無限の可能性としての遊び?
遊びの非常に簡潔な意味を教えられましたね。今日のところで遊びの意味がさらに展開します。それでは翻訳です。 ところが、遊びでさえ、自発的な遊びにも、儀式化された遊びにも、...
人と自分を比べて自分のほうが偉いように思ったり、逆にダメなように感じて人をうらやんだり、人のマネをしたりするのは、一生懸命でない証拠なんじゃないかなぁ。小さい子どもは遊ぶとき、それに没頭して無心で遊びます。あんなふうに、自分の目も前のことに一生懸命取り組んでおれば、つまらんこと考えとる暇はないと思うんです。
これは、マハトマ・まど・みちおさんの言葉です(『いわずにおれない』p13-14)。遊びのことをこの詩人はよくご覧になっているなぁ、と思います。まどさんは、この文章に続けて、つぎのように、述べられます。
一生懸命になるっちゅうことは、自分が自分になること。一生懸命になれば、一人ひとりの違いが際立つ。いのちの個性が輝き始める…。
自分が自分であること、自分として生かされていることを、もっともっと喜んでほしい。それは、何にもまして素晴らしいことなんですから(『いわずにおれない』p14)。
マハトマ・まど・みちおさんはこのように述べられています。まどさんが気付かれて、ここでハッキリ述べていることは、エリクソンが遊びについて考えていることと全く同じです。違いは、エリクソンはアイデンティティという「自分を確かにする道」という意味の、専門的な言葉を使うのに対して、まどさんは特別な言葉を使わずに、日常会話で使う言葉を使うことに徹している点くらいでしょうか。
一人は詩人、一人は臨床心理士です。でも、まどさんの詩には、臨床心理士が簡単にはできないほどの、人の心を再生させてくれる力があります。エリクソンの臨床活動を記した言葉には、詩人が容易には表現しつくせないほどの、詩があります。お二人とも鋭い感性と、透き通った直観力をお持ちです。
お二人ともに、自分が自分であること、今の日本では、非常なる困難が伴わざるを得ないことですが、その、自分が自分であることを、何よりも大事にしています。道は違えど、お二人が目指したものは、一致している、と私は考えます。それは次のように言うことができます。
自分が自分であることは、何にもまして素晴らしいことで、それは、遊びを通して実現する
、ということでしょう。
ですから、私どもも、一生懸命眼の前の課題を愉しむことを通して、自分が自分であることを、隣人と共に喜びあいましょう。
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