ザシキワラシとは一体何ものか。出現の仕方はそれぞれ幾つかのバリエーションに区別することができるが、いずれの目撃譚にも当てはまる同一条件がある。その条件というのは<戦乱と飢饉と>である。ところで「ザシキワラシ=ざしき童子(ぼっこ)」について語るにあたり作者=宮沢賢治は四つのケースに分類・列挙するという方法を選択している。
或る日、大人たちはみんな村の仕事へ出かけて行ってしまい、子どもが二人だけ家の中に残された時のこと。
(1)「家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒(はうき)の音がしたのです」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.163』新潮文庫 一九九〇年)
子どもたちばかりの世界。それは一方で真剣に遊びに集中できる世界であり、社会的用語でいう「ハレの日」に相当する。そんな時に出現する。しかし姿形を見せることはほとんどない。さらにまた、ザシキワラシ関連民話が大量に語られ始めたのはいつ頃からか。ずいぶん最近のことだ。明治維新以後になってからである。一見「妖怪」か「ものの怪」の一種に思われるものが、しかしなぜ明治維新以降、近世日本が近代日本へ編成されてから徐々に語られるようになったのか。次の文章はより明確に「ハレの日」の出来事として書かれている。
(2)「『大道めぐり、大道めぐり』。一生けん命、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつなぎで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷(ざしき)のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。そしたらいつか、十一人になりました。ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔をなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出てきて云(い)いました」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.164』新潮文庫 一九九〇年)
子どもが増えるとはどういうことか。産まれたかそれとも人身売買の結果かいずれかでしかあり得ない。ここで「ハレの日」の恒例行動として「夜這い」を上げないわけにはいかない。江戸時代どころか昭和になってなお地方の寒村では普通に行われていた。そうでもしてムラの人口調整を行なっておかなくては明日にでも飢え死にするという危機感が日常的生活条件の中に含まれていたからである。赤松啓介はいう。
「夜這いはもっと自由に、男と女とが性交を楽しむものである。都市や宿場の遊女、飯盛女と遊ぶようなもので、ただ代償の支払いをしないだけ、双方に選択の自由が確保されていたのだ。これが商業的経営の売春との、決定的な違いであり、夜這いが極めて健康な性的民俗として深く浸透し、作動していた所以である」(赤松啓介「性・差別・民俗・一・民俗境界論序説・四・性的民俗の境界性・P.63」河出文庫 二〇一七年)
赤松のいうように<民俗としての>「夜這い」には「商業的経営の売春との、決定的な違い」がある。その点について宮本常一は次の記録を残している。
「ここは土佐の山中、檮原(ゆるはら)村。そしてここの老人のこの住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛しているのである。土間に籾(もみ)がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入口もむしろをたれたまま。時々天井の上を通っていく足音がきこえる。寒そうないそぎ足である。『ーーーわしはてて(父)なし子じゃった。母者(ははじゃ)が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわし。ーーーそのうちにな、年上の子守りが<✕✕するちうのはここへ男のをいれるのよ、おらこないだ、家の裏の茅のかげで、姉(ねえ)と若い衆がねているのを見たんじゃ。おまえもおらのにいれて見い>いうてな、わしのをいれさせた。それがわしのおなごを知ったはじめじゃった。別にええものとも思わなかったし、子守りも<なんともないもんじゃの>いうてーーー。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守りたちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。ーーー盗人はごうどう亀ばかりじゃない。ずいぶんえっとおったもんでまたそれの宿があった。盗人宿とはおとし宿ともいうてな。たいがいは山の腹にポツンと一軒あるような家が多かった。盗人をとめたり、盗人のとったものを売ったりしておった。だからぬすっと宿ちうもんはたいがい、ええ身代をつくっておる。山の中の金持ちにはぬすっと宿じゃったものが多い。ま、そういう盗人や盗人宿にくらべれば、ばくろうは格式が一つ上じゃった。それにまァばくろうのうそは、うそが通用したもんじゃ。とにかくすこしべいぼう(ぐうたら)な百姓の飼うたしようもない牛を、かっせいな(よく稼ぐ)百姓のところへひいていって押しつけて来ても、相手が美事な牛にするんじゃから、相手もあんまりだまされたとは思っておらん。うそがまことで通る世の中があるもんじゃ。そりゃのう、根っからわるい牛は持って行けん。十が十までうそのつっけるもんじゃァない。まァうそが勝つとしっても三分のまことはある。それを百姓が、八分九分のまことにしてくれる。それでうそつきも世がわかれたのじゃ。時にはうそばかりついておれんことはあった。げんに、牛市へ牛をひいて行けば、わるい牛は誰にでもわかる。人はだましておれん。その上牛の品評会がある。あれにはかなわん。牛相撲で勝つほどの牛なら十人が十人とも見てわかる。そこでわしらみたいな小ばくろうはなるべくそういう所へは出んようにして山の奥ばかりあるくようにしたもんじゃ。ーーー二十の年じゃった。わしの親方が、死んで、うぇあしは一人だちすることになった。