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#花咲くころ #不思議なスピリット #誓い と #境界線現世考: 脅迫国家ニッポンの野蛮 トラウマのセラピーでは、芸術(表現)療法の効果は絶大 受け身で自分を確かにする道 すべては、恵みなのかもわかりません......
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The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することが,できた』 p.95の,25行目途中から,です。その前のp.87の第2パラグラフの9行目途中からもご一緒に。
でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることが,あまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人でも3人でも,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,祈り(あるいは,約束)を共にする者だけが,それぞれの「生きている実感」を,1つの「共に生きている実感」に融合して,一心同体になることが出来ます。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。
「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」に従う心の習慣」)。
ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ちと心から平和な関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ちと心から平和な関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。生きている実感が,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。
3重になった生きている実感のある現実
エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします。
そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。その仲間は,自分の身近にいて,1人の「他者」として,人生の大切な時期に,「あの人のことね」,と分かる人もいれば,そのほとんどが,心の繋がりをなんとなく感じる人たちです。その仲間は,壁を作って私たちに反対しようとする場合でさえ,生きている実感を分かち合うことによって,ひとりびとりの生きている実感を確かにしたいと願っている人たちです。人間関係を心理的に見る視点があるからこそ,私が他の人に同調することを話すだけでは,実に不十分なわけです。といいますのは,あらゆる人間がピッタリとくっつくことは,諍いになりますから,私がピッタリとくっつくことを教えられる前に,すでにピッタリとくっつく様々な実験に夢中になり,一心同体になる体験を強烈に心に刻み付けてきているんですから。実際,フロイトさんが「リアリティ,すなわち,生きている実感」に相当するドイツ語は,Wirklichkeit(「うまく働く」ことと関係します)には,受け身の関わりを自ら始める意味と,働き掛け合う意味がありますから,ふつうは,「アクチァリティー,自ら関わる現実」と翻訳すべきですし,「互いに,自ら関わりを始める」意味に理解すべきだと,私は考えますね。
ですからね,生きている実感は,≪共に居る≫ということが,一杯ある,ということが,欠かせない,と言われます。≪共に居る≫ことができるのは全て,2人の心が自由にされる,2人がピッタリとくっつく場では,(訳注:目的も方法も知らない)動物の本能とは対照的に,心の中で聖書の神様が促す,唯一の内的促し次第ですから,その内的促しにしたがって,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりが,発達の間,その子どもの思い通りに手に入る,という(訳注:目的も方法も自覚した)「魂を貫き通す,聖書の神様が下さる一方的な約束」のおかげですし,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりは,人が輝き共に育つ際に,大人の人たちが,謙虚に子どもの下に立ち,子どもに夢中になること(洗礼に与ること)に,とても役立ちます。このようにしてもらうと,その子どもは,「人を自分のように大切にする」ようになる,と言われます。それはちょうど,自分が,名前を呼ばれ,大事にされ,気持ちを分かってもらったのにビッタリ同じように,人も大事にするようになることですし,聖書の神様の命が一巡する時,互いに大切にし合う生き方が,心の中に育まれるんですね。
