一番大事にされた経験~「秋葉原事件」と赤塚不二夫
前回は、日本人の体制順応主義(conformism コンフォーミズム)が、遊ぶ時期である幼児後期の病理であることに触れました。自分の考えを率直に話し、自分の考えに基づいて行動する...
生命が大事なことは、論を俟ちません。しかし、生命=≪私≫となると、≪私≫を大事にすることと自己中心の区別がつかない方にとっても、訝しく感じる方もおられるでしょう。でも、よくご自分の心に問うていただきたいのですが、「本当に大事にされる経験」に繰り返し恵まれていると、何だか勿体無くて、自分でもだれかよそ様のために役立つことがしたくなるものではないでしょうか? そうです、「本当に大事にされる経験」に繰り返し恵まれると、人は自己中心ではいられなくなるものなのですね。自己中心の方は、「本当に大事にされる経験」に飢えていますから、「自己中心」を演じる真似をしてまでも、自分を大事にされようと、強迫的に突き動かされているのです。お気の毒ですね。
「本当に大事にされる経験」に繰り返し恵まれている人は、ですから、他人様のために、一定の時間を喜んで使うことができます。そのことを《使命》と言うのですね。時間を使うのですけれども、それは同時に、自分の生命を使って、人様のためにその当人の≪私≫を生かすことでもあるのです。
今回のところは、子どもにとっては特に、本物・オーセンティシティが大事なことが教えられることろです。子どもにとって、最も大事な〝本物〟は、この、身近な人が喜んで、イキイキと、自分の時間=生命=≪私≫を使って、自分を「本当に大事にされる経験」です。
そのように育てられると、その子はさまざまな本物を見極める≪眼≫、識別力・判断力を身に着けることができます。それが芸術的なものであることもあれば、学術的なものであることもあれば、技術的なものであることもあります。また、人間に対する≪眼≫の場合も少なくありませんね。≪鼻≫の場合もありますね。人間を嗅ぎ分ける≪鼻≫です。それぞれの≪本物≫を、その子は喜んで追求することができるようになりますね。
こういう≪眼≫や≪鼻≫が育たなかった人が、散々生命=≪私≫=時間を、大事にされるどころか、相手にされない経験を繰り返し受けたために、その活かし方が分からず、時代や組織に流される、コンフォーミズム(大勢順応主義)=自分が得するときだけ組織や時代を利用し利用される依存関係になるものなのですね。
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