、私たちは思わずばあっと棒立ちになってしまいました。向うの楊の木から、まるでまるで百疋(ぴき)ばかりの百舌(もず)が、一ぺんに飛び立って、一かたまりになって北の方へかけて行くのです。その塊(かたまり)は波のようにゆれて、ぎらぎらする雲の下を行きましたが、俄かに向うの五本目の大きな楊の上まで行くと、本当に磁石に吸い込まれたように、一ぺんにその中に落ち込みました。みんなその梢(こずえ)の中に入ってしばらくがあがあがあがあ鳴いていましたが、まもなくしいんとなってしまいました。私は実際変な気がしてしまいました。なぜならもずがかたまって飛んで行って、木におりることは、決してめずらしいことではなかったのですが、今日のはあんまり俄かに落ちたし事によると、あの馬を引いた人のはなしの通り木に吸い込まれたのかも知れないというのですから、まったくなんだか本当のような偽(うそ)のような変な気がして仕方なかったのです」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.232~233』新潮文庫 一九八九年)

<私>も慶次郎も同じ光景を目にしたはずだ。ところが<私>はなぜか「本当のような偽(うそ)のような変な気がして仕方なかった」。<私>の意識は夢かうつつか区別のつかない境界領域へ入っていく。その時慶次郎は川の底の石を拾い上げて投げてみる。びっくりして鳥が飛び立つかもしれない。

「慶次郎はそれを両手で起して、皮へバチャンと投げました。石はすぐ沈(しず)んで水の底へ行き、ことにまっ白に少し青白く見えました。私はそれが又何とも云えず悲しいように思ったのです」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.234』新潮文庫 一九八九年)

山の中で二人きりの場面。<私>は「ほんとうにさびしくなってもう帰ろう」と思う。そう思いながら<私>の口をついて出る言葉はまるで逆だ。

「『どこかに、けれど、ほんとうの木はあるよ』。慶次郎は云いました。私もどこかにあるとは思いましたが、この川には決してないと思ったのです。『外(ほか)へ行って見よう。野原のうち、どこか外の処(とこ)だよ。外へ行って見よう』私は云いました」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.235』新潮文庫 一九八九年)

山中の森林の中。二人のほかに人間の気配はまったくしてこない。というより、作者=賢治の実体験がそう書かせたといえる。慶次郎のモデルは盛岡中学(今の盛岡第一高等学校)で親友だった藤原健次郎。健次郎は二年生の時に病気で死去。賢治が妹トシ子の死に直面したのは二十六歳の時だが親友健次郎の死に直面したのはそれより十年以上も前の十四歳のこと。妹トシ子の死については「青森挽歌」に代表されるような詩形式を用いて昇華させることに成功している。フロイトのいう「喪の作業」に十分な期間と文学的実践力とを持つことができた。一方、十代半ばに失った健次郎の死は中学時代に当たっており、とりわけ親友でありなおかつ寄宿舎で同室でもあった賢治は、思いがけずやって来て「もろに」直面するほかなかったショックに対して上手く向き合うことができなかったと思われる。以後それはずっと賢治の脳裡を離れることはなくトラウマ化し、のちに「慶次郎もの」に分類される作品「谷」でも、この「鳥をとるやなぎ」でも一様に不気味な雰囲気を漂わせる内容として残ってしまうしかなかったのではなかろうか。また「慶次郎もの」に共通して見られる同性愛的傾向にも思春期特有の匂いがあると指摘しておきたい。

さらに「どこかに、けれど、ほんとうの木はあるよ」という言葉を慶次郎に言わせている点。幻であってもよい。しかしなければならないはずだという強烈な思いが込められている点にも注意を要するだろう。賢治が心酔した「法華経」にこうある。

「譬如五百由旬。險難悪道。曠絶無人。怖畏之處。若有多衆。欲過此道。至珍寶處。有一導師。聡慧明達。善知險道。通塞之相。將導衆人。欲過此難。所將人衆。中路懈退。白導師言。我等疲極。而復怖畏。不能復進。前路猶遠。今欲退還。導師多諸方便。而作是念。此等可愍。云何捨大珍寶。而欲退還。作是念已。以方便力。於險道中。過三百由旬。化作一城。告衆人言。汝等勿怖。莫得退還。今此大城。可於中止。随意所作。若入是城。快得安穏。若能前至寶所。亦可得去。是時疲極之衆。心大歓喜。歎未曾有。我等今者。免斯悪道。快得安穏。於是衆人。前入化城。生已度想。生安穏想。爾時導師。知此人衆。既得止息。無復疲惓。即滅化城。語衆人言。汝等去来。寶處在近。向者大城。我所化作。爲止息耳。

