「感覚が鋭いことが、癒しと救いの条件なんですね」と昨日のブログで書きましたが、ちょっと言いすぎでしたね。救いはもちろん無条件です。しかし、感覚が鋭い方が、その無条件の救いに気付きやすい、と言うことだけは言えると考えますよ。
p326の第3パラグラフ。
私はここでは、イエスの言葉をいろんな翻訳にすることは致しません。ルターは、最初のドイツ語訳聖書を作った時に、イエスに対するイメージを若返らせましたが、それはちょうど、ルターがドイツ語を若返らせたのと同じなんですね。そのルターは、イエスが譬えを使った訳を解き明かしましたが、それは、譬えによっては、民衆は「理解」できない場合でも、譬えのおかげて、「民衆は自分の耳で聴くことができますし、自分の眼で見ることができます」(「聴く耳と見える眼で[ルターのドイツ語聖書のマタイによる福音書第13章13節からの引用]」)。実際問題、この様に特別な語りの形式の目的は、あなたが理解できない場合にも、他に意味があるのでしょうか?
クリスチャンでないと、「ちょっとついていけないなぁ」と思われた貴方。誤解ですよ。ここは言葉と感覚・イメージの問題を扱っているのです。聴くも見るも感覚ですし、しかも、遠いものを捕らえることができる遠隔感覚器ですね。しかもそれだけではありません。五感を統合する役割を担っているのが、視覚である場合が多いんですね。
ですから、「自分の耳で聴くこと」と、「自分の眼で見ること」は自分が捕らえている諸感覚から入る情報を統合し、一つのイメージを作り上げる上で、必用不可欠なわけですね。そうすることができれば、そこでとらえたイメージは、若返り、イキイキ、ピチピチと生きたものになるんです。
私どもが毎日をイキイキ、ピチピチと生き甲斐を持って生きていく上で、この様なリアルな感覚と、言葉のイメージが必要不可欠であることは、お分かりいただけるだろうと思います。
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