ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

やすらい花  古井由吉

2015-02-02 22:01:30 | Book




これは「新潮」に掲載されていた8編の短編集です。
全体を通して共通していることは、「生」と「死」との境界線が
薄闇のように静かに常に在るということでした。


《やすみしほどに》
これは私小説に近い。自宅から近い病院に短い入院生活を3度ほど繰り返す。
その間に仕事を片づけ、「一人連句」をするという、
すこぶる年長者の精神的なゆとりが感じられる。
「死」は間近にせまっているのか?いや、まだのようだけれど。
その「死」を恐れる気配もない。


《生垣の女たち》
老人が一人住む家の離れに若い夫婦が住むようになって、
その夫婦は老人の死に立ち会うことになる。
このあたりから、この成り行きを観ているのは若夫婦の夫の眼となる。
縁者らしき老夫人、さらに遅れてまた女性が現われ、妻もふくめて
死者を送る女性たちが、その家の生垣に集う。
そこはまさに「生」と「死」に境界のようで、夜の闇のようで、
人々の暮らしの中に静かに佇んでいる。


ここを読んでから「生垣」という詩を書きました。


《朝の虹》
これは、身体の老化によって起こる脊髄の損傷による歩行困難のために、
49日間の手術入院を余儀なくされ、さらに身体を一時的に固定されたり……。
その老人の夢のなかに現われる友や、過去に出会った友の思い出(なのか?夢なのか?)
について書かれている。その友は若かったり、老いていたり。
老作家が「人間の老い」について書く時、こんなにも冷静なのか、と驚かされました。

一部引用
『年寄りは寝ている間に、魂が楽々と抜け出して、あっちこっちほっつきまわりやがる、
 からだのつなぎとめる力が弱ったもので、と昔、老人が言った。
 心配じゃありませんか、と私は冗談に乗ったつもりでたずねた。
 なぁに、俺の知ったことじゃない、寝ている間のことまで面倒を見切れるか、
 と老人はそっぽを向いた。
 しかしその、知ったことじゃないという俺は、何処にいることになるのですか、
 と若いので突っこんだ。
 はて、何処にいるか、それも知ったことじゃない、と老人は答えて、
 策麺が饅頭を喰っているところを、端から莫迦莫迦しいと憤慨して見ているようなものだ、
 とわけのわからぬことを言って笑い出した。』


《涼風》
若者が女性の部屋で朝を迎えて、そこからの帰宅途中に、
通りすがりの家の庭で老人が突然倒れたのを生垣越しに目撃した。
その生垣の家の女性に伝えたけれど、その2人の様子が奇妙に永い記憶となった。
「死」と「若い女性のあまやかな夏の風のような匂い」とが。
その40年後、老人となった過去の若者は、
やはり夏のベランダで汗ばむ肌をなでてゆく風にその「あまやかさ」を思い起こす。
ここにも「生垣」があった。


《瓦礫の陰に》《牛の眼》《掌中の針》は省略します。


《やすらい花》
「やすらい花」とは、鎮花祭で唄われる「夜須禮歌=やすらいうた」から。

はなさきたるや やすらいはなや
とみくさ(富草)のはなや~~~

富をもたらす花とは「稲の花」であり、豊穣を願う歌であり、
同時に秋の収穫までに、数々の災害がないように願う歌でもある。
さらに男女の契りの歌でもある。花は田植えする女の後に降りかかる。

中年になった妻子持ちの男が、老妻を亡くして一人になった父親との
同居から、話は始まる。この歌は老父の思い出のなかで唄われる。

また、老父には「杜鵑」の声にまつわる思い出話がある。
杜鵑が鳴き止み、川の音が静かになった時に、間もなく出水する。
しかし、かつての農村は、水が溢れて流れ出す先には家や田畑はなくて、
荒地だったと言う。
今、老父が身を寄せている、息子の住む土地では、
改修工事で気付いたことだが、水は暗渠から暗渠に流れていて、見えない。
その暗渠にせり出すように人間の暮らしがあるのだった。

老父のそばに毎晩寝るようになってから、息子は繰り返し父の話を聞く。
そうやって暮らしながら父は逝く。
中年の息子にたくさんの思い出話を残して。
息子が子供だった時に、何故だかしょっちゅう不在だった父だったが……。


古井由吉の著書に「辻」という幻想的な作品があるのだが、
この短編集のなかにも「辻」は何度も人間たちの前に表れた。


 (2010年3月25日 新潮社刊)