生きている実感を育むためには,≪共に居る≫ことが欠かせない3次元について,様々な事実がある,人が育つ「出会い」という日常世界では,「関わり合う」ことが一番強調されます。なるべく,歪めたり,蔑ろにすることなく,なるべく,肯定して,「関わり合う」ことは受け止めるべきでしょう。それは知的発達の舞台でも,科学技術や化学の舞台でも,同じです。
「生きている実感」という言葉の2番目の隠されている意味は,「なるほどホントだね」と腑に落ちるほど,聖書の中で教えられていることが,「なるほどホントだね」と分かる2人が一心同体になることに体現して,聖書の話し言葉と出来事がピツタリと一致して「なるほどホントだね」と分かる習慣(大なり小なり,驚きますね)です。「なるほどホントだね」と分かることは,唯一の真実の価値ですから,1つの話し言葉と心響かせる大人に発達するイメージを掴んだ人全てが,「なるほどホントだね」と分かります。「腑に落ちる」(アインシュタインは「Begreiflichkeit ドイツ語で『腑に落ちる』」と言います)生きている実感のこの側面にピッタリした言葉でしょうね。もう1つの話し言葉は,もっと目に見える,「うまくできてる」です。というのも,「うまくできてる」は,様々な事実が見事に織り上げられているので,様々な事実が聖書の神様からのメッセージを示していると分かります。「関わり合う」,「なるほどホントだね」と腑に落ちる,「うまくできてる」,の3つの次元で生きている実感が,主たる発達の様々な舞台で,2人が響き合うようにし続ければ,その時だけ,心から自由にされた大人の人生の習慣(倫理)が間違いなく親から子に受け継がれます。この心から自由にされた大人の人生の習慣がありますと,たくさんの自由にされた仲間達は,それぞれの持ち味を最大限発揮して(訳注:,創造の心からの歓びに与り),生きることができます。
命が育つ視点として,生きている実感こそは,ですから(生きている実感が,そのものズバリに,「聖書の神様の命の通り道」と呼ばれるとしても),うまくすれば,森羅万象すべてを包み込む創造の源になりますから,生きている実感を生きる人は,人を不動にする場を選ぶことだけに,練達した意識を集中します。人を不動にする場は,「うまくできてるね」と実感する心の習慣を益々高める,言ってることとやってることが一致した生き方ができる心から自由にされた見通しを持つことができますし,復活して不動にされる働きに2人が共に身も心も捧げることによって,友愛精神を実現するのを人生の習慣にすることができます。
人が心響かせることができる大人になるイメージは,究極的には,ひとりびとりがお互いが共に発達する予定です。人が心響かせることができる大人になるイメージは,日々創造されるたびに,毎日「新しい人」になる予定です。私たちの人生の様々な時期を振り返ると,身体が響き合う仕組みから,姿勢や感覚が響き合うようになり,生きる指針にまつわるぶつかり合いから,人の関係を心理的に見る見方が様々にぶつかり合うことへと発展しましたね。また,私どもが示そうとしたのは,心響かせる大人になるイメージは,互いに大切にし合う関係になるのか,互いに支配する関係になるのかを実験する様々な実験全てに,相手を省みて,聖書の神様の命が一巡する2人とど真ん中のキリストをもたらします。相手を省みて,聖書の神様の命が一巡するときにだけ,ひとりびとりの≪生きている実感≫は,この世に中で生きる,細やかながらも素晴らしい向き(方向感覚)を身に着けて,人とも分かち合うようになります。そこで,心響かせる大人になるイメージを研究することは,ひとりびとりの≪生きている実感≫が,時間と空間に対する根源的指針になる態度を必要としているところから始めなくてはなりませんし,この時間と空間に対する根源的な指針になる態度とピッタリと結びついた物の見方を与える仲間のやり方にも通じます。来る日も来る日も,行く年来る年も,務めを分かち合い,日々の礼拝を分かち合います。境まで,カイ・エリクソン(1966)の意味で「境界線」まで。境界線で,「よそ」と「他人」が始まります。
