「二王国説」のあいまいさの故に、救いまであいまいになっちゃったのでした。
それで、エリクソンは原点回帰です。
p183のブランクの後から。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、中世哲学の終わりを告げた、と言われています。中世哲学は、聖アウグスティヌスによってはじめられました。聖アウグスティヌスは、人間は、神が存在することを証明できるばかりではなくて、神の恵みが存在することも証明できると、と見なしました。アウグスティヌスは、人の「内なる光」は、慈しみが注がれる、ということが実現することだ、と考えました。ですから、私どもは、慈しみ深い自分を確かにする道、あるいは、内側に注ぎ込まれた、自分を確かにする道と呼びます。
慈しみ深い自分を確かにする道、司馬遼太郎がいう「たのもしい人格」、すなわち、「やさしさ」「おもいやり」「いたわり」「他人の痛みを感じること」で自分を確かにする道とうり二つ。
これは偶然ではないんですね。
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