エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #言葉

2019-01-03 07:48:31 | 聖書の言葉から

 

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から



人間は


言葉


を持っている生き物

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#自分を大切にする分だけ人も #自分のことが分からない時は人のことも

2019-01-03 07:37:18 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#脳がオフ #魂もオフ #子どもの頃が煉獄の辛さ #生き残り戦略
 インターメッツォ: ハッピー・ニューイヤー : 耳を澄ませて生きましょう    突き抜けた悦び という恵み   突き抜けた悦び  転移と逆転移の問題は、臨床の基本......
 

 

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.320,第3パラグラフ,7行目途中から。その前もご一緒に。



 セバーンは思い出を語ります,「リサが初めて私に会いに来たとき,秋だったわね。リサはぼんやりした眼で歩き回ってて,どこに行くにもカボチャを抱えてました。心ここにあらず,って感じ,取り付く島なしだと思いました」と。お話し療法は,リサには,無理でした。セバーンが,リサに気が重たくなるようなことを訊いても,リサは落ち込むか,パニックになりました。リサの話では,「子どものころにどんなことがあったのか,話そうとする度に,体が言うことを効かなくなるの。猫たちと一緒に起きても,情けなくて,食事ものどが通らないし,横になっても眠れません。」ということでしたね。
    リサは,いつどこにいてもありました。「私はいつでも怖がりでした。触られるのが,大嫌いでしたしね。いつもビクビクしていて,心配性でした。周りに人がいたら,目を瞑ることも出来なかったでしょう。目を開けた瞬間に,誰かに蹴飛ばされるかも,と思ってしまったんです。ですから,皆さん,不安になります。信頼出来ない人が部屋にいたら,皆さん、身体も気も休まれないでしょう。腕に触られたら,首を絞められた感じになります。」リサは,逃げ出すことが出来ないショックの中で,身動きができなかったんです。
     リサは,幼い頃に解離したことを思い出しましたけれど,思春期の後は,解離がもっと酷くなりました。「いろんな猫を追いかけ回すようになり,学校の人達はいろんな名前を私に付けるようになりました。決まった男友達が居なかったのは,解離している時には,別の男友達とデートして,しかも,それを覚えていなかったからでした。私は,眼を開けていても,目の前が真っ暗になって,綺麗で奇妙な様々な場面が見えたんです」。重たいトラウマを負わされた多くの人達と同様に,リサも鏡の中の自分が誰かも分かりませんでした。リサほど,生きている実感がズタズタにされたら,どうなるかを,ハッキリ言い当てた人は,今迄会った試しがありません。
リサが生きている実感を実感させてくれる人が誰もいませんでした。「私が16の時,重度の心の病で苦しんでいる青年達のためのグループホームに暮らしていた時,缶で深く自傷してしまいました。私は救急救命センターに運ばれましたが,何にも覚えていませんが。救急救命センターの医者は,解離性人格障害の人がいるのいうことは,全く認めませんでした。...精神衛生部門で働いていた人は,解離性人格障害の人なんて居ない,とじ ている人が多かったんです。『あなたは解離性人格障害ではないし,そもそも,解離性人格障害なんて人はいないんだよ』いう訳です」。

 退院して最初にリサがしたことは,薬を止めたことでしたね。「薬なんで誰にも効かないんだから。でもね,人によってはいい場合もあるわ。薬が必要な人もいるけど,私には合わなかったんだから。薬を止めて,ニューロフィードバックをする方が,はるかにマシよ」とリサは認めましたね。

 セバーンがリサをニューロフィードバックに招いた時,セバーンは何にも期待していませんでしたね。リサは,セバーンがニューロフィードバックをした患者で,解離がある患者の最初になりました。2人は週に2度面接して,右側頭葉の脳波が一定になってきまた。右側頭葉は,脳が恐怖を感じる中枢です。数週間後,リサは人が周りにいても自分はピリピリしてないなぁ,地下の選択部屋がもう怖くないなぁ,と気付いたんです。それで,大きな突破口になりましたね。リサは解離しなくなったんです。「私はいつでも頭の中で低い声で鼻歌を歌っていたんです。統合失調症になるのが怖かったんです。半年間ニューロフィードバックを受けてみて,頭の中の雑音が聞こえなくなりました。まとまったんだと思います。全てのことが一体になったんです」。

