今宵も、昔、成城の砧区民会館4階の集会室をお借りして開催していた「聖書を学ぶ会」で学んだことの続きです。『新約聖書』「ルカによる福音書」第4章1節~4節「荒野の試み」から、「息吹の響き合い」について、学びたいと思います。
ルカによる福音書第4章3節~4節は、
新共同訳では、
「3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。」
ここを私なりに翻訳し直したのが次です。
「3物事を善悪ふたつに分裂させる悪魔は彼に言った、「もしお前が神の子なら、この石にパンになるように命じてみろ」と。4そして、物事を善悪ふたつに分裂させる悪魔に向かってイエスは言った、「『その人はパンのみで生きるのではない』と(聖書に)書いてある」と。」
クリスチャンではなくても、「パンのみで生きているのではない」、「モノ金だけ、のために生きてんじゃない」といいたいと思いませんか? でも、そのためには「その人」にならなくてはいけないらしい。じゃぁ、どうすれば「その人」になっているんでしょうか?
神の口から出る息吹は「ルアーハ=プネウマπνευμα」神の息吹を人間の側からいえば、イキイキ、ピチピチとした感じ。それは平穏無事の時に感じるもの、というよりも、「荒れ野」のような状況で感じるものらしい。それをパウロは、「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出すことを私たちは知っているからである。そして、希望は失望に終わらない」と言っています(ローマ 5:3~5)。
神の息吹「ルアーハ=プネウマπνευμα」は、人の息吹「プシケψυχή」と響き合います。そして、それが言葉になれば、それこそが「いのちの言葉」です。
きょうも、響き合いの中から生まれる「いのちの言葉」によって生きてまいりましょう。
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