親方はまだ若うて、かっぷく(体格)のええ男じゃったが、女出入が多うくて、うらみを買うことがあったのじゃろう。あるばくろう宿で後家とねているところを殺されて、家へ火をかけられて、風のつよい日で家は丸やけになった。こたつの火の不始末で火事になり、焼け死んだという事になったが、それにしては焼けただれた二人の死がいが並うで出て来たのが不思議じゃった。ーーーわしらみたいに村の中にきまった家のないものは、若衆仲間にもはいれん。若衆仲間にはいっておらんと夜這いにもいけん。夜這いにいったことがわかりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ちすえられる。そりゃ厳重なもんじゃった。じゃからわしの子供の時に子守りらとよく✕✕したことはあったが、大人になって娘とねた事はない。わしのねたのは大方後家じゃった。一人身の後家なら表だって文句をいうものはない。ーーー百姓ちうもんはかたいもんぞな、昼は二人ではたらき、夜はまた夜で夫婦で納戸にねる。そういう中で浮気をするのはよっぽど(余程)女好きか男好きじゃでーーー。わしらみたいに女をかまうもんは大方百姓しておらん人間じゃ。みんなにドラといわれた人間じゃ。ーーー秋のいそがしい時でのう、小松の間から見える谷の田の方では、みな稲刈りにいそがしそうにしておる。そういうときにわしはよその嫁さんをぬすもうとしておる。何ともいえん気持じゃった。ーーーわしがニコッと笑うたら、嫁さんもニコッと笑いなさった。それからあがって来た嫁さんを手にとって、お堂のところへつれていってあがり段に腰をおろした。そしたら嫁さんが人の目につくといけんからいうて、お堂の中へはいっていった。わしもはいった。<わしのような者のいうことをどうしてきく気になりなさったか>いうてきいたら<あんたは心のやさしいええ人じゃ、女はそういうものが一番ほしいんじゃ>といいなさった。身分の高い女で、わしをはじめて一人まえに取り扱こうてくれた人じゃった。それから四、五回もおうたじゃろうか。わしはこの人に迷惑かけてはいかんと思うて、この人にも内緒、婆にも何にもいわんで、四年目にまた雪のふる道を一人で伊予へもどった。わしは一代のうちにあの時ほど身にこたえたことはなかった。半年というものは、何をして暮したかもおぼえておらん。気のぬけたように暮したのう。何べん峠の上までいったかわからん。婆に逢うのがいやで、半年ほどかくれておった。半年ほどたつと、やっとこらえられるようになった。わしはそれからまたばくろうになった。それからのわしはこれと思う女をみなかもうた。しかし、あの嫁さんのような人にはあわだった。いや、一人あった。ーーーわしは庄屋のおかた(奥さん)に手をつけてのう。旦那は県会議員をしておって、伊予の奥ではいちばんの家じゃった。ーーー<なめますで、なめますで。すきな女のお尻ならわたしでもなめますで>いうたら、おかたさまはまっかになってあんた向こうをむきなさった。牡牛を牡牛のところへつれていきました。すると牛は大きなのを立てて、牝牛の尻へのっていきよる。わじゃもうかけるほうに一生けんめいで、おかたさまのほうへ気をとられることはなかったがのう、牛のをすませて、いかたさまのほうを見たら、ジイッと見ていなさる。牡牛はすましたあと牝牛の尻をなめるので<それ見なされーーー>というと<牛のほうが愛情が深いのか知ら>といいなさった。わしはなぁその時はっと気がついた。<この方はあんまりしあわせではないのだなァ>とのう。<おかたさま、おかたさま、人間もかわりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまのーーー>。おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。わしは牛の駄屋の隣の納屋の中でおかたさまと寝た。ーーーわしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出あうと必ず啼(な)くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった』」(宮本常一「土佐源氏」『忘れられた日本人・P.132~158』岩波文庫 一九八四年)
第三点。第三項排除の問題。病気(はしか)にかかり長く療養していた子どもが一人いた。病気は治癒したがその間に祭りが延期されたり、病気(はしか)にかかったその子の見舞いのために「鉛(なまり)の兎(うさぎ)」など玩具類を大人たちに取り上げられてしまったせいで、理不尽にも病気の子の側が他の子どもたちから疎まれ「いじめられっ子」として指名されてしまう。だが病気から回復した子どもは是非とも「如来さんの祭」に行きたいという。そして祭りに出かけたが他の子どもたちはその子を「いじめてやろう」と手ぐすね引いて待ちもうけている。病み上がりの子をおどかすため他の子どもたちが「ざしき」に隠れようとしたところ。
(3)「そのざしきのまん中に、今やっと来たばかりの筈(はず)の、あのはじかをやんだ子が、まるっきり痩(や)せて青ざめて、泣き出しそうな顔をして、新らしい熊(くま)のおもちゃを持って、きちんと座っていたのです。『ざしきぼっこだ』一人が叫んで逃げだしました。みんなもわあっと遁げました。ざしきぼっこは泣きました」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.166』新潮文庫 一九九〇年)
第四点。労働力としての「子ども」。或る「渡し守」(船頭)が語ったという形を取る。その渡し守は酒を飲んで早くに眠ってしまっていたところ「おおい、おおい」という呼び声を聞いた。船で川を渡して欲しいというのだろう。川岸に行ってみると「紋付(もんつき)を着て刀をさし、袴(はかま)をはいたきれいな子供」である。ただ単に「紋付袴」というだけなら見逃してしまうかも知れないが、ここでは以前指摘したように「平家物語」や「太平記」に出てきたような「きれいな子供」であり<特権的童子性>の象徴として登場していることに注意しなくてはならない。次の文章は船頭と「きれいな子供」との対話。童子の移動が直接的に貨幣の移動にかかわっているケース。
