あらゆる形のやり取りは、いつでも、人生全てを見通すヴィジョンの中で展開するものである、ということは、思いもよらないことではなかったでしょうか? 「かの時には顔と顔とを相対するように、お互いを価値あるものと認め合」うことなのです。
そう、やり取りの究極の目的は、お互いの価値を認め合いことなのです。
肝に銘じておきたいことです。
さて、今日は、遊びを辿ると、どんなことが分かるのか、ということが話題です。
生涯にわたって、「遊びの形」だけを辿るために、私どもが手さぐりで進んでいかなくてはならないのは、赤ちゃんとその親の体を感覚とやり取りの源とするところから、幼子のおもちゃの場面までですし、もう少し年かさのいった子どものゲームまでです。そのゲームの場面では、政治的行動の予行演習を、初めてやっているのです。つまりそれは、決まった生活場面の中で、誰が敵味方になるかということと、誰が指導者になるのかということ、を決める、ということですし、どんなフリをするのか、どんな行動のルールにするのかも、みんなで決める、ということでもあります。心理・性的な理論のおかげで、私どもは欲求を宿した体の部位について詳しくなりました。この欲求を宿した体の部位は、子ども達が自由に探索して喜ぶことができますし、自由に何かを補って喜ぶことも合わせてできます。 そしてまた、もしも、子ども達が、自分自身と自己愛的にやり取りするという恵みも自由に使えるとしたら、この自分の体との自己愛的なやり取りをすれば、それは自分自身の体から、<私>を遠ざけことにもなります。おもちゃの世界では、その子どもが、物事が何のために作られているのかが分かることに加えて、物事の構造上、あるいは、物事の素材の性質上、何ができるかが分かるようにもなります。つまり、想像の上で許されることは何なのか? 遊び仲間の中で認められることは何なのか? ということです。しかし、そればかりではありません。実際、何が大人の保護者に許されるようになるか?ということもあります。そこで、子どもの時期と青年の時期を通して、いろんな形の遊びを辿っていけば、遊びの場面がいかに、そして、ゲームがいかに、責任もあり、取り消すこともできない演技(活動)の舞台に次第になり、遊びのテーブルや運動場、という小さな粒子が、政治的葛藤という、大きな粒子にじょじょになるのかが、ハッキリ分かることでしょう。青年期になれば、ここ何十年の間に、劇的に、ときには、悲劇的に私どもが見てきたように、犯罪行為から悪戯を、政治的演技から見せかけのお芝居をハッキリ描き出すのは、難しいことが多くなります。工業技術を身に着けた青年のやり取りにおいてと、青年の政治的自覚という広い舞台において以上に、能力もあり、思慮も深い、やり取りの新しい舞台を開幕させることが重要なところは、どこにもないのです。
ここでも、実に演劇用語が多いです。一つ一つのお芝居、行為が、創造的フリになるのか? それとも、誤魔化しになるのか? は、当人の意識次第なのでしょう!
しかし、遊びはいろんな活動のひな形になっていることが分かります。それは、集団の中で、どんな人をリーダーにするのか? を決めたり、集団の中で許される行動のルール、たとえば民主的なルールにするのか、日本のように集団主義的なルールにしたりするのか? を決めることのひな形です。これだけ考えただけでも、遊びがいかに重要なものなのかが分かるだろうと思います。
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