当時のカトリック教会は、富を独占する存在だったのですね。免罪符のようなインチキもありましたしね。こうなると、当時のカトリック教会は、「言っていることと、やっていることが違う」代名詞だったでしょうね。今の日本の「ウソとゴマカシ」が瀰漫する社会と、当時の西欧諸国はかなり重なっているようです。
ルターは、子どものころ、風や水が立てる奇妙な音や、怪しい黄昏や闇がもたらす奇妙な光景は、もちろん、魔法使いたちや魔女たちが送り込んでくる悪魔たちが存在する証拠だと受け止めました。この魔法使いたちや魔女たちは、じっと見張っている限りは、悪さはしないものでした。つまり、注意深く、疑り深い限りは大丈夫なのです。悪魔が存在することを信じていることによって、自分では気付かない思いや、自分では気付きづらい、欲張りな気持ちや意地悪をしたい気持ち、それに、お隣はきっとこうに違いないと疑う気持ちを、どうしても、露わにしてしまいます。お隣さんの思いを露わにすることは、たいてい、自分と相手の人がゴッチャになっている、ということです。つまり、もし、隣の人が、その人がどんな人か、どんな活動をしているのかは分かっても、もちろん、秘めた思いなど知る訳はないけれども、何か害になることをするつもりでいるように思われる場合でも、何らかの霊のずるい助けを借りて、私が無力の時だけしか彼に対してしたいと願わないような罪のないことを、私に対してやるだけです。あらゆる不思議な考えの中で、まだ分からないことと気付いていないことが、共通の未開の地で出会います。すなわち、残忍で、人倫にもとり、欲深い願いやら、不意に憂鬱になったり、飛び跳ねるほど元気になったりする雰囲気やらは、すべて、悪巧みのある隣人のせいで私に押し付けられるのです。エッチな空想も、このようにして、他人のせいだと考えます。セックスさえ、あらゆるはっきり覚えている夢のように、あるいは、自分のベッドに隣の人がいるのは、悪魔が、寝ている男の人の下か、寝ている女の人の上に、ずるがしこく寝ているから悪い、と非難できるほどです。ルターの言葉では、「指図に従ったか、ねばならなかった」でして、彼の神学では「男を誘惑する夢魔サッカバスと、女を誘惑する夢魔インキュバス」です。
ルターは、よほど、信仰者には相応しくない人ですね。それだけ、他罰的で、「悪い良心」の典型です。
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