いま、エリクソンがThe life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』で、ヌミノースのことを教えてくれますでしょ。1人の≪私≫が、集団のメンバーの≪私≫達と一致し、さらに神様の≪私≫と一致する時、ヌミノースを感じて、天にも昇るほどの、跳び上がるほどの、心の底からの、悦びを感じる、と言うお話、事実ですね。その時に、ヤハウェと言う神様の名前が、「わたしはある」、あるいは、「私は、いまここにいる」という名前だと言われます。新約聖書では、ホー・ウォン ο ων、気息記号などを付けると文字化けしますから、省力していますけれども、英語のoとwvに、似ているけれども、最初の οは、オミクロン 小さなオー 短母音のオーですしωは、オメガ、大きなオー 長母音のオーで、νは、ブイではなくて、ニューといって、英語ではNに相当する文字です。
釜ヶ崎で福音を生きている神父、本田哲郎神父。その徹底した生き方に、マザーテレサとも相通じる潔さ、信頼を感じます。本田哲郎神父が訳した福音書『小さくされた人々のための福音 四福音書および使徒言行録』(新世社)は、山浦玄嗣さんが翻訳した四福音書『ケセン語新約聖書』(イー・ピックス[大船戸印刷書])とはまた違った魅力を感じますね。
その本田哲郎神父の本に『釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に』(岩波書店)があります。そして、その一節 p.122には、神のお名前「私はある」が出てきます。本田神父によれば、この「私はある」は、もともと、ヘブライ語の「エヒエー エシャル エヒエー」、意味は「私はある 私はあるというものだ」という意味だと言います(『出エジプト』第3章12節)。それは、「共にいる」という神の本質を示すお名前のようですね。驚き感激するヌミノースは、集団が≪私≫と共にいるばかりではなくて、神様が≪私≫と共にいて下さることからこそ、感じられるものでしょ。
本田神父によると、この「共にいる」ということは、「共に働く」ということだというんですね。私は「共に働く」と言われたら、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益としてくださる」(『ローマ人の信徒への手紙』第8章28節)の聖句と、この聖句から自分たちの共同体を「共働学舎」と名付けた、宮嶋眞一郎先生のことを思い出さずにはいられません。父親が自死したとき、自宅に呼んでくださり、共に祈ってくださいました。心細い思いが、どれだけ力づけられたか、昨日のことに様に思い出すからかもしれません。
神様は誰と共に働くのか? それは「ご計画に従って召された者たち」と、だけれども、それは、「貧しく小さくされた者」とするのが本田神父の素晴らしさでしょう。本田神父は、「貧しく小さくされた者」がヌミノースを実感することを通して、驚き感激するヌミノースが広がることを、肌身に染みてご存知であるから、に違いありません。驚き感激するヌミノースの特色は「一致の悦び」でしょ。この「一致」は、「貧しく小さくされた者」からこそ始まるものなのです。
「貧しく小さくされた者」は釜ヶ崎に暮らす人であり、私の立場から申しあげれば、親に相手にされてこなかった「子ども」です。
May 11, 2020加筆
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