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「発達トラウマ障害 Enpedia」
については、Google検索ではなく、MSN検索やBing検索で情報をご確認ください。とのことでしたが、一日でMSN検索とBing検索にも情報操作が施されたようです。
これは、
「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実
がいかに重要かを物語っています。
Childhood and Society 第3章 p.157 第3パラグラフから。
幼い子どもの育ちを,大人たちは,楽しく,しかも,忍耐強く,見守られてました。「早く歩けるようになれ」「早く言葉が出るようになれ」とせかされることもありません。たほう,赤ちゃん言葉もありません。初めに教えられることはも,古いインディアンの言葉です。英語も今でも,学校に子どもらが上がる時に,問題になります。
トイレット・トレーニングは,お手本を示す事で,行われます。近くに白人がいなければ,おむつやパンツを履かずに,赤ちゃんは歩き回っています。しかしながら,ウンチが一人でできるようになるように促されますし,排せつ場所はここですよと教えられます。
現在のダコタ属の子ども等は,気前が良くなるように,注意深く躾けられます。ダコタのインディアンは,今でも馬みたいな高価な贈り物を貰います。5歳,6歳,7歳の子どもたちでも,惜しげもなく,気前よく,ものをくれます。「とある葬式では,きっぷがいいことがありました。小さな男の子が,なけなしの10セント硬貨で,オレンジジュースの粉末を買って,お葬式に来てくれた人たちに桶いっぱいのオレンジジュースを振舞いました」とさ。大事なものは子どもの手に届かないところにやられますが,他は子どもに触らせないということはありません。それは,白人の目からすれば,「戸惑い 且 イライラすることです」。
教育の主たる手段は,注意することと恥をかかせることです。子ども等は,癇癪で泣き叫んでも良しとされます。癇癪で泣き叫ぶと「子ども等は強くなる」からです。お尻を叩くことは,以前よりも増えましたが,それでもまだ稀です。恥をかかせるのが強まるのは,子どもらが悪さをしつづける場合ですし、家の大人たちが特に悪さとして選び出すのは,自己中で,争って,お他人様に損をさせて自分だけが得することです。家族がぎくしゃくすれば,ちょっと離れたところに行って,家族のぎくしゃくから逃げます。幼い男の子たちは,(弓矢やら,バッファローの脚の骨やらで遊ぶ代わりに)ロープとパチンコが当てがわれて,狩人のスピリットの栄誉のためには,雄鶏や他の小動物を追いかけまわせ、と発破をかけられます。女の子たちは,お人形で遊んだり,ままごと遊びをしたりします。
ダコタの男の子は,5歳6歳になるまでに,家族から安心感と大事にされているという実感を得ています。男女の区別はありますが,異性を避けることは全くありません。このことは全てダコタの人々を観察したものが,一番顕著な変化として記しているところです。兄弟と姉妹がお互いに避け合うのは,2人組のダンスをする時くらいです。
学校では,白人との混血が進むほど,競争を楽しむようになりますし,学校は,家族から出た時に,一緒になるところとして楽しまれています。でも,競争を嫌がる子も多いんですし,競争に全く応じない子もいるくらいです。「教室の中で競争しなさいと言われるのは,ダコタの子どもの気質に反します。それに,ダコタの子どもは,仲間の中で競争する者を悪く言います。」競争を嫌がることが,英語が話せないことや白人教師が怖いことと相まって,ばつが悪くて前に出られず,また、学校からエスケープすることにもしばしばなりました。エスケープした子は,家に帰っても,怒られません。というのも,その親たちも,困ったり,腹を立てたりすれば,仕事を辞めますし,街を出ていくからです。
幼い男の子らは,白人の学校より,女の子らを打ちます。少し年上になりますと,男の子たちは,野球のような競争する遊びになると,競争しなくてはならず,困った気持ちになります。でも,男の子らは,家庭でも学校でも,怒って喧嘩するようになりつつあります。
目上の女の子たちは,男の子たちや大人の男らを,いまだに怖がっていましたから,いつも,他の女の子とつるんでいて,男の子たちからは距離を取っていました。
寄宿舎は,(家と比べたら)物質的に豊かで,いろんな関心を満たすチャンスに恵まれていますが,子どもの暮らしは一番いい時になります。しかしながら,大多数の生徒たちは,せっかく高校に入っても,卒業しません。遅かれ早かれ学校をサボって、結局金輪際学校には来ません。原因は,様々な状況に対する恥と戸惑いでした。この恥と戸惑いの中で,恥と共存など…の問題が,倫理が継承されないために,解決できずにいたのです。
ダコタの人たちケースは,倫理が継承されないために恥と戸惑いが蔓延したニッポン社会のモデルケースです。