「発達トラウマ障害 Enpedia」 をご参照ください。
Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.340の 第2パラグラフから。
今朝は,p.341の第3パラグラフの5行目から。
別の論文で(エリクソン,1964),申し上げてきたことは,人間にとって最も根源的な人品である,「聖書の神様に望みを掛ける希望」は,魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることです。魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることって,赤ちゃんの時に,母親と仲間になって,互いに大切にし合うことから,バラバラにならずに,ピッタリと一心同体になっていることなんですし,同時に,全ての人間にとって,梵我一如の心の習慣(梵我一如の約束)をギフトとして,プレゼントしてくれるものなんですから。「聖書の神様に望みを掛ける希望」が地に足を着け,生活の中で育つのは,赤ちゃんの舞台ですし,敢えて申し上げれば,あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式のおかげで,仲の良い親友関係の中で,育つものです。あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式は,コントロールされ,生きている実感の息の根を絞められて,聖書の神様を信頼する大文字の希望を見失っている習慣に,2人で立ち向かうことですし,聖書の神様のスピリットを魂に打ち込まれていることに気付いて,顔と顔を合わせて,一生涯,互いに大切にし合う光を約束します。それは,(訳注:新約聖書の「コリント人への第一の手紙」第13章12節にあるように)「私どもは,体得底で体験的に理解してもらっている様に,体得底で体験的に理解できるようになります」。
Ⅱ 人間を上下2つに分けるウソ
人間の毎日礼拝から心からの歓びをやり取りする,聖書の神様のまします場を分かち合うために,心の刻んでおかなくてはならないのは,聖書の神様のいのちが一巡しないと,相手をコントロールすることになる,ということなんです。
動物の習慣は,そのほとんどがその動物の種類に特有の習慣ですが,何時でも強調しなくてはならないのは,人間は,「まがい物の人類」,すなわち,種族や一族郎党などの中で,進展してきたことです(その進展がどのようなものでも,どんな理由でその仲間に入ったかは,ともかく)。その種族や一族郎党は,まるで自分たちだけが神様の意思で創造のはじめに特別に創造されたかのように,振舞うんです。この「まがい物の人類」の振舞いは,自分たちが創造主の御心で,初めから特別に創造されたかのようですし,自分たちがこの世に存在することや,自分たち一族郎党の掟、それに,自分たちの身勝手な神権政治とイメージを、天地創造よりも大切にするかのようです。このように,ひとりびとりの人間は,「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になってしまいます。この「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になることが,人間が聖書の神様と一心同体に成ることそのものと,勘違いされてしまいますし,その勘違いが,他の「まがい物の人類」と対抗しながら,聖書の神様と人さまとを侮ることによって増長してしまいます。その侮りは,自分たちは特別だという壁を作り出しますし,唯一の「聖書の神様の創造」に預かる人間らしい企てに対して,敵意を持ちます。しかしながら,人が正しいと思っていることとは正反対に,生まれたばかりの新しい人は,どのような「まがい者の人類」にもピッタリと一体になれますから,長い子ども時代に間に,「まがい者の人類」の一味になってしまいます。このまがい者の一味になる,ということが,「毎日礼拝で家族の一員となる」個体発生の中にある厳然とした事実です。
まがい者の一味になる「人類を2つに分けるウソ」についてお話しすることは,聖書の神様のいのちが一巡するのとは正反対です。しかし,いまここで,私が真正面から相対しているのは,ジグムント・フロイトの本能理論の中にある2番目のウソです。魂が自由になるいのちの中に「本能」という名詞が現れる時はいつでも,本能の派生語の「本能的」,あるいは,「本能に似た」という2つの形容詞のどっちかな? と問いを持つとお役に立ちますよ。つまり,強調するのが,行動の1つの「本能的なパターン」にあるのか? それとも,多かれ少なかれ冷淡で,ピッタリとくっ付くことから逸れてしまった1つの「本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度」なのか? どっちなのか? と問うことが大切です。心を自由にする術は,本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度を考えるのが,普通です。本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度は,やりすぎになっているのに,「ピッタリとくっついて一心同体に成る」という上等な意味で,本能的性質には欠けています(ハートマン,1938)。自由で膨大な本能みたいなエネルギーがある進化論的な根拠は,もちろん、エルンスト・マイヤーの用語では,人間が「様々な環境に適応できる万能選手」であるという事実にあります。すなわち,人間は,様々に人を駆り立てるありふれた気持ちを,様々な学びや,様々な人との出会いに,活用して,長い子ども時代の間に,互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になることを,それぞれ強め,広げるように,創造されているんです。互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になること全ては,私(あるいは,いまここにいる私であるキリスト)が示そうとしていることですが,その人ならではの毎日礼拝が一番気高く確実に育ててくれます。
私が「最高に気高く」と申し上げるのは,人間の「行動の禁止事項」と「心の中の禁止事項」は、やりすぎになりがちで、2人が一心同体になること反するからです。それは,人間が本気で押さえつけようとする,自分を駆り立てる気持ちがやりすぎになるのと同じです。心から自由になる時には,ですから,私ども夫婦は,「押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましょう」と,お話しするようにしています。押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましたら,本物の毎日礼拝が「人品を発達創造させる気高い生き方」というギフトを下さいます。「人品を発達創造させる気高い生き方」にあっては,無理強いや我慢のし過ぎはあり得ませんし,社会全体がウソとゴマカシで溢れることも,罪を犯した人たちに厳罰を声高に叫ぶことも,あり得ませんでしょ。もしそうならば,ウソのない最も真面な毎日礼拝がお役に立つ,3つの肝心要の歓びが少なくともあります。
(1)ウソのない毎日礼拝は,内的促しされた関わりを,互いに大切にし合う唯一無二のパターンにシッカリとむすびつけます。互いに大切にし合う唯一無二のパターンのおかげで恵まれるものは,危険なほど複雑な厄介ごとを,なるほど本物だと腑に落ちる,一心同体体験です。お母さんと赤ちゃんは,これまで申し上げてきましたように,最初の毎日礼拝で一心同体になりますから,一心同体になれた赤ちゃんは,自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズを,星座みたいに一纏めにすることができます。自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズの中には,口のニーズ,五感のニーズ,触れ合うニーズ(フロイトの自分と人を大切にする理論では「ア~ンと開かれた口」として,割り当てます)がありますし,本来はバラバラな体験を,お母さんに心から大切に世話してもらうことで,ピッタリと一纏まりにしてもらいたいというニーズがあります。出産後の母親も,自分が子どものニーズを1枚の布にするように一纏まりにするには,ニーズがたくさんあります。なぜならば,「特別に大切な自分の赤ちゃんという仲間」の母親に,「特別に大切にする生き方で」ならなければならないからです。
自分の大切な子どもの母親になるのであって,一般名詞のお母さんになるのではない,ということかもしれません、
それには,目の前にいる我が子に,日々心響き,息を合わせる関わりをしなくてはなりませんから,それはそれは,身体にも,心理にも相渡るエネルギーを,猛烈に使うようにしなくてはなりませんでしょ。
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