#日常生活を礼拝にすること #互恵的に認め合う場と見通し #陽気で楽しい恵みの時空
現世考: 穴の向こう側に咲く花 ニッポンの学校に、「光」を!! 補足版 学校の雰囲気として、「どうせ言っても先生は聞いてくれない」 金森俊......
「発達トラウマ障害」Enpedia と
発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典
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The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することが,できた』 p.93の,第2パラグラフの12行目途中から,です。その前のp.87の第2パラグラフの9行目途中からもご一緒に。
でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることが,あまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人でも3人でも,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,祈り(あるいは,約束)を共にする者だけが,それぞれの「生きている実感」を,1つの「共に生きている実感」に融合して,一心同体になることが出来ます。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。
「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」に従う心の習慣」)。
ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ちと心から平和な関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ちと心から平和な関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。生きている実感が,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。
3重になった生きている実感のある現実
エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします。
そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。その仲間は,自分の身近にいて,1人の「他者」として,人生の大切な時期に,「あの人のことね」,と分かる人もいれば,そのほとんどが,心の繋がりをなんとなく感じる人たちです。その仲間は,壁を作って私たちに反対しようとする場合でさえ,生きている実感を分かち合うことによって,ひとりびとりの生きている実感を確かにしたいと願っている人たちです。人間関係を心理的に見る視点があるからこそ,私が他の人に同調することを話すだけでは,実に不十分なわけです。といいますのは,あらゆる人間がピッタリとくっつくことは,諍いになりますから,私がピッタリとくっつくことを教えられる前に,すでにピッタリとくっつく様々な実験に夢中になり,一心同体になる体験を強烈に心に刻み付けてきているんですから。実際,フロイトさんが「リアリティ,すなわち,生きている実感」に相当するドイツ語は,Wirklichkeit(「うまく働く」ことと関係します)には,受け身の関わりを自ら始める意味と,働き掛け合う意味がありますから,ふつうは,「アクチァリティー,自ら関わる現実」と翻訳すべきですし,「互いに,自ら関わりを始める」意味に理解すべきだと,私は考えますね。
ですからね,生きている実感は,≪共に居る≫ということが,一杯ある,ということが,欠かせない,と言われます。≪共に居る≫ことができるのは全て,2人の心が自由にされる,2人がピッタリとくっつく場では,(訳注:目的も方法も知らない)動物の本能とは対照的に,心の中で聖書の神様が促す,唯一の内的促し次第ですから,その内的促しにしたがって,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりが,発達の間,その子どもの思い通りに手に入る,という(訳注:目的も方法も自覚した)「魂を貫き通す,聖書の神様が下さる一方的な約束」のおかげですし,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりは,人が輝き共に育つ際に,大人の人たちが,謙虚に子どもの下に立ち,子どもに夢中になること(洗礼に与ること)に,とても役立ちます。このようにしてもらうと,その子どもは,「人を自分のように大切にする」ようになる,と言われます。それはちょうど,自分が,名前を呼ばれ,大事にされ,気持ちを分かってもらったのにビッタリ同じように,人も大事にするようになることですし,聖書の神様の命が一巡する時,互いに大切にし合う生き方が,心の中に育まれるんですね。