 リサは,自分が生きている実感が続くようになるにつれて,体験してきた様々なことを話せるようになりました。「ようやく自分からはなすことができるようになれました,子どもの頃に体験した様々なことも。初めて,セラピーを『する』ことができ始めました。それまでは,適当な距離を自分と保つことも出来まなければ,自分を落ち着かせることもできませんでした。みなさんも経験の渦中にいたら,自分の話しを話すなんで無理でしょ。私はセラピストと関わるために皆さんが心開くようにして,自分に触れて心開くようには,自分に触れることができなかったんです」とリサは言いました。これは,実に素晴らしい天啓でしたね。というのも,治療をいったん初めても,途中でやめてしまう人が,とても多いからなんですよ。それは,「渦中」のままですから,体験と意味のある関係を持つことができないからなんですよ。もちろん,いまここの自分がわからない時はどなたでも,周りの人たちの実感も分かるはずもありませんよね。

 

 

 生きている実感を取り戻すことこそ,発達トラウマ障害の人の限らず,実に素晴らしい天啓です。

 自分のことが分からない人は,人のこともわかりません。

 自分のことが分かる分だけ,人のことも分かるように,人間様は作られているからです。

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#5000年の歴史 #光と一心同体になる不思議 と #アイデンティティ

2019-01-03 07:14:43 | エリクソンの発達臨床心理
 
#大文字の希望 #驚きと感激 #人生を陽気で楽しく豊かにする別品
 聖書の言葉 : Θεραπεύω セラペウオー    けしからんことこの上なし の研究   突き抜けた悦び  転移と逆転移の問題は、臨床の基本です。 p236......
 

 Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』 第三部。p.123の,第2パラグラフから。その前もご一緒に。





壁に掛かった様々な夢




 私は拙著を,子どもの積み木遊びから始めて,遊びの理論を振り返り,私の最初の本でお示ししたことを改めるつもりがない,というところまで来ましたね。つまり,最初の本でお示ししたこととは,おもちゃの舞台で「陽気に楽しむ」ことは,枠付けされた「小宇宙」に,諍い合う様々な人を投影しがちな人の心をハッキリと映し出す唯一のひな型だ,ということです。諍い合う様々な人を投影することは,人生の一瞬を物語にするものです。子どもの遊びの中に,あの聖書の神様が創造するというヴィジョンがあることは,見れば分かります。あの聖書の神様が創造するというヴィジョンは,枠付けされた(訳注:自由で賢慮が働く)聖域も1つ,後で使うことになります。そこは「対等な関係の場」(対等な関係が外側に広まるのは,ますます陽気で楽しく,ますます晴れ晴れと,互いに分かり合うために,2人が一心同体になる聖書の神様の場が,広まることです)ですし,1つの舞台,あるいは,自分自身になる目的に向かう道で,自分が主人公であることを取り戻すための青写真です。自分自身になるのは,聖書の神様が一巡する命が展開する関係の中で,上手に自分ならではを育てることによって,実現するものです。しかし,私がまたここでキッパリと指摘しなくてはならない,人を落ち込ませる類の,恐れ,思い煩い,ガタガタいう震えは,些細なものでも,バカでっかいものでも,生きている実感を押し殺す時,心から自由になる希望が死ぬのが,目に見える敵,目に見えざる敵によって課せられた,悲しき自分の定めだと人は誤解してしまいます。しかし,私が申し上げてきたことは,敵を作らない場合でも,人は,自分がなる予定の新しい人になる自由がほしくて,勝手気ままをする余地を作る壁を作り出すために,敵をでっちあげるものだ,ということですね。