私自身が,このような聖書の神様の命が一巡し,ひとりびとりが生きる指針となる時間と空間に対する態度を身に着けて生まれ変わる場を,ひとりびとりが復活しない生き方の中でだけ描くこともできますけれども(エリクソン 1974; 1977),アメリカ人の生き方の中に発達する見通しを描く時に,私が確信するのは,臨床的に心から自由になる毎日礼拝をすることが,ひとりびとりが,不動にされ,いつもお互いに心響かせ合う人になる中で関わり合う,という最深欲求に繋がる,無意識の,あるいは,なかなか本人も気が付かないことを,見通すのに不可欠な心眼を得るのに,お役に立つ,ということです。というのも,その心眼に元々打ち込まれている様々な諍いと,破壊的になる様々な二項対立の中で,2人が,身体と身体,関係,自分と自分を,心響かせ合って,互いに相手の足りないところを補い合うことを,命がけで目指すこともできますから。このように命がけで努力すれば,時代が異なれば,心が自由にされて,自分の育ちに意識の目を向ければ向けるほど,これまでの聖書の神様の御心や心の習慣にも意識の目を向ければ向けるほど,それだけ良い実りを手にすることになることでしょう。しかしながら,子育てに対する見方が一新されて心から優しく気高き心眼だけが,ひとりびとりの発達の一コマ一コマが,聖書の神様を信頼する信頼が繰り返し再生して不動にされる中で示される聖書の神様が創造するという大きなご計画と,ピタリと噛み合っていることと,聖書の神様が創造するという大きな計画から広がってもいる,ということを示すことができます。
時間と空間に対する根源的指針になる態度と倫理学
自分が時間と空間に対する態度とが力強く関係することに関して,精神分析の中で一番中身のある言葉は,おそらく,フロイトの論文「心から自由になる新入門」です。
「えてして,親や親に似た権威は,子ども等を教育する時に,親たちの超自我の命令に従うものです。…このようにして,1人の子どもの超自我は,実際,両親のひな型ではなくて,両親の超自我がひな形です。子どもの超自我の中身は,同じで,伝統を伝えると同時に,世代から世代へと伝わる価値に抵抗する判断にもなります。」(1933)
ここには,ご承知のように,フロイトさんが,ひとりびとりの超自我の中に,歴史の流れのいくつかの側面があることを指摘しています。1つは,超自我が,心の中の本当の自分に「だめだ」といって,様々な圧力をかけている,ということですし,「本当の自分を貶める」ことで本当の自分が死んでしまうことがないように,超自我が自分に圧力をかけてくることから自分を守っている,ということです。フロイトさんがそこで短く発破をかけたのが,「歴史をザッハリッヒにみる見方」です。つまり,フロイトさん曰く,「普段の生活で弱い立場(の子ども)をぶつこと」を光らせたんですが,「人が『願う思惑』とは,今の経済的条件が作り出した産物であり,上になることに他なりません」と主張したからです。
「それは本当です。しかし,おそらく,全部が真実,というわけではないでしょう。人間は,いまここを完全に生き切ることはありませんから。過去,つまり,部族や民族の伝統は,超自我の思いの中に生き続けます。それに,過去は,現在の影響や新しい変化を,少しずつしか許しませんからね。ですから,過去は超自我を通して人間に働きかける限り,過去は人間の暮らしで強烈な働きをしますし,経済的な条件と無関係です」(フロイト,1933, p.67)
このフロイトさんの言葉は,聖書の神様の命が再び一巡する力と生き方を,心理学的に追及する上で,とてつもない意味がありますでしょ。でも,一番ビックリするのは,ひとりびとりの心が聖書の神様の命が一巡するように作り直す際に,精神分析家が肝に銘じておくべきは,超自我である良心の役割は,伝統を運ぶ乗り物として,変化と心からの自由を押さえ付けるものだ,ということも,フロイトさんのこの言葉は示していることです。フロイトさんが明らかにした歴史的な大きな流れは,心から自由になることを求める時に,心の中にある諍いを反映したものです。心響かせる大人に発達する視点からみた場合,私がぜひ強調しておきたいことは,自我を上に立つ悪い良心の中にあると気付いた,子どもの頃の様々な未解決な問題は,フロイトさんの教え通り,生きている様々な偶像を反映するばかりではなくて,すでに,自分勝手な「ねばならない」を強調することを習慣にする道徳主義である,昔ながらの偶像だ,ということです。というのも,自分の上に立つ悪い良心は,空想がちなエディプス期(訳注:4歳,5歳のころ)と,子どもの危機の「生きている実感に従って良しとする心の習慣」対「生きている実感に従ってはだめだとする心の習慣」とを動的平衡を保ったものですが,特に,禁止,禁止と禁止を強調しがちです。この禁止の束が,唯一絶対の聖書の神様が,大いなる優しさを創造し始める時に,邪魔をしますし,1つの「正しいこと」を作り出して,「正しい行い」を目指す生き方さえ作り出します。