(書き下し)譬えば、五百由旬の険難なる悪道の、曠(むな)しく絶えて人なき怖畏(ふい)の処あるが如し。若し多くの衆(ひとびと)ありて、この道を過ぎて、珍宝の処に至らんと欲するに、一(ひとり)の導師の、聡慧(そうえ)・明達(みょうだつ)にして、善く險道(けんどう)の通塞(つうそく)の相を知れるものあり。衆人(もろびと)を将(ひき)い導(みちび)きて、この難を過ぎんと欲するに、将(ひき)いらるる人衆(にんしゆ)は中路に懈退(けたい)して、導師に、白(もう)して言わく「われ等は疲(つか)れ極まりて、また怖畏す。また進むこと能わず。前路はなお遠し。今、退(しりぞ)きかえらんと欲す」と。導師は、諸(もろもろ)の方便多くして、この念をなす「これ等は愍むべし。いかんぞ大いなる珍宝を捨てて、退きかえらんと欲するや」と。この念を作しおわりて、方便力(ほうべんりき)をもって、険道(けんどう)の中において、三百由旬を過ぎて、一城を化作して、衆人(もろびと)に告げていわく、「汝等よ、怖るることなかれ。退きかえることを得ることなかれ。今、この大城は、中において止(とど)まりて、意(こころ)のなす所に随うべし。若しこの城に入らば、快(こころよ)く安穏(あんのん)なることを得ん。若しよく前(すす)みて、宝所(ほうしょ)に至らば、また去ることを得べし」と。このとき、疲れ極まりし衆(ひとびと)は、心大いに歓喜(かんぎ)して、未曽有なりと歎じ「われ等、いまこの悪道をまぬかれて、快く安穏なることを得たり」といえり。ここにおいて、衆人(もろびと)は、前(すす)みて化城(けじょう)に入りて、すでに度(こえ)たりとの想(おもい)を生じ、安穏の想(おもい)を生ぜり。そのとき、導師は、この人衆の、すでに止息(しそく)することを得、また疲惓(ひけん)なきを知りて、すなわち、化城を滅して、衆人(もろびと)に語りて言わく「汝等よ去来(いざ)や、宝所は近きにあり。さきの大城は、われの化作せるところにして、止息のためなるのみ」と。

(サンスクリット原典からの邦訳)例えば、僧たちよ、ここに広さ五百ヨージャナの人跡未到の密林があって、そこに大勢の人々が到着したとしよう。ラトナ=ドゥヴィーパに行くために、賢明で学識があり、敏捷で精神力があり、密林の難路に通じていて隊商を案内して密林を通過さすことのできる、一人の案内人がいるとしよう。ところで、かの大勢の人々は途中で疲れ果てた上に、密林の不気味さに怖れおののいて、このように言うとしよう。「君、案内人よ、われわれは疲れ果てて、不安に怖れおののいているんだ。引き返そうじゃないか。人跡未到の密林は非常な遠くまで広がっている」と。そのとき、僧たちよ、巧妙な手段に通暁しているかの案内人は、人々が引き返そうと思っていることを知り、このように考えるとしよう。「これは駄目だ。あこの憐れな連中は、このままではラトナ=ドゥヴィーパに行けないであろう」と。彼はかれらを憐れんで、巧妙な手段を用いるとしよう。その密林の真中に、百ヨージャナあるいは二百ヨージャナないし三百ヨージャナの向こうに、彼が神通力で都城を造るとしよう。こうして、彼は、人々にこのように言うとしよう。「諸君、怖れてはならぬ。怖れてはいけない。あそこに大きな町がある。あそこで休もう。諸君たちがしなければならないことがあるなら、あそこで用を足しなさい。安心して、あそこに滞在するがよろしい。あそこで休んで、仕事のある人はラトナ=ドゥヴィーパに行くがよい」と。そこで、僧たちよ、密林に入りこんだ人々は不思議に思い、いぶかりながらも、「われわれは人跡未踏の密林を通り抜けたのだ。安心して、ここに逗留しよう」と思うであろう。また、助かったと思うであろう。「われわれは安心した。気分が爽快になった」と思うであろう。そこで、かの案内人は人々の疲れがなくなったことを知ると、神通力で造った都城を消して、人々にこのように言うとしよう。「諸君、こちらへ来てください。ラトナ=ドゥヴィーパは直ぐ近くだ。この都城は、君たちを休憩させるために、わたしが造ったのだ」と」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.572~75」岩波文庫 一九六四年)

所詮は<幻の城>に過ぎないのかもしれない。だがそれが「ほんとう」に思えるような世界へ連れて行ってやりたいというだけでなく、それがまさしく「ほんとう」に実現されるような社会活動に身を捧げたいとする欲望が賢治の創作活動を駆り立てる原動力として作用したと十分考えられよう。さらに親友の死をめぐるトラウマは作品のラストに至ってなお独特の不気味さを伴って再び繰り返される。