 自分が生きている実感を創造し育てる視点は,毎日刻々と礼拝することで,完成します。それは,この本の第2部でお披露目したとおりです。刻々と続く毎日礼拝は,最もささやかな私的なやり取りから,文化的行事で一体になることまで,さまざまです。すべては,「これが,私どもの見方ですし,話し方ですし,立ち居振る舞いです。それは《人間らしい心から優しいやり方》です」,となりますから。ヴィジョンの基盤となるのは 聖書の神様の命が一巡する場ですし,その聖書の神様の命が一巡する場は,細かいところまで真実なのに,同時に,とても良い創造の全体像とも,聖書の神様の御心にもビッタリと一致していますから,バラバラになった人間を,互いに大切にする関わりを始める中で1つの人類にします。
 このような聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることをお示ししょう。まずは,私にとって1番身近な事,すなわち,芸術と精神分析から,始めることにしましょう。聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることが分かれば,ヴィジョンという見通しを色々試してみる事を一緒に始めることが出来ます。最近,ヘルムート・ウォールがサンフランシスコの「視点」に論文を載せましたね。この論文の中で,ウォルフは,ルネッサンスの絵画の本質的な視点と,ルネッサンスの絵画の視点が広めたキリストの信頼を結び付けましたし,見透しもキリストの信頼も,人が希望を持ちたいと願う最深欲求とも,結び付けました。 

      「五感を総動員した感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様の様々な御心は、『うまくできてるね』,という視点で,お祈りにする雛形になります。そのヴィジョンは,聖書の神様を信頼する根源的信頼を繰り返し肯定してくれます。おそらく,聖書の神様の御心は,『うまくできてるね』,と見ることは,視点が繰り返しプレゼント出来る,『人と人をくっ付けて,力を合わせるようになりたい』と求める最深欲求に繋がる判断の物差しです。結局,感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様が創造する全体像が,たった1つの聖書の神様のご計画であるし,たった1つの,意味や価値を判断する物差しになります。聖書の神様が創造する全体像は,『うまくできてるね』という物の見方のおかげで,『なるほど本当だね』という実感が湧いて来ますから。」
      デ・ヤング美術館で,16世紀初期のフランドルの画家の手になるヴァン・ボーグの「受胎告知」を見ました。この絵は、描いた画家の名も分からないし,ウソとゴマカシのない一体感がある中で,人間が陽気で楽しく生きるヴィジョンが持つ,たくさんある根源的な要素を,いまここで,1つに纏めているのが分かりました。陽気に楽しく生きるヴィジョンは,眼で見たことから生まれ,最も不動な生き方を根源的に支える聖書の神様の心からの優しさを片時も忘れずに思い出すこと,まで,至ります。その「永遠の見通し」とは,天使ガブリエルから誕生を告げられた子が,子どもの頃が約束する,あの聖書の神様がまします場を,人間にいつも必ず分け与えて救い出す,「御子キリスト」になる,と見通すことなんです。それから,聖母マリアは,選ばれし母,になります。天使が今ここにいて,見守ってくれていることに気付いて,聖母マリアは,開いていた聖書を下に置きますが,学んでいた聖書のページ(聖書のページは,枠付けされた視野になりますね)は,「輝いてい」のが分かりますでしょ。この受胎告知の絵が示しているのは,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間という,聖書のテーマでしょう。光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間とは,モーセでしょ。古い約束をの知らせた預言者であったモーセが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったは,新しい約束を知らせる預言者になられた御子キリストが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったことと同じなんでしょうか? しかし,聖母マリアが陰になったのは,聖書の神様からの命令を携えたスピリットを眼の当たりにしているからですが,そのスピリットが伝えた言葉は,「お腹の子は,『聖書の神様の独り子キリスト』です。『新しい人』の守り手ですからね」ということです。それに,聖書の神様がまします場では,「聖なるスピリット(聖霊)」,すなわち,促し手は,キラキラと輝いている,その温もりが身に沁みてありがたい,一筋の光に乗って,下に置かれているように見えます。