これまでお話ししましたように,青年期は,新たに創造する空想とエネルギーをまとめるのにピッタリな,新しい深いイメージを共に知り,心魅せられて生きる生き方を育てる時期です。自分の大切さを認めてもらいながら(あるいは、認められないまま),青年期は,復活しなさいという聖書の神様の命令に従うことになるか,それとも,聖書の神様の命令に反抗することになるかのどちらかになるでしょうし,そして,将来を,創造する生き方をするのか,それとも,ねばならない「正しいこと」を目指す生き方になるのか,のどちらかを約束するものになりますし,このようにして,何と一心同体になるのか混乱した状態に打ち勝つことを助けます。しかしながら,青年期を超えて,大人の時期にも,唯一の「人生の習慣」を作り出すキリストの力を割り当てることができるでしょう。この唯一の「心の習慣」は,大人が創造することになる,子ども等との関わりにもピッタリ響き合いますし,決して裁かれることも裁くこともないいまここにピッタリと従って,息を合わせる大人になる,という聖書の神様のご計画にも,ピッタリ合っています。聖書の神様の命が一巡する場に子ども等を導く者たちは,聖書の神様のご計画を必ず発展させますし,聖書の神様のご計画を必ず実行します。それは,正しい行いを習慣にするというだけではなくて,馴染んだ場で,共に相手を心に留め合って大切にし合うことになります(私どもが自由になる心眼によれば,創造する時空の指針が示す新しい黄金律は次のようになります。すなわち,互いに,自分が一層自由になるように,相手の人が一層自由になることをしなさいな)[エリクソン 1964]。
ここでも,これまでのところでも,ぜひ忘れずにいたほうが善いのは,人生の様々な舞台は,人間が,正しい行いを目指す生き方,理に適った思いで生きる生き方,人生の習慣のある生き方をするためにこそある,すなわち,子どものころ,青年のころ,大人のころを「日常生活を礼拝にする」ためにこそある,と概観する時,日常生活を礼拝にすることに伴う,3つ危険な形ばかりの礼拝,すなわち,正しい行いを目指す生き方,全体主義,権威主義になる場合があると警告したことです。また,もう一度思い出すと善いかもしれませんよ。すべての発達と創造の場は,聖書の神様が予め天から創造されたものだ,と見る誓いを善く見て知ることです。善く見て知ること:
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Ⅲ 人生の習慣
Ⅱ 理に適った思い
Ⅰ 正しい行いを目指す気持ち
このように,およそ気高さの中に,人生の習慣にもなり,理に適った思いにもなる可能性があります。 それは,理に適った思いの中に,正しい行いを目指す気持ちも,人生の習慣もあるのとちょうど同じです。ですから,人生の習慣が生きる立ち位置で,正しい行為を目指そうと思ったり,理に適ったことをやろうと思ったりする考え方は,決して「子どもっぽい」ことでも,「若いから」ということでもありませんが,それは,この判断基準が相対化した時代の中にあっても,創造的に心響かせる大人になる可能性がある限りは,ということです。
心から自由になる正しいやり方で判断が生まれること
