エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日常生活の中にある礼拝 : 陽気で楽しい と真面目さを結びつける不思議

2013-07-22 02:18:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 人間の本能は、動物の本能とは異なり、非常に柔軟で、あいまいであることが特徴のようです。やり取りの中で、その非常に柔軟で、あいまいな、人を駆り立てる力が働いて、創造的にイメージを巡らすことによって、人は、お互い様、「その人ならでは」の持ち味、自分を確かにする道を必然的に結びつける、というのは、実に不思議なことです。

 今日は、この人間特有の柔軟で曖昧な駆り立てる力が働く場、創造的にイメージを巡らすことができる場でもある、日常生活の儀式化について、です。

 

 

 

 

 私どもは、青年期に戻りましょう。それから、礼拝に戻りましょう。しかしながら、これから申し上げる部分では、特別な儀式と儀式の中の行為と、他方で、日常生活の中にある礼拝、という習慣とを区別したいと思います。この日常生活の中にある礼拝は、人間の陽気で楽しい をまず形あるものとしてから、その形を整えた陽気で楽しい独特の真面目と繋げていくものです。ここまで述べてきた中、「儀式」と「礼拝」という言葉は、別々の場で、別々のことを表していますし、その言葉の含みの最高から最悪まで表しています、と私は特に申し上げておこうと思います。精神病理学では、一人の人がする「手を洗う儀式」について語る時、私どもが何を申し上げたいかといえば、その人は、一人苦しい思いをしながら、両手をごしごし洗うのですが、両手がヒリヒリ痛むまで洗っても、本人は手がきれいになったと少しも感じない、ということです。しかし、これは、礼拝という言葉の人類学的な意味とは、全く矛盾します。この人類学的意味で、「礼拝」という言葉に、深い全会一致、裏付けのある礼拝の形式、それから時間と関係のない性質を割り当てます。この時間と関係のない性質から、全ての参加者は、恐れ多い感じ自分か清められていく感じが心に湧き上がってくるのです

 

 

 

 

 日常生活の中にある礼拝は、陽気で楽しい と独特の真面目さ を結びつけた習慣である、ということは、心理的支援をする際に、繰り返し、必ず、立ち戻らなければならない視点です。日常生活の中で礼拝をしていくためには、したがって、必ず、陽気で楽しいことと、独特の真面目さがなければならない、ということになります。

 他方、「手を洗う儀式」のように、強迫神経症の人が示すような儀式もまた、存在します。

 日常生活の中にある礼拝と、強迫神経症の人が示すような儀式は、どこがどのように異なるのでしょうか?

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