

まどかに充ちた林檎よ、梨よ、バナナよ、
すぐりよ・・・・・・これはみな、
口に入れると死と生を語りかけてくる・・・・・・予感のように・・・・・・
くだものを味わう子供の顔から、
そのことを読むといい。それは遠くから来る。
おもむろに君らの口に名状しがたい味わいがひろがりはせぬか?
ふだんは言葉のあったところに、あらたな発見が流れる、
噛まれた果肉からおどろいて溢れ出たものが。
君たちが平素林檎と呼ぶものを、あえて言ってみたまえ。
最初は濃密になる、その甘さ。
やがて味覚のうちに、ひそやかに身を起こし、
明澄に、めざめ、透きとおり、
二重の意味をもち、陽のように、大地のように、この世の生のものとなり、――
おお体験よ、感受よ、よろこびよ、――この巨大な!
(生野幸吉訳)
ゆたかにみちた林檎、梨、バナナ、
すぐり・・・・・・これらはみな話しかける、
死と生とを口のなかへ・・・・・・私はほのかにそう感じられる・・・・・・
読み取るがいい、これを子供の顔から、
子供が果実を味わっているときに。遠くからそれはやってくる。
口のなかがおもむろに名づけがたくなりはすまいか?
いつもは言葉のあったところに ふいの発見物が流れる、
果肉からおどろきとともに放たれたものが。
あえて言うがよい、きみたちが林檎と名づけているものを。
この甘さ、まず濃厚になり、
そして味覚のなかで静かに鼓舞され、
明るくなり 目覚め 透明になり、
二重の意味をおび 陽をはらに 大地の、ここのもの――
おお 経験 感受 歓喜 広大な!
(田口義弘訳)
「遠くから来る」「遠くからそれはやってくる。」は「第4の悲歌」の最終連に、この答のようなものが書かれています。
『子供の宿命を如実に現して見せるのは誰か。子供を星座のなかに置いてその手に距離の物差を持たせるのは誰か。喉の奥に詰まって固くなる灰色の「めんぽう・・・漢字変換できません。パンのことです。)から、子供の死をつくりなすのは誰か。あるいは甘い林檎の果実の内の芯のような死を、子供の円い口にふくませたままにするのは。誰が殺戮者であるか、見抜くのはたやすい。それよりもしかし、死を、完全な死を、人生に踏み出すその前から、あのように穏やかに内につつんで、悪意を抱かずにいるとは、その心は言葉に尽くせぬところだ。』
(古井由吉訳・ドゥイノ・エレギー訳文・4)
4種の果実を並べて見せたのは、少し意外な情景ではある。それは、その色彩や形態をあざやかに見せるために選ばれた果実のようだ。しかしそれは「生と死との口のなかへ」と言うように死へ向かうのだった。そして果実は祝祭的な達成でありながら、同時にすでに死をはらんでいる。(あるいはまたがっている?)このテーマはソネット全体の特徴でもある。
また味覚とは言語として表現しがたいものに違いない。リルケはこれを書くにあたって「マルセル・プルースト」の「失われた時を求めて」のなかの「スワン家のほう」のなかでの味覚表現(あるいは無意識的記憶?)に深い影響を受けているようです。
リルケ氏の作品の後で、僭越すぎるとは自覚しつつ、我が詩を書いておきます。
葡萄
もぎ取られた一房の葡萄は仮説の死
しずかに朝の陽を浴びている
少女の喉をつるりと潜って
小さな水のからだを潤おしてゆく
ホロリと小さな唇から放り出された種子は
手のひらの上で静か
けれども手のひらが汗ばむほどに
それを見つめている
それから
少女は庭に出て
夢の果樹園を土の中に隠した
一本の葡萄の樹の物語はまたうまれる