結論の中でもう一度心から自由になる根源的なやり方に戻る時,忘れてはならないのは,心から自由になるための2つの手放せない働きです。すなわち,1つはヒボクラティスの仕事でして,大人たち(患者さんも精神分析家のトレーニングを受けている人も)が子どもの頃に自由に気持ちを出せない不安や気持ちを我慢する不安をなくして,また,今の生き方や人格に不安が悪影響を及ぼすことをなくして,心から自由になることです。もう1つは,同時に,心から自由になる方法は,集団が育つ場合でも,自分が育つ場合でも,過去に発達するはずのところに人が行き詰っていることを,ひとりびとりハッキリさせる,教育的で研究的な方法です。過去の行き詰まりをハッキリさせると心から自由になるという結び付きの中で,興味深いのは,あらゆる大人の時期に奮闘努力することが,前世紀の人生の習慣だった,ということに心を留めることです。このように,1844年のカール・マルクスの手記の中に,「すべて生れ出たものは『変化する』ものであるように,人間にも,変化を始めることがあります。変化を始めることが歴史です。」(ターキー,1981)。「変化を始めること」という言葉に,マルクスはEntstehungsaktという言葉を使いました。この言葉は,「生じる」,「立ち上がる」,「変化する」という意味を1つにした言葉です。ですから,人類がだんだん大人になるというハッキリとした意味があります。かなりユートピアなんじゃない,という話の中で,フロイトさんが言うには,「1つ付け加えて置きたいことは,だんだん自由になるってことは,ひとりびとりを心から大切にしてくださる聖書の神様を礼拝する中で前進する一本道だ,ということです。ひとりびとりを心から大切にしてくださる聖書の神様の目的は,ひとりびとり全うにされた人間を1つに結び付けることです。その後で,家族同士を1つに結び付け,それから,人種同士を一つに結び付け,市民同士を一つにして,民族同士を1つにして,1つの大きな連帯,人類皆兄弟にすることです。」(1930)人類皆兄弟という唯一の未来が,全ての大人に要請する,封印された意味は,人間が運命的に赤ちゃん返りすることに,フロイトさんが体系的に没頭したことを広めることですね。それから,初めからある,太古からある様々な気持ちやイメージに体系的に没頭することです。すなわち,人類皆兄弟になる未来の人間や,「善悪を判断する前」で発達が滞っていることについての気付きを思えば,1人の大人として心響かせ,人類皆兄弟の仲間になると自覚することになるはずです。私どもの言葉で申し上げれば,フロイトさんが言ったことの意味は,本物の大人の心からの優しさは,ウソの(あるいは,形だけの)人を見下げて自分を上等とする心の壁を,必ずや打ち破る,ということになるでしょう。思い込みで人間を上下2つに分けてバラバラにしてしまえば,他者に対する憎悪を,道徳的に,しかも,一番巧妙に合理化して,大人が弱い立場のよそ者を否定することになります。このように,「人間を上下2つに分けて自分を上等とするウソ」は,私の上に立つ悪い良心によって,人は一番残忍に復讐します。
悪い良心,人間を上下2つに分けて自分を上等とするウソほど,この世で恐ろしいものはありません。それは自分と自分の所属集団に対する偶像崇拝そのものなんです。
#聖書の言葉 #1人豊か #天を仰いでインターメッツォ: エリクソンの叡智 : お母さんと赤ちゃんがゆったりと見つめ合う時間 現代、というものの病 命と命は根源的に繋がっていることを否定する現代......
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Young Man Luther 『青年ルター』p.214,第3パラグラフ,下から2行目途中から。p.212の第2パラグラフからも一緒に。
これって,互いに仮面を被って相手に合わせたフリをし合う見方全ては,無意識から出たウソなのかしら? マルティンは,息子として,個人的に,深く苦しんだのは,自分が信頼感が豊かであることは本物だ,ということを父親に認めさせることができなかったからでしたし,生まれながらに,「子どもなんだから,ずっと私に従ってればいい」と,父親から言われ続けたからです。そのマルティンが,いまは,宗教的に,子どもとして,自ら歓んで生みの苦しみを引き受けているように思いましたが,それは,長すぎるくらい息子として苦しんだことが,自分がキリストのスピリットを示した勝利になってたんだ,と今は思えます。最初のおミサで,祭壇に正対して,すなわち,天の父なる聖書の神様に正対して,この世の父の怒りに正対するのを待ちながら,キリストがど真ん中に立つ人であることに関する聖句を「見落とし」てきていました。しかしながら,キリストが自分の中に共に居ることに気付いた今,マルティンは,生きている実感を失って共依存するしかない生き方を超えて,心の中でホッとできる場所を見つけました。マルティンが見つけたのは,聖書の神様の声を聴く人が聖書の神様と一心同体になる神髄ですから,マルティンは,聖書の神様の御心を一歩前に進めたことになります。
