エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

パレーシアがないと、死(自滅)。

2014-01-23 06:46:26 | フーコーのパレーシア

 

 その昔、日本にはパレーシアがありませんでした。「治安維持法」があって、「物言えば、唇寒し」であるばかりではなくて、官憲に逮捕されてしまうからです。また、武器を持ち、殺人が職業の軍隊があったので、パレーシアでは、命が危なかったのです。当時の「有力者」のインタヴューをした鴨武彦教授は、「彼らが恐れていたのは、剣(軍刀)だった」と述べています(「国際政治」の授業で)。

 昨日(2014,1,22)の朝日新聞によれば(上掲の新聞参照のこと)、JR北海道の保線部門は、7割がウソとゴマカシをするのが普通だったといいます。ウソとゴマカシが多数派だったのです。こういう組織では、パレーシアであろうとすれば、命がけ、爪はじき、村八分は覚悟しなければならないでしょう。もちろん、社員ひとりびとりは、「本当の自分」を生きることは、ほとんど神業になります。非常に困難が伴います。

 同時に先の朝日新聞は、長期にわたってJR北海道を「支配」していた元社長の自殺を報じています。元組合幹部の「『院政』に責任を感じたからでしょう」とのコメントも紹介しています。私は「そうではない」と断言したいですね。

 ウソとゴマカシの組織のトップは、すべてを「支配」しているようで、唯一「本当の自分」は支配できないし、実際支配できなかったのです。つまり、一部上場企業のトッフでも(トップだから、その地位につくまでの間に)、「本当の自分」を生きることができなかった、「本当の自分」が死んでいたのです。“人類を上下2つに分けるウソ”の毒がいかに猛毒なのかがわかりますでしょう。ウソとゴマカシの組織のトップでいるためには(あるいは、メンバーでいるためには)、“人類を上下2つに分けるウソ”の信者にならなければならないのです。

 この元社長も、「本当の自分」を生きていない必然の結果として、自死(自滅)したに過ぎないのです(海での自死が、象徴的です)。“人類を上下2つに分けるウソ”の猛毒を強く感じますね。

 私どもがこのことから何を学んだらいいのか? その答えは明らかでしょう。

 

 

 

 

 

 強制でことに及んだのか? 騙したのか? ギリシャ人にとって、それはどちらでも変わりがありません。それは私どもにとって、大事なことであるのとは、大違いです。確かに、ある人が一人の女性、一人の少女、一人の少年をレイプすれば、その男は物理的暴力を使います。ですから、他の人が物理的暴力を用いるのと違いがありません。しかし、別の人が言葉巧みに唆せば、その男は言葉と言葉を話す力と自分の有意な社会的地位等を使っています。ギリシャ人にとって、自分の心理学的能力、社会的能力、知的能力を用いて、他の人を唆すことは、暴力を用いることと大した違いはありません。実際、法律の視点からは、唆すこと自体が、レイプ以上に犯罪的だとみなされました。なぜならば、誰かがレイプされた場合、それはレイプされた人が男でも女でも、当人の意志に反していますし、誰かが唆された場合も、その唆しは、特定の時点で、唆された人が、自分の奥さんなり、旦那さんなり、親や家族なりに対して、不実であることを選択したことの証拠になるからです。唆すことは、配偶者の権限、家族の権限を攻撃すること以上だと見なされていました。なぜならば、騙された人は、自分の配偶者や親や家族の願いに反することを選択する羽目になったのですから。

 

 

 

 

 

 唆すこと、騙すことは、暴力以上の犯罪だったわけですね。これは古代ギリシャだけの話ではないでしょう。本物を無視した組織と個人の末路に学びたいものです。

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