(4)「『お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田(ささだ)のうちに、ずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外(ほか)へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば更木(さらき)の斎藤(さいとう)へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢(ゆめ)だかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終ったし、めきめき立派になったから』」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.166~167』新潮文庫 一九九〇年)
ところでザシキワラシについて柳田國男は二つのケースを取り上げている。
(1)「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫 一九八九年)
(2)「ザシキワラシまた女児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門といいう家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、ある年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にてこちらへ来る。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答う。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり」(柳田國男「遠野物語・十八」『柳田國男全集4・P.23』ちくま文庫 一九八九年)
さらに柳田は「日本の昔話」の中で「聴耳頭巾(ききみみずきん)」を取り上げている。陸中(岩手県)上閉伊郡の伝承。舞台の条件は冒頭箇所ですでに描かれる。不景気のため余りの貧困に耐えられそうになくなった老人が地元の氏神である稲荷(いなり)におもむき祈願したところ一つの「赤頭巾(あかずきん)」を授かった。その赤頭巾を頭にかぶると動物の声が人間の言葉に翻訳されて聞こえるというすぐれもの。老人が試してみるとなるほど烏(からす)の会話が聴こえる。地域社会で噂になっている最新情報が烏たちの会話を通していろいろ耳に入ってきた。そこで老人は八卦見(はっけみ)を装って烏が話していた家に赴き、問題(長引く病気とその原因)を解決に導く。そして受け取った謝礼金を大事に蓄え、貧乏な身から長者になり、これ以上欲を出すのはよくないと思ったところで八卦見を廃業して普通の長者としてまずまず無事な生涯を送ることになったという話。
次のケースはザシキワラシについてではないものの、そのぶん、明治維新以後、子どもが置かれることになった境遇をよりいっそう明確にしている。
(1)「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫 一九八九年)
(2)「また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.82~83』ちくま文庫 一九八九年)
柳田民俗学がしばしば批判されるのは柳田の文章の中に「ただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが」と、まるで他人からの聞き書きに過ぎないような文体へシフトされている点に顕著である。柳田國男は他人から聞いて始めて知ったわけではない。むしろ実際を知った上であえて地方の農山漁村ではこのようなことがあるらしいと他人事のように振る舞ったためである。要するに柳田國男は地方の実状を目の当たりに知っている立場でなくては<検閲・修正>不可能な文章をわざと仕立て上げているのである。一方、南方熊楠は柳田よりずっと早くから民俗学に取り組んでいたため地方の風習ばかりか日本では「人柱」がつい最近まで行われていたことをよく知っていた。だから「人柱の話」では何の遠慮もなく論文化し発表している。柳田の場合、急いで国家改造=近代化を目指す明治政府による厳重な箝口令がどんどん敷かれていく時期に当っていたことと、柳田自身の立場が中央官僚だったため、事実をそのまま書き残せる立場ではすでになかった。したがって柳田はただ単なる「語り部に堕した」と厳しく批判されることになったのである。では柳田の立場では書き残すことができなかった歴史的事実はどうなったか。柳田以外の民俗学者が書き残した。ふたたび赤松啓介から引こう。
「お通夜の晩に雑魚寝になるムラもある、ということだ。お通夜だから近親が多いわけで、そうした解放もあったのである。摂津、播磨の国境地帯、有馬、美囊郡接触地域で、姉の産見舞に来た妹を妊娠させたと噂が出た。民俗学をやっているから、まるまる非難する気はない。どうなっているのかと聞いたら、姉妹がお産するとお互いに産見舞に行く。この辺では産後七五日といって、主人はお預けを食う。姉妹が多いほど差し繰りができるわけだが、ともかくその間に適当に産見舞に行ってやる。男たちもお互いさまで、女房が出産すれば他の姉妹が来てくれた。お互いの気心もわかるし、親族としての団結も固くなる。そううまいことばかりでもあるまいが、ともかく古い様式の兄弟の一群と、姉妹の一群との婚姻みたいなものに近い。どうしてこうした性民俗が行われていたのか、一夫一婦制では考えられないようなことである。夜這い民俗の日常的な存在といい、こうした近親の性解放といい、日本のムラでは性の自由が極めて大であった。日本の婚姻史は上層の、文献だけがたよりであるから、ほんとうの民衆の性民俗が殆どわかっていない。一夫一婦式限定性民俗と、不特定多数式自由性民俗とがあったわけで、いま二つの接点、境界の民俗が僅かに古い民衆の性民俗を伝承していることになる。戦乱と飢饉、疾病と天災とにさらされていたムラが、絵に描いたような一夫一婦式限定性民俗を維持できるはずがない。極めて自由な、どのような情況にでも対応できる、不特定多数式自由性民俗の発生と展開とは、おそらく古代のムラから継承してきた伝統であろう。