縦の関係を横の関係に繋ぐもの、それが集会でありました。
Young Man Luther 『青年ルター』のp181の第2パラグラフ。
キリストの犠牲は、キリストの血において、初期のグノーシスによって自分を確かにすることが流行ったのですが、次第に教義のために犠牲になるようになりました。そして、かの、めったにない昇華、すなわち、祭日に超越に繋がる縦の関係を体験することだけが、横の関係で権力を持つ者を挫くことができるものなのですが、それがなくなってしまいます。哲学的に申しましても、教義の面で申し上げても、主たる問題、キリストの犠牲を再定義することになりましたから、キリストの犠牲の不思議を思えば、広い範囲において、信頼が弱かったり、素朴だったりする人を結びつけるだけではなくて、強い立場の人の意志と、野心家たちの独創性と、思索家の理性をも結びつけるものでした。こういった集団においてはどこでも、二王国説は、自分を確かにする道が2つの分裂することを意味しました。つまり、1つは、永遠に、つまり、いつでも差し迫った、自分を確かにする道、もう1つは、地上の国で決まりきったヒエラルキーの中で自分を確かにする道でした。こういった集団すべてにとって、すべての集団、すべての人々を包み込む神学が作りだされ、定期的に作り直されなくてはなりませんでした。
キリストの十字架が、この世から超越する契機であり、道です。しかし、祭日に、日々に、その超越を体験することなしに、横の関係と縦の関係を統合することなどできません。しかし、次第にその超越を体験することができなくなったのが、現実の歴史でした。それをエリクソンはここで紹介しています。そうすると、ウィークデイと週末の、自分を確かにする道が、2つにバラバラになっちゃったし、今でも2つにバラバラになっちゃってる、ってわけですね。
もちろん、それじゃぁ、ダメよダメダメ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます