「わが愛の杉田久女」というサブタイトルのついた上下2巻の、久女の評伝です。大正のはじめに高浜虚子が女性の俳句普及のために「ホトトギス」に「台所雑詠」と名づけた女性専用の投稿欄を設け、この成果として、長谷川かな女(1887~1969)、阿部みどり女(1886~1980)中村汀女(1900~1988年)、星野立子(1903~1984)などのすぐれた女性俳人が登場しました。中でもとりわけ優れた才能を発揮し、俳句に新しい可能性をもたらしたのが「杉田久女(1890~1946)」でした。
「久女」は高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。1908年(明治41年)東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業。ここまでの教育を受けた子女は、殆ど社会的、経済的に恵まれた家に嫁ぎますが、そこでの嫁としての窮屈な生活があることに「久女」は精神的危機を感じていたのでしょう。
彼女が選んだ縁談の相手のなかから、1909年(明治42年)東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業して、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の卵の「杉田宇内・・・美丈夫だったとか。。」と決めて結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に住むことになります。小倉はその時期には「工業都市」としてめざましい経済発展をし、成り上がり的な裕福な資産家が多く、文化面では決して豊かな土地ではなかったようです。
目の下の煙都は冥し鯉幟 久女
それにくらべて教師の収入は少なく、贅沢に育った「久女」には辛いものがあったとは思いますが、それ以上に「宇内」の画家としての未来への希望に賭けたのでしょう。しかし・・・・・・(以下、引用です。)
「もっともっと貧しくてもよいから、意義ある芸術生活に浸りたい・・・・・・」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそういうのではないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて高揚感を味わい、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が正面の大手門から堂々と〈意義ある芸術世界に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!〉と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。(中略)
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を背負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみ苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱渡りのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きていけないような、限られた人間だけが、その道を〈選ばされて〉しまう。人為ではない。巨いなる超越者の手によって。
宇内にはその辺が見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている、宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開花したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。・・・・・・(引用おわり。)
・・・・・・現代においても、その共通語は熟していないのではないか?
主婦として母として「久女」が怠慢だったわけではないし、「宇内」は「久女」の料理をおおいに気にいっていた。家事の合間には随筆や小説なども書き、放蕩者の兄の「月蟾」(←月とひきがえる?)との同居は、意に染まぬものではあっても、彼から俳句の指導を受けたことが俳人「杉田久女」の出発点でした。「宇内」は狭い家での義兄の同居に対しては大変好意的でした。
* * *
お話は変わりますが「久女」は、ほぼ我が祖母と同年代です。祖母も裕福な家に生まれ「日本女子大学校=現・日本女子大学」を卒業し、「羽二重しか織らない。」というプライドの高い機屋に嫁いでいます。祖父は1人息子で音楽家になりたかった夢を捨てて、家業を継いだそうですが、そのための勉学に行った先は京都でしたが、下宿住いではなく、旅館住いだったそうです。
結婚してからも祖父は放蕩の限りをつくし、家業を潰しました。東京で新しくおこした事業は順調にいき、千葉に別荘を建てました。しかし関東大震災でなにもかも失くし、千葉の別荘に移転して、そこには縁ある被災者でいっぱいになったそうですが、贅沢に育った祖父母ではあっても、そういう苦労を厭わない人でした。これもあるいは高度な教育を受けた者のまことの姿勢ではないでしょうか?