日本書紀に極めて複雑な近親婚があり、古くから絵解きが盛んである。しかし一般民衆の生活では、それほど複雑な近親婚が普通であったのであり、ムラの限定された社会環境、民衆の生活ではいわゆる村内婚を主とすれば、近親婚の重複も発生した。近代のムラでも母子、父娘、兄弟姉妹の性関係、共棲生活は、そう珍しいことでもない。むしろ、そうした性関係を含めて、極めて多様の不特定多数式自由性民俗であった。いまわれわれにとっての課題は、国家的支配権力の管理機構である一夫一婦式限定性民俗を解体させ、もとあるままのムラの不特定多数式自由性民俗を確保、あるがままの人間としての性の自由を確立することである。ムラにとって、民衆にとって支配権力、国家とはなんであったのか。徳川幕藩体制三百年の支配も、ムラにとって、民衆にとって『年貢』をとりにくる余所者にすぎなかった。さすがに維新変革を切開した連中は、その実相を知っていたから、ムラを、民衆を恐怖している。維新後の天皇制確立、市町村制施行も、ムラを破壊し、百姓を解体させるための装置であった。しかしムラは、村落共同体は生き続けている。忠君愛国の猛烈な宣伝、教育にもかかわらず、ムラは解体されなかった。ムラにとって、明治以後の政権、天皇制国家とはなんであったのか、それは『税金』をとりにくる余所者にすぎない」(赤松啓介「性・差別・民俗・一・民俗境界論序説・四・性的民俗の境界性・P.64~65」河出文庫 二〇一七年)
確実な<年貢>取立対策・確実な<税金>取立対策のための犠牲としてかつての「ムラ」とその風習は解体された。ところがしかし人間の性的欲望というものを操作することはそう簡単ではない。そこで開発されたのが「商業的経営の売春」《制度》だった。明治国家成立以前には<戦乱と飢饉>を乗り越えるためむしろそうするしか「ムラ」の人口維持=労働力維持のための方法がなかった近親婚がタブーとされ厳しい取り締まり対象となるや、今度は近親婚による<トラウマ>が発生してきた。近代国家は民衆に対して<罪の意識>を強引に注入し病的に転倒した資本主義制度に従わせる方向へ進んだ。したがって逆に「商業的経営の売春」《制度》を利用している人々にはまるで<罪の意識>がない。そしてその《制度》によっていつも凱歌を上げるのは「生産・流通・金融」の三つの資本に限られることになったのである。ところが二十一世紀も二十年を過ぎた今になって再び<戦乱と貧困>はますます増大する傾向をあらわにしてきた。政府はどうすべきか。どうしたいのか。どこで何をどのように間違ってしまったのか。時折立ち止まって反省〔反照〕してみるのも悪くないだろう。ヘーゲルはいう。
(1)「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。
<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)
(2)「《自己に即した》区別は《本質的な》区別、《肯定的なもの》と《否定的なもの》である。肯定的なものは、否定的なもので《ない》という仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なもので《ない》という仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが《他者でない》程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は《対立》であり、区別されたものは自己にたいして《他者一般》をではなく、《自己に固有の》他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に《固有》の他者である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一九・P.28」岩波文庫 一九五二年)
(3)「本質はまず《自己のうち》で反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として《定立》されている。したがってこれは《直接態》あるいは《有》の復活である。が、この有は《媒介の揚棄によって媒介されている有》、すなわち《現存在》である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一二二・P.42」岩波文庫 一九五二年)
(4)「生きた実体は、実際には《主観》〔体〕であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観〔体〕としては純粋で《単一な否定性》である。であるからこそ、単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を《回復する》相等性もしくは他在において自己自身へと復帰〔反照〕することにほかならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.33」平凡社ライブラリー 一九九七年)
(5)「なぜなら、媒介とは自ら動いて自己自身と等しくなることにほかならないからである、言いかえれば、媒介とは自己自身に帰〔反照す〕ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性であるからである。あるいは〔全くの抽象のレベルまでおとしてしまえば〕、《単一な生成》である。自我もしくは生成一般というこのような媒介のはたらきは、単一なものであるから、生成しつつある直接態であり、無媒介なものそれ自身にほかならない。それゆえ、反照するはたらきを真理から除外してしまい、それを絶対者の肯定的な契機と考えないならば、理性を見あやまることになる。反照は真理を結果とするが、また真理の生成に対するこの結果という対立を、止揚するようなものでもある」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.35~36」平凡社ライブラリー 一九九七年)
<反省〔反照〕すること>と<媒介すること>とがなぜ同じ動作なのか。とりわけ「国民のための奉仕者=政治家」は少しくらい身に沁みて知っていてもいいのではと思われる。
