ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・19

2010-02-12 23:08:04 | Poem
黄金はどこかの甘やかす銀行に住んでいて、
幾千の者たちとなれ親しんでいる。だが、
あの盲目の男、あの乞食は、十ペニヒ銅貨にとってさえ
さながらひとつの失われた場所、戸棚の下の埃っぽい片隅だ。

軒をつらねる商店で 金銭はいかにも居心地よさそうで、
もっともらしく絹に 石竹に そして毛皮に仮装している。
彼は、あの沈黙の男は、しかし立っている。
眠っても覚めても呼吸している すべての金銭の呼吸のあわいに。

おお 夜にはなんとそれは閉ざしたがるのだろう、この常に開いている手は。
朝には運命がそれを連れもどし そして日毎に
差し出すのだ、明るく みじめに 限りなく跪く。

けれどもだれかが、観ることのできる者が、ついにはその長い存続を
驚嘆しつつ理解し 讃めたたえるよう! 歌う人にのみ言いうる言葉で。
神にのみ聴き取れるように。

 (田口義弘訳)


どこかしら、甘やかす銀行に金(きん)は住んで、
幾千の人と忸(な)れなれしい。しかしあの
盲目の乞食は、銅の十円貨にとってさえ
見放された場所、箪笥の下の埃まみれの一隅にひとしい。

立ちならぶ商店の窓また窓で、銭(かね)はわが家のようにくつろぎ、
体裁ばかりはかがやかな絹、石竹(カーネーション)、毛皮をもって変装する。
そしてあの沈黙の男は、寝てもさめても喘いでいる忙(せわ)しい銭の
ふとした息のたえまに立っている。

おお、夜闇とともにどんなに閉じたいことか、この、いつも開かれている手は。
あすはまた運命がこの手をつれてゆき、そして日ごとに
さしのべさせる、明るく、みじめに、かぎりなく脆げに。

しかしだれかが、真に観る者が、ついにこの手の長い忍耐を
驚嘆をもって理解し、頌め讃えるとよい。ただうたう者にだけ言えることばで。
ただ神にだけ聞こえる言葉で。

 (生野幸吉訳)


 このソネットは貨幣経済世界のなかで、貧しき者が富める者になれるように、という願いのもとで書かれたものではない。平等に修正された世界ではなくて、すべてのものを持っておられるであろう神が、さまざまな変種的存在が絶えることのないようにと配慮しているのではないか?ということではないか?

 貧しき者と富める者の尺度は、貨幣によって測られるものではなくて、リルケはもっと別の純粋な尺度で測ろうとしたのだろう。

 貨幣経済の人間の喘ぎの合間にあって、いつでも静かに開かれている盲目の乞食の手は、夜の闇のなかで静かに閉じることを願っていながら、朝になれば、また開いて差し出し、跪いているのだった。この静かな乞食の姿は「歌う人にのみ言いうる言葉で」(←これはオルフォイスに託された?)「神にのみ聴き取れるように。」届けられるのだろうか?

チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展

2010-02-11 22:52:22 | Art
           

 2月10日、両国の「江戸東京博物館」にて、観てまいりました。モンゴルには以前旅行したことがありますので、記憶との遭遇(?)を楽しみつつ観ましたが、ただしこれは、中国の内モンゴル自治区にある「内モンゴル自治区博物館」所蔵のものでして、モンゴルのものではないのです。モンゴルにもたしかに「博物館」はありました。「王座」やもろもろの歴史的な品々を観た記憶はあります。しかし、このように所蔵できる国力は最終的には中国になるのでしょうね。

 広大なモンゴルと中国、そしてベトナム、ロシア、イラン、イラクまで及んだ遊牧民族の勢力は政権交代を繰り返しながら、その度に地図は描き変えられたということですね。そしてその勢力の頂点の時代が「チンギス・ハーン」ということになるのでしょう。詳細は「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」のオフィシャル・サイトをご覧ください。

 
 遊牧民族の最高権力者となったとしても、彼等は城を建てるわけでもなく、財宝や戦利品などを所蔵する大きな建物も造ることはありません。仏像をおさめる大きな寺院も必要ではなかったのです。所蔵品を観ながら改めて「遊牧民」の歴史の実態がわかる思いがいたします。

 常に移動する遊牧民は、携帯できるもの、組み立てと移動が可能なものがまず必要です。薬や手術用の器具を入れるもの、草原で食事できる道具や食器、乳樽、短剣や武具を携帯するための帯、それから「仏像」はとても小さなものでした。これも移動のためでしょう。

