「今年最初の関西旅行記 #3-4」のつづきです。
妙心寺の法堂を退出した私は大方丈 (おおほうじょう)を見学しました。
私は「南総門⇒三門⇒退蔵院⇒仏殿⇒法堂⇒大方丈」というルートで拝観して、法堂の拝観券を求めて大方丈隣の寝堂の玄関まで行って法堂に戻り、再び大方丈へと、不合理に動いたのですが、妙心寺がお勧めする参観拝観ルートは「…仏殿⇒大方丈⇒法堂」でした
これなら、ムダな動きをする必要がありませんな
で、大方丈です。
大方丈 (重要文化財)
東西27m、南北20m、入母屋造単層柿葺192畳。江戸時代前期の承応3年(1654年) 8月に立柱上棟された。
本尊阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)を安置する仏間をはじめ、6室からなっている。
南側の大広縁(おおひろえん)の入口にかけられた「方丈」の額は、中国南宋時代の大書家、張即之の筆とされる。
本尊阿弥陀三尊佛は、鎌倉時代の傑作で、もと石清水八幡宮の奥の院の本地佛で、明治維新に神仏分離がおこなわれたため、妙心寺に祀られることとなった。
各室の襖障子の水墨画は、法堂の雲龍図を揮毫された狩野探幽と采女(探幽の養子・益信)の筆。(中略)
明治維新までは、勅使や賓客の応対の場所であったが、今日では檀信徒の先祖位牌をお祀りして、供養を行ったり、説法、講演、坐禅会等の会場として使用されている。
張即之の筆によるという扁額を観たのですが、、、
ぬぬぬ…、なんも見えません
載せた写真は露出ほかをいろいろ調整してみたのですが、それでも見えるか見えないかといったところです
もっと深く字を彫って、漆でも厚く盛っていれば良かったのになぁ
気を取り直して、狩野探幽&益信による襖絵を見学しました。
狩野益信という絵師の氏素性を見たら、かの御用金工の後藤家(傍系)の出身なんですな。
Wikipediaから転記しますと、
幼少時に書を松花堂昭乗に学び、画を好んだ。その画技を見込まれて寛永12年(1635年)、11歳で探幽の養子となる。(中略)
探幽の弟狩野安信に可愛がられその娘を妻とし、3代将軍徳川家光に寵愛された。しかし探幽に実子探信・探雪ができると、万治2年(1659年)の35歳の時に南光坊天海の紹介で別家し、寛文7年(1667年)に新たに駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野家を興こす。
跡継ぎのいない宗家に当主の養子として入ったものの、当主に男子が生まれたことから身を引いて別家をたてたって、本阿弥光悦と似た境遇です。
Wikipediaからの引用の中に「書を松花堂昭乗に学び」とあります。この松花堂昭乗は「寛永の三筆」(他に本阿弥光悦、近衛信尹)として名高い能書家ですが、それ以上に彼に由来する「松花堂弁当」の方が有名かもしれません。
こんなところで妙心寺の拝観を終え、私は北総門へと歩を進めました。
JR東海の「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンでは、妙心寺を2度とりあげていて、TV CMの映像を見つけましたので貼っておきます。
まず1996年の初夏編。
そして、2013年の春編は「妙心寺・退蔵院」。
これを視ると、やはり退蔵院には春に来たいものだと思います。
でも、すんごい人出なんだろね
北総門の近くで「石田三成墓所」という看板を見かけました。
私はスルーしてしまったのですが、塔頭の壽聖院(じゅしょういん)は、慶長4(1599)年、石田三成が創建した石田家の菩提寺。
慶長4年といえば、妙心寺三門が建てられた年っつうか、関ヶ原の戦いの前年です。
三成率いる西軍が敗れて三成が斬首されると、広大かつ壮麗だった壽聖院も解体の憂き目にあったものの、その後、出家した三成の嫡男・重家が規模を縮小しながらも壽聖院を再興したのだとか。
関ヶ原の戦いで勝ったのが徳川家康だったのは、三成は斬首になったけれど、石田家にとっては不幸中の幸いだったかもしれません。織田信長や豊臣秀吉なら、石田三成の一族郎党を皆殺しにしかねませんもの…
なお、壽聖院が「石田三成の墓所」としているのは、供養塔があるから。
高野山が蒼々たる武将や大名たちの「墓所」になっているのと同じ理屈です。
ちなみに、三成のお墓は大徳寺三玄院にあるそうです。
北総門を出てシャバに戻った私は、スマホのマップを頼りに、嵐電・妙心寺駅を目指しました。
と、気づくと、青空
妙心寺駅では際どく帷子ノ辻行きを逃してしまったもので、ちょうど10分待って電車に乗りました。
久しぶりの嵐電です
「連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』展~ひなたの映画村へようこそ~」を開催中だった東映太秦映画村に出かけたとき(記事)以来ですからちょうど3年ぶりです。
くしくも、NHKでは朝ドラ「カムカムエヴリバディ」を絶賛再放送中で(私は全話録画中)、撮影所前駅ではしばし感慨にふけりました
北野線の終点・帷子ノ辻駅で嵐山本線
に乗り換え、
西院(さい)駅で嵐電を降り、西院(さいいん)駅から阪急京都線に乗り換えました。
京都では、同じ漢字・同じ地なのに読み方が違うのは、京阪電車の「七条(しちじょう)駅」とバス停
「七条(ななじょう)京阪前」という例もありますな
それはともかく、京都河原町行きの阪急電車に乗り、京都の市街地へ。
「皆様、」で始まる阪急電車の車内アナウンスを聞くのは久しぶりのような気がしました