くりかえしわたしたちが掻き裂くのに、
それでもこの神は快癒する傷。
わたしたちは鋭い刃だ、知らずにはやまないから。
しかし神ははれやかで、世界に分かたれている。
純粋な、祓(きよ)められた捧げ物をすら
神はとらわれぬ終末に
身うごきもせず向かい立つほかに
受けとるすべを知らない。
この世の耳に聞かれた泉を
うつつに飲むのは死者だけだ、
神が無言で合図をおくるとき。
わたしたちに与えられるものは騒音ばかり。
しかし仔羊はその鈴を
もっと静かな本能によって乞い受ける。
(生野幸吉訳)
くり返し私たちに切り裂かれつつ、
あの神は治癒する場所。
私たちは鋭い切っ先、知ろうと私たちが欲するゆえに。
だが彼ははれやかであって、分かたれている。
純粋な聖められた捧げものさえ、
彼はその世界のなかへ受け容れる、
いつもその奉献の自由な先端に
心動かすことなくあい対して。
ただ死者だけが飲むのだ、
私たちはその音しか聴こえない泉の水を、
神が無言で、彼に、死者に合図するとき。
私たちに与えられるものは騒音ばかり。
そして仔羊が鈴を乞い受けるのは
より静かなその本能によることだ。
(田口義弘訳)
「第一部・26」の最後の2行をふたたび思い出してみよう。
敵意がついにあなたを引き裂いて 遍在させたからこそ、
私たちはいま 聴く者であり、自然のひとつの口なのだ。
オルフォイスはマイナデス達の嫉妬によって引き裂かれて、遍在させられてしまったけれど、それ故にこそオルフォイスはどこにいても歌う神として存在し続けることになった。「治癒(快癒)する場所」とはそういう意味であろう。
それに対して、私たち人間は「知りたい。」という要求の鋭い切っ先にすぎないのだろう。「第一の悲歌」にはこう記されています。
生きている者はみな
あまりにもきびしく生と死を区別する
前記の意味によって、第1節の「神」は神話としての「オルフォイス」だが、第2節&第3節の「神」は、宗教的な意味での神を指しているのではないだろうか?という思いがあります。
田口氏の「注解」には、1913年パリでリルケが「神の返愛について」という講演をしていますが、その草稿のなかには以下のような「スピノザ」の「エチカ」からの引用があると記されています。
神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。
(「スピノザ」の「エチカ」より。)
ここで、生野訳が「身うごきもせず」であり、田口訳が「心動かすことなく」となっている理由も見えてきます。そして、神の無言の合図で泉の水を静かに飲むのは死者たちだけで、生きている者たちの耳に聴こえてくるのは騒音だけ。。。
そして、唐突に仔羊と鈴が登場します。なぜか?羊や牛は静かな鈴音のする首輪をつけてもらってからでないと、安らかに牧場へ出ていかないという、ある村の司祭の話が参考として提出されています。
それでもこの神は快癒する傷。
わたしたちは鋭い刃だ、知らずにはやまないから。
しかし神ははれやかで、世界に分かたれている。
純粋な、祓(きよ)められた捧げ物をすら
神はとらわれぬ終末に
身うごきもせず向かい立つほかに
受けとるすべを知らない。
この世の耳に聞かれた泉を
うつつに飲むのは死者だけだ、
神が無言で合図をおくるとき。
わたしたちに与えられるものは騒音ばかり。
しかし仔羊はその鈴を
もっと静かな本能によって乞い受ける。
(生野幸吉訳)
くり返し私たちに切り裂かれつつ、
あの神は治癒する場所。
私たちは鋭い切っ先、知ろうと私たちが欲するゆえに。
だが彼ははれやかであって、分かたれている。
純粋な聖められた捧げものさえ、
彼はその世界のなかへ受け容れる、
いつもその奉献の自由な先端に
心動かすことなくあい対して。
ただ死者だけが飲むのだ、
私たちはその音しか聴こえない泉の水を、
神が無言で、彼に、死者に合図するとき。
私たちに与えられるものは騒音ばかり。
そして仔羊が鈴を乞い受けるのは
より静かなその本能によることだ。
(田口義弘訳)
「第一部・26」の最後の2行をふたたび思い出してみよう。
敵意がついにあなたを引き裂いて 遍在させたからこそ、
私たちはいま 聴く者であり、自然のひとつの口なのだ。
オルフォイスはマイナデス達の嫉妬によって引き裂かれて、遍在させられてしまったけれど、それ故にこそオルフォイスはどこにいても歌う神として存在し続けることになった。「治癒(快癒)する場所」とはそういう意味であろう。
それに対して、私たち人間は「知りたい。」という要求の鋭い切っ先にすぎないのだろう。「第一の悲歌」にはこう記されています。
生きている者はみな
あまりにもきびしく生と死を区別する
前記の意味によって、第1節の「神」は神話としての「オルフォイス」だが、第2節&第3節の「神」は、宗教的な意味での神を指しているのではないだろうか?という思いがあります。
田口氏の「注解」には、1913年パリでリルケが「神の返愛について」という講演をしていますが、その草稿のなかには以下のような「スピノザ」の「エチカ」からの引用があると記されています。
神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。
(「スピノザ」の「エチカ」より。)
ここで、生野訳が「身うごきもせず」であり、田口訳が「心動かすことなく」となっている理由も見えてきます。そして、神の無言の合図で泉の水を静かに飲むのは死者たちだけで、生きている者たちの耳に聴こえてくるのは騒音だけ。。。
そして、唐突に仔羊と鈴が登場します。なぜか?羊や牛は静かな鈴音のする首輪をつけてもらってからでないと、安らかに牧場へ出ていかないという、ある村の司祭の話が参考として提出されています。