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Young Man Luther 『青年ルター』p.214,第2パラグラフ,5行目途中から。p.212の第2パラグラフからも一緒に。
これって,互いに仮面を被って相手に合わせたフリをし合う見方全ては,無意識から出たウソなのかしら? マルティンは,息子として,個人的に,深く苦しんだのは,自分が信頼感が豊かであることは本物だ,ということを父親に認めさせることができなかったからでしたし,生まれながらに,「子どもなんだから,ずっと私に従ってればいい」と,父親から言われ続けたからです。そのマルティンが,いまは,宗教的に,子どもとして,自ら歓んで生みの苦しみを引き受けているように思いましたが,それは,長すぎるくらい息子として苦しんだことが,自分がキリストのスピリットを示した勝利になってたんだ,と今は思えます。最初のおミサで,祭壇に正対して,すなわち,天の父なる聖書の神様に正対して,この世の父の怒りに正対するのを待ちながら,キリストがど真ん中に立つ人であることに関する聖句を「見落とし」てきていました。しかしながら,キリストが自分の中に共に居ることに気付いた今,マルティンは,生きている実感を失って共依存するしかない生き方を超えて,心の中でホッとできる場所を見つけました。マルティンが見つけたのは,聖書の神様の声を聴く人が聖書の神様と一心同体になる神髄ですから,マルティンは,聖書の神様の御心を一歩前に進めたことになります。
…キリストは,キリスト者が一心同体になる際に,自分を空っぽにする心深く秘めた大いなる優しさに,今やなりました。キリストは,いまここで,私の中に私と共に居るのです。自分を空っぽにすることを歓んで引き受けることをよしとすることが,毎日の十字架になりますし,毎日の十字架として自分を空っぽにすることを歓んで引き受ける情熱が,(訳注:旧約聖書の時代に)他の人を犠牲の捧げものにした代わりに,最高に能動的に,キリストが最高に生きて,自分を空っぽにして生きる,ということを善しとすることになります。自分を空っぽにして生きることを善しとしたおかげで,キリストが選んだことを自分でも選んだことになつて,聖書の神様と一心同体になって復活する晴れ晴れとした生き方が出来ます。
人類が救い主として崇めた人たちは,決して朽ちることのない言葉の中で,自信をもって,自分を空っぽにすることを善しとする人は,なるべく自分にもウソは言わないし,なるべく人の弱みにも付け込まないことになるっている,という心眼を体得し,体現します。そのウソのない救い主たちは,不思議な声で,大切なことを証明するわけです。その不思議な声は,遥か彼方まで,世の終わりまで,届きます。人類が救い主として崇めた人たちが自分を空っぽにすることを歓んで引き受ける情熱が含む原理は,自分で選んでいる原理,キリストが生きる原理,何物にも支配されない自由になる原理であり,遅かれ早かれ,最高の王の名を手に入れます。いばらの冠も,救い主に従った者たちのティアラになります。しばらくは,ルターは聖書の神様の命が一巡する最初の単独者になりましたし,あの救い主を,ティアラや日曜礼拝や人間を上下で見るウソや思想警察から,救い出して,救い主であるキリストが復活する場である,ひとりびとりの魂に連れ戻したんですね。
ルターが救い主であるキリストをひとりびとりの魂に連れ戻したことって,意識のレベルでは,ルネッサンスの人間主義と対の関係になっているのではないのか? ルターは,目に見える様々なことは科学に任せて,自分は,空っぽにすることを歓んで引き受けることと,聖書の神様を信頼すること,すなわち,自分が本気になっていることに,集中しました。自分の父親や教父たちの,あの顔と,天にまします父なる聖書の神様の,あの顔を曇らせていた怒りの雷雲を追っ払ったルターは,いまは,キリストのように自分を空っぽにする大いなる優しさを体現する生き方そのものが「いつでもどこででも」聖書の神様の顔だ,と言ったんです。大文字のパッション,すなわち,キリストの十字架は,人間が聖書の神様についてる知りうる全てです。人間の様々な諍いは,正面から正しく,諍いの顔を見れば(諍いを直視すれば),人が自分自身を知りうる全てです。