 この受胎告知の舞台は,その前景の中では,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間といった聖書のテーマなどすべてが展開しますが,背景の中では,2つの場に開かれた2つのドアの枠がありますね。1つは,聖母マリアの背後にあって,マリヤのベッドがあからさまにされます。もう1つは,さらに2つの枠組みに私どもの目を誘います。




    人間は,光の前で跪いて座り,光の下に座り光を仰ぎ見る存在です。

 この光るスピリットに人が与るとき,人は光るスピリットと一心同体になりますが,光るスピリットである聖書の神様と一心同体になることを,エリクソンも,5000年の歴史に倣って,アイデンティティと呼びました

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#学びは独立自尊の人になるため #押しつけがましい教員はミスマッチ #年上の子どもから多くを学ぶ

2019-01-03 06:26:40 | エリクソンの発達臨床心理

 
#大文字の希望 #神の命の両輪の不思議 #全てを許す物差し #信頼しあう2人
 自分を「ゴミ」と呼ぶマリア    本当に私が生きてる、って感じる時は・・・   人を大事にすること ≠ 葛藤がないこと  「子どものため」と言ってやってること......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきて,かなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。



 Identity and the life cycle  『聖書の神様と一心同体になること と 聖書の神様の命が一巡すること』 p.87。 新しい節の第2パラグラフ,6行目途中から,です。


 いつも出来た,と言えるまで頑張ること 対 自分も人も貶めること

 

 

 最初の舞台は,人格は,「私は与えられた存在である」と確信したその確信を出来事にすることですし,第2の舞台は,「私は歓んでなろうとする存在である」と確信したことを出来事にすることですし,第3の舞台は,「私は,歓んでなろうとする存在をイメージしている存在である」と確信したその確信を出来事にすることだ,と人は言います。私どもは,第4の舞台,すなわち,「私は学んだ者である」と確信したその確信を出来事にするところに,歩みを進めなくてはなりません。第4の舞台の子どもが,ここで教えてもらいたいことは,大事なことを大切にする関わり方ですし,他人を大切にする関わり方です。

 このモノや人を大切にする関わり合いも,また,創造の初めから,始まっています。特に,聖書の神様の一人子,キリストの中から,モノや人を大切にする関わり合いは,始まっています。子どもたちは,物事がどのように成就するのか見てみたいし,物事を「出来た」と言えるようにしたいと願うものです。もしも,子ども達が恵みに与れば,裏庭や道で,気配りの利く人や意気盛んなたくさんの子ども達に囲まれますから,「試したらいい」と言ってくれる内的促しの中で,やれることや自分から関わる関わりが育ってくるにつれて,目覚めて試すことや,日常生活を礼拝にして聖書の神様がまします場を仲間と分かち合うこと,ができるようになります。しかし,いまは「言い伝えを学ぶ場に行く」時です。すべての文化において,この人生の舞台では,子ども達は,共に独立自尊の生き方ができるような学びを受けるものです。もっとも,学校のようなところに必ずしも行くわけじゃぁ,ありませんけれどね。学校というところは,読み書きそろばんができる人達が,読み書きそろばんの教え方を学んだ教員を中心に組織しなくてはならないとこですね。読み書きそろばんができていない人は,多くのことを学ばなくてはなりませんが,その学びを教える教員は,約束を大事にして関わるよりも,大声を出して関わることになりがちな人がなりますもんね。それに,本当に多くのことは,目上の子ども達から学びます。



 ここでも,エリクソンの鋭い視点が見逃せませんね。

 教員は,約束を大事にする人よりも,デカい声の人がなるもんだ,というのですから。この声のデカさはヴォリュームというよりも,その押しつけがましさをいうものです。

 独立自尊の人間になるためには,押しつけがましい教員は,ミスマッチです。

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