2013-09-01 02:00:07 | エリクソンの発達臨床心理
アインシュタインがイメージとイメージを組み合わせた遊びを連想遊びというのは、精神分析に似ていますね。無意識に至る通路の役割をする連想遊びは、創造にも繋がっているというのが、実に興味深いことです。
ここで「survey ざっと見渡す」と訳した言葉は、Uebersicht overviewでして、広々とした水平線を自由にざっと(じっくり)見ることを意味します。それは、私どもを Auschauung 直観 のことに引き戻してくれます。つまり、一点を焦点付けて見ると同時に、広い範囲を網羅的に見る、物の見方です。
「じぃっーと見る」と「ひろーく見る」。アリの眼とタカの眼。それはそれで非常に興味深いテーマです。
でも、このブログで、人格的真理と科学的真理について議論している時に、学生時代のことを思い出しましたので、それを記しておこうと思います。
それは、西村秀夫先生の集会「聖書を学ぶ会」でのことでした。場所はどこだったかしらね。たしか、小田急電鉄「成城学園」近くの砧区民会館集会室だったと思います。社会福祉法人泉会 岡本作業ホームの集会室ではなかったはず。
私はその集会に入れていただいて、まだ一年経ってない頃。当時私は早稲田の三年生。ワンゲルで日本各地をウロウロしながら、本と言えば、政治思想史や哲学といった、お堅い本を、今から思えば、よくもまぁ、読んでいたものですね。そのせいかどうかは分かりませんが、頭がずいぶんトンカチ頭(トンチンカン)になっていたんでしょう。その聖書集会で、質問したことがあります。今では「心臓に毛が生える」と言われそうな私ですが、当時は、集会で質問するのは、とても緊張することでしたから、勇気を鼓舞して質問したはずです。何を質問したのかは、もう、とうの昔に忘れてしまいました。口先だけの、小難しいことを質問したことだけは、そうだろうと思います。
ふつうは、西村先生か、恵泉女学園短大の大山綱夫先生(現在は、北星学園大学理事長)がまず答えてくださってから、他のメンバーも意見があれば、それに続く…という感じなのですが、この時は間髪を入れずに、野村實先生が、いつもの穏やかな雰囲気とは対照的に、強い口調で、おっしゃられたことが今でも鮮明に思い出されます。
野村先生は「信仰というものは、(あなたが言うような)形而上学的なものではありません…』。ビシャッという音がするような雰囲気でしたね。全くわかってなかったんですね。野村先生がおっしゃる「信仰」=神に対する信頼ということが。
いまでは、ハッキリと科学的真理と人格的真理を分けて考えるようになっていますが、それもこれも、野村先生があの時に、ビシャッと率直に教えてくたすったからだと思います。今は天国に凱旋された野村先生。ありがとうございます。
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