BGM1
BGM2
BGM3
或る日、大人たちはみんな村の仕事へ出かけて行ってしまい、子どもが二人だけ家の中に残された時のこと。
(1)「家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒(はうき)の音がしたのです」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.163』新潮文庫 一九九〇年)
子どもたちばかりの世界。それは一方で真剣に遊びに集中できる世界であり、社会的用語でいう「ハレの日」に相当する。そんな時に出現する。しかし姿形を見せることはほとんどない。さらにまた、ザシキワラシ関連民話が大量に語られ始めたのはいつ頃からか。ずいぶん最近のことだ。明治維新以後になってからである。一見「妖怪」か「ものの怪」の一種に思われるものが、しかしなぜ明治維新以降、近世日本が近代日本へ編成されてから徐々に語られるようになったのか。次の文章はより明確に「ハレの日」の出来事として書かれている。
(2)「『大道めぐり、大道めぐり』。一生けん命、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつなぎで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷(ざしき)のなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんで居りました。そしたらいつか、十一人になりました。ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔をなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出てきて云(い)いました」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.164』新潮文庫 一九九〇年)
子どもが増えるとはどういうことか。産まれたかそれとも人身売買の結果かいずれかでしかあり得ない。ここで「ハレの日」の恒例行動として「夜這い」を上げないわけにはいかない。江戸時代どころか昭和になってなお地方の寒村では普通に行われていた。そうでもしてムラの人口調整を行なっておかなくては明日にでも飢え死にするという危機感が日常的生活条件の中に含まれていたからである。赤松啓介はいう。
「夜這いはもっと自由に、男と女とが性交を楽しむものである。都市や宿場の遊女、飯盛女と遊ぶようなもので、ただ代償の支払いをしないだけ、双方に選択の自由が確保されていたのだ。これが商業的経営の売春との、決定的な違いであり、夜這いが極めて健康な性的民俗として深く浸透し、作動していた所以である」(赤松啓介「性・差別・民俗・一・民俗境界論序説・四・性的民俗の境界性・P.63」河出文庫 二〇一七年)
赤松のいうように<民俗としての>「夜這い」には「商業的経営の売春との、決定的な違い」がある。その点について宮本常一は次の記録を残している。
「ここは土佐の山中、檮原(ゆるはら)村。そしてここの老人のこの住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天井もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天井の上は橋。つまり橋の下に小屋掛しているのである。土間に籾(もみ)がらをまいて、その上にむしろをしいて生活している。入口もむしろをたれたまま。時々天井の上を通っていく足音がきこえる。寒そうないそぎ足である。『ーーーわしはてて(父)なし子じゃった。母者(ははじゃ)が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわし。ーーーそのうちにな、年上の子守りが<✕✕するちうのはここへ男のをいれるのよ、おらこないだ、家の裏の茅のかげで、姉(ねえ)と若い衆がねているのを見たんじゃ。おまえもおらのにいれて見い>いうてな、わしのをいれさせた。それがわしのおなごを知ったはじめじゃった。別にええものとも思わなかったし、子守りも<なんともないもんじゃの>いうてーーー。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守りたちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。ーーー盗人はごうどう亀ばかりじゃない。ずいぶんえっとおったもんでまたそれの宿があった。盗人宿とはおとし宿ともいうてな。たいがいは山の腹にポツンと一軒あるような家が多かった。盗人をとめたり、盗人のとったものを売ったりしておった。だからぬすっと宿ちうもんはたいがい、ええ身代をつくっておる。山の中の金持ちにはぬすっと宿じゃったものが多い。ま、そういう盗人や盗人宿にくらべれば、ばくろうは格式が一つ上じゃった。それにまァばくろうのうそは、うそが通用したもんじゃ。とにかくすこしべいぼう(ぐうたら)な百姓の飼うたしようもない牛を、かっせいな(よく稼ぐ)百姓のところへひいていって押しつけて来ても、相手が美事な牛にするんじゃから、相手もあんまりだまされたとは思っておらん。うそがまことで通る世の中があるもんじゃ。そりゃのう、根っからわるい牛は持って行けん。十が十までうそのつっけるもんじゃァない。まァうそが勝つとしっても三分のまことはある。それを百姓が、八分九分のまことにしてくれる。それでうそつきも世がわかれたのじゃ。時にはうそばかりついておれんことはあった。げんに、牛市へ牛をひいて行けば、わるい牛は誰にでもわかる。人はだましておれん。その上牛の品評会がある。あれにはかなわん。牛相撲で勝つほどの牛なら十人が十人とも見てわかる。そこでわしらみたいな小ばくろうはなるべくそういう所へは出んようにして山の奥ばかりあるくようにしたもんじゃ。ーーー二十の年じゃった。わしの親方が、死んで、うぇあしは一人だちすることになった。親方はまだ若うて、かっぷく(体格)のええ男じゃったが、女出入が多うくて、うらみを買うことがあったのじゃろう。