久しぶりに東京国立博物館に行こうかと思っていた3連休中日(なかび)のきょう、暑いし、出遅れ感がきついので、明日に順延して、きょうは、家で「THE SUPER TOUR OF MISIA」(WOWOW で録画したヤツ)を流しながらブログを書く
ことにしました。
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MISIA | |
(株)アリオラジャパン |
「ブログを書く」のはいいのだけれど、「ブログ再開への準備運動」で書いたように、書きかけのシリーズがドドドド と溜まってしまっていて、どこから手をつけたら良いものやら…
です。
ここは、記憶の新しいところで、広島旅行記から始めようかとも思いましたが、4か月も熟成している(「放置」ともいう…
) 王子訪問記を書くことにしました。
王子訪問記のlatest(最新)は、というと…、7月16日の「久しぶりの王子散策記 #3」ですから、どこまで書いたのかも忘れている感じです…
で、「#3」の最後に予告したように、装束稲荷神社の見聞録です。
王子といえば、落語「王子の狐」にもあるように、キツネと玉子焼き、それと飛鳥山の花見
が江戸時代から続く名物
なわけで、歌川廣重は、名所江戸百景で、王子稲荷にお参りするまえに、エノキの木の下で身支度を調えるキツネたちを描いています。
このエノキは、「装束榎」と呼ばれていまして、その記念碑的神社(?)が、稲荷装束神社で、ここにお参りしたのは初めてでした。
「お札と切手の博物館」から、のんびりと10分ほど歩くと、稲荷装束神社に到着。
東国三十三国のお稲荷さんの総元締めたる王子稲荷とは比べるのも申し訳ないような小さな神社です。
装束稲荷神社にお参りしたあと、神社周辺をしげしげと観察しますと、由来書きがありました。
曰く、
今から約千年の昔 この附近一帯は野原や田畑ばかりで その中に大木があり そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります
この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜間 関東八ヶ国の稲荷のお使がこの社に集まり ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていて 当時の農民は その行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています 江戸時代の画聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵として残しています。
ここまではいい。
問題はこのあと…。
その後 明治中期に榎の大木は枯れ 土地発展に伴い その住置も現在の王子二丁目停留所となり 社はその東部に移されました。
え”、このこと知らなかった…
さらに転記を続けると、
昭和二十年四月十三日の大空襲の際 猛烈な勢で東南より延焼して来た火災をここで完全に食い止めて 西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります
この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので 社殿を造営せんものと地元有志の発起により信者各位のご協力を得て現在の社殿を見るにいたりました
この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず 信心篤き者は衣装に不自由することなく 又 火防の神としても前に述べた通りで 信者の尊崇を高めています
だそうです。
この由緒書きとは別に、北区教育委員会による「王子の狐火と装束榎」と題する説明板もありまして、この内容が、由来書きとちょいと違う…。
昭和四年(1927)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。
ですって…
装束榎は枯れたのか? 切り倒されたのか?
装束稲荷神社はもともとあったのか? 装束榎が切り倒されてから造られたのか?
私には判りません…
ただ、両者に共通する「事実」は、装束榎は、現在の装束稲荷神社の場所ではなく、「王子二丁目停留所」の場所にあったこと、のようです。
その「王子二丁目停留所」の現在はどうなっているかといいますと…、
バス停です
おっと、北区教育委員会の説明板にあった「装束榎の碑」の写真
を載せておかなくちゃ
「装束…」までしか見えなくて、これがホントに「装束榎の碑」なのか自信は持てないのでありますが、佇まいからして、「装束榎の碑」だと思います
それはそうと、装束榎があった場所は、広重が「王子装束ゑの木大晦日の狐火 」を描いた当時の様相は片鱗すら感じられなくて、これじゃ、大晦日に関東各地のキツネたちが集まってきたら、クルマにひかれそうです
広重が名所江戸百景を描いたのは(「王子装束ゑの木大晦日の狐火 」は名所江戸百景の掉尾を飾る作品) 安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけてだそうですから、少なくとも160年前の王子界隈は、田畑の広がる長閑(のどか)な地域だったんでしょうねぇ…