祖父母は幼いわたくしにとっては、厳しいお行儀見習いで緊張させられた存在ではありましたが、虚弱だったわたくしを毎日夕方に散歩に連れていってくれたのは祖父でした。着物のたたみ方、四季折々の行事、料理、自然界への気付きなどを教えてくれたのは祖母でした。 いつもダンディーな祖父に比べて、祖母はいつでも質素な人でした。幼いわたくしの記憶が届く限りの祖父母は、庭つきの板塀のこじんまりとした家に住み、ご近所の方々から「ほとけのS家」と言われていました。そんな思い出を誘う本でした。祖母は短歌をたしなむ女性でした。ひらがなをやっと読める頃から「百人一首」で遊んでくれた人は祖父でした。何故か父母よりも祖父母の思い出が多いのですね。
俳人「杉田久女」の活躍はこれから始まるのですが、この先はまた改めて。。。
(2006年・第3刷・集英社文庫・上下巻)
「久女」は高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。1908年(明治41年)東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業。ここまでの教育を受けた子女は、殆ど社会的、経済的に恵まれた家に嫁ぎますが、そこでの嫁としての窮屈な生活があることに「久女」は精神的危機を感じていたのでしょう。
彼女が選んだ縁談の相手のなかから、1909年(明治42年)東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業して、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の卵の「杉田宇内・・・美丈夫だったとか。。」と決めて結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に住むことになります。小倉はその時期には「工業都市」としてめざましい経済発展をし、成り上がり的な裕福な資産家が多く、文化面では決して豊かな土地ではなかったようです。
目の下の煙都は冥し鯉幟 久女
それにくらべて教師の収入は少なく、贅沢に育った「久女」には辛いものがあったとは思いますが、それ以上に「宇内」の画家としての未来への希望に賭けたのでしょう。しかし・・・・・・(以下、引用です。)
「もっともっと貧しくてもよいから、意義ある芸術生活に浸りたい・・・・・・」
久女は眼に涙をためていう。宇内も、久女が虚栄からそういうのではないことはわかっている。しかしそのほうが、ほんとはずっと厄介なのだ。
ダイヤや着物や名誉が欲しい女なら対処のしようもあるが、感情の動揺しやすい、自然や人生に何かにつけて高揚感を味わい、また、どうかするとわけもなく憂鬱になる、そういう絶えず白熱した発光体を裡にもっているような女が正面の大手門から堂々と〈意義ある芸術世界に浸りたいのです。平凡と安逸だけを貪るよりも、あなた、さあ、いまからでもすぐ絵筆を持って!〉と攻めてくるのは、男にとってさぞ、やるせないことだったろうと思われる。(中略)
「貧しくても意義ある芸術生活」を送るべく神からその運命を背負わされた者は、花咲かぬまま地獄をかいまみ苦しみの末に悶死する、そんな運命が待ち受けているかもしれないのだ。そういう地獄と天国の綱渡りのような人生は、人に強いるべきことではないのだから困る。
何がなんでもその道を選ばなければ生きていけないような、限られた人間だけが、その道を〈選ばされて〉しまう。人為ではない。巨いなる超越者の手によって。
宇内にはその辺が見えていたにちがいない。
しかし彼はそのあたりの機微をことこまかに妻と話し合い、妻の思いこみを訂正し、芸術と実人生の相関関係について論じ合う、という手のかかることを避けている、宇内の怠慢という以上に、それまでの日本の夫婦に、話し合いの伝統なんかないのである。明治の文物は開花したようにみえるが、男と女の共通語が育つ土壌ではないのだ。・・・・・・(引用おわり。)
・・・・・・現代においても、その共通語は熟していないのではないか?
主婦として母として「久女」が怠慢だったわけではないし、「宇内」は「久女」の料理をおおいに気にいっていた。家事の合間には随筆や小説なども書き、放蕩者の兄の「月蟾」(←月とひきがえる?)との同居は、意に染まぬものではあっても、彼から俳句の指導を受けたことが俳人「杉田久女」の出発点でした。「宇内」は狭い家での義兄の同居に対しては大変好意的でした。
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お話は変わりますが「久女」は、ほぼ我が祖母と同年代です。祖母も裕福な家に生まれ「日本女子大学校=現・日本女子大学」を卒業し、「羽二重しか織らない。」というプライドの高い機屋に嫁いでいます。祖父は1人息子で音楽家になりたかった夢を捨てて、家業を継いだそうですが、そのための勉学に行った先は京都でしたが、下宿住いではなく、旅館住いだったそうです。
結婚してからも祖父は放蕩の限りをつくし、家業を潰しました。東京で新しくおこした事業は順調にいき、千葉に別荘を建てました。しかし関東大震災でなにもかも失くし、千葉の別荘に移転して、そこには縁ある被災者でいっぱいになったそうですが、贅沢に育った祖父母ではあっても、そういう苦労を厭わない人でした。これもあるいは高度な教育を受けた者のまことの姿勢ではないでしょうか?
祖父母は幼いわたくしにとっては、厳しいお行儀見習いで緊張させられた存在ではありましたが、虚弱だったわたくしを毎日夕方に散歩に連れていってくれたのは祖父でした。着物のたたみ方、四季折々の行事、料理、自然界への気付きなどを教えてくれたのは祖母でした。 いつもダンディーな祖父に比べて、祖母はいつでも質素な人でした。幼いわたくしの記憶が届く限りの祖父母は、庭つきの板塀のこじんまりとした家に住み、ご近所の方々から「ほとけのS家」と言われていました。そんな思い出を誘う本でした。祖母は短歌をたしなむ女性でした。ひらがなをやっと読める頃から「百人一首」で遊んでくれた人は祖父でした。何故か父母よりも祖父母の思い出が多いのですね。
俳人「杉田久女」の活躍はこれから始まるのですが、この先はまた改めて。。。
(2006年・第3刷・集英社文庫・上下巻)