「私もふり向きました。もずが、まるで千疋ばかりも飛びたって、野原をずうっと向うへかけて行くように見えましたが、今度も又、俄かに一本の楊の木に落ちてしまいました。けれども私たちはもう何も云いませんでした。鳥を吸い込む楊の木があるとも思えず、又鳥の落ち込みようがあんまりひどいので、そんなことが全くないとも思えず、ほんとうに気持ちが悪くなったのでした」(宮沢賢治「鳥をとるやなぎ」『風の又三郎・P.236』新潮文庫 一九八九年)

なお、二人が歩いた場所を順を追って列挙してみよう。

<権兵衛茶屋><蕎麦(そば)ばたけ><松林(まつばやし)><煙山の野原>。さらにその向うには<毒ヵ森><南晶山(なんしょうざん)>が見える。そこには風が吹いている。だけでなく様々な動物が生きている。賢治作品によく出てくる「猫」や「狐」も暮らしているだろう。賢治にとってそれら様々な森林のそよぎや動物が発する<音>はどれも「ただ単なる騒音やノイズ」には聴こえないばかりか「ただ単なる騒音やノイズ」では決してありえない。逆に実に身近で親しい協奏曲に聴こえていたと言えそうだ。荘子にこうある。

「子游曰、敢問其方、子綦曰、夫大塊噫気其名爲風、是唯无作、作則萬竅怒号、而獨不聞之翏翏乎、山陵之畏佳、大木百圍竅穴、似鼻、似口、似耳、似枅、似圈、似臼、似洼、似汚、激者、号者、叱者、吸者、叫者、号者、深者、咬者、前者唱于、而隨者唱喁、泠風則小和、飄風則大和、厲風濟則衆竅爲虚、而獨不見之調調之刀刀乎

(書き下し)子游(しゆう)曰わく、敢(あ)えて其の方(さま=状)を問わんと。子綦曰わく、夫(そ)れ大塊(たいかい)の噫気(あいき)は其の名を風と為(な)す。是(こ)れ唯(ただ)作(お=起)こるなし、作これば則(すなわ)ち万竅怒号(ばんきょうどごう)す。而(なんじ)は独(まさ)にこの翏翏(りゅうりゅう)たるを聞かざるか。山陵の畏佳(いし)たる、大木百囲の竅穴(きょうけつ)は、鼻に似、口に似、耳に似、枅(さけつぼ)に似、圈(さかずき)に似、臼(うす)に似、洼(あ)に似、汚(お)に似たり。激(ほ=噭)ゆる者あり、号(よ)ぶ者あり、叱(しか)る者あり、吸(す)う者あり、叫(さけ)ぶ者あり、号(なきさけ)ぶ者あり、深(ふか)き者あり、咬(かなし)き者あり、前なる者は于(う)と唱(とな)え、而して随(したが)う者は喁(ぎょう)と唱う。泠(零)風は則ち小和し、飄風は則ち大和す。厲風濟(や=止)めば則ち衆竅も虚と為る。而(なんじ)独(まさ)に之(こ)の調調(ちょうちょう)たると之の刀刀(とうとう)たるを見ざるかと。

(現代語訳)子游がいった、『ぜひとも、そのことについてお教え下さい』。子綦は答える、『そもそも大地のあくびで吐き出された息、それが風というものだ。これはいつも起こるわけではないが、起こったとなると、すべての穴という穴はどよめき叫ぶ。お前はいったいあのひゅうひゅうと鳴る〔遥かな風〕音を聞いたことがないか。山の尾根がうねうねと廻(めぐ)っているところ、百囲(ひゃくかか)えもある大木の穴は、鼻の穴のような、口のような、耳の穴のような、細長い酒壺の口のような、杯(さかずき)のような、臼(うす)のような、深い池のような、狭い窪地(くぼち)のような、さまざまな形である〔が、さて風が吹きわたると、それが鳴りひびく〕。吼(ほ)えたてるもの、高々と呼ぶもの、低く叱りつけるもの、細々と吸いこむもの、叫(さけ)ぶもの、号泣するもの、深々とこもったもの、悲しげなもの。前のものが<ううっ>とうなると、後のものは<ごおっ>と声をたてる。微風(そよかぜ)のときは軽やかな調和(ハーモニー)、強風のときは壮大な調和(ハーモニー)。そしてはげしい風が止むと、もろもろの穴はみなひっそりと静まりかえる。お前はいったいあの〔風の中の樹々が〕ざわざわと動きゆらゆらと揺れるさまを見たことがないか』」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・一・P.42~44」岩波文庫 一九七一年)

一見したところただ単なる「雑音・ノイズ」に過ぎないものが、賢治の身体には自然生態系が織りなし変奏されていく《音楽》として聴こえていたろうことは論をまたないだろう。

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