赤ちゃんが視覚を通して、お母さんとの関係で体験すること、自分がしてもらっていることから、さまざまな感覚、さまざまな感情、その空間と時間、そして、お母さんのイメージを結びつけ、それ自体が一つのイメージとして、無意識裏に定着します。そのイメージが温もりとやり取りのあるものであることを、繰り返し、切に願います。
さて、その後半です。翻訳です。
これを信じるためには、私どもは視覚が巧みに確認できることを列挙すれば足りるでしょう。 空間における継続性ばかりではなく、時間における同時性、知覚している場の一貫性ばかりではなく、ものの永続性、前景の人物と背景の融合、何人かの動かずにいる人達に対していくつかのものの動き、この全ては、世話をしてくれるその人が望み通りそこにいてくれることによって一つになります。これは、後々、単なる事実を包み込む「本当に本物だ」と実感することのモデルになっている、と私は信じています。もちろん、間もなく聴力が不可欠で実際に役に立つことが分かります。なぜなら、聴覚のおかげで、視野にないものを耳にすることができますし、間もなくその声が聴けて、馴染みのある顔として確かめられる、という希望を確かにすることができるからです。重要な他者を、見ることと聴くことによって二重に知覚することは、その重要な他者がその赤ちゃんを「○○ちゃん」と、いつも何度でも、声で「価値ある者と認める」時、さらに確かなものになります。その呼び名は、名付けた人が「価値ある者と認める人」として快く価値があると認められる時に、一つの名前になります。ジョアン・エリクソンが次のように書いてします。「私どもは人生を始めると同時に、この眼差しと関わりを持ちます。…関心と愛情が通じ合うのは、冷たさと怒りが通じ合うのと同様、まさに眼差しに伴うことなのです。成長した大人でも、この眼差しが中心にあることには変わりありません。なぜならば、生涯を通して、私どもが他の人々と人間関係上のやり取りをすることは、眼差し中心だからです。眼差しは恵みであると同時に、呪いなのです。」
前回のタイトルが「見ることの恵み 時間に継続性を、空間に一貫性を与えるもの」なのに、今回のタイトルが「恵みであると同時に、呪いである眼差し」では、“矛盾している”と感じられる人が出てきても、当然です。しかし、見ること、眼差しには、今日エリクソンが教えてくれているように、それだけ二律背反が存在していることは、まぎれもない事実なのです。本当に“臨床的”なことは、必ず二律背反が含まれています。それは、「儀式化」が大きな二律背反を含むのと同様です。
さて、お母さんの眼差しの力がどれだけ大きいか、今回のエリクソン夫妻の記述から分かります。そう、ジョアンはエリック・エリクソンの夫人です。日本の諺にも、「目は口ほどにものを言う」がありますね。眼差しが、イメージを統合する要ですから、“お母さんの愛情が赤ちゃんに対する関心に結びつく”時、お母さんの眼差しは、そのことを赤ちゃんに物語りますから、赤ちゃんにとって何よりもの賜物と言えます。ところが、“お母さん自身も気付いていない、心の奥底にある怒りが、知らず知らずのうちに赤ちゃんに対する冷たさ(distance)に結びつく”時、お母さんの眼差しは、そのことも赤ちゃんに物語りますから、それは赤ちゃんにとっても呪いとなります(しかも、その冷たさは、露骨に冷たい場合ばかりではありません。一見「しつけに熱心」、「『ちゃんとする』ことに熱心」に見える場合があるので、厄介です)。なぜならば、お母さんが赤ちゃんに冷たくすることを通して、知らず知らずに怒りをぶつける時、それは、赤ちゃんの心の奥底に、ふたたび(激しい)怒りを生み出すからです。しかも、そのようにして、その(激しい)怒りは、世代を超えて継承されてしまうからこそ、ますます“呪い”になります。
お母さんのイメージが、温もりとやり取りのあるものであることを、いま一度、切に願います。
さて、その後半です。翻訳です。
これを信じるためには、私どもは視覚が巧みに確認できることを列挙すれば足りるでしょう。 空間における継続性ばかりではなく、時間における同時性、知覚している場の一貫性ばかりではなく、ものの永続性、前景の人物と背景の融合、何人かの動かずにいる人達に対していくつかのものの動き、この全ては、世話をしてくれるその人が望み通りそこにいてくれることによって一つになります。これは、後々、単なる事実を包み込む「本当に本物だ」と実感することのモデルになっている、と私は信じています。もちろん、間もなく聴力が不可欠で実際に役に立つことが分かります。なぜなら、聴覚のおかげで、視野にないものを耳にすることができますし、間もなくその声が聴けて、馴染みのある顔として確かめられる、という希望を確かにすることができるからです。重要な他者を、見ることと聴くことによって二重に知覚することは、その重要な他者がその赤ちゃんを「○○ちゃん」と、いつも何度でも、声で「価値ある者と認める」時、さらに確かなものになります。その呼び名は、名付けた人が「価値ある者と認める人」として快く価値があると認められる時に、一つの名前になります。ジョアン・エリクソンが次のように書いてします。「私どもは人生を始めると同時に、この眼差しと関わりを持ちます。…関心と愛情が通じ合うのは、冷たさと怒りが通じ合うのと同様、まさに眼差しに伴うことなのです。成長した大人でも、この眼差しが中心にあることには変わりありません。なぜならば、生涯を通して、私どもが他の人々と人間関係上のやり取りをすることは、眼差し中心だからです。眼差しは恵みであると同時に、呪いなのです。」
前回のタイトルが「見ることの恵み 時間に継続性を、空間に一貫性を与えるもの」なのに、今回のタイトルが「恵みであると同時に、呪いである眼差し」では、“矛盾している”と感じられる人が出てきても、当然です。しかし、見ること、眼差しには、今日エリクソンが教えてくれているように、それだけ二律背反が存在していることは、まぎれもない事実なのです。本当に“臨床的”なことは、必ず二律背反が含まれています。それは、「儀式化」が大きな二律背反を含むのと同様です。
さて、お母さんの眼差しの力がどれだけ大きいか、今回のエリクソン夫妻の記述から分かります。そう、ジョアンはエリック・エリクソンの夫人です。日本の諺にも、「目は口ほどにものを言う」がありますね。眼差しが、イメージを統合する要ですから、“お母さんの愛情が赤ちゃんに対する関心に結びつく”時、お母さんの眼差しは、そのことを赤ちゃんに物語りますから、赤ちゃんにとって何よりもの賜物と言えます。ところが、“お母さん自身も気付いていない、心の奥底にある怒りが、知らず知らずのうちに赤ちゃんに対する冷たさ(distance)に結びつく”時、お母さんの眼差しは、そのことも赤ちゃんに物語りますから、それは赤ちゃんにとっても呪いとなります(しかも、その冷たさは、露骨に冷たい場合ばかりではありません。一見「しつけに熱心」、「『ちゃんとする』ことに熱心」に見える場合があるので、厄介です)。なぜならば、お母さんが赤ちゃんに冷たくすることを通して、知らず知らずに怒りをぶつける時、それは、赤ちゃんの心の奥底に、ふたたび(激しい)怒りを生み出すからです。しかも、そのようにして、その(激しい)怒りは、世代を超えて継承されてしまうからこそ、ますます“呪い”になります。
お母さんのイメージが、温もりとやり取りのあるものであることを、いま一度、切に願います。
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