あるばくろう宿で後家とねているところを殺されて、家へ火をかけられて、風のつよい日で家は丸やけになった。こたつの火の不始末で火事になり、焼け死んだという事になったが、それにしては焼けただれた二人の死がいが並うで出て来たのが不思議じゃった。ーーーわしらみたいに村の中にきまった家のないものは、若衆仲間にもはいれん。若衆仲間にはいっておらんと夜這いにもいけん。夜這いにいったことがわかりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ちすえられる。そりゃ厳重なもんじゃった。じゃからわしの子供の時に子守りらとよく✕✕したことはあったが、大人になって娘とねた事はない。わしのねたのは大方後家じゃった。一人身の後家なら表だって文句をいうものはない。ーーー百姓ちうもんはかたいもんぞな、昼は二人ではたらき、夜はまた夜で夫婦で納戸にねる。そういう中で浮気をするのはよっぽど(余程)女好きか男好きじゃでーーー。わしらみたいに女をかまうもんは大方百姓しておらん人間じゃ。みんなにドラといわれた人間じゃ。ーーー秋のいそがしい時でのう、小松の間から見える谷の田の方では、みな稲刈りにいそがしそうにしておる。そういうときにわしはよその嫁さんをぬすもうとしておる。何ともいえん気持じゃった。ーーーわしがニコッと笑うたら、嫁さんもニコッと笑いなさった。それからあがって来た嫁さんを手にとって、お堂のところへつれていってあがり段に腰をおろした。そしたら嫁さんが人の目につくといけんからいうて、お堂の中へはいっていった。わしもはいった。<わしのような者のいうことをどうしてきく気になりなさったか>いうてきいたら<あんたは心のやさしいええ人じゃ、女はそういうものが一番ほしいんじゃ>といいなさった。身分の高い女で、わしをはじめて一人まえに取り扱こうてくれた人じゃった。それから四、五回もおうたじゃろうか。わしはこの人に迷惑かけてはいかんと思うて、この人にも内緒、婆にも何にもいわんで、四年目にまた雪のふる道を一人で伊予へもどった。わしは一代のうちにあの時ほど身にこたえたことはなかった。半年というものは、何をして暮したかもおぼえておらん。気のぬけたように暮したのう。何べん峠の上までいったかわからん。婆に逢うのがいやで、半年ほどかくれておった。半年ほどたつと、やっとこらえられるようになった。わしはそれからまたばくろうになった。それからのわしはこれと思う女をみなかもうた。しかし、あの嫁さんのような人にはあわだった。いや、一人あった。ーーーわしは庄屋のおかた(奥さん)に手をつけてのう。旦那は県会議員をしておって、伊予の奥ではいちばんの家じゃった。ーーー<なめますで、なめますで。すきな女のお尻ならわたしでもなめますで>いうたら、おかたさまはまっかになってあんた向こうをむきなさった。牡牛を牡牛のところへつれていきました。すると牛は大きなのを立てて、牝牛の尻へのっていきよる。わじゃもうかけるほうに一生けんめいで、おかたさまのほうへ気をとられることはなかったがのう、牛のをすませて、いかたさまのほうを見たら、ジイッと見ていなさる。牡牛はすましたあと牝牛の尻をなめるので<それ見なされーーー>というと<牛のほうが愛情が深いのか知ら>といいなさった。わしはなぁその時はっと気がついた。<この方はあんまりしあわせではないのだなァ>とのう。<おかたさま、おかたさま、人間もかわりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまのーーー>。おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。わしは牛の駄屋の隣の納屋の中でおかたさまと寝た。ーーーわしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出あうと必ず啼(な)くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった』」(宮本常一「土佐源氏」『忘れられた日本人・P.132~158』岩波文庫 一九八四年)
第三点。第三項排除の問題。病気(はしか)にかかり長く療養していた子どもが一人いた。病気は治癒したがその間に祭りが延期されたり、病気(はしか)にかかったその子の見舞いのために「鉛(なまり)の兎(うさぎ)」など玩具類を大人たちに取り上げられてしまったせいで、理不尽にも病気の子の側が他の子どもたちから疎まれ「いじめられっ子」として指名されてしまう。だが病気から回復した子どもは是非とも「如来さんの祭」に行きたいという。そして祭りに出かけたが他の子どもたちはその子を「いじめてやろう」と手ぐすね引いて待ちもうけている。病み上がりの子をおどかすため他の子どもたちが「ざしき」に隠れようとしたところ。
(3)「そのざしきのまん中に、今やっと来たばかりの筈(はず)の、あのはじかをやんだ子が、まるっきり痩(や)せて青ざめて、泣き出しそうな顔をして、新らしい熊(くま)のおもちゃを持って、きちんと座っていたのです。『ざしきぼっこだ』一人が叫んで逃げだしました。みんなもわあっと遁げました。ざしきぼっこは泣きました」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.166』新潮文庫 一九九〇年)
第四点。労働力としての「子ども」。或る「渡し守」(船頭)が語ったという形を取る。その渡し守は酒を飲んで早くに眠ってしまっていたところ「おおい、おおい」という呼び声を聞いた。船で川を渡して欲しいというのだろう。川岸に行ってみると「紋付(もんつき)を着て刀をさし、袴(はかま)をはいたきれいな子供」である。ただ単に「紋付袴」というだけなら見逃してしまうかも知れないが、ここでは以前指摘したように「平家物語」や「太平記」に出てきたような「きれいな子供」であり<特権的童子性>の象徴として登場していることに注意しなくてはならない。次の文章は船頭と「きれいな子供」との対話。童子の移動が直接的に貨幣の移動にかかわっているケース。