 さらに冠飾り、豪華な刺繍を施した絹の衣装、玉石(これらはおそらく身分の高い人だけが着用したものでしょう。)・・・・・・これらの「金」「絹」「宝石」などは草原の民には手に入らないものですから、交易も盛んであったでしょうし、あるいは戦利品か献上品でしょう。
 しかしながら、ここに展示されたものはすべて身分の高い者の所蔵品であることです。普通の遊牧の民の実態はここには見えません。


 *     *    *

 《おまけのお話》

 「江戸東京博物館」は両国にあります。「国技館」はすぐそばです。博物館を出てから両国駅前まで来たら「フジテレビです。インタビューにお答えねがえませんか?」と若者がマイクを突きつけてきました。ははぁーん。。。

 モンゴル出身の問題児「朝青龍」へのご意見を、ということはすぐにわかりました。「お断りいたします。」とすぐに逃げましたが、後で考えてみたら「朝青龍って、やんちゃ坊主みたいで可愛いわ。大好きよ。」と言ってやればよかったなぁ。惜しいことをした。しかし顔がテレビに映るのはごめんだなぁ。「Ⅴサイン」でカメラ顔するのはおバカだしね♪

 総武線で、両国から亀戸に移動。亀戸天神で梅を観ました。それから「おりこうさんになりますように。」とおいのりしました。



東風吹かばにおいおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ   菅原道真

私の言葉はどこから来てどこへいくのか

2010-02-09 21:56:36 | Event
 ・・・・・・というタイトルの詩のイヴェントに、出掛けてきました。(2月6日)

 主催は「首都大学東京現代詩センター」ですが、これは「首都大学東京表象言語論分野」という学部に創設されたセンターのようです。中心となっていらっしゃるのは、詩人であり映画監督でもある「福間健二教授・英文学」と、詩人(・・・以外のことはわたくしの情報にはありません。あしからず。)の「瀬尾育生教授・ドイツ文学」のお2人です。それから「詩論」を書かれる詩人でもいらっしゃいますが、こういう方をどういう言葉(評論家?)でご紹介すればいいのか?わかりません。ともかくも福間さんからのお知らせで、遠い南大沢まで旅に出ました。この小さな旅は大きな収穫がありました。

《プログラム》

1:講演
北川透:〈他者〉に向き合う批評――いま、詩論とは何か
藤井貞和:詩を読む、詩に読まれる

2:トークセッション  きょう、詩について思うこと
北川透 藤井貞和 瀬尾育生 (司会)福間健二

3:パフォーマンス〈詩の歩行〉
すみませぬ。これはキャンパス内歩行だったのですが、あんまり寒いので、ここはパスしてコーヒーショップに逃げ込んでいました。同罪者と共に(^^)。


  *     *     *

 まずは、北川透氏の講演について。レジュメの冒頭には「私的メモ・いま、詩論とは何かを語る、あるいは語らないための・・・・・・」と書かれていました。

 活字のなかでの北川透氏(1935年生まれ )しか存じ上げていませんでしたので、講演でお顔をみるのは初めてのことでした。しかししかし・・・1番ショックだったのは75歳の北川氏が、講演の冒頭で「身の引き方」についてお話なさったことでした。まだ決定的なことではないというお言葉に少しだけ、わたくしに時間の猶予を頂いたような気持がしましたが。。。

 そこからお話は子供時代に遡り、農家の少年が新制高校入学後、初めて級友たちから「文学」を知り、そこが北川氏の詩人、文芸評論家としての出発でした。この世界に入りますと、家族との日常生活の会話が困難になります。そこに苦しんだ北川少年の姿が浮き彫りにされました。

 それから、北川氏の世代の青春期は60年代と重なります。この時代をどのように捉えるか?ということに長い時間を費やしたとのことでした。時代に誠実に生きようとすれば、この苦しみを背負わなくてはならなかったことでしょう。

 さらに講演の要素は「詩の領域においての戦争・戦後責任」「戦後詩の党派的な空間とその変容」「戦前、戦後の反詩学としての詩の原理論の生成」「詩史という抑圧装置と詩史論(=絶えざる読み直し)の戦い」「〈他者〉創出としての詩人論の生成」と続きましたが、時間の関係で詳しくお聞きすることはできませんでしたが・・・・・・。

 帰宅してからすぐに、北川氏の「詩的レトリック入門」を我が書棚から捜しました。中途半端に読んだままだったことに、ひどく慌てたわたくしでした。


  *     *     *


 次の講演は藤井貞和氏(1942年生まれ )です。藤井氏は詩人であり、日本文学者です。日本の古典文学の「連歌」と、行変えの現代詩のもっている要素が大変よく似ているという発想が興味深いものでした。何故、詩は行変えをするのか?鮎川信夫の詩「兵士の歌」を例にして・・・・・・