…キリストは,キリスト者が一心同体になる際に,自分を空っぽにする心深く秘めた大いなる優しさに,今やなりました。キリストは,いまここで,私の中に私と共に居るのです。自分を空っぽにすることを歓んで引き受けることをよしとすることが,毎日の十字架になりますし,毎日の十字架として自分を空っぽにすることを歓んで引き受ける情熱が,(訳注:旧約聖書の時代に)他の人を犠牲の捧げものにした代わりに,最高に能動的に,キリストが最高に生きて,自分を空っぽにして生きる,ということを善しとすることになります。自分を空っぽにして生きることを善しとしたおかげで,キリストが選んだことを自分でも選んだことになつて,聖書の神様と一心同体になって復活する晴れ晴れとした生き方が出来ます。
人類が救い主として崇めた人たちは,決して朽ちることのない言葉の中で,自信をもって,自分を空っぽにすることを善しとする人は,なるべく自分にもウソは言わないし,なるべく人の弱みにも付け込まないことになるっている,という心眼を体得し,体現します。そのウソのない救い主たちは,不思議な声で,大切なことを証明するわけです。その不思議な声は,遥か彼方まで,世の終わりまで,届きます。人類が救い主として崇めた人たちが自分を空っぽにすることを歓んで引き受ける情熱が含む原理は,自分で選んでいる原理,キリストが生きる原理,何物にも支配されない自由になる原理であり,遅かれ早かれ,最高の王の名を手に入れます。いばらの冠も,救い主に従った者たちのティアラになります。しばらくは,ルターは聖書の神様の命が一巡する最初の単独者になりましたし,あの救い主を,ティアラや日曜礼拝や人間を上下で見るウソや思想警察から,救い出して,救い主であるキリストが復活する場である,ひとりびとりの魂に連れ戻したんですね。
ルターが救い主であるキリストをひとりびとりの魂に連れ戻したことって,意識のレベルでは,ルネッサンスの人間主義と対の関係になっているのではないのか? ルターは,目に見える様々なことは科学に任せて,自分は,空っぽにすることを歓んで引き受けることと,聖書の神様を信頼すること,すなわち,自分が本気になっていることに,集中しました。自分の父親や教父たちの,あの顔と,天にまします父なる聖書の神様の,あの顔を曇らせていた怒りの雷雲を追っ払ったルターは,いまは,キリストのように自分を空っぽにする大いなる優しさを体現する生き方そのものが「いつでもどこででも」聖書の神様の顔だ,と言ったんです。大文字のパッション,すなわち,キリストの十字架は,人間が聖書の神様についてる知りうる全てです。人間の様々な諍いは,正面から正しく,諍いの顔を見れば(諍いを直視すれば),人が自分自身を知りうる全てです。最後の審判は,いつでもどこででも,いまここでの自己判断です。キリストが生きて死んだのは,人間が将来の最後の審判に怯えて,貧しくなるためじゃない。人間がいまここで自分を空っぽにしてキリストの大いなる優しさに満ち溢れて,最高に気高く浄めらて生きるためです。「御覧なさい」。ルターはこの詩篇(ルター全集 第4篇87節)の聖書の話の中で,ある時,言いました。「至る所で,いろんな画家たちが,キリストが自分を喜んで自分を空っぽにしたことを,まるで,パウロが『十字架にかけられたキリスト以外には何も知らない』と言ったことに賛成しているみたいに,描いているでしょ」と。息の点でルターに一番近い芸術家は,デューラーでしたが,デューラーは,自分の顔をキリストの心から優しい顔の中に刻み付けました(自分の顔まで空っぽにして,キリストの顔を自分の顔にしたくらいです)。
ルターが神学的にことを進めた良さの特質は,あらゆる人が歩むことになっている,心響かせる大人になる中での確かな歩みになぞらえることができます。すなわち,父なる聖書の神様が生きている実感そのものであることと,神の一人子キリストが自分を空っぽにして,生きている実感である聖書の神様を実現した,その関係を内面化することです。その時,母子2人は,良心を共に善い良心にして不動にすることです。また,1人の勤めを果たすものとしても,スピリットのある1人の人間としても,聖書の神様と一心同体になることを,完全に全うすることもできます。また,聖書の神様を根源的に信頼することが,母子2人とも,共に繰り返し確かにされることでもあります。