(4)「『お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田(ささだ)のうちに、ずいぶんながく居たけれど、もうあきたから外(ほか)へ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば更木(さらき)の斎藤(さいとう)へ行くよと云った。岸に着いたら子供はもう居ず、おらは小屋の入口にこしかけていた。夢(ゆめ)だかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終ったし、めきめき立派になったから』」(宮沢賢治「ざしき童子のはなし」『注文の多い料理店・P.166~167』新潮文庫 一九九〇年)
ところでザシキワラシについて柳田國男は二つのケースを取り上げている。
(1)「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫 一九八九年)
(2)「ザシキワラシまた女児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門といいう家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、ある年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にてこちらへ来る。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答う。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸(きのこ)の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり」(柳田國男「遠野物語・十八」『柳田國男全集4・P.23』ちくま文庫 一九八九年)
さらに柳田は「日本の昔話」の中で「聴耳頭巾(ききみみずきん)」を取り上げている。陸中(岩手県)上閉伊郡の伝承。舞台の条件は冒頭箇所ですでに描かれる。不景気のため余りの貧困に耐えられそうになくなった老人が地元の氏神である稲荷(いなり)におもむき祈願したところ一つの「赤頭巾(あかずきん)」を授かった。その赤頭巾を頭にかぶると動物の声が人間の言葉に翻訳されて聞こえるというすぐれもの。老人が試してみるとなるほど烏(からす)の会話が聴こえる。地域社会で噂になっている最新情報が烏たちの会話を通していろいろ耳に入ってきた。そこで老人は八卦見(はっけみ)を装って烏が話していた家に赴き、問題(長引く病気とその原因)を解決に導く。そして受け取った謝礼金を大事に蓄え、貧乏な身から長者になり、これ以上欲を出すのはよくないと思ったところで八卦見を廃業して普通の長者としてまずまず無事な生涯を送ることになったという話。
次のケースはザシキワラシについてではないものの、そのぶん、明治維新以後、子どもが置かれることになった境遇をよりいっそう明確にしている。
(1)「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫 一九八九年)
(2)「また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.82~83』ちくま文庫 一九八九年)
柳田民俗学がしばしば批判されるのは柳田の文章の中に「ただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが」と、まるで他人からの聞き書きに過ぎないような文体へシフトされている点に顕著である。柳田國男は他人から聞いて始めて知ったわけではない。むしろ実際を知った上であえて地方の農山漁村ではこのようなことがあるらしいと他人事のように振る舞ったためである。要するに柳田國男は地方の実状を目の当たりに知っている立場でなくては<検閲・修正>不可能な文章をわざと仕立て上げているのである。一方、南方熊楠は柳田よりずっと早くから民俗学に取り組んでいたため地方の風習ばかりか日本では「人柱」がつい最近まで行われていたことをよく知っていた。だから「人柱の話」では何の遠慮もなく論文化し発表している。柳田の場合、急いで国家改造=近代化を目指す明治政府による厳重な箝口令がどんどん敷かれていく時期に当っていたことと、柳田自身の立場が中央官僚だったため、事実をそのまま書き残せる立場ではすでになかった。したがって柳田はただ単なる「語り部に堕した」と厳しく批判されることになったのである。では柳田の立場では書き残すことができなかった歴史的事実はどうなったか。柳田以外の民俗学者が書き残した。ふたたび赤松啓介から引こう。
「お通夜の晩に雑魚寝になるムラもある、ということだ。お通夜だから近親が多いわけで、そうした解放もあったのである。摂津、播磨の国境地帯、有馬、美囊郡接触地域で、姉の産見舞に来た妹を妊娠させたと噂が出た。民俗学をやっているから、まるまる非難する気はない。どうなっているのかと聞いたら、姉妹がお産するとお互いに産見舞に行く。この辺では産後七五日といって、主人はお預けを食う。姉妹が多いほど差し繰りができるわけだが、ともかくその間に適当に産見舞に行ってやる。男たちもお互いさまで、女房が出産すれば他の姉妹が来てくれた。お互いの気心もわかるし、親族としての団結も固くなる。そううまいことばかりでもあるまいが、ともかく古い様式の兄弟の一群と、姉妹の一群との婚姻みたいなものに近い。どうしてこうした性民俗が行われていたのか、一夫一婦制では考えられないようなことである。夜這い民俗の日常的な存在といい、こうした近親の性解放といい、日本のムラでは性の自由が極めて大であった。日本の婚姻史は上層の、文献だけがたよりであるから、ほんとうの民衆の性民俗が殆どわかっていない。一夫一婦式限定性民俗と、不特定多数式自由性民俗とがあったわけで、いま二つの接点、境界の民俗が僅かに古い民衆の性民俗を伝承していることになる。戦乱と飢饉、疾病と天災とにさらされていたムラが、絵に描いたような一夫一婦式限定性民俗を維持できるはずがない。極めて自由な、どのような情況にでも対応できる、不特定多数式自由性民俗の発生と展開とは、おそらく古代のムラから継承してきた伝統であろう。日本書紀に極めて複雑な近親婚があり、古くから絵解きが盛んである。しかし一般民衆の生活では、それほど複雑な近親婚が普通であったのであり、ムラの限定された社会環境、民衆の生活ではいわゆる村内婚を主とすれば、近親婚の重複も発生した。