フリ(仕事)が、役割を果たすことや創造的に演じることにもなり、他方で、自分も他人も、だましたり、誤魔化したりすることにもなる、というエリクソンの主張も、実に鮮やかだと思います。また、アイデンティティ形成とも関連していて、フリ(仕事)が、包括的に一つの人類を信頼する方向に働けば、いっそう包括的なアイデンティティ形成(いっそう包括的な自分を確かにする道)に進んでいけますし、逆に、フリ(仕事)が、「人間を上下2つに分けるウソ」を信じる方に働けば、アイデンティティは分裂して、「誉められれば、天にも上り、けなされれば、地に落ちる」という気分を毎日味わう こととなります。
今日は、日本人には非常になじみ深い、「内輪」と「よそ者」のお話です。
それで、「人を上下2つに分けるウソ」によって、自分自身の「仲間」と他人の「仲間たち」の間にある、取り消すことができない違う感じを、私どもは表しています。この感じは、それ自身、人間集団にある大きな違いに発展する仲間入りすることがあります。あるいは、実際には、比較的小さな違いや、最も些細な違いに発展する仲間入りをすることもありますが、その些細な違いも大きく見えるようになってくるのです。人間の「内輪」の忠誠という形であれば、種族でも民族でも、信条や階級やイデオロギーでも、特別なエリート意識(自分は選ばれているという特別な感じ)は、市民の人権、勇気、職業人としての技量において、高い業績を上げることに貢献できるものですし、以前は敵であった存在も、新しい忠誠心(ローマ市民、キリストの愛)の中に結びつけることもできます。 「よそ者」に対する新たな憎悪という形になると、逆に、その憎悪は、多様な形を取って現れるかもしれません。それが、殺してしまいたいほどの憎しみであることもあれば、対人恐怖のために人を避けるという場合もあります。あるいは、ひどく排他的になることだってあります。このような偏見によって、人は、どんな野獣よりも残忍になる かもしれません。あるいは、戦争がないときには、このような偏見によって、人は、合意を得た手順に従って、どっちが正しい(ヴィジョンな)のか? あるいは、どっちが間違っている(ヴィジョン)のか? 優劣をお互いに争うことになるかもしれません。最も大事なのは、「人間を上下2つに分けるウソ」が名残でもあると、歴史状況が、どっちの形(「内輪」の忠誠という形でも、 「よそ者」に対する新たな憎悪の形でも)でも、急にガラッと変わってしまう、ということです。他方、その間は、今まで描いてきました日常生活の儀式化は、自分の仲間内で認められている人たちにとって、何が適切で、何が必要不可欠なのか?という強烈な感じに左右され続けます。
今日も、「人を上下2つに分けるウソ」が、いかに人の心と、社会の在り方を蝕むものであるかが、如実に示されていると思います。「内輪」に対する忠誠という形であれば、エリート意識によって、人権等人間らしい暮らしのための必要不可欠なことが進歩する場合もあるし、敵であった人も仲間に入れる包容力が生まれることもある、といいます。逆に、「よそ者」に対する新たな憎悪となれば、
1)殺してしまいたい、と思うほどの憎悪
2)対人恐怖による引きこもり
3)ひどい排他性
ということになり、
4)戦争時には、どんな野獣よりも残忍になり、
5)戦争がないときには、どっちが正しいのか、優劣を争うようになる、
というのは、実に人間をよく観察し、ハッキリ人間の実体を掴んでいることだと思います。
「人を上下2つに分けるウソ」がいかに恐ろしい無意識の暴力をこの世に生み出す排せつ口につながっているかが、ハッキリ分かります。