最後の審判は,いつでもどこででも,いまここでの自己判断です。キリストが生きて死んだのは,人間が将来の最後の審判に怯えて,貧しくなるためじゃない。人間がいまここで自分を空っぽにしてキリストの大いなる優しさに満ち溢れて,最高に気高く浄めらて生きるためです。「御覧なさい」。ルターはこの詩篇(ルター全集 第4篇87節)の聖書の話の中で,ある時,言いました。「至る所で,いろんな画家たちが,キリストが自分を喜んで自分を空っぽにしたことを,まるで,パウロが『十字架にかけられたキリスト以外には何も知らない』と言ったことに賛成しているみたいに,描いているでしょ」と。息の点でルターに一番近い芸術家は,デューラーでしたが,デューラーは,自分の顔をキリストの心から優しい顔の中に刻み付けました(自分の顔まで空っぽにして,キリストの顔を自分の顔にしたくらいです)。
ルターが神学的にことを進めた良さの特質は,あらゆる人が歩むことになっている,心響かせる大人になる中での確かな歩みになぞらえることができます。すなわち,父なる聖書の神様が生きている実感そのものであることと,神の一人子キリストが自分を空っぽにして,生きている実感である聖書の神様を実現した,その関係を内面化することです。その時,母子2人は,良心を共に善い良心にして不動にすることです。また,1人の勤めを果たすものとしても,スピリットのある1人の人間としても,聖書の神様と一心同体になることを,完全に全うすることもできます。また,聖書の神様を根源的に信頼することが,母子2人とも,共に繰り返し確かにされることでもあります。
聖書の神様は,終わりの日に暗い顔で脅す存在じゃなくて,ルターにとって,「自分たちの間で動き出す存在」になりました。「聖書の神様に至る道」は,「自分にできることをやること」で,1つの目標に向かって奮闘努力するものではありません。「聖書の神様の道」は内側から促すものです。聖書の神様は,1人の人ではなくて,自分を全うに生きる人にとって,生きている実感にだんだんなります。それで,聖書の神様は,全ての終わりに出合う,終わりのない不本意な選択を強いるお仕着せではなくて,聖書の神様は,いつでもどこでも,始める存在です。私たちの間で。ですから,聖書の神様の1人子になる者は,いつでもどこででも,生きている実感を生きることになります。ですから,私どもは繰り返し生まれ変わり,繰り返し新鮮にされ,繰り返し創造されることが,シックリくるんで腑に落ちます。「共に育つ」とは,いつでもどこででも,関わりを始めることなんです。縦の関係と横の関係との対立全てが,互いに相手をバラバラにすることは,かくして,人間自身がバラバラになる性質にも見られます。「二王国説」,すなわち,聖書の神様の恵みが真実に満ち溢れている空洞と,ケダモノのような気持ちが幅を利かせる生まれながらの空洞が,人間の心の諍いの中に現実にありますし,人間が復活して生きる際に聖書の神様の信頼を裏切ることにもなります。あの2つの顔と,あの2つの名を,1人のキリスト者はこの世で同時に手に持つことになります。
2つの顔が「ある」ことが問題なのではありませんよ。いろいろな神学者,いろいろな哲学者,いろいろな心理学者が,人間を様々なやり方で切り刻みますし,その切り刻んだものを一致させようとしても,それは無駄骨です。大事なのは,ルターが「より内側」の諍いを新たに強調したことと,その「より内側」の諍いを1つにする場があることをよく見ていることを通して,ルターが心から自由になった点です。バラバラにならず共依存してない人が見て分かった聖書の神様が,その一人子キリストの十字架という信頼の印を通して,ルターの語り掛けた祈りは,バラバラにならず1人の自分を生きている全うな人が復活して生きることを,定義し直したんですね。それは,後々,キルケゴールの実存主義やフロイトの精神分析で追い求めた方向と同じです。それは,バラバラにされず一人の自分を生きる全うな人が,その人自身の本物の自分がある意識の端っこに,連れてかれて,共に復活する方法です。
ど真ん中が意識の端っこにある不思議です。
それを体感したものは,聖書の神様の笑顔に,どなたでもなれます。
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