乳児期から幼児前期。生まれた時から3歳位までのことを、人は覚えていませんね。「幼児健忘」と呼ばれたりします。でも、人の一生の土台ができるのも、この時期ですね。根源的信頼感と根源的不信感の割合がこの時期決まってしまうからです。もちろん、その後で、その割合を修正することはある程度可能ですが。赤ちゃんの頃に根源的信頼感の割合が豊かだった場合は、「困難なことがあっても、希望を失わずに生きられる」という人品、人間力を身に着けることができるんでしたね。ですから、対人関係、自分の気持ちをどれだけ素直に表現できるのか、それとも、ガマンして飲み込んでしまうのか…というような、とても大事なことも、記憶に残ることのない3歳までの経験が物を言うことになります。
でも、それだったら、幼いころのことも記憶に残ってくれていたらいいのに、修正しやすいのに…、と思わざるを得ません。でも、申し上げたしたように、そうはなっていませんね。なせでしょうか? 不思議ですね。
逆に申し上げれば、そのことが単に知らされただけでは、なかなか納得しない人もいます。なかなか腑に落ちません。それは、方程式みたいな、科学的知識ではないからですね。体験知、臨床の知、人格的真理なんですから。
私も何故かな? と考えてみたんです。3歳までの記憶を、人間に与えないのが、神様の仕業だ、としますね。そうしたら、神様はなぜ、そんな「バカ」をやったのか? 神様の仕業には、必ず目的があるんですね。ですから、大事な体験を人から隠している神の仕業の目的は何だろうか? と考えました。
ひとつは、人間が思い上がりやすい存在だということと関係しているのだろうと思います。肝心なところは自分は知らないんだと解ったら、人は謙遜でいやすいのではないでしょうか?
でも、それだけではなさそうですよ。人間は思い上がりやすいですから、人生は自分の力で何とでもなる、と思いがちでしょ。でも、実際はどうでしょう。人生は「まさか(魔坂)」の連続でしょ。でも、その「まさか(魔坂)」の絶望の中、思いがけない不思議が隠れているものですよね。昨日ご紹介した佐々木正美先生のご家族と、佐々木正美先生のお仕事に、そのような、思いがけない不思議な恵みがあることにも、お気づきだろうと思います。
その思いがけない不思議に出逢えるなら、本当に心から幸せ、ハッピー、ラッキーと言えますでしょ。でも、その、心からの幸せ、ハッピー、ラッキーには、2つの心の態度が必要不可欠なんですよ。
それは、「困難があっても、絶望せずに信頼し続ける信頼」と、「困難があっても、≪いまここ≫、自分の持ち場から逃げ出さずに、“明けない夜はない”と踏みとどまり続けること、その待ちの姿勢」です。それが、ピスティスであり、ヒュポメノーです。
それを手助けするのが、サイコセラピストかもしれませんね。
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