エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「非暴力的な心構え」の先駆け

2013-07-15 05:04:02 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ゲーム(2グループの分かれて遊ぶ遊び)には勝ち負けがつきものですが、その遊びをしながら、子どもは知らず知らずのうちに「権力モデル」、すなわち、どうすれば、人の心を支配できるか、を学習している、そんなことは、日頃考えもしなかったことではないでしょうか?私自身、まったく思いつきもしないことでした。

 今日も実に思いがけないことが話題になります。すなわち、人間的な「非暴力的な心構え」の先駆けとしての、動物の本能的行動、についてです。

 

 

 

 

 一番無邪気な元気のよさ(僕のことを噛み付くなら、僕も噛み付くよ、でも、僕をあまり傷つけることがなければ、僕もあんまり傷つけたりしないよ)から、子ども達のゲームの伝統的なシナリオまで、さらには、はるか国際的なスポーツ競技場に至るまで、遊ぶ人(プレイヤー)全ては、作戦で必要な位置取りを割り当てられますその作戦に必要な位置取りは、不思議な「ゲームのルール」が支配する一つの競技場を横切る、イメージの中の境界線、あるいは、実際にある境界線の、こっち側に立つのか、それとも、あっち側に立つのか、ということです。ここでもまた、陽気で楽しい、が、スポーツで正々堂々と戦う心構えへと、一人の人の中で、発達することによって、人類の中に、非暴力的な心構えとしか呼びえないことを鍛えることができるのです。この非暴力的な心構えは、高等動物がするゲームの中にすでに本能的に与えられています。実際それは、「戦争と等価交換できるもの」なのです。

 この一人の人の生育歴上で起きたこと(個体発生)において、人類の進化の歴史の中(系統発生)で対応するものは、何なのか? グレゴリー・ベイトソンは動物のやり取りを、『これこそ、遊び』という題で描いています。このタイトルの意味は、動物たちは本能的にお互いに合図を出すことに余念がないのは、偽の敵対行動が遊びへのお誘いとして受け取ってほしいなのだ、ということです。アイブル・アイベスフェルトが報告しているところによれば動物たちの陽気で楽しい行動の中には、進化の歴史から考えればお互いに排除しても仕方がない、本能に組み込まれた行動に、さもなければ別々に属している行動パターン(たとえば、狩り、闘い、交尾)さえ、隣同士で特別な結びつきがあるように思われます。それも、捕まえたり、殺したり、あるいは、交尾する行動では完結しないものなのです。

 

 

 

 

 動物の陽気で楽しい行動の中には、お互いを排除しても仕方がないはずの本能的行動でも、隣同士特別な結びつきがあるように思える行動がある。このことも不思議ですが、エリクソンは、闘いや殺し合いやパートナーの奪い合いになることを避ける行動も、高等動物に本能的に備わっている、と言いたげではないでしょうか? すなわち、この、押しなべて争いを避ける行動が、高等動物の本能的行動だ、とエリクソンは主張しているのです。重ねて、エリクソンは言います。この動物にある争いを避ける本能的行動こそ、人間にしかない、非暴力的な心構のひな形、先駆け である、と。

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