獲りいれがすむと
世界はなんと曠野に似てくることか
あちらから昇り むこうに沈む
無力な太陽のことばで ぼくにはわかるのだ (以下略)

「獲りいれ」「曠野」「太陽」をそれぞれ対等にするためだそうです。ああ、そうなんだ!と簡単に納得できるものではありませんが、興味深い視点です。「近代詩」「定型詩」から「言文一致詩」「口語自由詩」などの詩の変遷の底流となっているものはなんだったのか?と考えますと、案外そこには古典の流れが脈々とあるような幻想に襲われます。

 もう一つ、触れなければならないのは、1991年、湾岸戦争の時に発行された詩誌『鳩よ!』の戦争詩特集を批判した瀬尾育生氏(1948年生まれ) と論争をおこなったことです。わたくしはこの特集のことは知っていましたが、論争については内容を把握しておりませんので、何も言いません。しかし、この日そのお2人が紳士的に「トークセッション」をなさったことで、なにかが静かに変わりつつ、動いているのだと思いました。


  *     *     *


 福間健二氏(1949年生まれ←1番お若い詩人です。)の司会進行による、北川氏、藤井氏、瀬尾氏のトークセッションは、非常に均衡のとれたものとなりました。福間氏はあくまでもご自分を出さずに3人のトークの流れを作って下さったように思います。その司会ぶりは、3人の詩人とその詩論を知りぬいているからこそのことだと思います。

 このトークセッションも、「戦争と戦後」「60年代」「湾岸戦争」が話題の中心となっていました。ここで興味深かったのは、瀬尾氏の発言でした。「敗戦時に何歳だったのか?ということが、その後の詩人たちの戦争詩や戦後詩に対する考え方が段階的に変化する。」もちろん瀬尾氏と福間氏は生まれていません。藤井氏は3歳、北川氏が10歳、幼少期の記憶としてかろうじて記憶なさっているのは北川氏だけですね。

 それから、瀬尾氏は「たとえその時代に生まれていなかったとしても、人間の生まれる前の記憶というものは10年前くらいまでは作られるもの。」というご意見には、はっとするものがありました。

 以下は私流解釈ながら、幼少期とそれ以前の記憶というものは、自分だけの記憶で構成されたものではないのですね。父母や祖父母あるいは血縁者の語りのなかに記憶は創造されるものと思ってもいいのかもしれませんね。だからこそ「戦争」は語り継がなければならないのです。

 「戦争」は「自然災害」とは異質なものです。どちらも多くの犠牲者が出るものですが、「戦争」は「人が人を殺すこと。」なのです。「思想統制」なのです。「侵略」なのです。「原水爆」なのです。

 時間切れとなって、4人の詩人たちが、若い詩人たちへの提言をすることはできませんでした。しかしそれはそれでいいのではないでしょうか?時代はいつでも流れてゆきます。人間はいつか高齢を迎え「死」を迎えます。そして100年後に読まれ続けるであろう「リルケ」や「ヴァレリー」「シュペルヴィエル」のような詩は、どこにあるのかわかりません。

オルフォイスへのソネット第二部・18

2010-02-07 23:53:54 | Poem
踊り子よ――おお おまえは 過ぎ去るすべてを
進行に転置するもの、なんとおまえはそれを奉献したことだろう。
そしてあの最後の旋回、運動からなる樹木、
それは昂揚しつつ果たされた一年を すっかり自分のうちに収めはしなかったか?

その静寂の梢は おまえのそれまでの振動の波がいまやそのまわりをめぐるよう、
ふと花咲いたのではなかったか? そしてその静寂の上方で、
それは太陽ではなかったか、夏ではなかったか、そこにただよう熱、
おまえの内部からあふれる無量の熱は?

だがそれは実を結んだのだ、おまえの陶酔の樹は。
あれらがその樹の静かな結実ではないのか――熟れながら
縞の模様を帯びていったあの水差しと、またそれよりも熟したあの花瓶とは?

そしてその絵のなかに――残ったのではないか、
おまえの眉の暗い弧がすばやく
みずからの転回の壁に描いた線が?

 (田口義弘訳)


踊り子よ、過ぎゆくすべてを
足どりに転位するものよ。ああ、犠(にえ)に捧げるような身ぶりで。
そして終止の旋回、運動からできた樹。
この樹は振動によって得た一年をそっくり持ちはしなかったか?

おまえの振動が、なおも恍惚と取りまくのは、
静寂の梢が、にわかに花開くためではなかったか?そしてそのしずけさの
真上にかかる太陽は、夏は、おまえの身内からのぼる
無量の熱ではなかったか?