聖書の神様は,終わりの日に暗い顔で脅す存在じゃなくて,ルターにとって,「自分たちの間で動き出す存在」になりました。「聖書の神様に至る道」は,「自分にできることをやること」で,1つの目標に向かって奮闘努力するものではありません。「聖書の神様の道」は内側から促すものです。聖書の神様は,1人の人ではなくて,自分を全うに生きる人にとって,生きている実感にだんだんなります。それで,聖書の神様は,全ての終わりに出合う,終わりのない不本意な選択を強いるお仕着せではなくて,聖書の神様は,いつでもどこでも,始める存在です。私たちの間で。ですから,聖書の神様の1人子になる者は,いつでもどこででも,生きている実感を生きることになります。ですから,私どもは繰り返し生まれ変わり,繰り返し新鮮にされ,繰り返し創造されることが,シックリくるんで腑に落ちます。「共に育つ」とは,いつでもどこででも,関わりを始めることなんです。縦の関係と横の関係との対立全てが,互いに相手をバラバラにすることは,かくして,人間自身がバラバラになる性質にも見られます。「二王国説」,すなわち,聖書の神様の恵みが真実に満ち溢れている空洞と,ケダモノのような気持ちが幅を利かせる生まれながらの空洞が,人間の心の諍いの中に現実にありますし,人間が復活して生きる際に聖書の神様の信頼を裏切ることにもなります。あの2つの顔と,あの2つの名を,1人のキリスト者はこの世で同時に手に持つことになります。
2つの顔が「ある」ことが問題なのではありませんよ。いろいろな神学者,いろいろな哲学者,いろいろな心理学者が,人間を様々なやり方で切り刻みますし,その切り刻んだものを一致させようとしても,それは無駄骨です。大事なのは,ルターが「より内側」の諍いを新たに強調したことと,その「より内側」の諍いを1つにする場があることをよく見て知ることを通して,ルターが心から自由になった点です。バラバラにならず共依存してない人が見て分かった聖書の神様が,その一人子キリストの十字架という信頼の印を通して,ルターの語り掛けた祈りは,バラバラにならず1人の自分を生きている全うな人が復活して生きることを,定義し直したんですね。それは,後々,キルケゴールの実存主義やフロイトの精神分析で追い求めた方向と同じです。それは,バラバラにされず一人の自分を生きる全うな人が,その人自身の本物の自分がある意識の端っこに,連れてかれて,共に復活する方法です。この方法は,聖書の神様の力を信頼して,自分を空っぽにする聖域を作る方法です。
神学的に申し上げてきたことを,何とかもっと心理学的に言い換えてみましょうか。私どもが悪い良心と呼んできたものは,多くの点で,フロイトさんが概念化した,超自我が私の上に立って圧力をかけることと,響き合っています。1人の人の中でも,集団の中でも,超自我が私の上に立って圧力を掛けると,人生の実験すべてが1つの音色の影を帯びるようになります。それは,自分の時空の特定の見方を強調することになってしまいます。悪い良心に支配され,気持ちがコロコロ変わることから分かるのは,ご承知のように,心が震えるほど,陰気で不機嫌な悲しみという心の病になることでしょう。陰気で不機嫌な悲しみという心の病になると,知らず知らずのうちに,互いに押し付け合い,生きている実感がマヒしてきますし,厳しいことを突きつける心の声の犠牲になります。「お前はちゃんとできてないぞ,悲しき運命が,もうすぐそこまで来ているのに,いつ来るのかハッキリせず,見通しも持てない,悲しき運命が来た時には,ちゃんとしてなくちゃいけないのに」と,心の声が私どもを責めます。悲しき運命を告げる声は,ど真ん中におられるキリストの声ではないのに,私どもはダメな存在のままで,(訳注:聖書の神様が創造されたものに対して必ず評価する言葉の)「とても良かった」にはならないままですから,おそらく,悲しき運命を告げる声は,大きく的外れなことなんです。陰気で不機嫌な悲しみ(ルターがこの世の成功を手にする代価として,以前にもまして深く落ち込むことになりました)から,ほんの束の間でも逃れたくて,悲しき運命を告げる声と痛々しい取引をするという大きな対価を払うことが,唯一の逃げ道になります。その取引とは,(訳注:我慢していれば,)すぐに別の道が見つかるかもしれないという希望をもたらす取引ですし,あるいは,いまは分からない分別を理解する我慢の時で,よく分からないけれども,まあ良しとされ,見逃してもらえて,天国に行けるだろうと取引するんです。
悲しき運命を告げる声と取引しているニッポン人がなんと多いことか。
キーワードは,我慢です。
取引と我慢が,この世を地獄として生きる法則になります。
心からの歓びを,この取引と我慢の人は体験できません。