人は衝動も悪い良心も、逃げずに立ち向かえば、恐れるに足りないものだとか分かりります。
Young Man Luther 『青年ルター』p.218の第2パラグラフから。
もしも、自我が、衝動や悪い良心と和解することができなければ、フロイトが「それ」と呼んだものの操り人形になることが特色の、第3の時空の餌食になります。この状態の危険性は、フロイトが生物的本能と考えた物から来ます。すなわち、自我が経験することが、自我の下、自我の外で、しかも、その本能の虜になります。「それ」にやられると、時空は一方向に、願いを満たしたい方向に配されるようになります。私どもが分かっていることですが、私どもの緊張が高まるのは、時と状況の解決が遅れたり、満たされるのが遅れる場合ですし、また衝動が加速するのは、衝動を満たす機会が訪れる場合です。
昨夜ユングの著作から、無意識のことを考えましたね。今回のエリクソンは、同じテーマですね。衝動とも悪い良心とも、向かい合わず、忙しそうに逃げ回っていますとね、無意識の餌食になって、日常生活が息苦しいものとなります。
このあたりからも、ユングとエリクソンの共通性が見えてきますね。
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