しかもこの樹は実さえ結んだ、おまえの恍惚の樹は果実をつけた。
あれはこの樹にみのったおだやかな実ではないだろうか、豊かに熟れながら
縞を引かれた水差しや、さらに熟れさらに多くの輪をもつ花瓶は?

そしてそれらの壷絵のなかに、おまえの眉の黒い走りが
みずからの転回の壁にすばやく描いた
素描がのこってはいないだろうか?

 (生野幸吉訳)


 さてさて、なんともこのソネットは、お2人の翻訳を並べてみても、「比喩」ではなくて「飛喩?」の連続ですねぇ。これらの根幹をなしているものは「舞踏」であり、それを取りまく空間世界の変化を書いているのでせう。

 「舞踏」におけるクライマックスは「旋回」です。それが「樹」に喩えられています。踊り子の「旋回」が止まっても、その「振動」と「熱」によって、、梢の花が開く。そして実が。。。季節はまさに夏となり、その熱さえも踊り子のからだから立ちのぼるものだったのでした。


縞の模様を帯びていったあの水差しと、またそれよりも熟したあの花瓶とは?

縞を引かれた水差しや、さらに熟れさらに多くの輪をもつ花瓶は?



 そこから何故「水差し」や「花瓶」に結びついてゆくのか?「熟れる」は「ひだ(線)をつける」「たがをゆるめる」との両方の意味がかかっているとのことです。そして次には「絵画」の素描らしきものが描かれる・・・・・・。ここでリルケに思い出された絵画や彫刻があるのではないか?


  *    *    *


 1870年代、古代ギリシアのボイオティア地方にあった都市国家タナグラの街道沿いの墓所から、何千体ものテラコッタの小像が発見されました。それまで、人々の関心を引くことがなかった類似する様式のギリシアの小像も、この地名にちなみ、タナグラから出土したものでなくても、一般的に「タナグラ」と呼ばれるようになります。タナグラは19世紀末のパリを熱狂させ、多くの芸術家のインスピレーションの源ともなりました。そのうちの1点がこの画像の「ティトゥーの踊り子」です。リルケの詩集「新詩集・1907~08」のなかにはこのような詩が書かれています。


タナグラ人形   リルケ(富士川英郎訳)

偉大な太陽に焼かれでもしたような
ささやかな素焼きの土人形
それはまるで ひとりの
少女(おとめ)の手のしぐさが
ふいに永遠のものになったかのようだ
何をつかもうとするのでもなく
彼女の感情のなかからぬけだして
何かに向かってさしのべられているのでもない
下顎に触れようとする手のように
それはただ自分自身にふれているばかり

私たちは人形の一つひとつ
取り上げては 廻してみる
私たちはほとんど理解することができるのだ
なぜこれらの人形が消え失せていかないかを――
けれども私たちはただ
一層深く 一層すばらしく
「消え去ったもの」に愛着をもち
そして微笑しなければならない たぶん
去年より少しばかり明るい微笑を


 *    *    *


「オルフォイスへのソネット第二部・17」が、ポール・ヴァレリー「樹についての対話」の影響を大きく受けているように、この「18」は同じくポール・ヴァレリーの「魂と舞踏」の影響を受けています。

オルフォイスへのソネット第二部・17

2010-02-03 16:13:57 | Poem
どこに つねに歓び深く水流されているどんな園々で、
どんな樹々に、どんな優しく花びらの散り落ちた蕚から
実るのだろうか 慰めの見なれぬ形の果実らは?これらの珍らかな果実の
そのひとつを 時としておまえの貧しさの

踏みにじられた草地に見いだすだろう。そのたびに
おまえは感嘆する、その果実の大きさ、
その無傷なありさま、その果皮の柔らかさに、
そして鳥の粗忽も 這い虫の妬みもおまえに先んじてそれに

触れていることに。しかしいったい存在するのだろうか、飛びかう天使らに囲まれ、
隠れた緩慢な庭師らによっていかにも不思議にはぐくまれ、
私たちのものになることなく 私たちのために実を結ぶ樹々は?

私たちはついぞできなかったのだろうか、影であり翳りである私たちには、
私たちの性急に熟しそしてまた萎える振舞いによって
あの悠揚な夏々の平静を乱したりすることは?

