≪真の関係≫は客観的真理ではなくて、人格的真理。いくらこのブログを頭で読んでも、変わりません。腹で読む、やってみる、生きてみなければ、この人格的真理も分からない
p341の第3パラグラフ。
「権威のある」言い方だと私どもは申しました。様式史批判によれば、この「権威のある」言い方は、マルコ福音書(最初の福音書、後で別々にマタイ福音書とルカ福音書で使われました)とさらに初期のQ資料(ドイツ語で「資料」を意味する「クヴェレ」に相当します)までもっともらしく辿れます。さらには、このような様式の出現が、古代ユダヤ、あるいは、初期の教会ではあり得ませんし、あるいは、蓋然性が少ない、と言えるかもしれません。後ほど分かりますように(私どもの最初の例は、まさに五つの言葉から成っています)、このようにいろんな人の眼に晒されても、生き延びた言葉は、バカに単純でした。たくさんな、以前からあったユダヤ教の熱心さと、後からくる福音書が示す、世の中に対する見方が、時空とにも一掃された背景に抗していたように見える場合は特にそうでした。
途中ですが、今日はここまで。
イエスの権威のある物言いは、最初期の資料にまでさかのぼることができること、すなわち、後から書き加えられた可能性が低い真正なことである。イエスは、自分の言葉が、必ず出来事になることを信頼していました。特に、召命に関する部分は、それに「見る」ことも前提されて、「見る」→「話し言葉」→「出来事」に言う繋がりになります。ここに典型的な≪真≫の元型があります(マルコによる福音書 第1章16節、同 第2章14節、など)。
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