生きている実感を育むためには,≪共に居る≫ことが欠かせない3次元について,様々な事実がある,人が育つ「出会い」という日常世界では,「関わり合う」ことが一番強調されます。なるべく,歪めたり,蔑ろにすることなく,なるべく,肯定して,「関わり合う」ことは受け止めるべきでしょう。それは知的発達の舞台でも,科学技術や化学の舞台でも,同じです。
「生きている実感」という言葉の2番目の隠されている意味は,「なるほどホントだね」と腑に落ちるほど,聖書の中で教えられていることが,「なるほどホントだね」と分かる2人が一心同体になることに体現して,聖書の話し言葉と出来事がピツタリと一致して「なるほどホントだね」と分かる習慣(大なり小なり,驚きますね)です。「なるほどホントだね」と分かることは,唯一の真実の価値ですから,1つの話し言葉と心響かせる大人に発達するイメージを掴んだ人全てが,「なるほどホントだね」と分かります。「腑に落ちる」(アインシュタインは「Begreiflichkeit ドイツ語で『腑に落ちる』」と言います)生きている実感のこの側面にピッタリした言葉でしょうね。もう1つの話し言葉は,もっと目に見える,「うまくできてる」です。というのも,「うまくできてる」は,様々な事実が見事に織り上げられているので,様々な事実が聖書の神様からのメッセージを示していると分かります。「関わり合う」,「なるほどホントだね」と腑に落ちる,「うまくできてる」,の3つの次元で生きている実感が,主たる発達の様々な舞台で,2人が響き合うようにし続ければ,その時だけ,心から自由にされた大人の人生の習慣(倫理)が間違いなく親から子に受け継がれます。この心から自由にされた大人の人生の習慣がありますと,たくさんの自由にされた仲間達は,それぞれの持ち味を最大限発揮して(訳注:,創造の心からの歓びに与り),生きることができます。
命が育つ視点として,生きている実感こそは,ですから(生きている実感が,そのものズバリに,「聖書の神様の命の通り道」と呼ばれるとしても),うまくすれば,森羅万象すべてを包み込む創造の源になりますから,生きている実感を生きる人は,人を不動にする場を選ぶことだけに,練達した意識を集中します。人を不動にする場は,「うまくできてるね」と実感する心の習慣を益々高める,言ってることとやってることが一致した生き方ができる心から自由にされた見通しを持つことができますし,復活して不動にされる働きに2人が共に身も心も捧げることによって,友愛精神を実現するのを人生の習慣にすることができます。
人が心響かせることができる大人になるイメージは,究極的には,ひとりびとりがお互いが共に発達する予定です。人が心響かせることができる大人になるイメージは,日々創造されるたびに,毎日「新しい人」になる予定です。私たちの人生の様々な時期を振り返ると,身体が響き合う仕組みから,姿勢や感覚が響き合うようになり,生きる指針にまつわるぶつかり合いから,人の関係を心理的に見る見方が様々にぶつかり合うことへと発展しましたね。また,私どもが示そうとしたのは,心響かせる大人になるイメージは,互いに大切にし合う関係になるのか,互いに支配する関係になるのかを実験する様々な実験全てに,相手を省みて,聖書の神様の命が一巡する2人とど真ん中のキリストをもたらします。相手を省みて,聖書の神様の命が一巡するときにだけ,ひとりびとりの≪生きている実感≫は,この世に中で生きる,細やかながらも素晴らしい向き(方向感覚)を身に着けて,人とも分かち合うようになります。そこで,心響かせる大人になるイメージを研究することは,ひとりびとりの≪生きている実感≫が,時間と空間に対する根源的指針になる態度を必要としているところから始めなくてはなりませんし,この時間と空間に対する根源的な指針になる態度とピッタリと結びついた物の見方を与える仲間のやり方にも通じます。来る日も来る日も,行く年来る年も,務めを分かち合い,日々の礼拝を分かち合います。境まで,カイ・エリクソン(1966)の意味で「境界線」まで。境界線で,「よそ」と「他人」が始まります。
私自身が,このような聖書の神様の命が一巡し,ひとりびとりが生きる指針となる時間と空間に対する態度を身に着けて生まれ変わる場を,ひとりびとりが復活しない生き方の中でだけ描くこともできますけれども(エリクソン 1974; 1977),アメリカ人の生き方の中に発達する見通しを描く時に,私が確信するのは,臨床的に心から自由になる毎日礼拝をすることが,ひとりびとりが,不動にされ,いつもお互いに心響かせ合う人になる中で関わり合う,という最深欲求に繋がる,無意識の,あるいは,なかなか本人も気が付かないことを,見通すのに不可欠な心眼を得るのに,お役に立つ,ということです。というのも,その心眼に元々打ち込まれている様々な諍いと,破壊的になる様々な二項対立の中で,2人が,身体と身体,関係,自分と自分を,心響かせ合って,互いに相手の足りないところを補い合うことを,命がけで目指すこともできますから。このように命がけで努力すれば,時代が異なれば,心が自由にされて,自分の育ちに意識の目を向ければ向けるほど,これまでの聖書の神様の御心や心の習慣にも意識の目を向ければ向けるほど,それだけ良い実りを手にすることになることでしょう。しかしながら,子育てに対する見方が一新されて心から優しく気高き心眼だけが,ひとりびとりの発達の一コマ一コマが,聖書の神様を信頼する信頼が繰り返し再生して不動にされる中で示される聖書の神様が創造するという大きなご計画と,ピタリと噛み合っていることと,聖書の神様が創造するという大きな計画から広がってもいる,ということを示すことができます。