 (田口義弘訳)


どこに 常住幸福の水の流れるどの園に、どの
樹々に、やさしく花びらを落としたどんな蕚に、
なぐさめの、異形の果物はみのるのだろう?この
うましい実の一つを、君の貧困の踏みにじられた草地に、

君もたぶんは拾うだろう。みつけるたびに
君はこの実の大きさや、無傷のさまや、
果皮の柔らかさに感嘆し、
鳥の気まぐれも、根を匍(は)う虫のねたみも、

君に先んじてこの実を痛めなかったことにおどろく。飛天使たちにとりかこまれ、
姿をみせぬ、悠々たる庭師らに、こうも珍かに育てられ、
わたしたちのものではないのに、わたしたちを担いうる樹が、ほんとうに在るものなのか?

影めいた、雛形めいたわたしたちは、ときならず早熟し、
また萎えはてる挙措によって、
あの沈着な夏々の平静を、阻害することはなかっただろうか?

 (生野幸吉訳)


 「どこに」「どんな園々で」「どんな樹々に」「実るのだろうか」という問いかけではじまるが、リルケは答えを出してはいない。むしろ、その問いかけのなかで、「無傷な果実」の在り処がおのずからあらわれる、という構造になっているのではないか?これはあきらかに「詩」の成しうる仕事ではないか?

 このソネットの背景は「なぐさめ」ではないだろうか?その「なぐさめ」は夢想される果樹園ではなく、踏みにじられた草地に見いだすのであろうか?

 その果樹園において、鳥や虫そして人間の触れることのできないところ、飛び交う天使に囲まれ、不思議な庭師(おそらく神であろう。)によって育まれて、実を結ぶその樹々を、見出すことはできないだろう。

 夏の平静のなかにいてすら、人間は早急に熟し、萎える存在であり、影を持つ存在であるかぎり、その果樹園に辿りつくことはできない。このソネットは、ソネット集中で最も長いセンテンスとなっています。

オルフォイスへのソネット第二部・16

2010-02-01 21:56:41 | Poem
くりかえしわたしたちが掻き裂くのに、
それでもこの神は快癒する傷。
わたしたちは鋭い刃だ、知らずにはやまないから。
しかし神ははれやかで、世界に分かたれている。

純粋な、祓(きよ)められた捧げ物をすら
神はとらわれぬ終末に
身うごきもせず向かい立つほかに
受けとるすべを知らない。

この世の耳に聞かれた泉を
うつつに飲むのは死者だけだ、
神が無言で合図をおくるとき。

わたしたちに与えられるものは騒音ばかり。
しかし仔羊はその鈴を
もっと静かな本能によって乞い受ける。

 (生野幸吉訳)


くり返し私たちに切り裂かれつつ、
あの神は治癒する場所。
私たちは鋭い切っ先、知ろうと私たちが欲するゆえに。
だが彼ははれやかであって、分かたれている。

純粋な聖められた捧げものさえ、
彼はその世界のなかへ受け容れる、
いつもその奉献の自由な先端に
心動かすことなくあい対して。

ただ死者だけが飲むのだ、
私たちはその音しか聴こえない泉の水を、
神が無言で、彼に、死者に合図するとき。

私たちに与えられるものは騒音ばかり。
そして仔羊が鈴を乞い受けるのは
より静かなその本能によることだ。

 (田口義弘訳)


 「第一部・26」の最後の2行をふたたび思い出してみよう。


敵意がついにあなたを引き裂いて 遍在させたからこそ、
私たちはいま 聴く者であり、自然のひとつの口なのだ。



 オルフォイスはマイナデス達の嫉妬によって引き裂かれて、遍在させられてしまったけれど、それ故にこそオルフォイスはどこにいても歌う神として存在し続けることになった。「治癒(快癒)する場所」とはそういう意味であろう。
 それに対して、私たち人間は「知りたい。」という要求の鋭い切っ先にすぎないのだろう。「第一の悲歌」にはこう記されています。


生きている者はみな
あまりにもきびしく生と死を区別する



 前記の意味によって、第1節の「神」は神話としての「オルフォイス」だが、第2節&第3節の「神」は、宗教的な意味での神を指しているのではないだろうか?という思いがあります。

 田口氏の「注解」には、1913年パリでリルケが「神の返愛について」という講演をしていますが、その草稿のなかには以下のような「スピノザ」の「エチカ」からの引用があると記されています。


 神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。
  (「スピノザ」の「エチカ」より。)



 ここで、生野訳が「身うごきもせず」であり、田口訳が「心動かすことなく」となっている理由も見えてきます。そして、神の無言の合図で泉の水を静かに飲むのは死者たちだけで、生きている者たちの耳に聴こえてくるのは騒音だけ。。。


 そして、唐突に仔羊と鈴が登場します。なぜか?羊や牛は静かな鈴音のする首輪をつけてもらってからでないと、安らかに牧場へ出ていかないという、ある村の司祭の話が参考として提出されています。