エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「明るい献身」と「善意の暴力」

2015-06-13 10:26:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「自分の足で立つ」と「楽しい献身」 
  積み木を解釈する着眼点:その子ならではの要素 ロバートの作品の紹介が終わりました。その中心は挿絵の通り、スッと両手を...
 

 「明るい献身」というと矛盾している感じを受ける方もいるでしょうね。「献身」と言われたら、「苦しいもの」、「辛いもの」と思っている人は特にそうでしようね。あるいは、マザーテレサを想像するかもしません。「偉いのは分かるけど、わたしはちょっと…(関係ないわ)」。

 私は子育てで最も大事なのは、この「明るい献身」だと考えています。それは、子どもが根源的信頼感を育むためになくてはならないものだからです。逆に申し上げれば、今の日本で、これだけ発達トラウマ障害の子どもたちだらけなのは、この「明るい献身」が足りないからだと思います。

 「明るい献身」の反対は、「生真面目な正しさ」です。今の日本の学校で流行っているものなんですね。「明るい献身」はいつでも、陽気で楽しいものです生真面目な正しさ」は、堅苦しく、「善意の暴力」と同じです。少なくとも、子どもにとっては、特に発達トラウマ障害の子どもたちにとっては、まさに「生まじめな正しさ」=「善意の暴力」「教員たちの暴力」です。別に打ったり、叩いたりすることだけが暴力じゃぁないんですね。言葉の暴力のことでもありません。心の態度の暴力こそが「善意の暴力」だからです。

 「明るい献身」は眼の前にいる赤ちゃんに、夢中になっているお母さんが1つのモデルです。おっぱいを上げる時も、オシメを取り換える時も、自分の赤ちゃんがいとおしく、「私のところに来てくれて、ありがとう」という感じで関わります。夜でも、昼でも、そんな気持ちを大事にしていますから、自分の赤ちゃんに関わることに夢中です。別に赤ちゃんと約束したことなど、一度もありませんけれども、一番誠実な約束を、誠心誠意忠実に果たす僕(しもべ)のようですね夢中ですから、自分の苦労も「損」だとは感じないのが普通です。

 「明るい献身」ができない人は、自分の赤ちゃんと関わる時でさえ、自分の時間が気になります。自分の仕事が気になります。自分の…が心残りです。そうすると、不思議なことに、子どもに「正しい」ことを求めたくなることが実に多くなるんですね。不思議です。特に仕事に長時間とられる人がこうなりやすい。心の「遊び」=ゆとり、余裕、を失っていますから、「正しい」ことを子どもに押し付けて、サッサと子どもと関わる時間をおしまいにしなくちゃならない、と無意識裡に、思い込んでんですね。するとね、子どもは「あっ、自分は相手になってもらえないほど、つまらない存在なんだ」=「拒絶された」、と感じていることが非常におおいんですね。仕事をしているお母さん、学校の教員に多いタイプですね。

 ですから、わたしはいつも心掛けていますし、チャンスがあれば繰り返し、申し上げているのが、

 1)陽気で楽しくやりましょう

 2)正しいことより、陽気で楽しい、の方が、はるかに ” 正しい ” 

 3)陽気で楽しい雰囲気で関わると、子どもは自分が肯定されている、大事にされている、と感じやすい

まっ、こんなところです。

 

 

 

 

 

 

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