子どもって、わがままで、身勝手で、社会をしらない、と思うかもしれません。常識や通念で言えば、子どもは「まだ大人になれない存在」ですからね。でも、それはイエスの評価と真逆です。常識や通念を知ることは、それは大事なことですよね。でも、イエスは、その大事さよりも、≪やり取りのある関係≫を一番大事にするんです。それはね、私どもが、ひとりびとりは、この世に生まれた以上、その人ならでは、で生きるのが良いでしょ。そのためには、どうしても≪やり取りのある関係≫が必要なんですね。
p348の下から9行目途中から。
この言い伝えの別物は、マタイが伝えています(マタイによる福音書第18章3節)。「もしも、あなたが180度の方向転換をして、子どものようにならなければ、」と肯定的な「メタノイア」(180度の方向転換)よろしく、方向転換することを示しています。ペリンは、この言い伝えを特別な10ほどの言い伝えの一つとして位置付けています。その特別な言い伝えは、イエスが根源的で全人的な性格であることを物語るものです。その中で、ペリンはこの言い伝えを、「最も記憶すべき、内に秘めたものが最も豊かだ」と言っています。私どもは、一連の世代間の関わりを示す最初のものとして、この言い伝えを後ほど引用することにしましょう。それは、「放蕩息子のたとえ」で言わんとしていることを、一番完全に実現するたとえでもあるんですね。でもね、この「放蕩息子のたとえ」には自分の出来の悪い若い息子の悔い改めを、死からの再生として、迎え入れた父親が1人出てくるでしょ。するとね、私どもは、子ども自体を台無しにする、歪ん育ちを思い出すでしょ。ここでは、今見ている譬えは、子ども時代には、光り輝く可能性に満ちていることを、100パーセント肯定しているって言うんですね。
ここは不思議な件てしょ? だって、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」と言うのがマタイによる福音書第18章3節の口語訳聖書の文言なんですけれども、それが「放蕩息子のたとえ」と同様に、子どもの頃を完全に肯定するっていうんですからね。マタイの方は肯定していることは分かる。でもね、放蕩息子の方は、放蕩息子になった以上、子育ての失敗でしょ? 「失敗した子育て」も、イエスは肯定するんでしょうか?
エリクソンがどのように、ここを「料理」するのか、楽しみですね。
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