近代のムラでも母子、父娘、兄弟姉妹の性関係、共棲生活は、そう珍しいことでもない。むしろ、そうした性関係を含めて、極めて多様の不特定多数式自由性民俗であった。いまわれわれにとっての課題は、国家的支配権力の管理機構である一夫一婦式限定性民俗を解体させ、もとあるままのムラの不特定多数式自由性民俗を確保、あるがままの人間としての性の自由を確立することである。ムラにとって、民衆にとって支配権力、国家とはなんであったのか。徳川幕藩体制三百年の支配も、ムラにとって、民衆にとって『年貢』をとりにくる余所者にすぎなかった。さすがに維新変革を切開した連中は、その実相を知っていたから、ムラを、民衆を恐怖している。維新後の天皇制確立、市町村制施行も、ムラを破壊し、百姓を解体させるための装置であった。しかしムラは、村落共同体は生き続けている。忠君愛国の猛烈な宣伝、教育にもかかわらず、ムラは解体されなかった。ムラにとって、明治以後の政権、天皇制国家とはなんであったのか、それは『税金』をとりにくる余所者にすぎない」(赤松啓介「性・差別・民俗・一・民俗境界論序説・四・性的民俗の境界性・P.64~65」河出文庫 二〇一七年)
確実な<年貢>取立対策・確実な<税金>取立対策のための犠牲としてかつての「ムラ」とその風習は解体された。ところがしかし人間の性的欲望というものを操作することはそう簡単ではない。そこで開発されたのが「商業的経営の売春」《制度》だった。明治国家成立以前には<戦乱と飢饉>を乗り越えるためむしろそうするしか「ムラ」の人口維持=労働力維持のための方法がなかった近親婚がタブーとされ厳しい取り締まり対象となるや、今度は近親婚による<トラウマ>が発生してきた。近代国家は民衆に対して<罪の意識>を強引に注入し病的に転倒した資本主義制度に従わせる方向へ進んだ。したがって逆に「商業的経営の売春」《制度》を利用している人々にはまるで<罪の意識>がない。そしてその《制度》によっていつも凱歌を上げるのは「生産・流通・金融」の三つの資本に限られることになったのである。ところが二十一世紀も二十年を過ぎた今になって再び<戦乱と貧困>はますます増大する傾向をあらわにしてきた。政府はどうすべきか。どうしたいのか。どこで何をどのように間違ってしまったのか。時折立ち止まって反省〔反照〕してみるのも悪くないだろう。ヘーゲルはいう。
(1)「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。
<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)
(2)「《自己に即した》区別は《本質的な》区別、《肯定的なもの》と《否定的なもの》である。肯定的なものは、否定的なもので《ない》という仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なもので《ない》という仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが《他者でない》程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は《対立》であり、区別されたものは自己にたいして《他者一般》をではなく、《自己に固有の》他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に《固有》の他者である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一九・P.28」岩波文庫 一九五二年)
(3)「本質はまず《自己のうち》で反照し媒介されているものである。しかし媒介が完成されたからには、本質の自己統一は今や区別の揚棄、したがって媒介の揚棄として《定立》されている。したがってこれは《直接態》あるいは《有》の復活である。が、この有は《媒介の揚棄によって媒介されている有》、すなわち《現存在》である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一二二・P.42」岩波文庫 一九五二年)
(4)「生きた実体は、実際には《主観》〔体〕であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実的であるような存在である。実体は主観〔体〕としては純粋で《単一な否定性》である。であるからこそ、単一なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心なちがいと対立をさらに否定する。真理とは、このように自己を《回復する》相等性もしくは他在において自己自身へと復帰〔反照〕することにほかならない」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.33」平凡社ライブラリー 一九九七年)
(5)「なぜなら、媒介とは自ら動いて自己自身と等しくなることにほかならないからである、言いかえれば、媒介とは自己自身に帰〔反照す〕ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性であるからである。あるいは〔全くの抽象のレベルまでおとしてしまえば〕、《単一な生成》である。自我もしくは生成一般というこのような媒介のはたらきは、単一なものであるから、生成しつつある直接態であり、無媒介なものそれ自身にほかならない。それゆえ、反照するはたらきを真理から除外してしまい、それを絶対者の肯定的な契機と考えないならば、理性を見あやまることになる。反照は真理を結果とするが、また真理の生成に対するこの結果という対立を、止揚するようなものでもある」(ヘーゲル「精神現象学・上・序論・P.35~36」平凡社ライブラリー 一九九七年)
<反省〔反照〕すること>と<媒介すること>とがなぜ同じ動作なのか。とりわけ「国民のための奉仕者=政治家」は少しくらい身に沁みて知っていてもいいのではと思われる。
BGM1
BGM2
BGM3
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