「今年2度目の関西遠征 ダイジェスト #2-2」のつづきです。
昼食を終えたのは13:30頃で、フェスティバルホールへは14:30頃までに着けば良いので、まだ余裕はあるけれど、さりとて大阪城公園以外を観光するには時間が無いという状況でした。
そこで、ミライザ大阪城の見事な照明器具
を「鑑賞
」したあと、桜門周辺の巨石を愛でたり
しながらた~らた~らと大手門を目指して歩きました。
桜門というのは、二の丸と本丸との間にある門で、多門櫓は戊辰戦争中の火災で失われていますが、その枡形にある巨石「蛸石」が有名です。
でも、「蛸石」もさることながら、内堀に面した石垣の石もデカい
本丸の南側と東側の堀は空濠なので、桜門に繋がる土橋の両側の石垣は一番下の部分も見ることができるのですが、その出っぱった角に使われている算木積の石のデカいのなんのって
「蛸石」は板状の巨石ですが、石垣の角に使われている石は、おそらくL字型に加工されているのでしょうけれど、長さと厚みがハンパなく、その圧倒的なボリューム感は「蛸石」にひけをとらないと感じられました。
このあと、二の丸にある「石山本願寺推定地」の碑と説明板を眺めて、
大手門へ。
大阪城の大手門(枡形)に来たのは何度目かでしたが、改めて広い と思いました。
どう考えても江戸城の大手門(枡形)より広い かなり広い
「本社」たる江戸城よりも「支社」の大坂城をより「戦い」を意識したつくりにした江戸幕府の意図は何だったのでしょうか?
周りを親藩・譜代大名の領地でがっちり固めた江戸に対して、大坂は西と南には親藩と譜代大名を配しているものの、東は手薄だったことが影響しているのかな? と漠然と考えたりして…
ここで大坂城の「守備隊」になったつもりで、南側の狭間から外を覗いてみました。
堀が広すぎて、堀の外にいる敵に鉄砲の弾を当てるのは難しそうです。
この狭間は、敵の動向を探る覗き窓みたいな役割だったのでしょうか?
つづいて、西側の狭間から大手門前の土橋を覗くと、
こちらは、入城を試みる敵に銃弾を存分に浴びせることができそうです
なんか満足した気分で、高麗門から下城したのですが…、
関西遠征から帰って来てから、大阪城公園で確認し忘れたことを思い出しました
こちらの記事で書いた大手門の高麗門に使われているという「謎かけの継手」を探すのを失念していたぁ~
宿題が残りました…
ところで、南側の狭間から見えた「塔」は何なのでしょうか?
時間に余裕があることですし、見物することにしました。
いかにも「皇紀2600年」っつうか「八紘一宇」っぽいデザインですが、「教育塔」と書かれています。
説明板によると、
この塔は、1934年第一次室戸台風によって多くの犠牲者を出したことを機に、大阪の教育界が提唱し、当時の帝國教育会によって、1936年10月30日に建立されました。
1948年、日本教職員組合が憲法・教育基本法の理念にたち、塔の維持・管理をうけつぎ、現在に至っています。(中略)
第60回教育祭にあたり、教育塔の補修工事を行いました。塔の高さは30m、面積は333㎡、塔の下の中央は162㎡、両側はそれぞれ86㎡です。外側は白色の花崗岩でおおわれています。芳名室には合葬された方々の名板がおさめられています。
1995年10月 教育塔維持管理委員会
だそうで、やはり1930年代半ばの建築でした。
それにしても、こういうデザインの塔を日教組が維持管理しているとは、かなり意外でした。
さらにこの記事を書くにあたって知り、もっと意外だったのは、「教育祭」が2007年までは「教育勅語」が発せられた「10月30日」に開催され、現在も10月の最終日曜日に開催されていること。
一方、こちらの資料によれば、「教育の日」を定めている自治体が、35都道県 102市 61町 10村 1区 (2015年12月現在) あって、
「教育の日」とされているのは11月1日が圧倒的に多く、その理由として都道府県教育委員会が発足したのが昭和23年11月1日であること、また前述した「教育・文化週間」の期間内であることが大きいようです。
だそうです。
なんとも初めて知ることが続出なもので、ここで一息
入れます。
大阪城公園を出て以降、「MISIA星空のライヴ ACROSS THE UNIVERSE」大阪公演 2日目の話などは「#2-4」で書きます。
つづき:2022/03/30 今年2度目の関西遠征 ダイジェスト #2-4