時間と空間に対する根源的指針になる態度と倫理学
自分が時間と空間に対する態度とが力強く関係することに関して,精神分析の中で一番中身のある言葉は,おそらく,フロイトの論文「心から自由になる新入門」です。
「えてして,親や親に似た権威は,子ども等を教育する時に,親たちの超自我の命令に従うものです。…このようにして,1人の子どもの超自我は,実際,両親のひな型ではなくて,両親の超自我がひな形です。子どもの超自我の中身は,同じで,伝統を伝えると同時に,世代から世代へと伝わる価値に抵抗する判断にもなります。」(1933)
ここには,ご承知のように,フロイトさんが,ひとりびとりの超自我の中に,歴史の流れのいくつかの側面があることを指摘しています。1つは,超自我が,心の中の本当の自分に「だめだ」といって,様々な圧力をかけている,ということですし,「本当の自分を貶める」ことで本当の自分が死んでしまうことがないように,超自我が自分に圧力をかけてくることから自分を守っている,ということです。フロイトさんがそこで短く発破をかけたのが,「歴史をザッハリッヒにみる見方」です。つまり,フロイトさん曰く,「普段の生活で弱い立場(の子ども)をぶつこと」を光らせたんですが,「人が『願う思惑』とは,今の経済的条件が作り出した産物であり,上になることに他なりません」と主張したからです。
「それは本当です。しかし,おそらく,全部が真実,というわけではないでしょう。人間は,いまここを完全に生き切ることはありませんから。過去,つまり,部族や民族の伝統は,超自我の思いの中に生き続けます。それに,過去は,現在の影響や新しい変化を,少しずつしか許しませんからね。ですから,過去は超自我を通して人間に働きかける限り,過去は人間の暮らしで強烈な働きをしますし,経済的な条件と無関係です」(フロイト,1933, p.67)
このフロイトさんの言葉は,聖書の神様の命が再び一巡する力と生き方を,心理学的に追及する上で,とてつもない意味がありますでしょ。でも,一番ビックリするのは,ひとりびとりの心が聖書の神様の命が一巡するように作り直す際に,精神分析家が肝に銘じておくべきは,超自我である良心の役割は,伝統を運ぶ乗り物として,変化と心からの自由を押さえ付けるものだ,ということも,フロイトさんのこの言葉は示していることです。フロイトさんが明らかにした歴史的な大きな流れは,心から自由になることを求める時に,心の中にある諍いを反映したものです。心響かせる大人に発達する視点からみた場合,私がぜひ強調しておきたいことは,自我を上に立つ悪い良心の中にあると気付いた,子どもの頃の様々な未解決な問題は,フロイトさんの教え通り,生きている様々な偶像を反映するばかりではなくて,すでに,自分勝手な「ねばならない」を強調することを習慣にする道徳主義である,昔ながらの偶像だ,ということです。というのも,自分の上に立つ悪い良心は,空想がちなエディプス期(訳注:4歳,5歳のころ)と,子どもの危機の「生きている実感に従って良しとする心の習慣」対「生きている実感に従ってはだめだとする心の習慣」とを動的平衡を保ったものですが,特に,禁止,禁止と禁止を強調しがちです。この禁止の束が,唯一絶対の聖書の神様が,大いなる優しさを創造し始める時に,邪魔をしますし,1つの「正しいこと」を作り出して,「正しい行い」を目指す生き方さえ作り出します。
これまでお話ししましたように,青年期は,新たに創造する空想とエネルギーをまとめるのにピッタリな,新しい深いイメージを共に知り,心魅せられて生きる生き方を育てる時期です。自分の大切さを認めてもらいながら(あるいは、認められないまま),青年期は,復活しなさいという聖書の神様の命令に従うことになるか,それとも,聖書の神様の命令に反抗することになるかのどちらかになるでしょうし,そして,将来を,創造する生き方をするのか,それとも,ねばならない「正しいこと」を目指す生き方になるのか,のどちらかを約束するものになりますし,このようにして,何と一心同体になるのか混乱した状態に打ち勝つことを助けます。しかしながら,青年期を超えて,大人の時期にも,唯一の「人生の習慣」を作り出すキリストの力を割り当てることができるでしょう。この唯一の「心の習慣」は,大人が創造することになる,子ども等との関わりにもピッタリ響き合いますし,決して裁かれることも裁くこともないいまここにピッタリと従って,息を合わせる大人になる,という聖書の神様のご計画にも,ピッタリ合っています。聖書の神様の命が一巡する場に子ども等を導く者たちは,聖書の神様のご計画を必ず発展させますし,聖書の神様のご計画を必ず実行します。それは,正しい行いを習慣にするというだけではなくて,馴染んだ場で,共に相手を心に留め合って大切にし合うことになります。
これは,サイコセラピーの場ですし,よきサマリア人みたいに,聖書の神様を信頼する人が他人を大切にする場です。