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15日、「千葉市美術館」の開館15周年記念の特別展として、「千葉」にゆかりの深い日本画家「田中一村 新たなる全貌」を観てまいりました。
1908年(明治41年)、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
1913年(大正2年)、一家で東京へ。
一村は若くして南画(水墨画)に才能を発揮し、7歳の時には児童画展で受賞(文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を描く。
「大正15年版全国美術家名鑑」には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
1926年(大正15年)、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。
南画を描いて一家の生計を立てる。
1938年(昭和13年)、祖母、姉、妹とともに千葉市に転居。ここで20年を過ごす。
1947年(昭和22年)、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。
その後、「日展」や「院展」などで落選が続き、中央画壇への絶望を深める。
1955年(昭和30年)、西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。
1958年(昭和33年)、50歳の時、単身奄美大島の名瀬市に移住。
移住してからの1年間は「国立療養所・奄美和光園」官舎に間借りしていました。「和光園」とは「ハンセン病療養所」です。
ここでは、和光会発行の「和光」という雑誌(おそらく同人誌か?)の表紙絵を描いたり、同園入所者や職員の家族の古い写真をもとにして、みごとな肖像画をたくさん描いています。
家族と離れて療養所に暮らす方々に大変喜ばれました。
1959年(昭和34年)名瀬市有屋の借家に転居。
大島紬の染色工で生計を立てながら絵を描き続ける。作品の多くはお世話になった方々への返礼として描かれたものでした。
農作業風景や海、熱帯のさまざまな植物や鳥、蝶など。この奄美での生活のなかで一村はようやく独自の画風を確立したように思う。
奄美以前の画風には、不安定な波があって、迷いが見られます。
また、生活のために、注文で描いた襖絵や天井画などに見事な作品を残しているということもあったのですが。
生涯家庭を持たず、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
「千葉市美術館」における展示作品は約250点。
それにしても、奄美時代に描かれた独自の作品群は見事だとしか言いようがありません。
圧倒的な奄美の自然の力に対して、一村は静かに(あるいは死までも心の底に据えて…)向き合っています。
過去の作品とは違い、日本画を超える日本画となっています。
1977年(昭和52年)、逝去。墓所は栃木市の満福寺。
没後100年を契機として、一村の生涯と作品の調査にあたったのが「千葉市美術館」ということです。
これは一村の研究についての充実した基盤となったわけです。
昔の展覧会の画集を持っているのですが、上の絵は初めてのような気がします。
おそらく生誕100年を機に、絵画収集や研究が進んだものと思われます。奄美での作品には圧倒されました。蕃さんにはなつかしい風景かしら?
千葉駅下車。歩いて15分です。